TOKON10実行委員会公式ブログ

第49回SF大会TOKON10実行委員会の公式ブログです。
開催日程:2010年8月7日(土)〜8日(日)
東京SFビブリオ 追補篇
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     皆さまこんにちは、第5回日本SF評論賞優秀賞をいただきました、岡和田晃でございます。
     第49回日本SF大会TOKON10が終了してから、はや2箇月あまり。皆さまはいかがお過ごしでしょうか。
     いまだTOKON10の熱気が冷めやらない方も多いのではないかと拝察いたします。

     TOKON10に向けて私たち日本SF評論賞チームは、この「TOKON10公式ブログ」、〈SFマガジン〉2010年9月号所収の「東京SF大全」、そしてTOKON10スーヴェニアブックに収録された「東京SF大全」と「東京SFビブリオ100」を通じて、多数の東京SFをご紹介して参りました。
     しかしながら、紙幅の都合などで紹介しきれなかった東京SFもまた数多く存在しております。TOKON10のアフターサポートの意味もこめ、ここで「東京SFビブリオ 追補篇」をご提供いたします。

     この「東京SFビブリオ 追補篇」は、日本SF評論賞受賞者たちが作成いたしました。もともとは「東京SFビブリオ100」の選定にあたって作成された予備リストであり、2010年7月以降に発表された作品群までは、(一部を除き)フォローしきれておりません。
     「東京が登場する必然性の高いSF」ということで選びましたが、ここでの「東京SF」の解釈は、あえて幅を広くとっております。
     そしてご注意いただきたいのですが、あくまでもこのリストは一つの相(かたち)に過ぎません。「東京SF大全」(TOKON10公式ブログ版、SFマガジン版、スーヴェニアブック版)と「東京SFビブリオ100」に収録された作品と重複するものは外してありますので、独立したリストではなく、すでに発表された「東京SF大全」や「東京SFビブリオ」を補完するものとしてご活用いただけましたら幸いに存じます。いささかばらつきがあるように思われるかもしれませんが、「東京SFビブリオ100」を作成する際の熱気を感じ取っていただければとの思いから、バランスを取ることよりもブレーンストーミング的な情報収集を心がけました。
     なお言い訳めいて恐縮ですが、調査・執筆にかけられた期間が限られていたため、見落としている作品が多々存在すると思います。むろん偏りも多いことでしょう。小説を中心に選定したため、小説以外のジャンルについては氷山の一角たりえることさえもできていないものと自覚しております。それゆえこのリストを決定版と主張するつもりはまったくありません。あくまでも一例にすぎず、今後さらに新しいリストが生まれるための叩き台としてご活用いただければ幸いです。

     ウェブで閲覧する際のレイアウト的な便宜を考え、この「東京SFビブリオ追補篇」においては「ジャンルごと、作者名の50音順」に分けています。テーマ分けなど色々考えましたが、ばらつきがでるので、結果としては最もシンプルな作者名と作品名の表記に、あえて留めました。入手難易度は記しておりませんが、絶版が続く作品でもオンライン古書店などを当たれば比較的安価に手に入るものも多く存在いたしますので、ご興味のある方はぜひ、探究の旅に出られてみてはいかがでしょうか。きっと得られるものがあることと思います。

     最後になりましたが、本サポート記事を含めた東京SFビブリオの選定にあたっては、編集に携わった方々をはじめ、荒巻義雄氏、井上雅彦氏、大野典宏氏、笠井潔氏、タタツシンイチ氏、宮風耕治氏、森下一仁氏、八杉将司氏、山岸真氏(五十音順)らに情報提供のご協力をいただきました。ありがとうございます。
     また、TOKON10におけるSF評論賞チームの活動にご協力をご支援いただいた皆さま、そして私たちの書いたものをお読みいただいた皆さまに、この場を借りて、重ねてお礼を申し上げます。

     評論賞チームとしましては、ブログ「21世紀、SF評論」(http://sfhyoron.seesaa.net/?1286650176)、第50回日本SF大会ドンブラコンL(http://www.sf50.jp/index.php?id=1)における「静岡SF大全」企画など、今後も活動を継続していく所存です。暖かく見守っていただけましたら幸いです。

     TOKON10が閉会しても、東京SFは終わりません。東京SF、ひいてはSFシーン全体の発展を祈念しつつ、ご挨拶を終えさせていただきます。


    (TOKON10スーヴェニアブック編集協力 岡和田晃)


    【東京SFビブリオ 追補篇】

    ●小説

    青木淳悟『四十日と四十夜のメルヘン』
    浅暮三文『カニスの血を嗣ぐ』
    浅暮三文『針』
    朝松健『黒衣伝説』
    阿刀田高『赤い人形』
    阿部和重『アメリカの夜』
    阿部和重『インディヴィジュアル・プロジェクション』
    新井素子『いつか猫になる日まで』
    新井素子『…絶句』
    荒巻義雄『黄金の不死鳥』
    有川浩『海の底』
    有川浩『塩の街』
    飯野文彦『アナル・トーク』
    飯野文彦『愛児のために』
    石川英輔『大江戸シリーズ』
    石原藤夫『ハイウェイ惑星』
    石原藤夫『ブーメランの円筒宇宙』
    井沢元彦『小説「日本」人民共和国』
    井上雅彦『カフェ・ド・メトロ』
    井上雅彦『四角い魔術師』
    岩本隆雄『ミドリノツキ』
    薄井ゆうじ『星の感触』
    冲方丁『天地明察』
    大江健三郎『さようなら、わたしの本よ!』
    大江健三郎『臈たしアナベル・リイ、総毛立ちつ身まかりつ』
    大塚英志ほか『摩陀羅 天使篇』
    大原まり子『処女少女マンガ家の念力』
    大原まり子『薄幸の町で』
    大原まり子『有楽町のカフェーで』
    小川一水『天冥の標2 救世群』
    岡田利規『わたしたちに許された特別な時間の終わり』
    奥泉光『グランド・ミステリー』
    小野不由美『東京異聞』
    恩田陸『ねじの回転』
    川端裕人『算数宇宙の冒険』
    川原礫『アクセル・ワールド』
    川又千秋『幻詩狩り』
    かんべむさし『夢の銀座』
    菊池秀行『妖神グルメ』
    貴志祐介『新世界より』
    北國浩二『リバース』
    倉田英之『R.O.D』
    恋川春町『金々先生栄華夢』
    小酒井不木『少年科学探偵』
    小中千昭『ザ・ディフェンダー』
    小林泰三『玩具修理者』
    小松左京『時の顔』
    小森健太朗『大相撲殺人事件』
    Salmonson、Jessica Amanda 『Tomoe Gozen Saga』
    西條奈加『金春屋ゴメス』
    斎藤慶(t.o.L)『バギー・イン・ザ・ドールハウス』
    桜坂洋『スラムオンライン』
    桜庭一樹『推定少女』
    笹本祐一『ARIEL』
    笹本祐一『妖精作戦』
    佐藤正午『Y』
    佐藤正午『5』
    佐藤哲也『妻の帝国』
    篠田節子『ゴサインタン』
    篠田節子『斎藤家の核弾頭』
    篠田節子『夏の災厄』
    篠田節子『仮想儀礼』
    式貴士『東城線見聞録』
    清水博子『街の座標』
    笙野頼子『下落合の向こう』
    新城カズマ『さよなら、ジンジャー・エンジェル』
    スウィフト、ジョナサン『ガリバー旅行記』
    鈴木いづみ『東京巡礼歌』
    高橋源一郎『ジョン・レノン対火星人』
    タタツシンイチ『大魔神カノン サワモリの試練』
    田中光二『警視庁国際特捜隊 ザ・ダークシティ新宿』
    田中文雄『浅草霊歌』
    田中文雄『時の落ち葉』
    田中啓文『蝿の王』
    チャペック、カレル『山椒魚戦争』
    月村了衛『機龍警察』
    筒井康隆『腹立半分日記』
    都築響一『夜露死苦現代詩』
    とみなが貴和『EDGE』
    とみなが貴和『夏休みは命がけ!』
    中井紀夫『漂着神都市』
    中村文則『銃』
    夏目漱石『夢十夜』
    夏目漱石『吾輩は猫である』
    難波弘之『郷愁(ノスタルジア)』
    仁木稔『スピードグラファー』
    西谷史『東京SHADOW』
    野阿梓『伯林星列』
    萩原朔太郎『猫町』
    畠中恵『しゃばけ』
    早見裕司『昔恋しい』
    半村良『石の血脈』
    半村良『産霊山秘録』
    火浦功『ハードボイルドで行こう』
    火浦功『ファイナル・セーラー・クエスト』
    平井和正『超革命的中学生集団』
    弘也英明『厭犬伝』
    広瀬正『異聞風来山人』
    広瀬正『エロス』
    広瀬正『鏡の国のアリス』
    広瀬正『ツィス』
    広瀬正『立体交差』
    広瀬正『遊覧バスは何を見た』
    広津柳浪『女子参政蜃中楼』
    藤本泉『東京ゲリラ戦線』
    古井由吉『野川』
    古川日出男『サウンドトラック』
    ポーロ、マルコ『東方見聞録』
    星新一『気まぐれ指数』
    星野智幸『ロンリー・ハーツ・キラー』
    柾悟郎『ヴィーナス・シティ』
    松浦寿輝『花腐し』
    松浦寿輝『半島』
    松尾由美『九月の恋と出会うまで』
    眉村卓『名残の雪』
    三島由紀夫『仮面の告白』
    光瀬龍『あいつらの悲歌』
    光瀬龍『暁はただ銀色』
    光瀬龍『寛永無明剣』
    光瀬龍『多聞寺討伐』
    光瀬龍「帝都上空に敵一機」
    光瀬龍『復讐の道標』
    宮部みゆき『クロスファイア』
    村上春樹『1Q84』
    村上春樹『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』
    村上龍『超電導ナイトクラブ』
    森真沙子『東京怪奇地図』
    森真沙子『猫ヲ探ス』
    矢作俊彦『ららら科學の子』
    山田太一『異人たちとの夏』
    山田正紀『女囮捜査官』
    山田正紀『神獣聖戦』
    山田正紀『スーパーカンサー』
    山田正紀『ふしぎの国の犯罪者たち』
    山田正紀『魔空の迷宮』
    山田正紀『未来獣ヴァイブ』
    山田正紀『弥勒戦争』
    山中峰太郎『亜細亜の曙』
    山野浩一『虹の彼女』
    山本弘『MM9』
    山本弘『シュレーディンガーのチョコパフェ』
    ヨーヴィル、ジャック『シルバーネイル』
    横田順彌『押川春浪回想譚』
    横田順彌『秘話 ある愛の詩 ふぁん太爺さんほら吹き夜話より』
    横田順彌『星影の伝説』
    横田創『裸のカフェ』
    吉増剛増『黄金詩篇』
    龍胆寺雄『放浪時代・アパアトの女たちと僕と』


    ●アニメーション

    庵野秀明ほか『新世紀エヴァンゲリオン』
    出渕裕ほか『ラーゼフォン』
    逢瀬祭ほか『フタコイ オルタナティブ』
    押井守ほか『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』
    押井守ほか『ケルベロス・サーガ』
    CLAMPほか『カードキャプターさくら』
    GONZOほか『月面兎兵器ミーナ』
    長井龍雪ほか『アイドルマスター XENOGLOSSIA』
    中島かずきほか『大江戸ロケット』
    ターナー、マイケルほか『ウィッチブレイド』
    富野由悠季ほか『聖戦士ダンバイン』
    広尾明ほか『七つの海のティコ』
    細田守ほか『時をかける少女』
    宮崎駿ほか『耳をすませば』
    湯山邦彦ほか『幻夢戦記レダ』


    ●ゲーム

    麻野一哉ほか『アナタヲユルサナイ』
    門倉直人ほか『黄昏の天使』
    ガイギャックス、ゲイリーほか『アドバンスト・ダンジョンズ&ドラゴンズ』
    小林正親ほか『大江戸RPG アヤカシ』
    スタフォード、グレッグほか『ルーンクエスト』
    鈴木一也ほか『偽典 女神転生』
    鈴木一也ほか『女神転生2』
    健部伸明ほか『トーキョーN◎VA』
    名越稔洋ほか『龍が如く』
    プラマス、クリスほか『ウォーハンマーRPG』
    ポンスミス、マイクルほか『サイバーパンク2.0.2.0』


    ●コミック

    秋本治『こちら葛飾区亀有公園前派出所』
    江川達也『東京大学物語』
    大島弓子『バナナブレッドのプディング』
    大島弓子『綿の国星』
    小野敏洋『バーコードファイター』
    小畑健ほか『デスノート』
    くぼたまこと『天体戦士サンレッド』
    COCO『今日の早川さん』
    Sakai、Stan『USAGI YOJINBO』
    三五千波『ソウルレスポップ』
    清水玲子『秘密』
    空知英秋『銀魂』
    手塚治虫ほか『トキワ荘物語』
    永井豪『デビルマン』
    なかのともひこ『少年ビックリマンクラブ』
    中村光『荒川アンダー・ザ・ブリッジ』
    中村光『聖☆おにいさん』
    広江礼威『BLACK LAGOON』
    仲村佳樹『東京クレイジーパラダイス』
    藤子・A・不二雄『怪物くん』
    藤子・F・不二雄『ひとりぼっちの宇宙戦争』
    望月三起也『ジャパッシュ』
    柳沼行『ふたつのスピカ』
    山下たつひこ『がきデカ』
    横山光輝ほか『鉄人28号』
    吉崎観音『ケロロ軍曹』
    リー、スタンほか『X-MEN』
    リー、スタンほか『ファンタスティック・フォー』
    ルルー、ロジェ『ヨーコ・ツノ』
    和田慎二『超少女明日香』


    ●実写映画

    アンダーソン、ポール・W・Sほか『バイオハザード4』
    ヴェンダース、ヴィムほか『東京画』
    ヴェンダース、ヴィムほか『夢の果てまでも』
    長谷川和彦ほか『太陽を盗んだ男』
    山崎貴ほか『ALWAYS 続・三丁目の夕日』
    佐藤肇ほか『悪魔くん』(実写版)


    ●ノンフィクション・写真集・評論・戯曲など

    赤瀬川源平『東京ミキサー計画』
    磯田光一『思想としての東京』
    内山英明『東京エデン』
    内山英明『東京デーモン』
    大森望『狂乱西葛西日記』
    鏡明『二十世紀から出てきたところだけれども、なんだか似たような気分』
    ストロス、チャールズ『日出る国にて——日本見聞録』
    巽孝之『日本変流文学』
    チハルチシヴィリ、グリゴーリィ『自殺の文学史』
    東京大学スラブ文学研究室『チハルチシヴィリ読本』
    バルト、ロラン『神話作用』
    星新一『祖父・小金井良精の記』
    前田愛『都市空間の中の文学』
    光瀬龍『ロン先生の虫眼鏡』
    平田オリザ『東京ノート』
    夢野久作『街頭から見た新東京の裏面』
    夢野久作『東京人の堕落時代』
    米原康正『Tokyo Girls』
    ラッカー、ルーディ『一九九〇年日本の旅』


    ◆特薦作品(映像を中心に)

     情報提供でご協力いただいた方々のうち数名の方から、「東京SF」にふさわしいアニメーションや実写映画(特撮映画)についての熱のこもったご推薦をいただきました。ありがとうございます。この場をお借りして、それらをご紹介させていただきます(発表年順、タイトル/制作/監督・特撮監督)。


    《ウルトラマンシリーズ》
    『ウルトラマン』 TBS・円谷プロ 円谷一ら・高野宏一ら
    『帰ってきたウルトラマン』 TBS・円谷プロ 本多猪四郎ら・高野宏一ら
    『ウルトラマンエース』 TBS・円谷プロ 筧正典ら・高野宏一ら
    『ウルトラマンタロウ』 TBS・円谷プロ 山際永三ら・高野宏一ら
    『ウルトラマンレオ』 TBS・円谷プロ 真船禎ら・矢島信男ら
    『ウルトラマン80』 TBS・円谷プロ 湯浅憲明ら・川北紘一ら
    『ウルトラマンガイア』 円谷プロ・毎日放送 村石宏實ら・佐川和夫ら
    『ウルトラマンマックス』 円谷プロ・CBC・電通 金子修介ら・鈴木健二ら


    《怪獣特撮映画》
    『透明人間(1954年東宝映画)』 東宝 小田基義
    『宇宙人東京に現わる』 大映 島耕二
    『大怪獣バラン』 東宝 本多猪四郎
    『ガス人間第一号』 東宝 本多猪四郎
    『世界大戦争(1961年)』 東宝 松林宗恵
    『キングコング対ゴジラ』 東宝 本多猪四郎
    『大怪獣ガメラ』 大映 湯浅憲明
    『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』 東宝 本多猪四郎・円谷英二
    『キングコングの逆襲』 東宝 本多猪四郎・円谷英二
    『大巨獣ガッパ』 日活 野口晴康
    『怪獣総進撃』 東宝 本多猪四郎・有川貞昌
    『ガメラ対宇宙怪獣バイラス』 大映 湯浅憲明
    『地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン』 東宝 福田純
    『宇宙怪獣ガメラ』 大映 湯浅憲明
    『ゴジラ(84年版)』 東宝 橋本幸治・中野昭慶
    『ゴジラvsビオランテ』 東宝 大森一樹・川北紘一
    『ゴジラvsキングギドラ』 東宝 大森一樹・川北紘一
    『ゴジラvsモスラ』 東宝 大河原孝夫・川北紘一
    『ゴジラvsデストロイア』 東宝 大河原孝夫・川北紘一
    『ガメラ2 レギオン襲来』 大映・日本テレビ・博報堂 金子修介
    『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』 大映・徳間書店・日本テレビ・博報堂 金子修介
    『ゴジラ2000 ミレニアム』 東宝 大河原孝夫
    『ゴジラ×メガギラス G消滅作戦』 東宝 手塚昌明
    『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃(小笠原)』 東宝 金子修介・神谷誠
    『ゴジラ×メカゴジラ(2002年)』 東宝 手塚昌明
    『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』 東宝 手塚昌明
    『ゴジラ FINAL WARS』 東宝 北村龍平


    《戦隊シリーズ・仮面ライダーなど》
    『秘密戦隊ゴレンジャー』 NETテレビ(現:テレビ朝日)・東映 竹本弘一ら・矢島信男
    『大戦隊ゴーグルファイブ』 テレビ朝日・東映 東条昭平ら・矢島信男
    『仮面ライダーBlack』 毎日放送・東映 小西通雄ら・矢島信男
    『未来戦隊タイムレンジャー』 テレビ朝日・東映 諸田敏ら・佛田洋


    《デジモンシリーズ》
    『デジモンアドベンチャー』 東映 代表監督:細田守
    『デジモン』テレビ一作目 フジテレビ・読売広告社・ 東映 代表監督:角銅博之など
    『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム』 東映 代表監督:細田守
    『デジモンアドベンチャー02 ディアボロモンの逆襲』 東映 代表監督:今村隆寛
    『デジモンテイマーズ』 フジテレビ・読売広告社・東映 代表監督:貝澤幸男など
    『デジモンテイマーズ 暴走デジモン特急』 東映 代表監督:中村哲治

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    星雲賞決定!
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      今年の星雲賞が決定しました。
      受賞様の皆様、おめでとうございます!

      日本長編部門
       〈グイン・サーガ〉 シリーズ 栗本薫

      日本短編部門
       「自生の夢」 飛浩隆

      海外長編部門
       『最後の星戦』 ジョン・スコルジー 内田昌之訳

      海外短編部門
       「暗黒整数」 グレッグ・イーガン 山岸真訳

      メディア部門
       『サマーウォーズ』 細田守(監督)

      コミック部門
       『PLUTO』浦沢直樹×手塚治虫 長崎尚志プロデュース
        監修/手塚眞 協力/手塚プロダクション

      アート部門
       加藤直之

      ノンフィクション部門
       『日本SF精神史』 長山靖生

      自由部門
       実物大ガンダム
      | 連絡事項 | 13:15 | - | trackbacks(0) | - | - | ↑PAGE TOP
      東京SF大全44『私はウサギ 千野姉妹のルナティックな毎日』
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        ひかわ玲子『私はウサギ 千野姉妹のルナティックな毎日』
        (1995 中央公論社)



        千野月見子、二十五歳。入社五年目のベテランOL。千野家の長女。
        千野星見子、もうすぐ二十二歳。薬科大学の学生。千野家の次女。
        千野陽見子、十七歳。高校三年の受験生。千野家の末娘。
        彼女たちは、東京に暮らす、ごく普通の三姉妹。

         ……だったのだけれど、或る日突然、母親がマイホームを売り払い、書き置きの手紙を残して出奔してしまった。父はいない。彼女らが幼い頃に失踪した。だから三姉妹は、不安はあるものの、母親が用意してくれていた3LDKの賃貸マンションに引っ越して、自力で生活を営まないといけない。しかし時を同じくして、千野姉妹は、ふとしたきっかけから、自分たちに不思議な力が備わっていることに気づきはじめる。


         たとえば長女の月見子の場合。
         彼女は、ちょっぴり鬱屈した性格だ。職場だけでもたいへんなのに、母親がいなくなった今、千野家の家庭を切り盛りしていくのは彼女の役目なのだ。それで、嫌味な上司の小言に耐え、単調な仕事に疲れて、ようやく稼いだ給料は一家の生活費のため泡と消えていく。彼女にだって欲しいものはあるのに。こんなつまらない日常にあたら人生を食いつぶされているという不安が、彼女の心に影を落とす。
         だけど、実を言えば、月見子の胸をいっそうかきむしる特大の棘がある。それは、彼女と同期に入社した女子社員、尾道沙耶子の存在だ。さえないデスク業務の月見子と違って、沙耶子はバリバリのキャリアウーマンを地で行く才女だ。しかも、美人で、交友関係も広く、芸能人との付き合いもあるという。あの嫌味な上司でも、沙耶子の前では蛇に睨まれた蛙も同然。あまつさえ、月見子がほのかに好意を抱いている男性がこの沙耶子に熱烈なアプローチを仕掛けていて、月見子の方には目もくれないという始末。そう、尾道沙耶子は、月見子に足りないもの、月見子が欲しいと願いながら手に入らないものをすべて持っている。だからこそ、沙耶子の姿は、月見子の心を揺さぶってやまない。
         そんな折に、月見子は、わざわざ自分のことを避けて電話をかける沙耶子を見かけて、「聞いてやりたいもンだわね」と腹立ちまぎれにふと思う。すると、どうだろう。たちまちのうちに、秘密の会話が聞こえて来るではないか。まるで、月見子がウサギの長い耳を持っていて、それがアンテナとなって沙耶子の声を届けてくれるかのように。
         この不思議な事件を体験した日の前夜、月見子は、ちょうどそんな夢を見ていた。夢の中で、月見子の身体はふわりと浮き上がり、天井を抜け、満月の空へと翔び上がる。彼女は、まるで風がよぎるような、あるいは木々のそよぐような音に取り巻かれている。この風は、東京に溢れる音という音の集合から織りなされている。だから、耳を傾ければ、風に織り込まれている人々の会話を、ひとつひとつすくい取ることだって出来る。でもどうしてこんなことが起きるのだろう? 月明かりに澄んだ夜空の下、月見子は、ぴょんと跳ねる自分の身体の動きで、アンテナのように動く長い耳のおかげで、自分がウサギになっていることを自覚する。そうか、ウサギだからこんなことが起きるのだ。でもなんで私がウサギなんだろう。
         そのとき月見子は、雑木林に囲まれて月影に隈取られた公園の広場に、母の姿を見つける。まるで月見子のことに気づいているかのように月空を見上げる母親は、幸せそうに微笑んでいる。そして、そのまま空から降りてきた光の円盤に吸い込まれて消えてしまう。母は、昔失踪した父のあとを追っていったのだろうか? 月見子にはわからない。でも彼女は、夢の中でウサギになった自分を楽しんでいる。月見子は、夢の世界で自由だからだ。「お母さんは行かなければなりません」とだけ手紙に書き残して蒸発してしまった母親は、見ようによっては無責任と言えるかもしれない。けれども、自分の運命に素直であることを貫くその生き方は、或る意味では、月見子には出来ないからこそ憧れる、まさにそんな自由な生き方に他ならない。だからきっと、明るい満月の光の中で思うさまに跳ね回るウサギの姿は、月見子自身の願いを映し出している。夢だとばかり思っていた月見子の能力が、現実の世界で、尾道沙耶子の声を聴き取るために発揮されるのも、けして偶然ではないはずだ。


         そして、次女の星見子も、姉と似たような体験をする。彼女の場合、趣味の天体観測で望遠鏡をのぞいているときに、それは起きた。レンズを通して見る星空がぐるぐると回転し始めて、星見子の視界は、星の渦の中に飲み込まれてしまう。そしてふたたび視界が開けたとき、彼女は、鳥のように大空から、ビルの立ち並ぶ東京の景色を見下ろしていた。やがて、彼女の視線は、自然とひとつのビルへクローズ・アップされていき、星見子は、ビルの事務室で残業している月見子と、彼女に話しかける沙耶子の姿を目撃する。月見子が、遠くの声を幻のウサギの耳で拾えるように、星見子は、天体望遠鏡で遠くの光景を見ることが出来るのだ。
         もし、月見子が夢の中でウサギになった体験が、彼女の心のなにがしかを反映しているとすれば、星見子のまなざしが、鳥のようにあらゆるものを見通すのも、やはり星見子自身の内面に起因するのかもしれない。星見子が天体観測を愛する理由は、星の世界がさまざま知恵を教えてくれることにある。すなわち、地球は丸くて、この地面は動いている。すなわち、人間は、この大きな天体の上に生きているちっぽけな存在に過ぎない。すなわち、そんな地球でさえ、無限に広がる宇宙に比べれば、どこまでも小さな世界でしかない。だから、星の世界の尺度からすれば、人間の喜怒哀楽なんて大した問題ではない。
         星見子は、ものごとを理屈で割り切って考えようとする。天体の光景は、彼女に安らぎを与えてくれる。人間の感情みたいに、理屈に合わない不純物の存在しない世界だからだ。そんな彼女の性格は、往々にして、他人にドライだという印象を与える。けれども、ドライだと言われて、星見子がどこか反発を覚えることもまた事実だ。母親がいなくなっても、父親がいなくても、「なんてことはないはずだ」と、彼女は理屈ではそう考える。千野姉妹は、自分の世話は自分で出来るように教育されている。当面の生活費に心配は無い。だから、問題は何ひとつない――はずだ。だけど、それでも、行方も教えてくれずに去ってしまった母親のことを、やっぱり心配せずにはいられない。
         月見子が自分の能力に気づいたのは、尾道沙耶子の態度に反発を感じたときだった。それに対して、星見子が異常な視覚体験に直面したのは、失踪した母親から父親のことを連想して、父が「星見子」という名前の命名者だと思い出したときだった。星見子は、自分の名前を気に入っている。よくぞこんな名をつけてくれたと父に感謝する。そのことが、星見子が不思議な体験をするきっかけになったのだとすれば、彼女の見るものは、きっと、彼女自身がどうしても見て見ぬ振りの出来ない感情に、どこかで通じているのだ。
         じっさい、星見子がふたたび望遠鏡を覗いたとき、彼女の見たものは、自分の姉の月見子と、尾道沙耶子、それに自分のボーイフレンドの八賀井伸也が、なぜか一緒にいる光景だった。彼は、優柔不断で要領の悪い性格をしていて、星見子とはまるで正反対のタイプの人間なのだけれど、それでも、高校時代、同じ天文部にいたときからのつき合いの、腐れ縁の彼氏だ。つまり、星見子の中にある“理屈に合わないもの”を、或る意味で体現しているのがこの伸也という人物だ。だから、星見子が自分自身の見るべきものを見つけようとして、レンズを覗いた先にこの彼がいたということが、ひるがえって、星見子の(あるいは月見子の)体験の本質を教えてくれている。すなわち、“自分自身の心の秘密”を解明するための旅路。そんな意味が、たぶん、千野姉妹の体験には秘められている。


         そもそも「見る」とは、あるいは「聞く」とは、ぼくたちにとってどういう意味を持つ行為だと言えるだろうか。モノが存在するという客観的な事実を確認するだけの、ごく単純な作業? それとも、コギトと呼ばれる絶対者が目の前のモノの存在を無から創造するという、都合の良い奇蹟? いいや、そうじゃない。『見る』とは、自分が見ているモノに取り憑かれ、モノに染まる体験でもあるからだ。何かを『見る』人は、自分が見ているその何かと、共通の空間にいる自分自身を自覚する。それはつまり、自分の見ているその何かと、共通の素材から出来ている自分自身を自覚するということだ。物質を見る人の身体は、物質から組み立てられている。夢を見る人の身体は、夢から捏ね上げられている。だから、月を見る人は、月の世界に属する生き物となるし、星を見る人は、星の世界に属する生き物となる。
         三女の陽見子が体験する出来事は、ちょうどそんな具合に、『見る』という行為が“自分が何者であるか”、“自分が今どこにいるのか”という問いに密接に関わるのだということを、申し分なく教えてくれている。というのも、けやきの木陰に坐って、木漏れ日の中、大好きなひなたぼっこを楽しんでいた陽見子は、いつの間にか、まさにそのけやきの木そのものになってしまっている自分に気づくのだから。太陽の光をからだ一杯に浴びながら、風にしなる枝の弾力を感じながら、梢にさざめく葉の音を聞きながら、根に伝わる冷たい土の感触を楽しみながら、陽見子は、自分が木であるという事実を心ゆくまで満喫する。これはたぶん夢なんだろうけれど、気持ちいいから許してしまおう。でも、どうせ“木”になるのなら、町中に生えているやつじゃなくて、広い野原の真ん中にぽつんと一本きりで立っている大木になってみたい。そう、たとえば北海道の写真で見たような、地平線まで続くラベンダー畑の中の一本道を、丘の上から見下ろしている、悠然とした大木に――そんなことを思いながら、陽見子は、遠い記憶の中の父親に語りかける。「お父さん……あたし、そんなふうな“木”になりたいなぁ……」。そして気がつくと、陽見子は、自分が思い描いた通りの北海道の野原の真ん中で、大木の幹から押し出されるようにして立っている自分自身の姿を発見することになる。
         陽見子は、陽の光でつくられた存在である“木”を出入り口にして、想像した場所へと自由自在に行き来する能力に目覚めた。それはつまり、陽見子は、想像力によって想像の“木”を『見る』ことで、まさにその想像の場所に帰属する自分を自覚する、ということだ。「想像力」――「ファンタジー」――とは、もともとはギリシャ語の「光(ポース)」という言葉に由来する。何かを想像するということは、想像の光に満たされた空間において、その光に照らされた存在をありありと『見る』ことに他ならない――そう、ちょうど、月見子が、月明かりに満たされた公園に、あかあかと照らされた母の姿を見たように。だからこそ、陽見子の、ひいては三姉妹の身に起きた出来事は、「想像力」という言葉に込められた始元の思考の、見事な表現たりえている。千野姉妹の物語とは、まさしく、単なる現実をも単なる幻想をも超えた想像力の秘密をめぐる省察なのだ。


         『見る』という言葉は、想像力という概念と表裏一体の意味で用いられる限り、単に感覚によって見たり、聞いたり、感じたりすることのすべてを内包している。つまりこの場合、あらゆる感覚の根本に、『見る』というはたらき、もしくは「光」というはたらきが隠れていると想定されているわけだ。このことは、想像力という概念がラテン世界に引き継がれたさい、「イマジネーション」、すなわち「イマーゴ(像)」を造形する能力と解釈されたことからも明らかだ。だけど、他の語句でもよさそうなものなのに、どうして『見る』とか「光」とかいった言葉がとくに用いられるのだろう? それは、ぼくたちが、『見る』とか「光」とかいった言葉の裏側に、「視線」、「まなざし」、「光線」、「日射し」などいった言い方で、見る者と見られるものを刺しつらぬく特別の絆を思い描くからだ。当たり前のことだけれど、ぼくたちは、まなざしを向けた先にあるものしか、見ることが出来ない。では「まなざし」とはそもそも何だろう? それは、見る者と見られるものとが、同じ時間の中で「ともに動いている」こと以外の何ものでもありえない。ぼくたちの両の目が、一致団結して目の前の対象を追いかけるとき、そんな「共通のリズム」が、ぼくたちと対象のあいだを往復しているとき、はじめて、色彩と奥行きと質感の横溢するこの視覚世界が、ぼくたちに向かって開かれることになる。そして、このことは視覚だけでなく、あらゆる感覚について言える。
         さらに、まなざしの正体がリズムなのであれば、それは、本質的に“見る者”の側だけの問題ではなくて、“見られるもの”の側からも起因する運動だと言わなければならない。“モノにまなざしを向ける”という行為は、同時に“モノにまなざしを向けられる”という体験でもある。同じ意味で、“モノを見る”ことは、そのまま“モノに見られる”ことだと言っても良い。月見子は、尾道沙耶子の秘密の会話を盗み聞きした上で、この秘密にまつわる警告を、匿名の電話で告げ知らせる。だけど、それで月見子が一方的に沙耶子より優位に立つことにはならなかった。自分の聞いた電話の声が月見子のそれであることに、沙耶子が気づいてしまうからだ。しかしそれと同時に、月見子は、盗み聞きの事件以後、沙耶子に対する反感が薄れていく自分を感じている。沙耶子にも自分と同じように悩みや弱さがあることを理解しはじめたからだ。
         あるいは星見子の場合、彼女は望遠鏡を通して、俳優志望である伸也が同性愛者のプロデューサーに襲われかけている場面を覗き見る。この場面を見る前までの星見子は、伸也の行動について不干渉の姿勢を貫いていた。他人の判断は、あくまでもその人自身が決定すべきであって、たとえ彼氏であろうと、伸也が芸能界の仕事を獲得するためにホモのプロデューサーとつき合う気なら、そのことに口出しする権利は自分にない。けして彼氏のことが気にならないわけではないものの、星見子は、理屈でそう考えていた。しかし、実際の現場を目撃したときには、理屈屋の彼女をして、理性で割り切れない感情が抑えられなくなるという経験が出来する。それが『見る』という出来事に秘められた力だ。ひとたび『見る』ことが実現してしまったなら、憎い相手だろうが、好きな相手だろうが、もはや「他人」ではなくなってしまうのだ。自己と他者と、遠くのものと近くのものと、夢と現実と、理性と感情と、想像力のはたらきは――『見る』というはたらきは――ありとあらゆる対立物のあいだに横たわる距離を飛び越えて、相互に交流を生み出す。そうして、自分と見知らぬ誰かを、あちらの場所とこちらの場所を、夢と現実を、魔法のごとく取り替えてしまう。だったら、今ぼくたちが問わなければならない問いはひとつしかない。すなわち、対立物を結び合わせるこの不思議な交感の絆それ自体は、そもそもいったいどこから、どうやって湧いて出て来たのだろうか、と。


         ぼくたちは、モノにまなざしを向けることなくしては、モノを見ることが出来ない。ということは、ぼくたちは、モノをはっきりと見る前からすでに、これを的確にまなざしで射抜いているということになる。しかし、そんなことがどうしてありうるのだろう。それは、目の見えない人が、モノのかたちを直観したり、耳の聞こえない人が、詩の韻律を聴き取ったりするのにもひとしい不自然な所業だというのに。言い換えると、ぼくたちは、自分の力でモノにまなざしを向けているのではない。ぼくたちは、何かを『見る』能力を、自分自身の権利で所有しているのではない。ぼくたちが、何かを見るとき、眼前に開けている光景は、いつでも「与えられた」ものであって、その起源は不可知なのだ。それはちょうど、千野姉妹の超能力が、天から恵まれたものであるかのように、或る日突如として発揮されはじめたのと同じだ。こういう意味で、この『私はウサギ』という物語は、ファンタジーというジャンルに所属する作品ではあるものの、それはけして夢物語だとか絵空事だとかいったことを意味しない。仮にそんな具合にこの小説を読んでしまう人がいたら、その人は本当に大切なものを見過ごしてしまうことになる。なぜなら、もし小説の中で千野姉妹の身に起きる出来事が、荒唐無稽で根拠が無いというのなら、ぼくたちの所有する「想像力」もまた、少なくとも同じくらいには荒唐無稽で無根拠な能力であることに違いないのだから。だから、はじめの疑問に戻って、「どうしてぼくたちは何かを見ることが出来るのか」と問うならば、それに対する答えとしては、「運命」だから、「摂理」だからと説明するより他に仕方ない。
         だが、千野姉妹の運命とは何だろう。それは、母親が去ってしまったという事実、父親がいないという現実に他ならない。ひるがえって、彼女たちが、現実を超えた出来事を体験するとき、そこには必ず失踪した母の面影が、思い出の中に残存する父の痕跡がかすかな光を投げかけている。姉妹たちは、それぞれが遭遇した個人的な事件の最中にも、本当はこの残光をこそ追い求めていた。だから、千野姉妹の体験の本質は、“ここにはいない人”への憧憬にある。そして、このことは、想像力の本質についてもひとしくあてはまる。小説家は、世界に足りないもの、世界に欠落しているものをつかまえて、それを作品に結実させる。だから、小説家が物語に描こうとするその何かとは、つねに「どこにも存在しないもの」だと言わねばならない。想像力と呼ばれる自然を超えた摂理だけが、このように「どこにも存在しないもの」を捉えることを可能にする。現実とまったく無関係な空想が、ファンタジーと呼ばれるに値しない理由もまた、この点に存する。ファンタジーは、世界の窮乏を埋め合わせて、世界を完成へと導くのでなければ、そもそも「ファンタジー」という言葉の原義にそぐわないのだから。
         千野三姉妹は、母親が残した品の中に、奇妙な鉱物見本のような石があるのを発見する。透明で、水晶のように七色に輝く小さな石だ。ひょっとすると、母が残したこの石には何か秘密があるのではないだろうか。そう思った姉妹たちは、ためしに石の上に互いの手を重ね、自分たちの能力を合わせて使ってみることにする。三人の耳に、いろいろな音が飛び込んで来る。視界がぐるぐると回る。そうして浮遊感とともにからだが引き込まれる感覚があって――ふたたび開けた視界の中に、母はいた。『あら……あなたたち、来たの?』なんて、のんきな声をかけながら。ここはどこだろう。少なくとも東京ではない。どうやら開墾地のようだ。母は、粗末な服を来て、でも楽しそうに畑で農作業をしている。『お父さん、月見子たちが会いに来たわ』。すると視界が移動して、近くの池をのぞき込む。その水面に映るのは、今では写真でしか知ることの出来ない父の顔だった。
         こうして、自分たちに欠けているものを追い求めて心の旅路をたどってきた千野姉妹は、最後に、まさしく父のいる場所において、父のまなざしを通して、父自身の顔を見ることで、その旅を終える。三姉妹がめぐり合わせたいろいろな不思議な出来事は、この光景を見るための先触れだった。今まで姉妹が見てきたさまざまな光景の奥底には、きっとどこかで、「父の見ているものを見ている」という部分があったのだ。「摂理providentia」という言葉は、語に忠実に解釈するなら、「あらかじめpro見る者videns」という意味になる。それは、ぼくたちがモノを『見る』ことを可能にしてくれるまなざしのことを指す。摂理が、自分の見ているものを分け与えてくれるおかげで、ぼくたちは、自分自身の場所から、自分が見なくてはならないものを見て、ひるがえって自分自身として存在することが出来る。父は、まさしく摂理として、家族を家族たらしめる絆として、いつでも千野姉妹とともにいた。だから、千野姉妹にとって、両親の不在は、もう欠落でも窮乏でもない。ふたりは、ここではないどこかにいるけれども、それは同時に、距離の如何に関わらず自分たちのすぐかたわらにいることを意味すると、確かに信じることが出来るからだ。本当のファンタジーは、こうやってぼくたちのまなざしを、現実へと送り返して、その見え方をほんの少しだけ新しくしてくれる。ありふれた日常こそが、本当の奇蹟なのだと教えてくれる。

         自分たちのマンションへと戻ってきた三姉妹は、小石が空に向けて光を伸ばしているのを発見する。光の筋をたどって、小さな公園に行き着いた彼女たちが目撃したのは、上空にUFOが浮かんでいる光景だった。UFOは、しばらく千野姉妹の目の前をふわふわと漂った後、消えてしまう。あれは何なのだろう。父は宇宙人だったのだろうか。答えはわからない。だけど、ひとつだけわかることがある。真の不思議は、ぼくたちのすぐそばに、ほんの隣に隠れている。実証科学の証明の対象にはならなくても、固有の論理と法則をその内部に秘めながら。この意味で、ファンタジーとは、摂理の解明を自己の使命とする最高の学としてのテオロギアの正当な後継者に他ならない。そして、同じ意味で、ファンタジーとサイエンス・フィクションはけして矛盾も対立もしない。本当に大切なことはただひとつ、この世界の欠乏を驚きと喜びに変えるまなざしが人間に与えられているという、このかけがえのない恩寵の存在に尽きるのだから。
        (横道仁志)
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        東京SF大全43『マーダーアイアン 絶対鋼鉄』
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           タタツシンイチ『マーダーアイアン 絶対鋼鉄』(2006 徳間書店 第七回日本SF新人賞受賞作)


          「それで、次は何をやるつもりなんです?」六月の始めのことである。SF評論家が裏で悪巧みをしている掲示板で、ぼくはそんな質問を受けた。そして、ひどくうろたえてしまった。「ええそうですね。(もうSFMの原稿を上げたばっかりでこっちは何も書くことがないよ)それは様々で。(カーテンコール…… カーテンコール…… もう俺はでがらしだよ……)じつにいろいろ、考えている最中なのです……(なにも考えがないよ、どうするんだよ)」言い逃れの口実を考えていた。何を訊かれているのかは、よくわかっていた。かれこれ九ヶ月近く、ぽつぽつと続けてきた「東京SF大全」も、ようやく終わりを迎えるところだった。
          「でさー、何扱っていいかわかんないんだよ。もう、色々とネタ切れになってきたし、不用意に目の肥えた人たちに浅い原稿を見せてバカにされるのも嫌だし…… え? 未来? 希望? 何言ってんの? あ、確かそういうテーマ、あったね。若い〈ロスジェネ世代〉的な閉塞感の中に、いかにして希望を取り戻すか、というテーマね。確かにそういうテーマをもって書いてきたつもりだけどね。うん。そう。未来とか変化に向けた期待が極端に落ちている状態だと、変革された社会を描くSFに訴求力はなくなってしまうんだよ。SF大会も、SFセミナーも、若い人がいない。ライトノベルとかに面白いSFはいっぱいあるのに…… だからSFを復興させるためには未来への希望を復活させないといけない、世界が変革できて変わっていくというリアリティこそがまず大事で…… え? 冬の時代は結果的によかった? そんなこと言ってると、クズSF論争の人に殺されるよ? なになに? SFの冬の時代と言われていたものは、後の日本社会の陥る状況をかなり先駆的に掴んでいたのだから、その冬の時代を突破しようとした作品は、現代社会の冬的状況を突破するような心理的リアリティを与えるかもしれない? 例えばなんのこと言っているの? 片理誠さんの『終末の海』? 世界が終わってしまって、寒い海で資源がなく彷徨って、救いの気配もなく、自殺を選ぶ人も多いが、それでもなんとか生き延びようとする話? 確かに、それは、SFの状況と現代社会の両方にマッチングしているなぁ。うん。なに? SF新人賞と小松左京賞関連の作家は絶対もうすぐムーブメント起こしてすごいことになるから、その手の新しい作家を扱うことで、未来に繋げ? で、何を扱うんだよ? 『鉄男』で始まったから、鉄で始まって鉄で終わると、ウロボロスでカタルシス? 何を言っているんだ? で結局何を扱えって?」
           そしてぼくの手許には、赤い本がある。『共産党宣言』ではない。『マーダーアイアン 絶対鋼鉄』と書いてある、タタツシンイチ著の、第七回日本SF新人賞受賞作が……

                    ○

           基本的な世界設定は、バブルが弾けなかったまま進んだ日本の未来社会。そこは「歪な経済大国」である。そこは「世界最多の休日日数」を誇っているという……。高度消費社会における記号的な資本の増大のカリカチュアのような「無限バブル」がこの世界には起こっており、東京はバビロン都市と化している。BubbleのBabylonであると、わざわざbabbってみる必要もなかろう。
           せっかくバブリングの雰囲気になってきたので、本作の文体について少し。基本的には引用過多で、縦書き横書き、英語と日本語、広告の文章や名刺(おお、安部公房の『壁』だ!)が直接登場する。それどころか、作中に対する2ちゃんねるのリアクションじみた掲示板の書き込みまで登場する。このガチャガチャしたパロディックに猥雑な文体の中に、「鉄による殺戮」の際には、リズミカルで剣戟小説のような重みのある文体が混じる。この文体の魅力は、途方もない。この作家の最も優れた資質の一つであろう。ここまで「ガチャガチャした」祝祭的な文体は現代日本では稀有である。
           それが、ハロウィンの祝祭と、殺戮の祝祭性と相互作用を起こしている。本作は、圧倒的な力を持つ、ハリウッド映画的なアメリカのスーパーヒーローたちと日本が戦うという基本構造を持っている。実際の戦闘以上に、その戦闘をスペクタクルに見せ、映像商品かする最強のHEROたち。それに立ち向かうのは、諜報や科学技術がいろいろと貧弱だと思われている日本である。
           そして日本の「鉄」のロボット、「タケル01」が立ち向かう。ここで、僕が日本SF鉄の系譜について一説垂れるのは蛇足以外の何でもない。一応確認しておくと、小松左京が『日本アパッチ族』(64)で鉄を食べさせたときから、SFと鉄との縁は深いことになっている。それはテクノロジーと一体化することの隠喩であると同時に、規範から外れることを意味する。国会でアパッチ族の真似をしてふざけるシーンを見ると、SFマニアとはアパッチ族の子孫そのものなのではないかとすら思われてくる。そして、言うまでもなく『鉄腕アトム』『鉄人28号』などのヒーローが挙げられる。SF活劇を志向し、故石ノ森章太郎に対する献辞を捧げている本作は、どちらかというとそちらの「鉄」の系譜だ。とにかく、強くて助けてくれるヒーロー、テクノロジーと強さの象徴としての「鉄」だ。
           しかし、この「タケル01」は、アトムのようにかわいくない。マジで怖い。調子こいているアメリカのヒーローどもを、淡々とぶちのめす。そう、まるで国粋主義的な傾向を持つ2ちゃんねらーが、アメリカなどを叩いてやっつけたいと思って炎上や祭りに殺到し、そのエネルギーが形となって本当にアメリカをぶちのめし、そして最大の祝祭とカーニバルが起こっているかのようである。カーニバルの猥雑さの中で、地位は逆転するとバフチンは言う。本当はネオリベラリズムなどで現実にはアメリカに蹂躙されまくっている(と格差系の人たちが主張している)日本であるが、その立場が祝祭性の中で逆転する。日本の神話的なものと結びついているらしき「鉄」の勝利に、全くナショナリストのつもりのなかった僕も、思わず喝采を挙げている。アメリカがぶちのめされたら爽快、という、基本的なカタルシスのパターンがここにはある。
           一般論として、どうも日本の不況や格差の原因や若者の非正規雇用の原因は、アメリカ型の新自由主義政策にある。と言われている。諸説があるので真偽は分からないが、一応はこの説を採ることにする。例えば、現在フリーターとかで鬱屈している若い読者がこれを読んだらどう思うのだろうか。アメリカをぶちのめして爽快、日本の技術力は世界一ィィィィッとなり、万々歳だろうか。そういう快楽は確かにある。詩人のヴァレリーは、ヨーロッパ精神とは「技術」だと言った。従って、それはすぐに模倣されて世界中に広まる。するとそこもヨーロッパになる。するとヨーロッパ精神の危機が訪れる。そのヨーロッパ精神の危機を克服するためには、常にイノベーションを続けるのだ。常に技術の最先端に立ち続けることが重要なのだ。一時期までの日本は、ヨーロッパ以上にヨーロッパ精神に忠実であろうとしていた。技術の優位性こそが軍事力と結びつき、経済と、そして民族あるいは国家の誇りをもたらすものとして重要なのだ。
           とはいえ、やはり科学技術開発を評価する報告を見ると、今でもやはりアメリカが強い。軍事も経済も強い。こういう圧倒的な現実に打ちひしがれ、現在の若者は期待水準も希望水準も低いらしいのだ。つまり、未来や世界に何かいいことがあると全く思っていないのだ。だが、本作はそんな中に、カーニバルの幻視の中に、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という気持ちよさを取り戻させてくれる。そして、日本人が(個々の人間はいろいろだっただろうが)「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という自己愛と自尊心を肥大化させていた時代が、たったの30年前であることを本作は思い出させてくれる。(エズラ・ヴォーゲルによる同名の著作が1979年)
           敗戦が1945年。その「焼跡」を小松左京は『日本アパッチ族』で描いた。そしてその「焼跡」を原動力にして、たった30年で高度成長が訪れた。そして80年代のバブルの躁じみた狂騒の後、20〜30年。たった30年で、こんなにも景色や状況が変わるものなのだろうか。だとすれば、「焼跡」で必死に30年間頑張って高度成長が訪れたのだから、現在でも頑張れば今のような不況が続くはずはないのではないかと思ってしまう。もちろん、欲求五段階説や、精神的充足などの別種の問題が存在していることも承知の上でだ。今は、何かを始める地点として、1945年よりはマシなのではないだろうか。
           しかし、作中の無限バブルが続いている日本と、我々のいる現実の、如何に遠いことか! 読み終わった後に、寂寞感とともに、そんなことも思うのも事実なのである。カーニバルの後というのは、大概にしてそのようなものなのかもしれない。しかし、だからこそ無限バブルが凄いのだ。祭りの終わりの疲労や寂しさのない、永久に続くバブル……
          (藤田直哉)
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          東京SF大全42「太陽の帝国」
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            「太陽の帝国」
            (小説・樺山三英・〈SFマガジン〉2010年9月号所収、早川書房)


             2009年の11月にTOKONブログの更新がスタートしてから、瞬く間に9ヶ月あまりの月日が過ぎ去った。
             当初は雀の涙ほどだったアクセス数も、3月末の「メガテンの記憶」(鈴木一也)から4月頭の「大阪SF大全」シリーズに至る流れで一気に増大し、いつの間にやらTOKON10公式ブログで連載してきた「東京SF大全」はウェブの枠をはみ出して、〈SFマガジン〉2010年9月号の「特集・東京SF化計画」という形を取り、ついに商業媒体にまで進出を遂げることとなった。さらに、TOKON10で配布されるスーヴェニアブックにおいては、ウェブや雑誌とは別の「東京SF大全」(約2000字の論考×9名)に、日本SF評論賞受賞者たちの選定による「東京SFビブリオ100」が掲載されることとなっている。
             月並みな表現で申し訳ないが、これはまさにSF的な事態だと思われまいか。少なくとも、9ヶ月前にはここまで盛り上がるなどと、誰も予測してはいなかったはずだ。
             ここで筆者は「東京SF大全」に取り上げるべき作品選定から執筆・作業分担に至るまでの諸々の苦労話を、思いきって開陳したい衝動に駆られている。
             だが、ここはひとまず「SFマガジン」2010年9月号の小谷真理の顰みに倣い、「TOKON10、がんばってます」との言明に留めておくとしよう。

             しかしながら、ひとつ気がついたことがある。
             事態はもはや、私たちのコントロールの枠を外れてしまっているようなのだ。
             「SFとは、個人理性の産物が個人理性の制御を離れて自走することを意識した文学の一分野である」と語ったのは柴野拓美だったが、こうした柴野の評言の正当性を、「特集」の枠を外れながらも、静かに、しかし確固たる存在感を放つ一つの短篇小説を眼にして、再確認させられる事件が起こったのである。
             同じ〈SFマガジン〉2010年9月号に掲載された、ひとつの小説が、そのことを証しだした。その作品の表題には「太陽の帝国」と記されている。

             『太陽の帝国』。
             言わずと知れたJ・G・バラードの代表作。ブッカー賞候補、スピルバーグ監督による映画化と、錚々たる伝説を残したバラードの自伝的小説のタイトル。そして、〈SFマガジン〉最新号に掲載されたその名を冠した短編。

             「それで、次は何をやるつもりなんです?」
             かようないささか当惑させられる問いかけから始まり、本作を含めた一連の短篇連作全体が「《ユートピア的想像力》をテーマにした、古今の作品の二次的創作」であるという事情をいきなり開陳してみせるこの短篇は、のっけからその作品の成立自体が、末期癌による死もいまだ記憶に新しいJ・G・バラードの長篇からの本歌取りとなっていることを、多少の衒いとともに告白してみせる。

             「それで、次は何をやるつもりなんです?」
             この問いかけが発された場は、語り手の記述を信用するのであれば、SFセミナーという30年の伝統を有したサーコン系のイベント、すなわち理論と言語を手がかりにSFの可能性を模索することを旨とした催し物における、合宿企画の会場においてなされたものだという。
             そもそもSFセミナーというイベントは、「東京SF大全」が模索してきたような理論と思弁を中心に据えることでSFの可能性を探る試みを一貫して持続させてきた催しである。
             そして、おそらく「太陽の帝国」のモデルとなっているであろうSFセミナー2010は、20年ぶりの東京でのSF大会の前夜祭的な雰囲気が色濃いものであった。実際にSFセミナー2010では、「太陽の帝国」の作者と一緒にその小説について語るというパネルも存在したというから、「太陽の帝国」がSFセミナーへの応答であると読むのは間違いではあるまい。
             しかし「太陽の帝国」の記述は、SFセミナーの会場における応答から、バラードという固有名を介することで、海を越えた上海へと一気に飛躍する。そしてこのテクストは、上海という「外部」から、東京を逆照射することで、それ自体が優れた東京SFでありながら、来る東京でのSF大会に向けての批評ともなっている。

             語り手によればバラードとは、「上海の死に立ち会った一人」であるという。「終わる世界、滅びゆく人々の姿」に取り憑かれた作家と、その似姿たる『太陽の帝国』の主人公、ジム少年の足跡を追いながら、語り手はバラードとジムの類似性と差異、そして(日本軍の)収容所を通じ、「思春期を迎え、大人の精神の基礎を学んだ」バラードの、矛盾した記憶の性質と脅迫観念について説明する。そこから記述は、多分に虚構的な「バラードの初期の短篇」の描写へと、緩やかな移行を遂げていく。
             「太陽の帝国」内の「バラードの初期の短篇」は、それ自体が枠物語の一部に過ぎないのか、それとも間接話法を通じたバラードへの忸怩たる妄念の表出なのかが、意図的に混同した形で描かれている。それゆえ語りの内部で言及される「バラードの初期の短篇」も、その梗概は「バラードらしさ」の典型をなぞるように見せかけながらも、その実、過剰なまでの情緒を身にまとうことを余儀なくされている。
             ただし、ここでの「バラードの初期の短篇」はまったくの虚構であろうと、後の段落ですぐさまそうした事実が仄めかされることで、テクストの入れ子構造はさらなる混濁を見せ始める。
             語り手が「バラードの初期の短篇」について「メールで問い合わせ」をしたという「セミナーで同席した、バラードの翻訳者の人」が誰であるのかは知る由もないが、「東京SF大全」内で公開されたバラード「終着の浜辺」論(増田まもる)を参照すれば、この「バラードの初期の短篇」の虚構性が際立って見えるのは間違いない。

            死せる大天使の坐像に入口を守護された巨大ブロック群のことを考えながら、トラーヴェンは忍耐強く彼らが話しかけてくるのを待った。その間も、遠くの岸辺では波が砕け、炎上する爆撃機が夢の中を墜落していくのだった。


             「終着の浜辺」を論じた増田まもるは、同作品の末尾を上記のように訳出している。この引用文に顕著なように、バラード作品において、テクストの運動性は夢や記憶の内部に取り込まれ、無時間的なものとして再構成される。そのためバラードの作品において、作中人物はいわば物質としての「死者」が体現する無機質性にこそ突き動かされることとなる。
             これは現代に特有な事例なのか。そうかもしれないし、またそうでないとも言える。
             「太陽の帝国」内では、記憶の集合体としての歴史性、そして「大躍進2.0」と呼ばれる、グローバル市場を背景とした文化帝国主義と、それに関連したシミュラクルの問題が語られる。ここからバラード本人の『太陽の帝国』に立ち返れば、ブライアン・オールディスの「リトル・ボーイ再び」のように、人間の実存が剥き出しとなった「例外状態」(アガンベン)をショーとしてスペクタクル化した状況があるとすると、バラードの作品はそうしたスペクタクルを希求する強迫観念そのものに焦点を当てているように見える。
             だが、スペクタクルを基体とした「下り坂カーレースに見立てたジョン・フィッツジェラルド・ケネディ暗殺事件」のような作品においてさえ、ショーアップの模様は無機質的に描かれる。そこには、消費社会が喧伝する、祝祭的空間への素朴な称揚は見られない。
             吉見俊哉は『都市のドラマトゥルギー』で、近代の「博覧会」に代表される祝祭的空間の成立に、いわば「異界」を見出したが、バラードはさらにその内奥に分け入り、祝祭によって称えられる「死者」の実相を取り出そうと試みたと言えるだろう。
             だからバラードの描き出す祝祭は徹頭徹尾、静的なものだ。いやこうした静的な無機質性に、バラードは(おそらくアラン・ロブ=グリエとも共鳴するだろう)強烈な官能性の「まなざし」を差し向ける。だからこそ、バラードの描く「死者」はある種の審美性を帯びた形で、読み手に迫ってくることになる。
             そして「太陽の帝国」と題された短編は、こうした「博覧会」としての「異界」における、「死者」とのエロティックな交信を、バラードを読む「ぼく」の立場から再確認したものとして結論づけることができる。
             「太陽の帝国」がその末尾に連なる「《ユートピア的想像力》をテーマにした、古今の作品の二次的創作」シリーズは、今まで連綿と〈SFマガジン〉誌上で書き連ねられてきた。「一九八四年」(ジョージ・オーウェル)、「愛の新世界」(シャルル・フーリエ)、「ガリヴァー旅行記」(ジョナサン・スウィフト)、「小惑星物語」(パウル・シェーアバルト)、「無何有郷だより」(ウィリアム・モリス)、「すばらしい新世界」(オルダス・ハクスリー)、「世界最終戦論」(石原莞爾)、「収容所群島」(アレクサンドル・ソルジェニーツィン)と、ダルコ・スーヴィンが『SFの変容』で記したようなSFの源流としてのユートピア文学の系譜をたどり直し、さらにその先へと突き進んでいく。
             しかしながら、やがて戦争と虐殺、収容所の問題が現前してくるにつれ、SFの根源への沈潜を続けるうちに、意識的な抑制をもってテクストの内に埋没させられていた「ぼく」の位相は変転を続け、ついには「太陽の帝国」をもって、剥き出しのまま表出させられることになる。

             アガンベンの『アウシュヴィッツの残りもの』にも記されている通り、二〇世紀以降、「例外状態」の有様を最も鮮明に突きつけてくるのが収容所という形象だ。佐藤哲也は収容所文学の傑作である『妻の帝国』において、そうした現在を「東京郊外というわたしの個人的な現実に、強制収容所という20世紀的な現実を重ね合わせ」(「Anima Solaris」の著者インタビュー)たものとして描き出したが、そうした流れで言えば「太陽の帝国」は、ここで佐藤の言う「わたしの個人的な現実」を、いわば再帰的にバラードという固有名を経由することで、文学とSFをめぐる想像的な伝統、そして大文字の歴史性が交錯する地点に出会わせようとした試みだと言うことができる。
             そして、奇しくもそのバラード観は、「太陽の帝国」内に登場する「SFセミナーの合宿」のちょうど前年に行なわれた「SFセミナー2009 〈合宿企画〉「スペキュレイティヴ・ジャパン」バラード追悼と読書会」(〈科学魔界〉52号、TOKON10にて頒布予定)で語られた内容とささやかな照応を見せているように思われる。SFセミナー2009において、『太陽の帝国』がいかように語られたのかを見てみよう。

            永田弘太郎:私が思うのは、バラードを読んでいて、『太陽の帝国』を読んだ時に、何を書いているのかがわかっちゃったということ。結局、あの人は収容所のなかの話をずっと書いているんですね。(中略)強制収容所のなかは時間がない世界。永遠の時間を持った世界が彼らの前に現れる。あと、自分たちが自由にあるためにはどうすればよいかが語られる。それには狂気にならなければならない。強制収容所の世界では、狂うことが自由になる方法だという。それに、死の力を借りることで自由になることができる。バラードというのは、そういうところで、そういうものを通して、自分たちが置かれている強制収容所から出ようとしているところがある。強制収容所のイメージが現代社会にイコールとなっていくのが、バラードがだんだんやってきたことだ。(後略)
            来場者:バラードは収容所から抜け出そうとしたというか、未だに抜け出せていないんじゃないですか?
            増田まもる:外へ出ようとはしてはいない。
            藤田直哉:ユートピアなんですよね?
            増田まもる:そう、ユートピアなんだよ。
            永田弘太郎:ユートピアであってはいけないんだけど、ユートピアになってしまうところが、小説を生む原因になったんじゃないの? どちらかに決定してしまっていたら、小説は書かなかったと思うのね。
            増田まもる:あるいは、『太陽の帝国』でトラウマみたいなものにケリがついてしまったら、もう書かなかったと思う。ケリがついていない。むしろもっと加速しなければならないという何かを得たのだと思う。(後略)
            (理解を促すため、本引用では一部を省略し、発言者名を明確にした)


             ユートピアとしての収容所。故郷としての敵国。名を与えられていない「来場者」の発言の重みが響き渡る(発言の記録・編集に関わった作業者として言えることは、不可思議なことに、テープ起こしをしていると、この台詞だけが誰の言葉でもあり、また誰の言葉でもないように聞こえ、判別が不可能だったことだ)。
             「太陽の帝国」の語り手の認識は、ここでの討議の地平と不思議な照応を果たし、バラードという固有名を通じて、生と死の端境をさまよい、虜囚として暮らした時代を最も幸福な日々、恐れながら「どうしようもなく惹きつけられる」ものとして説明する。
             増田まもると柳下毅一郎は、「時間の墓標 J・G・バラード追悼」(http://speculativejapan.net/?p=102)において、『太陽の帝国』執筆時の上海を、「おそらくは世界で最も頽廃した土地」であり、「野垂れ死にを余儀なくされる人」と「ものすごく華やかなナイトクラブで遊び惚ける特権階級」という2つの全く異なる世界が、放埒と死と病を媒介として重ね合わされていた世界だったという意味のことを語った。こうした多重性が明らかになると、「異界」をめぐる「まなざし」は否応なく混交を強いられることになる。
             「太陽の帝国」の記述は、上海のスノビズムがある意味において加速度的に進行した状況を背景に置くことで、バラードの読み直し(リ・リーディング)を通じ、やがては「死者」としての「ぼく」の召喚へと行き着くことになる。

             しかしながら、「バラードが描いた朱鷺色の砂漠(ヴァーミリオン・サンズ)」に比べ、「ぼく」が心に描いた「砂漠」は、単なる「きめの荒い黄色い砂地」に過ぎない。そして、その「ぼく」を成立させた、シミュラクルの原型たる「上海」を遡って語り手が幻視したのは、「ぼく」そのものが抹殺された現在が到来していた可能性である。「太陽の帝国」に至る連作を追いかけてきた読者であれば、ここでの「ぼく」の消滅の可能性が、すなわち、大文字の「歴史」そのものの崩壊の可能性でもあると理解することができる。

             「太陽の帝国」では、「八月に船堀で行われるSF大会の実行委員」でもある「批評家の友人」が漏らす、「東京SF大会と銘打って、東京にちなんだものにする予定」であったはずの「今年二〇一〇年の大会」が、中国に、そして上海に飲み込まれてしまった模様が語られるが、ここを短絡化し、中華思想の現代的表出への恐怖と読んではならない。むしろ、「ぼく」が消滅するひとつの未来として、心の原風景すらすでにシミュラクルと化してしまっている私たちの生それ自体が、すでにまったくの虚構となっている事実の、SF的な表現だと読まなければならないだろう。
             筆者は「太陽の帝国」が掲載されたものと同じ号の〈SFマガジン〉において、『都市のドラマトゥルギー』についての短評を介し、「「東京SF」にも変容の時が訪れようとしている」と書いたが、ここでの「変容」の兆しを「太陽の帝国」内の記述に読み込むことは、牽強付会に過ぎるだろうか。

             だが、バラードの『太陽の帝国』が型どおりの私小説とはまったく異なるように、「太陽の帝国」を書き手である樺山三英の私小説と読むことは、テクストの奸計にはまってしまうことを意味する(これはレトリックではなく、素朴な私小説的としての読みは、語られる「父」の在り方をはじめ、テクスト内の仕掛けによってことごとく裏切られることになる)。現に、「太陽の帝国」における「ぼく」が「樺山三英」であるとは、どこにも明記されていないではないか。
             つまり、この「ぼく」は、取り替え可能な、すべての「ぼく」と等価なのだ。

             だから、思い切って断言してしまおう。「太陽の帝国」は未来に向けて読まれるべきテクストだ。
             それゆえに、
            「それで、次は何をやるつもりなんです?」
             この問いかけは、私たち皆に投げかけられたものなのだ。
             いよいよ目前に迫った東京でのSF大会。そこで、私たちは「何をやるつもり」なのか?
            (岡和田晃)


            10.11.26追記:本稿はカーテンコールの挨拶文、他のカーテンコールの原稿とは独立して書かれたカーテンコール用の原稿です。
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