TOKON10実行委員会公式ブログ

第49回SF大会TOKON10実行委員会の公式ブログです。
開催日程:2010年8月7日(土)〜8日(日)
東京SF大全43『マーダーアイアン 絶対鋼鉄』
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     タタツシンイチ『マーダーアイアン 絶対鋼鉄』(2006 徳間書店 第七回日本SF新人賞受賞作)


    「それで、次は何をやるつもりなんです?」六月の始めのことである。SF評論家が裏で悪巧みをしている掲示板で、ぼくはそんな質問を受けた。そして、ひどくうろたえてしまった。「ええそうですね。(もうSFMの原稿を上げたばっかりでこっちは何も書くことがないよ)それは様々で。(カーテンコール…… カーテンコール…… もう俺はでがらしだよ……)じつにいろいろ、考えている最中なのです……(なにも考えがないよ、どうするんだよ)」言い逃れの口実を考えていた。何を訊かれているのかは、よくわかっていた。かれこれ九ヶ月近く、ぽつぽつと続けてきた「東京SF大全」も、ようやく終わりを迎えるところだった。
    「でさー、何扱っていいかわかんないんだよ。もう、色々とネタ切れになってきたし、不用意に目の肥えた人たちに浅い原稿を見せてバカにされるのも嫌だし…… え? 未来? 希望? 何言ってんの? あ、確かそういうテーマ、あったね。若い〈ロスジェネ世代〉的な閉塞感の中に、いかにして希望を取り戻すか、というテーマね。確かにそういうテーマをもって書いてきたつもりだけどね。うん。そう。未来とか変化に向けた期待が極端に落ちている状態だと、変革された社会を描くSFに訴求力はなくなってしまうんだよ。SF大会も、SFセミナーも、若い人がいない。ライトノベルとかに面白いSFはいっぱいあるのに…… だからSFを復興させるためには未来への希望を復活させないといけない、世界が変革できて変わっていくというリアリティこそがまず大事で…… え? 冬の時代は結果的によかった? そんなこと言ってると、クズSF論争の人に殺されるよ? なになに? SFの冬の時代と言われていたものは、後の日本社会の陥る状況をかなり先駆的に掴んでいたのだから、その冬の時代を突破しようとした作品は、現代社会の冬的状況を突破するような心理的リアリティを与えるかもしれない? 例えばなんのこと言っているの? 片理誠さんの『終末の海』? 世界が終わってしまって、寒い海で資源がなく彷徨って、救いの気配もなく、自殺を選ぶ人も多いが、それでもなんとか生き延びようとする話? 確かに、それは、SFの状況と現代社会の両方にマッチングしているなぁ。うん。なに? SF新人賞と小松左京賞関連の作家は絶対もうすぐムーブメント起こしてすごいことになるから、その手の新しい作家を扱うことで、未来に繋げ? で、何を扱うんだよ? 『鉄男』で始まったから、鉄で始まって鉄で終わると、ウロボロスでカタルシス? 何を言っているんだ? で結局何を扱えって?」
     そしてぼくの手許には、赤い本がある。『共産党宣言』ではない。『マーダーアイアン 絶対鋼鉄』と書いてある、タタツシンイチ著の、第七回日本SF新人賞受賞作が……

              ○

     基本的な世界設定は、バブルが弾けなかったまま進んだ日本の未来社会。そこは「歪な経済大国」である。そこは「世界最多の休日日数」を誇っているという……。高度消費社会における記号的な資本の増大のカリカチュアのような「無限バブル」がこの世界には起こっており、東京はバビロン都市と化している。BubbleのBabylonであると、わざわざbabbってみる必要もなかろう。
     せっかくバブリングの雰囲気になってきたので、本作の文体について少し。基本的には引用過多で、縦書き横書き、英語と日本語、広告の文章や名刺(おお、安部公房の『壁』だ!)が直接登場する。それどころか、作中に対する2ちゃんねるのリアクションじみた掲示板の書き込みまで登場する。このガチャガチャしたパロディックに猥雑な文体の中に、「鉄による殺戮」の際には、リズミカルで剣戟小説のような重みのある文体が混じる。この文体の魅力は、途方もない。この作家の最も優れた資質の一つであろう。ここまで「ガチャガチャした」祝祭的な文体は現代日本では稀有である。
     それが、ハロウィンの祝祭と、殺戮の祝祭性と相互作用を起こしている。本作は、圧倒的な力を持つ、ハリウッド映画的なアメリカのスーパーヒーローたちと日本が戦うという基本構造を持っている。実際の戦闘以上に、その戦闘をスペクタクルに見せ、映像商品かする最強のHEROたち。それに立ち向かうのは、諜報や科学技術がいろいろと貧弱だと思われている日本である。
     そして日本の「鉄」のロボット、「タケル01」が立ち向かう。ここで、僕が日本SF鉄の系譜について一説垂れるのは蛇足以外の何でもない。一応確認しておくと、小松左京が『日本アパッチ族』(64)で鉄を食べさせたときから、SFと鉄との縁は深いことになっている。それはテクノロジーと一体化することの隠喩であると同時に、規範から外れることを意味する。国会でアパッチ族の真似をしてふざけるシーンを見ると、SFマニアとはアパッチ族の子孫そのものなのではないかとすら思われてくる。そして、言うまでもなく『鉄腕アトム』『鉄人28号』などのヒーローが挙げられる。SF活劇を志向し、故石ノ森章太郎に対する献辞を捧げている本作は、どちらかというとそちらの「鉄」の系譜だ。とにかく、強くて助けてくれるヒーロー、テクノロジーと強さの象徴としての「鉄」だ。
     しかし、この「タケル01」は、アトムのようにかわいくない。マジで怖い。調子こいているアメリカのヒーローどもを、淡々とぶちのめす。そう、まるで国粋主義的な傾向を持つ2ちゃんねらーが、アメリカなどを叩いてやっつけたいと思って炎上や祭りに殺到し、そのエネルギーが形となって本当にアメリカをぶちのめし、そして最大の祝祭とカーニバルが起こっているかのようである。カーニバルの猥雑さの中で、地位は逆転するとバフチンは言う。本当はネオリベラリズムなどで現実にはアメリカに蹂躙されまくっている(と格差系の人たちが主張している)日本であるが、その立場が祝祭性の中で逆転する。日本の神話的なものと結びついているらしき「鉄」の勝利に、全くナショナリストのつもりのなかった僕も、思わず喝采を挙げている。アメリカがぶちのめされたら爽快、という、基本的なカタルシスのパターンがここにはある。
     一般論として、どうも日本の不況や格差の原因や若者の非正規雇用の原因は、アメリカ型の新自由主義政策にある。と言われている。諸説があるので真偽は分からないが、一応はこの説を採ることにする。例えば、現在フリーターとかで鬱屈している若い読者がこれを読んだらどう思うのだろうか。アメリカをぶちのめして爽快、日本の技術力は世界一ィィィィッとなり、万々歳だろうか。そういう快楽は確かにある。詩人のヴァレリーは、ヨーロッパ精神とは「技術」だと言った。従って、それはすぐに模倣されて世界中に広まる。するとそこもヨーロッパになる。するとヨーロッパ精神の危機が訪れる。そのヨーロッパ精神の危機を克服するためには、常にイノベーションを続けるのだ。常に技術の最先端に立ち続けることが重要なのだ。一時期までの日本は、ヨーロッパ以上にヨーロッパ精神に忠実であろうとしていた。技術の優位性こそが軍事力と結びつき、経済と、そして民族あるいは国家の誇りをもたらすものとして重要なのだ。
     とはいえ、やはり科学技術開発を評価する報告を見ると、今でもやはりアメリカが強い。軍事も経済も強い。こういう圧倒的な現実に打ちひしがれ、現在の若者は期待水準も希望水準も低いらしいのだ。つまり、未来や世界に何かいいことがあると全く思っていないのだ。だが、本作はそんな中に、カーニバルの幻視の中に、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という気持ちよさを取り戻させてくれる。そして、日本人が(個々の人間はいろいろだっただろうが)「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という自己愛と自尊心を肥大化させていた時代が、たったの30年前であることを本作は思い出させてくれる。(エズラ・ヴォーゲルによる同名の著作が1979年)
     敗戦が1945年。その「焼跡」を小松左京は『日本アパッチ族』で描いた。そしてその「焼跡」を原動力にして、たった30年で高度成長が訪れた。そして80年代のバブルの躁じみた狂騒の後、20〜30年。たった30年で、こんなにも景色や状況が変わるものなのだろうか。だとすれば、「焼跡」で必死に30年間頑張って高度成長が訪れたのだから、現在でも頑張れば今のような不況が続くはずはないのではないかと思ってしまう。もちろん、欲求五段階説や、精神的充足などの別種の問題が存在していることも承知の上でだ。今は、何かを始める地点として、1945年よりはマシなのではないだろうか。
     しかし、作中の無限バブルが続いている日本と、我々のいる現実の、如何に遠いことか! 読み終わった後に、寂寞感とともに、そんなことも思うのも事実なのである。カーニバルの後というのは、大概にしてそのようなものなのかもしれない。しかし、だからこそ無限バブルが凄いのだ。祭りの終わりの疲労や寂しさのない、永久に続くバブル……
    (藤田直哉)
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    東京SF大全42「太陽の帝国」
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      「太陽の帝国」
      (小説・樺山三英・〈SFマガジン〉2010年9月号所収、早川書房)


       2009年の11月にTOKONブログの更新がスタートしてから、瞬く間に9ヶ月あまりの月日が過ぎ去った。
       当初は雀の涙ほどだったアクセス数も、3月末の「メガテンの記憶」(鈴木一也)から4月頭の「大阪SF大全」シリーズに至る流れで一気に増大し、いつの間にやらTOKON10公式ブログで連載してきた「東京SF大全」はウェブの枠をはみ出して、〈SFマガジン〉2010年9月号の「特集・東京SF化計画」という形を取り、ついに商業媒体にまで進出を遂げることとなった。さらに、TOKON10で配布されるスーヴェニアブックにおいては、ウェブや雑誌とは別の「東京SF大全」(約2000字の論考×9名)に、日本SF評論賞受賞者たちの選定による「東京SFビブリオ100」が掲載されることとなっている。
       月並みな表現で申し訳ないが、これはまさにSF的な事態だと思われまいか。少なくとも、9ヶ月前にはここまで盛り上がるなどと、誰も予測してはいなかったはずだ。
       ここで筆者は「東京SF大全」に取り上げるべき作品選定から執筆・作業分担に至るまでの諸々の苦労話を、思いきって開陳したい衝動に駆られている。
       だが、ここはひとまず「SFマガジン」2010年9月号の小谷真理の顰みに倣い、「TOKON10、がんばってます」との言明に留めておくとしよう。

       しかしながら、ひとつ気がついたことがある。
       事態はもはや、私たちのコントロールの枠を外れてしまっているようなのだ。
       「SFとは、個人理性の産物が個人理性の制御を離れて自走することを意識した文学の一分野である」と語ったのは柴野拓美だったが、こうした柴野の評言の正当性を、「特集」の枠を外れながらも、静かに、しかし確固たる存在感を放つ一つの短篇小説を眼にして、再確認させられる事件が起こったのである。
       同じ〈SFマガジン〉2010年9月号に掲載された、ひとつの小説が、そのことを証しだした。その作品の表題には「太陽の帝国」と記されている。

       『太陽の帝国』。
       言わずと知れたJ・G・バラードの代表作。ブッカー賞候補、スピルバーグ監督による映画化と、錚々たる伝説を残したバラードの自伝的小説のタイトル。そして、〈SFマガジン〉最新号に掲載されたその名を冠した短編。

       「それで、次は何をやるつもりなんです?」
       かようないささか当惑させられる問いかけから始まり、本作を含めた一連の短篇連作全体が「《ユートピア的想像力》をテーマにした、古今の作品の二次的創作」であるという事情をいきなり開陳してみせるこの短篇は、のっけからその作品の成立自体が、末期癌による死もいまだ記憶に新しいJ・G・バラードの長篇からの本歌取りとなっていることを、多少の衒いとともに告白してみせる。

       「それで、次は何をやるつもりなんです?」
       この問いかけが発された場は、語り手の記述を信用するのであれば、SFセミナーという30年の伝統を有したサーコン系のイベント、すなわち理論と言語を手がかりにSFの可能性を模索することを旨とした催し物における、合宿企画の会場においてなされたものだという。
       そもそもSFセミナーというイベントは、「東京SF大全」が模索してきたような理論と思弁を中心に据えることでSFの可能性を探る試みを一貫して持続させてきた催しである。
       そして、おそらく「太陽の帝国」のモデルとなっているであろうSFセミナー2010は、20年ぶりの東京でのSF大会の前夜祭的な雰囲気が色濃いものであった。実際にSFセミナー2010では、「太陽の帝国」の作者と一緒にその小説について語るというパネルも存在したというから、「太陽の帝国」がSFセミナーへの応答であると読むのは間違いではあるまい。
       しかし「太陽の帝国」の記述は、SFセミナーの会場における応答から、バラードという固有名を介することで、海を越えた上海へと一気に飛躍する。そしてこのテクストは、上海という「外部」から、東京を逆照射することで、それ自体が優れた東京SFでありながら、来る東京でのSF大会に向けての批評ともなっている。

       語り手によればバラードとは、「上海の死に立ち会った一人」であるという。「終わる世界、滅びゆく人々の姿」に取り憑かれた作家と、その似姿たる『太陽の帝国』の主人公、ジム少年の足跡を追いながら、語り手はバラードとジムの類似性と差異、そして(日本軍の)収容所を通じ、「思春期を迎え、大人の精神の基礎を学んだ」バラードの、矛盾した記憶の性質と脅迫観念について説明する。そこから記述は、多分に虚構的な「バラードの初期の短篇」の描写へと、緩やかな移行を遂げていく。
       「太陽の帝国」内の「バラードの初期の短篇」は、それ自体が枠物語の一部に過ぎないのか、それとも間接話法を通じたバラードへの忸怩たる妄念の表出なのかが、意図的に混同した形で描かれている。それゆえ語りの内部で言及される「バラードの初期の短篇」も、その梗概は「バラードらしさ」の典型をなぞるように見せかけながらも、その実、過剰なまでの情緒を身にまとうことを余儀なくされている。
       ただし、ここでの「バラードの初期の短篇」はまったくの虚構であろうと、後の段落ですぐさまそうした事実が仄めかされることで、テクストの入れ子構造はさらなる混濁を見せ始める。
       語り手が「バラードの初期の短篇」について「メールで問い合わせ」をしたという「セミナーで同席した、バラードの翻訳者の人」が誰であるのかは知る由もないが、「東京SF大全」内で公開されたバラード「終着の浜辺」論(増田まもる)を参照すれば、この「バラードの初期の短篇」の虚構性が際立って見えるのは間違いない。

      死せる大天使の坐像に入口を守護された巨大ブロック群のことを考えながら、トラーヴェンは忍耐強く彼らが話しかけてくるのを待った。その間も、遠くの岸辺では波が砕け、炎上する爆撃機が夢の中を墜落していくのだった。


       「終着の浜辺」を論じた増田まもるは、同作品の末尾を上記のように訳出している。この引用文に顕著なように、バラード作品において、テクストの運動性は夢や記憶の内部に取り込まれ、無時間的なものとして再構成される。そのためバラードの作品において、作中人物はいわば物質としての「死者」が体現する無機質性にこそ突き動かされることとなる。
       これは現代に特有な事例なのか。そうかもしれないし、またそうでないとも言える。
       「太陽の帝国」内では、記憶の集合体としての歴史性、そして「大躍進2.0」と呼ばれる、グローバル市場を背景とした文化帝国主義と、それに関連したシミュラクルの問題が語られる。ここからバラード本人の『太陽の帝国』に立ち返れば、ブライアン・オールディスの「リトル・ボーイ再び」のように、人間の実存が剥き出しとなった「例外状態」(アガンベン)をショーとしてスペクタクル化した状況があるとすると、バラードの作品はそうしたスペクタクルを希求する強迫観念そのものに焦点を当てているように見える。
       だが、スペクタクルを基体とした「下り坂カーレースに見立てたジョン・フィッツジェラルド・ケネディ暗殺事件」のような作品においてさえ、ショーアップの模様は無機質的に描かれる。そこには、消費社会が喧伝する、祝祭的空間への素朴な称揚は見られない。
       吉見俊哉は『都市のドラマトゥルギー』で、近代の「博覧会」に代表される祝祭的空間の成立に、いわば「異界」を見出したが、バラードはさらにその内奥に分け入り、祝祭によって称えられる「死者」の実相を取り出そうと試みたと言えるだろう。
       だからバラードの描き出す祝祭は徹頭徹尾、静的なものだ。いやこうした静的な無機質性に、バラードは(おそらくアラン・ロブ=グリエとも共鳴するだろう)強烈な官能性の「まなざし」を差し向ける。だからこそ、バラードの描く「死者」はある種の審美性を帯びた形で、読み手に迫ってくることになる。
       そして「太陽の帝国」と題された短編は、こうした「博覧会」としての「異界」における、「死者」とのエロティックな交信を、バラードを読む「ぼく」の立場から再確認したものとして結論づけることができる。
       「太陽の帝国」がその末尾に連なる「《ユートピア的想像力》をテーマにした、古今の作品の二次的創作」シリーズは、今まで連綿と〈SFマガジン〉誌上で書き連ねられてきた。「一九八四年」(ジョージ・オーウェル)、「愛の新世界」(シャルル・フーリエ)、「ガリヴァー旅行記」(ジョナサン・スウィフト)、「小惑星物語」(パウル・シェーアバルト)、「無何有郷だより」(ウィリアム・モリス)、「すばらしい新世界」(オルダス・ハクスリー)、「世界最終戦論」(石原莞爾)、「収容所群島」(アレクサンドル・ソルジェニーツィン)と、ダルコ・スーヴィンが『SFの変容』で記したようなSFの源流としてのユートピア文学の系譜をたどり直し、さらにその先へと突き進んでいく。
       しかしながら、やがて戦争と虐殺、収容所の問題が現前してくるにつれ、SFの根源への沈潜を続けるうちに、意識的な抑制をもってテクストの内に埋没させられていた「ぼく」の位相は変転を続け、ついには「太陽の帝国」をもって、剥き出しのまま表出させられることになる。

       アガンベンの『アウシュヴィッツの残りもの』にも記されている通り、二〇世紀以降、「例外状態」の有様を最も鮮明に突きつけてくるのが収容所という形象だ。佐藤哲也は収容所文学の傑作である『妻の帝国』において、そうした現在を「東京郊外というわたしの個人的な現実に、強制収容所という20世紀的な現実を重ね合わせ」(「Anima Solaris」の著者インタビュー)たものとして描き出したが、そうした流れで言えば「太陽の帝国」は、ここで佐藤の言う「わたしの個人的な現実」を、いわば再帰的にバラードという固有名を経由することで、文学とSFをめぐる想像的な伝統、そして大文字の歴史性が交錯する地点に出会わせようとした試みだと言うことができる。
       そして、奇しくもそのバラード観は、「太陽の帝国」内に登場する「SFセミナーの合宿」のちょうど前年に行なわれた「SFセミナー2009 〈合宿企画〉「スペキュレイティヴ・ジャパン」バラード追悼と読書会」(〈科学魔界〉52号、TOKON10にて頒布予定)で語られた内容とささやかな照応を見せているように思われる。SFセミナー2009において、『太陽の帝国』がいかように語られたのかを見てみよう。

      永田弘太郎:私が思うのは、バラードを読んでいて、『太陽の帝国』を読んだ時に、何を書いているのかがわかっちゃったということ。結局、あの人は収容所のなかの話をずっと書いているんですね。(中略)強制収容所のなかは時間がない世界。永遠の時間を持った世界が彼らの前に現れる。あと、自分たちが自由にあるためにはどうすればよいかが語られる。それには狂気にならなければならない。強制収容所の世界では、狂うことが自由になる方法だという。それに、死の力を借りることで自由になることができる。バラードというのは、そういうところで、そういうものを通して、自分たちが置かれている強制収容所から出ようとしているところがある。強制収容所のイメージが現代社会にイコールとなっていくのが、バラードがだんだんやってきたことだ。(後略)
      来場者:バラードは収容所から抜け出そうとしたというか、未だに抜け出せていないんじゃないですか?
      増田まもる:外へ出ようとはしてはいない。
      藤田直哉:ユートピアなんですよね?
      増田まもる:そう、ユートピアなんだよ。
      永田弘太郎:ユートピアであってはいけないんだけど、ユートピアになってしまうところが、小説を生む原因になったんじゃないの? どちらかに決定してしまっていたら、小説は書かなかったと思うのね。
      増田まもる:あるいは、『太陽の帝国』でトラウマみたいなものにケリがついてしまったら、もう書かなかったと思う。ケリがついていない。むしろもっと加速しなければならないという何かを得たのだと思う。(後略)
      (理解を促すため、本引用では一部を省略し、発言者名を明確にした)


       ユートピアとしての収容所。故郷としての敵国。名を与えられていない「来場者」の発言の重みが響き渡る(発言の記録・編集に関わった作業者として言えることは、不可思議なことに、テープ起こしをしていると、この台詞だけが誰の言葉でもあり、また誰の言葉でもないように聞こえ、判別が不可能だったことだ)。
       「太陽の帝国」の語り手の認識は、ここでの討議の地平と不思議な照応を果たし、バラードという固有名を通じて、生と死の端境をさまよい、虜囚として暮らした時代を最も幸福な日々、恐れながら「どうしようもなく惹きつけられる」ものとして説明する。
       増田まもると柳下毅一郎は、「時間の墓標 J・G・バラード追悼」(http://speculativejapan.net/?p=102)において、『太陽の帝国』執筆時の上海を、「おそらくは世界で最も頽廃した土地」であり、「野垂れ死にを余儀なくされる人」と「ものすごく華やかなナイトクラブで遊び惚ける特権階級」という2つの全く異なる世界が、放埒と死と病を媒介として重ね合わされていた世界だったという意味のことを語った。こうした多重性が明らかになると、「異界」をめぐる「まなざし」は否応なく混交を強いられることになる。
       「太陽の帝国」の記述は、上海のスノビズムがある意味において加速度的に進行した状況を背景に置くことで、バラードの読み直し(リ・リーディング)を通じ、やがては「死者」としての「ぼく」の召喚へと行き着くことになる。

       しかしながら、「バラードが描いた朱鷺色の砂漠(ヴァーミリオン・サンズ)」に比べ、「ぼく」が心に描いた「砂漠」は、単なる「きめの荒い黄色い砂地」に過ぎない。そして、その「ぼく」を成立させた、シミュラクルの原型たる「上海」を遡って語り手が幻視したのは、「ぼく」そのものが抹殺された現在が到来していた可能性である。「太陽の帝国」に至る連作を追いかけてきた読者であれば、ここでの「ぼく」の消滅の可能性が、すなわち、大文字の「歴史」そのものの崩壊の可能性でもあると理解することができる。

       「太陽の帝国」では、「八月に船堀で行われるSF大会の実行委員」でもある「批評家の友人」が漏らす、「東京SF大会と銘打って、東京にちなんだものにする予定」であったはずの「今年二〇一〇年の大会」が、中国に、そして上海に飲み込まれてしまった模様が語られるが、ここを短絡化し、中華思想の現代的表出への恐怖と読んではならない。むしろ、「ぼく」が消滅するひとつの未来として、心の原風景すらすでにシミュラクルと化してしまっている私たちの生それ自体が、すでにまったくの虚構となっている事実の、SF的な表現だと読まなければならないだろう。
       筆者は「太陽の帝国」が掲載されたものと同じ号の〈SFマガジン〉において、『都市のドラマトゥルギー』についての短評を介し、「「東京SF」にも変容の時が訪れようとしている」と書いたが、ここでの「変容」の兆しを「太陽の帝国」内の記述に読み込むことは、牽強付会に過ぎるだろうか。

       だが、バラードの『太陽の帝国』が型どおりの私小説とはまったく異なるように、「太陽の帝国」を書き手である樺山三英の私小説と読むことは、テクストの奸計にはまってしまうことを意味する(これはレトリックではなく、素朴な私小説的としての読みは、語られる「父」の在り方をはじめ、テクスト内の仕掛けによってことごとく裏切られることになる)。現に、「太陽の帝国」における「ぼく」が「樺山三英」であるとは、どこにも明記されていないではないか。
       つまり、この「ぼく」は、取り替え可能な、すべての「ぼく」と等価なのだ。

       だから、思い切って断言してしまおう。「太陽の帝国」は未来に向けて読まれるべきテクストだ。
       それゆえに、
      「それで、次は何をやるつもりなんです?」
       この問いかけは、私たち皆に投げかけられたものなのだ。
       いよいよ目前に迫った東京でのSF大会。そこで、私たちは「何をやるつもり」なのか?
      (岡和田晃)


      10.11.26追記:本稿はカーテンコールの挨拶文、他のカーテンコールの原稿とは独立して書かれたカーテンコール用の原稿です。
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      東京SF大全41『TOKON8』
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         SF都市の宴


         初めてSF大会に参加したのは二〇歳になった直後の夏、一九八二年のことだった。TOKON8である。SFは<拡散と浸透>の時代が爆発的に拡大しつつあったころで、ハヤカワSF文庫、創元SF文庫、サンリオSF文庫はもとより、集英社のワールドSFの刊行も始まっていた。後に大ヒットする『超時空要塞マクロス』のデモフィルムが最初に放映されたのもTOKON8だった。
         一般に千葉県は首都圏と思われがちだが、私(と朱鷺田祐介)の出身地は、四年前に創刊されたサンリオSF文庫の第一陣が、二件しかない本屋の一つ店頭にそっくり置かれたまま(一九八八年まで)になっているような辺境だったから、TOKON8の会場に足を踏み入れた瞬間に解ったことは、ここはSFの都市国家なのだという事実だった。
         SF大会とは、単なるコンベンションではなく、SF都市の宴だったのである。
         以来、私にとっては東京での生活そのものがSFと化していた。SF大会が一個の都市国家の宴である以上、年一度のお祭りとして終焉するはずもなく、日常を蚕食するようにして拡大することは必然的な結果であったからだ。TOKON8は、翌年にはTOKON大阪大会、翌々年にはTOKON蝦夷大会と擬態を繰り返して成長する怪物のように思われた。
         <拡散と浸透>の時代と言われながらも、当時はSFと主流小説との境界は比較的はっきりとしていた。TOKON8の直前くらいに出版された『SFセミナー』(集英社文庫)で、小松左京さんは、現代SFを「科学文明・宇宙時代の人類を、そこで生きる一個の生身の人間の側から文学の方法で描く試み」と定義した。当時は、私の小松さんの言葉が正しいと信じていたが、二十八年後の今日、SFは当時の姿から大きく変容している以上、小松さんの定義だけでは、主流文学との境界線が消失した現代SFの全てを論じることは容易ではなくなってきているようだ。
         現代SFの新しい定義が必要とされていることは確かだった。それは新しい文学理論の確立と同義でもあるだろう。
         しかしSF都市の宴に引き込まれて右往左往していた二〇歳の私には、二十一世紀のSFは<抽出と凝固>の時代を迎えたなどと主張してSF評論に関わるようになろうとは、全くのところ思いもよらぬことだったのである。 
        (礒部剛喜)
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        東京SF大全40『デュラララ!!』
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           成田良悟著『デュラララ!!』はアスキー・メディアワークスの電撃文庫レーベルより2003年に第1巻が発行され、2010年までに8巻が刊行され継続中の物語だ。
           この物語は、池袋における、生ける都市伝説・首無しライダー(女)を軸に、一風変わった一般市民に見える怪人たちの、何組かの三角関係が回転し、絡み合い、噛み合う様を、スピード感ある群像劇として描いている。
           軸になる首無しライダーは、切り取られ持ち去られた自分の首を探す放浪者だ。
           主要な三角関係の第一は、池袋の高校に通う男女三人組で、お互いに好意を抱いているのだが、実はそれぞれが池袋の闇の世界における集団と関わりがある。一方にダラーズと名乗る目的不明・構成員不明・リーダー不明・旗幟不鮮明のグループが暗躍する。ダラーズが正体不明、色で言えば「保護色」の集団とすれば、旗幟鮮明なカラーギャングは抗争、非合法商取引という目的方法ともに明確な集団で常にどこかと対立する。そこに姿なき『切り裂き魔』集団がいかなる理由があってか、抗争に介在してくる。組織はそれぞれの敵からの攻撃によって自動的に抗争を始める。第一の三角関係の高校生たちは友情を守ろうとするが、組織は自身の意思で彼らを抗争に巻き込む。
           主要な三角関係の第二は、裏稼業に生きる情報屋と闇医者と喧嘩屋の青年たちである。愛多憎生(可愛さ余って憎さ百倍)の末に犬猿の仲である。
           彼ら七人を中心に怪人たちが毎回登場しては、暴力の嵐が吹き荒れるのが、このシリーズの特徴である。
           彼ら怪人の特徴は、自他の界面が定まっていない、時に人間としてのタガが外れているところにある。狂言回しとなる首無しライダーなど、人の形の中身が漏れ出してくるなどの象徴性を抱えているし、ほぼ主人公の高校生・竜ケ崎帝人は歳相応にガラスのようにもろくも繊細な感受性と透明な正義感を抱えながら、闇社会における力と関わりを持つ。この内面のこわれやすさと、外界との境界の剣呑さがこの作品の特徴であり、それは、都市と個人とのインターフェイスの問題を表していると、私は考える。
           繁華街・悪所という観点で見ると、新宿と池袋は似ている。違う所は、新宿は「ここから先、郊外が始まる」街であるのに対し、池袋は「ここから内、都会が始まる」街だ。つまり、新宿が田園への出口なのに対し、池袋は都会への入り口だ。
           例えれば、池袋は都会の渚。田舎から流れてきたコアセルベートは生物として環境とのインターフェイスを確立するために、殻を被ったり、刺を持ったり、時にははじけて外部を呑込んだりして、確固たる生物としての独自性を獲得していく。
           壊れやすく軟らかくもろい内部を抱えて、過酷な環境で生きていく界面や表象を獲得する。しばしば、その過剰適応が常識のタガの外れた怪物に彼ら青少年を変身させる。
           暴力に支配された街。現実の池袋はともかく、本作中の池袋はそういう街だ。それはしかたない。なぜなら、ライトノベルの読者に性的充足は禁止されているから。エロスの常識的健全成長を外的規範にすれば、読み手の欲望はバイオレンスのエスカレーションを求める。この作品では性愛は禁忌。ゆえに徹底的に壊す。純愛と暴力。その歪みこそがこの作品の味わいであり、そして規範に拠って立つ都市・東京の歪みをも浮かび上がらせる。

          (鼎元亨)
          | 東京SF大全 | 23:35 | - | trackbacks(0) | - | - | ↑PAGE TOP
          東京SF大全39「とらんぷ譚」
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            「とらんぷ譚」(小説・中井英夫・連載1970〜1978・一冊本初刊行1980)
            (書誌情報は複雑なため省略。現在は創元文庫版「中井英夫全集3とらんぷ譚」と講談社文庫の「幻想博物館」「悪魔の骨牌」「人外境通信」「真珠母の匣」4分冊が入手可)


             伝説のミステリ作家にしてカルト的人気を誇る幻想文学作家。中井英夫作品と東京は切っても切れない。田端に生まれ育った中井はまさしく東京の申し子で、多くの作品に何らかの形で東京が登場する。かの代表作「虚無への供物」では、目黒不動をはじめとする「五色不動」などの地名が印象的に用いられていた。「虚無への供物」が文字通りの「東京ミステリ」だとしたら、もう一方の代表作であるこちらは間違いなく「東京SF」と言っていい。
             本全体を一組のトランプに見立て、全54本の短編から成る壮大な連作長編。しかもその物語は13本ずつ大きく4つのストーリー(スペード、クラブ、ハート、ダイヤ)に分かれ、さらにジョーカーにあたる短編2本が最後に付け加えられている。4つのストーリーはそれぞれ独立して楽しむこともできるが、あちこちにちりばめられた小道具でゆるやかに結びつき、全体として1本の長編小説として読むことも出来るという凝りに凝った構成に、初見時は驚愕した。個人的には「虚無への供物」よりもむしろこちらが好みで、日本SFの歴代作品投票では必ず長編部門の一冊として加えるようにしている。
             今回、全体に気を配りながら慎重に読み返してみたが、4つのストーリーの構成がかなり意識的に違えられていることに気付いた。
             第1部「幻想博物館」は、精神病院「流薔園」を舞台に、患者たちの物語がひとつずつ紹介されていくという設定で、各短編の独立色は強い。だが読み進むにつれて、個々の話が影響し合い、ひとつの物語に溶け合っていく。物語の舞台は、慎重に「どこともしれぬ場所」に設定されているが、よくよく読んでみるとあちこちに「世田谷」や「茅ヶ崎」などの地名が顔をのぞかせる。最後には我慢できなくなったようで、かなり重要な場面で「T**自然動物園」なる場所が登場する。これはどうみても「多摩動物公園」のことだろう。
            東京から逃れることはとても無理だ、そう思い定めたのだろうか。第2部「悪夢の骨牌」では、非常に印象的な形で東京の各地が次々と登場する。「緑の唇」では、瑠璃夫人の回想が、ほとんど香具師の口上のように過剰なものとなっていき、戦後間もない池袋から浅草に至る街並みがまるで魔界のごとくに描かれる。序盤の「アケロンの流れの涯てに」では、地下鉄工事のトンネルに入りこんで、築地の三原橋近くに出ると、そこは昭和9年だった…という展開。タイムトラベルやエスパーが次々と登場し、最後は圧倒的な「時間嵐」の描写と共に幕を閉じる。幻想的な演出を施されているものの、本書の4エピソードの中では飛びぬけてSF色が強い。ストーリー的にもはっきりとつながっており、まとまった1本の長編と言ってもいいだろう。
             続く第三部「人外境通信」は、ストーリーの結びつきがもっとも弱く、小道具を手がかりにイメージの尻取りのような形でつながっていく。第4部「真珠母の匣」にいたっては、ストーリーはほぼつながっているものの、幻想的要素がほとんどなく、困惑させられる。一見、それぞれに弱点がある。ここで終われば腰砕けだろう。だが、最後の2篇のジョーカーに至り、すべての物語が有機的につながり合ってひとつの物語になっていること、4つの物語が精巧な企みによって影響し合っていることに気付かされる。すべては計算づくなのだ。
             全体を通して一本の物語と考えたときに、「とらんぷ譚」は妄想の物語であることが分かる。タイムマシンや宇宙人、超能力などのSF用語も頻繁に登場するが、その多くは妄想と区別がつかない形で描かれている。そしてそれは閉じた妄想にとどまらず、外側の世界に大きな影響を与えていく。なぜか。「とらんぷ譚」は日本の十五年戦争を巡る物語でもあるからだ。国家とそれに取り入る詐欺師たちによって仕立て上げられた「大東亜共栄圏」および「満州帝国」という見下げた妄想に付き合わされる不条理。対抗するためには、自身も強い妄想を抱くしかない。中井がそうした強い決意と共に戦時を生き延びてきたことは、戦中日記「彼方より」を読むとよく分かる。
             妄想は個人の脳内にとどまるものではなく、常に外側の世界を侵食し、自らの領域を広げようとする。SF用語が頻出するからではなく、こうした物語全体を貫く思想に、強固なSF的想像力を感じさせられる。逃避ではなく対抗手段としての妄想。「とらんぷ譚」は妄想と妄想がぶつかり合い、闘いを繰り広げる物語なのである。
            (高槻真樹)
            | 東京SF大全 | 20:28 | - | trackbacks(0) | - | - | ↑PAGE TOP
            東京SF大全38『東天の獅子』
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              『東天の獅子』(夢枕獏)


              『キマイラ』シリーズ、『魔獣狩り』シリーズなどのベストセラー作品を連発し、その印税で豪邸を建てるなど、夢枕獏は早くから「勝ち組」街道を驀進し続けてきた。さらには代表作と言ってよい『陰陽師』シリーズが映画化されるという僥倖にも恵まれ、「SF作家」にして「国民作家」というウルトラSF級のお伽噺を自ら演じてみせ、世の多くのSF作家の嫉妬を一身に浴びもする。そしてまた、高額納税者の作家ランキングでは、有名ミステリ作家と肩を並べて、ベスト10入りを果たすことに成功する。現在も複数の連載作品を抱えて多忙な執筆生活を送る彼にとって、「SF不況」という言葉など存在しないかのようだ。「日本SF新人賞」「小松左京賞」の休止という峻厳な現実を、涼しい顔をしてやり過ごすそんな夢枕獏が、目の上のたんこぶのごとく苛立ちを覚えてやまないのは、いまや俳優大和田伸也の親族ただ一人であるらしい。「大和田獏ってウザいんだよね」

               「大和田獏」と「夢枕獏」。なるほど似ていると言えば似ているし、違うと言えば違うし、栃木県が茨城県にやるせなくも抱いてしまう敵意に似たものなのかもしれないが、当事者同士にしかわからぬ鏡像への、微かな、だが拭いきれぬ憎悪を、小説家らしく昇華せんと、小気味良い復讐劇よろしく、夢枕は大和田への複雑な想いを、一人称を用いた長編作品に仕立て上げようと奮闘しているという。作品のタイトルは、ずばり、『バクとボク』。

               なかなかおしゃれなタイトルである。と同時にこのタイトルには、作家夢枕獏の存在条件そのものが簡潔に語られているようで、きわめて興味深い。『バク(大和田獏)とボク(夢枕獏)』というタイトルに示された鏡像とのライバル関係の原型は、作家としての夢枕と作家になる以前の素の夢枕の関係そのものにあるのではなかろうか。「米山峰夫」という本名を持つ一人の青年が、「夢枕獏」という虚構の存在へと向けて自らを組織し、鍛え上げていくという、古典的な(あるいはベタな)ドラマに、自意識の懐疑という知的な回路が存在することを忘却したかのように、全身で没入できたという事実のうちに、夢枕獏の栄光がある。

              ここで注目すべきなのは、米山青年によって仮構された「夢枕獏」というペンネームである。一人の無名の青年が選びとったこのユニークな名に一種の熱病の兆候が鮮やかに示されているように思われる。二葉亭四迷、夏目漱石、森鴎外、あるいは三島由紀夫や光瀬龍、栗本薫など、ペンネームを用いる作家は数多くいる。だが、彼らの名と夢枕の名は決定的に違う。漱石や三島は、筆名というもう一つの名によって、自身のアイデンティティを曖昧化し、そうすることで現実や世界を穿つ文学的言葉の実践という戦略を手に入れる。けれども彼らは人間の仮面だけは手放さない。そのような等身大幻想を、「夢枕獏」という名は、軽々と凌駕してしまう。そもそもこの名は人間の名前ではない。その名において、自分が伝説的存在であることを宣言している。「夜郎自大」という言葉が口の端に登る以前に、反時代的な熱病の輝きに対して郷愁にも似た疼きを覚えずにはいられない。

               「夢枕は、懐かしくも、良い漢(おとこ)だなあ」

               とうとうやってしまった。
               「漢」と書いて「お・と・こ」と読ませる荒技を。
               やっちゃったよ。

               それにしてもなんであろうか。「漢」という文字の妖しい艶やかさは。「男」という文字がごく日常的な此岸の地平に属しているとすれば、一方「漢」という文字は彼岸のような究極の高みから、魂の側へと傾斜しやすい人間を誘惑する。男がもう一人の男のただ事ではないふるまいを垣間見た時に走り抜ける官能にも似た戦慄が、周囲の空気を高貴な倒錯の香りで染め上げる。それは排他的な貴族の空間のようでもある。魂を賭けるに足る徴をそれにふさわしく感受するという遭遇の瞬間。例えばそれは、嘉納治五郎が、同郷の女性の前で「猫の三寸返り」という技を披露してみせる志田四郎少年(後の西郷四郎=姿三四郎のモデル)の姿を、偶然目撃してしまった場面が代表として挙げられる。四郎の尋常ではない身の動きに真の「武道家」の気配を察知した治五郎は、三日後、四郎のいる道場を訪れ、四郎との稽古を渇望し、そのチャンスを手に入れる。

               治五郎と四郎の勝負は、白熱を押し殺しつつも、底流には緊張感があふれる微妙なものとなる。四郎という実力者と組んでみて初めてわかる四郎の柄の大きさを治五郎は直接肌で感じ取る。「たとえ、闘ったとて、この志田四郎の実力をきっちり受け止めることができるだけの器量の持ち主でなければ、わからぬ部分であった。/今、この道場で、それがわかっているものが、何人いるか。/道場主である井上敬太郎は、むろん、わかっているだろう。/あとは、横山作次郎と、そして自分くらいではないかと治五郎は思った」魅惑的と言えば魅惑的な、エリート臭さが鼻につくと言えば鼻につく、そのような平凡人とは一線を画す、神々しい貴族の世界が現出している。夢枕獏の『東天の獅子』は、貴族の世界の快楽を体験したいという反時代的な欲望に貫かれている。このような欲望の実現は平成現代では、とうてい許されるものではない。『東天の獅子』が「東京SF」たる所以である。

               夢枕は「まえがき」で次のように書く。「柔道の創始者、嘉納治五郎。/姿三四郎のモデル、西郷四郎。/講道館四天王のひとり、横山作次郎。/柔道王国久留米の中村半助。/大東流合気柔術創始者武田惣角。/仲段蔵、佐村正明、西郷頼母近悳、好地円太郎、照島太郎、松村宗棍、大竹森吉等々――きらびやかでなんという凄いメンツがこの時期の日本に生じたのか」「きらびやかでなんという凄いメンツ」と呼ばれる存在は、センス・オブ・ワンダーをかきたてずにはいられない。幕末から明治にかけての熱い面々が、司馬遼太郎の詩心を鼓舞したように、「天才」「異常人」といったこの世のものではない存在に触れて初めて、夢枕獏の言葉は動き出す。『東天の獅子』の「まえがき」には「物語の力について」というサブタイトルがつけられている。「物語とは物の怪のことだ」と中上健次が言ったと記憶しているが、夢枕が憑かれているのは「物の怪」であり、「物の怪」の肖像を描き出すことが夢枕の創作上の唯一の動機である。「闇が闇として残っていた時代」の「一種の天才」とされる陰陽師・安倍晴明は、究極的には「晴明」という名が象徴するように、権力の側の人間であるが(彼は朝廷に仕える従四位下の身分である)、異界へと越境できる夢枕作品の主役にふさわしい存在である。

               嘉納治五郎もまた、「柔道」を通して彼なりの「異界」を創出した人物であるように思える。治五郎が東京大学に入学した明治10年、「日本は、近代に向けて凄い勢いで走りだしていた」東京の風景は激変していた。「仏国の巴里のごとき街道に、英国の倫敦のごとき街並」が、銀座一帯に造り上げられ、西洋もどきの風景が日本を浸食していた。周囲のそのような風景に、治五郎は強い違和感を抱く。「日本は、日本でありながら、日本という国をどこかへ置き去りにしてしまうのではないかと思いました」そうとは知らずに、治五郎は、近代日本の勃興期において、反近代を幻視した一群の幻視者の系譜に、我が身を置いている。治五郎よりは年下だが、日本の近代に背を向け、異界の物語に埋没した泉鏡花、失われてゆく江戸情緒に執着した永井荷風。そして日本の前近代にユートピアを幻視した小泉八雲。とりわけ八雲は、治五郎が熊本市の第五高等学校校長の時に英語教師として赴任し、治五郎とは縁が深い。

               西欧との出会いによって覚醒した日本の「知」が取りうる原型的な2つのものに「自然主義小説」と「民俗学」が挙げられる。治五郎が築き上げた「柔道」は、彼なりの「民俗学」であった。地方の農村を歩きまわり、民間伝承の説話を採取し、日本人の原像を見出そうとした柳田國男のように、治五郎は明治維新後打ち捨てられ、顧みられなくなった「柔術」や「古武道」を採取して回る。「柔術など、今の時世には流行らぬよ」とあざけられながら。治五郎が通常の「民俗学者」と異なるのは、過去の柔術や古武道を標本として保存することを目指したのではなく、それらを冷静に分析し、総合させることで、まったく新しい柔道というスタイルを確立させたところにある。この一点で、治五郎は民俗学者のイメージから身を引き離し、SF作家の相貌を身に纏うことになる。彼は、いうなれば、コラージュの技術者なのである。「死に体」ともいる過去の遺物を採取し総合し、新しい命を作りだそうとするその姿は、メアリー・シェリーが描いたフランケンシュタイン博士のようである。

               治五郎が幸福だったのは、「富国強兵」という時代のリズムと同調できたことであった。西欧列強の強大さを見せつけられ、おのが非力を克服しなければならなかった近代日本に同調するかのように、治五郎は自分の「小さく、痩せた身体」を恥じ、そのコンプレックスを柔道によって克服しようとした。夢枕獏は「明治という時代であるからこそ、このような人物が輩出された」と書くが、『坂の上の雲』(司馬遼太郎)の時代の欲望を忠実に体現してみせたのが、嘉納治五郎であった。彼は近代日本のナショナリズムを幸福に生きた。あるいは、ナショナリズムという熱病を幸福に病んだ、と言った方が正解かもしれない。それは麻薬の快楽にほとんど似ている。

               木村政彦という「“鬼”と呼ばれた柔道家」がいる。彼は「講道館柔道史における異能人の血の系譜上に生れた人間」である。木村は言う。「強さというのは、一種の麻薬です。そのためには、自分らは狂ったようになってしまうんです。何でもできるし、どんなに辛い練習であろうと、それに耐えられてしまうんです」ここには垂直に燃え立つ焔を、生の環境としてしまった者の痛ましいまでの甘美な快楽が露呈されている。そしてこの燃え上がる焔の熱さは、明治の熱さであり、高度経済成長時代の熱さであり、そして太平洋戦争下の総力戦体制の熱さでもあろう。

              まどろみと安らぎの「水」ではなく、屹立し闘争する「火」。荒ぶる「焔」を模倣することに疑いを持たぬ、そんなはた迷惑で魅力的な男たちが『東天の獅子』には犇めきあっている。夢枕は熱い。ことによると、この夏の異常な猛暑は、夢枕獏がTOKON10にメイン・ゲストとして参加することへの前祝いかなにかではなかろうか?連日、新聞・ニュースの話題を掻っ攫うほどに、気象天候を夢枕化してしまう夢枕獏は罪深いほどに熱い漢だなあ。TOKON10が開催される8月7日8日の東京都江戸川区は、埼玉県熊谷市を青ざめさせるほどに暑くなることは確実であるから、覚悟して参加されたし!
              (石和義之)
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              東京SF大全37「塵埃は語る」(『少年科学探偵』より)
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                カーテンコール

                (児童文学・小酒井不木・1926年) 


                (『小酒井不木探偵小説選』(論創社「論創ミステリ叢書8」)
                   (引用は本書によった)

                (〈子供の科学〉・1926年 → 『小酒井不木全集 第13巻 探偵小説短篇集』(改造社)・1930年 → 『少年科学探偵集』(平凡社「少年冒険小説全集」)・1930年 → 『少年科学探偵』(春陽堂少年文庫)・1932年 → 『紅色ダイヤ』(世界社)・1946年 →『少年少女世界の名作文学 第48巻』(小学館)・1967年 → 『小酒井不木探偵小説選』(論創社「論創ミステリ叢書8」)・2004年)

                 誰しも「原点」がある。
                 あなたにとっての原点は何だろう?
                 私、宮野にとっては、この「塵埃は語る」である。小酒井不木による『少年科学探偵』シリーズの中の一篇だ。1961年生まれにしては、ずいぶん渋い、とか言われそうだが、もちろんそれなりの理由がある。
                 小酒井不木(1890年〜1929年)は日本における推理小説の草分け的存在である。江戸川乱歩にも大きな影響を与えた。この『少年科学探偵』シリーズは特に評価が高い。小学館の『少年少女世界の名作文学 第48巻』にも収められていて、宮野の世代でも手に取る機会の多い作品である。
                 主人公、12歳の塚原俊夫くんは、麹町に住んでいる。天才少年である彼は、科学知識と持ち前の推理力を駆使して難事件を鮮やかに解決し続ける。俊夫くんに探偵になることを勧めたのは、赤坂の叔父さんだ。
                 別に麹町でなくとも、赤坂でなくとも話は成り立つ気もするが、作中には東京の具体的地名がいちいち示される。
                 なぜだろうか?
                 小酒井不木は、この作品を発表する4年前、雑誌〈新青年〉1922年2月増刊号に載せたエッセイで次のように書いていた。

                 ある探偵小説の中に「紐育は世界中で最も安全な隠れ場所である」と書いてあった。倫敦にいると、スチーブンソンの書いた『新アラビア物語』の中の話も無理でないと思った。これに反して東京あたりではどうも奇怪な、大きな犯罪が事実ありそうにも思えぬし、また東京を背景として小説を書いてもさほど面白くなかろうと思う。
                                 (「科学的研究と探偵小説」)

                 
                 さほど面白くなかろう……それでも、東京を舞台に作品を書いた。いや、だからこそ書いたのだ。そして、面白くするために工夫を凝らした。
                 更には、東京の地名が印象に残るようなストーリーを組み立てることを考えた。多分「塵埃は語る」は、そのひとつなのだ。
                 誘拐事件に巻き込まれた俊夫くんは、目隠しをされたまま自動車で連れ回され軟禁される。軟禁場所では汽車の通る音を聞き、また、雨戸の節穴から寺の屋根と門を見る。
                (注意! この先、論の展開のためにやむを得ないネタバレあります。)
                 再び目隠しをされ、連れ回された後に解放された俊夫くんは、一味の隠れ家を見事につきとめる。彼は隙をみて軟禁場所から塵埃(ほこり)を持ち帰っており、それを顕微鏡にかけて言うのだ。
                「塵埃(ほこり)の中に、小麦の粉とカルシウムと粘土の粉とがまじっているのです。ですから製粉工場とセメント会社が近くにあって、しかも、鉄道が通っているところです」 
                 それに、刑事がこう応じる。
                「それなら、日暮里です」
                「では、日暮里のお寺を捜せばよい」
                 
                 かくして、一件落着。
                 先のエッセイで、ハドソン河畔にポーの小説を、ベーカー街にシャーロック・ホームズを、巴里の街にルコック探偵を思い浮かべる「この上ない楽しさ」を述べた小酒井不木である。その楽しさが東京でも実現できないかと考えたのだろう。
                 その試みは成功した。私事で恐縮だが、地方出身の宮野が初めて意識した東京の地名は「日暮里」だった。この作品とともに、記憶に焼きついた。いまだに電車に乗って日暮里のあたりを通り過ぎる時は、「ここは、俊夫くんが軟禁されたところね♪」と思ってしまう。 
                 また、この作品は宮野を「SF評論」に目覚めさせるきっかけにもなった。
                「これは嘘だ。顕微鏡だけで、小麦の粉とカルシウムと粘土の粉とわかるわけがない」
                 本をのぞきこんだ宮野の父が、無粋なツッコミを入れてきたからである。
                「近くに製粉工場とセメント会社があるから、それによって推測するということなら話はわかる。その逆は無理だ。しかも、この量で、この時代の顕微鏡で?」
                 それがいかにあり得ないことであるかを、父は小学生の宮野に説いた。その内容はほとんど忘れてしまった。多分、小学生の理解のレベルを超えていたのだろう。宮野が理解できたのは、この話が分析化学を専門とする科学者の父の逆鱗に触れたということだけだった。
                「科学探偵だって? これのどこが『科学』なんだ? 全くのデタラメじゃないか」
                 父の決めつけに「なんか違う」と思いながらも、反論できなかった。そのための言葉を持たなかったのだ。
                 その10年後、大学生となった宮野は、学園祭で、あるSF作家の講演を聴いた。彼は、SFというジャンルの成立について語った。「疑似科学こそ、SFの生命」と述べた安部公房の有名な言葉もこの時初めて知った。「仮説によって日常性から飛翔するのがSFであり、科学はその仮説を形象化するための素材にすぎない」と聞いて、眼から鱗が落ちた。
                「そうか! 『塵埃は語る』はSFだったんだ! 微量物質での場所の特定という仮説を形象化した作品なんだ!!」
                 作品の価値をこのような形で主張できるということに、宮野は深い感動を覚えた。
                 その後に、小酒井不木が日本SFの始祖のひとりとされる人物であることを知った。  
                 そんなわけで、
                 「塵埃は語る」は宮野の原点である。「東京SF」の原点であると同時に、「SF評論」の原点でもあり、執筆活動の原点へと宮野を導いた作品ともなった。
                 これがなかったら、多分、宮野は今、ここにはいない。
                                              (宮野由梨香)


                (日暮里駅)
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                東京SF大全終了 そしてカーテンコールのご挨拶
                0
                   さて、第四十九回日本SF大会、TOKON10の開催も間近に迫ってきた。思えばこの「東京SF大全」も、去年の11月から半年以上にわたって続いている。長いマラソンだった。初めは「一の日会」にちなんで、毎月1の付く日だけ、それも600字程度のガイドを連載していく予定だった。誰も書かなかったら、実行委員の僕(藤田)と小谷真理氏だけで書くことになるかもしれないと覚悟で始めたこの企画、蓋を開けてみたら、とんでもないことになってしまった。小谷さんが『SFマガジン』に書いてくださったように、何か「タガが外れた」感じがある。
                   僕の心配は杞憂だった。SF評論賞受賞者の皆さんや、寄稿してくださった皆さんがた、原稿料も出ない、せいぜい藤田が頭を下げるぐらいしかしない無償の原稿だというのに、枚数は大量にオーバーする、書く日が足りないと言って日にちを追加する、特別企画をどんどん提案する、外部の書き手の方々を積極的に巻き込んでいく、あれも書きたい、あれを書かせろ、と、作品や作家、そして枠の奪い合いになる始末。SFへの愛と、何かを書きたいという気持ちが、本当に執筆者一同から溢れていた。
                   その後、この企画が好評だったのか、熱気が何か役に立ったのか分からないが、『SFマガジン 東京SF化計画特集』の企画も動くことになったのだが、このときがまた大変だった。マガジン誌上なので枠が限られている。枚数を増やせ、数を増やせ、これを入れろ、あれを何故入れないんだと、連日の怒りの激論で、僕はほとんど毎日ずっとパソコンに張り付いて、調整に明け暮れた。それも、刊行されてみるといい思い出であるが、その時は本当に連絡掲示板を開きたくなかった。
                   結局、僕は、「東京SF大全」と、SF聖地巡礼、スーヴェニアブックとが合わさったぐちゃぐちゃの状態で、東京を歩き回りながら、東京SF作品を読んで、評論賞チームと毎日激論をしていたわけだ。これも、『ビューティフル・ドリーマー』みたいなもので、お祭りのようだが、だんだんと疲れてくるのも事実。友引町もだんだんと廃墟になってきて、これはこれでスコーンと抜けて気持ちいいのだが、これ以上続けると東京も廃墟になってしまうのではないかという危惧が囁かれるようになった。「東京SF大全」は、岡和田晃氏作成のリストによると残り360作もあるようである。だが、僕らはもうここで止まることにした。
                   とは言え、以降も、ロバート・フリップを見習い、「スモール・モバイル・インテリジェント・ユニット」的に、なんらかの活動は柔軟に続けていくことだろうと思われる。
                   なので「東京SF大全」としては、これが最後の投稿になる。「カーテンコール」と称して、全員が再び登場し、大会当日までにもう一本、「東京SF大全」をお送りすることにした。
                   最後になりますが、「東京SF大全」を執筆してくださった皆様、企画をしてくださり、書く場所を与えてくださったり原稿を読んでいただいて暖かく見守ってくださった小谷真理・巽孝之両氏、「東京SF大全」をやっているからという言い訳でなんとなく会議をサボっている僕を生暖かく見逃してくれていたTOKON10実行委員会の皆様、細かい原稿とゲラのチェックに根気強く付き合ってくださった『SFマガジン』編集部の方々、そして山岸真氏やタタツシンイチ氏・井上雅彦氏など、「東京SF作品」をわざわざ大量に調べて教えてくださった多くの方々に、そしてまだ世間的には知名度の高くない僕らの原稿にお付き合いいただいた皆様に、深くお礼を申しあげます。
                   祭りの本番はまだこれからですが、お祭り本番への滑走路である「東京SF大全」はこれにておしまい。さよならの挨拶に、カーテンコールをお届けいたします。では、会場でお会いしましょう!
                  (藤田直哉)
                  | 東京SF大全 | 00:42 | - | trackbacks(0) | - | - | ↑PAGE TOP
                  東京SF大全36 『さくらインテリーズ』
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                    (小説・戸梶圭太・2003年)

                    (初出《ミステリマガジン》「さくらインテリーズ」2002年7月号、「志木乃が原プリゾナーズ」2002年10月号、11月号、「神南リベンジャーズ」2003年2月号〜4月号、「新宿サヴァイヴァーズ」2003年6月号、7月号
                    →単行本『さくらインテリーズ』早川書房 2003年
                    →ハヤカワ文庫JA『さくらインテリーズ』2008年)



                     元中学校教師の高木は中学生の買春で、元図書館司書の鳥越はストーキングで、元考古学者の藤守は遺跡の捏造で、それぞれホームレスにまで落ちぶれて、新宿の片隅にある児童公園へと流れ着いた。世代も、学歴も、知的レベルもおおよそ似通っている彼らは、自分たちのことを「さくらインテリーズ」と呼んでいた……という舞台立てからはじまるこの物語。

                     東京の裏面にあるホームレスの世界を主題にした小説なら多々あれど、一切の美化を加えず、いささかの共感も交えず、彼らのことを徹底的にどうしようもない激安人間として描き切ることが出来るのは、やはり戸梶圭太をおいてない。

                     何せこのホームレスたち、自分のことをインテリと名乗っているあたりからもわかる通り、どうしようもない理由で転落したくせに、未だにプライドを捨て切れないでいる。だから、うっぷんのはけ口として、自分よりなお弱い人間を求める。つまり社会のヒエラルキーの最低辺に位置するホームレスのコミュニティの内部にさえ、さらなるヒエラルキーが存在する。“弱者がさらなる弱者を食い物にする”という図式それ自体は、戸梶の小説に一貫している。けれど、この図式が、ホームレスの行動様式の説明に使われるとき、抜きん出たリアリティを発揮していることもまた確か。

                     同じ著者には『東京ライオット』という作品もあって、東京の下町を舞台にした話だという点から言って、むしろそちらを取り上げるべきだとお考えの向きもいるかもしれない。けれども、この『さくらインテリーズ』の何が面白いかと言うと、2002年から2003年のあいだ『ミステリマガジン』で連載していたこの小説が、まだ「格差社会」という言葉も広まっていなかった時期にあって、数年後の東京に色々とリンクする発想をしていた点である。その例をひとつ挙げると、この小説を読めば、一昨年の年末に話題になった「派遣村」の先駆を見ることが出来るはずだ。とは言っても、そこにあるのは、「貧乏人がお互いを助け合う世界」ではなくて、文字通りの意味で「貧乏人がお互いを食らい合う世界」なのだけれども。

                     この『さくらインテリーズ』が、執筆時点から近未来の世界を描いた小説だとするならば、だいたい同じくらいの時期に『文藝春秋』で連載していた『CHEAP TRIBE ベイビー、日本の戦後は安かった』は、昭和史の裏面を描いた近過去小説という意味で、ちょうど対照的な作品だと言える(余談ながら「藤守」は名前だけなら『CHEAP TRIBE』にも登場する)。さらに言えば、“主人公(たち)が、宮城県の架空の土地「志木乃が原」で強制労働をさせられる境遇を脱出して上京する”という物語の筋立ての点からも、両作品はパラレルな関係にある。そして、このふたつの物語の中で、「東京」を代表する土地に見立てられているのが「新宿」だ。

                     例えば、『CHEAP TRIBE』の主人公の沼田永吉は、とある犯罪を犯して収監され、里親に引き取られて宮城に帰る選択を迫られるのだけれど、彼は翻意して、東京に留まることを決意し、タクシーに飛び乗る。そのとき彼が咄嗟に運転手に告げる行き先が新宿なのだ。永吉は、新宿と言ったのはなぜだろう、と自問して、自分にもっとも馴染みのある大きな街だから、と結論づける。新宿こそ東京の中でもっとも東京らしい土地、イメージの中で東京の中心に位置する土地だという意識が、永吉の決断の背後に見え隠れする。

                     『さくらインテリーズ』の場合、物語は、新宿の児童公園で暮らすホームレスたちが、農業を学んで人生の再出発という甘言にだまされて、志木乃が原の強制労働施設へと連れ去られ、紆余曲折あって数年後に帰ってきたら、東京はすっかり様変わりしていた、という一種の浦島譚のおもむきを呈している。『さくらインテリーズ』の描く近未来の新宿では、街頭防犯カメラ網によって、美観を損なうゴミのポイ捨てが厳しく取り締まられる一方で、ホームレスの死体は道にゴロゴロ転がっている。自立支援も生計を立てる手段も奪われたホームレスたちが生き残るには、それこそ路傍の死体の肉を食べるくらいしか道が残されていない。そんなものすごい世界が東京だと言われると首をかしげざるを得ないけれど、実は物語のはじめの方でさりげなく描写されている新宿駅のアナウンス(「――ここは、多くの人が利用する公共の場所です。ここでダンボールを敷いて寝起きをしたり、煮炊きをしたり、物品を販売したりすることは都の条例で禁止されています」)が、少しばかり過激なかたちで現実化しただけだと思えば、理屈は通る。

                     要するに、物語の冒頭には、新宿の一角の児童公園に過ぎなかったホームレスのテリトリーが、物語の最後には、新宿全体へと拡大しているのだ。そして、この現象は、もともと社会の最低辺にあって見えない存在だったホームレスが、正真正銘人間ではなくなって、人肉食いのゾンビとなったのと軌を一にしている。なぜって、そもそもホームレスとは、公共の場所を不法に占拠する「場違いな存在」なのだ。ホームレスのテリトリーとは「いるべきでない場所」だ。ということは、ホームレスが人間で無くなれば無くなるほど、或る意味で、あらゆる場所がホームレスの場所になりうるわけである。こんな具合に、富裕層と貧困層の社会の二極化が極限まで進行して、人間と非人間の分化へと変容した世界としての東京を、この小説は提示する。けれども、いくらカリカチュアライズされているとはいえ、その元となる発想は、あくまでも現実の東京から汲み取られたもののはずだ。

                     それは、端的に言えば、この世にはどうしようもない人間が存在するのだという、ただそのことに尽きる。ここで言う「どうしようもない」というのは、ぼくたちのような「富裕層側の人間」には、認識さえ出来ないほど異質な存在だということだ。戸梶圭太本人の言っていたことなのだけれど、じっさいに東京で、そして日本で起きている犯罪というのは、ぼくたちのような知的階級には想像もつかないほど、陰惨過ぎたり、馬鹿過ぎたり、下らな過ぎたりして、それをそのまま小説にしたところで、逆に「リアリティ」がなくて、読み物として成立しないのだという。「現実は小説よりも奇なり」。だとすれば、そんなにも異質な世界の住人について、美化したり、共感を込めたり、救済したりする物語というのは、かえってうさん臭さが鼻につく。ぼくたち知的階層のすることと言えば結局、何をどうあがこうと、「下層階級なんてこんなものだろう」という勝手なイメージをつくりあげて、それを安全な高みから楽しむ点で変わりないのだから。したがって、ホームレスをゾンビ扱いして大虐殺するこのお話、実は非常に「誠実な小説」だとさえ言える。

                    (横道仁志)
                    | 東京SF大全 | 23:50 | - | trackbacks(0) | - | - | ↑PAGE TOP
                    東京SF大全35『シャドウラン』
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                      『シャドウラン』(ロールプレイングゲーム、ロブ・ボイルほか、1989年/第4版2005(日本語版2007)年)〜


                       いまや人間の神経系を一種の受信アンテナに利用することが可能となった。精神を破壊するある種の情報パターンを、大衆雑誌小説に埋め込むことができる。それは純真無垢な疑いを知らぬ読者の脳を、完全に再プログラム化できるのだ。しかもこうした読者は、そのおぞましいアイデアやイメージを、生涯消し去ることができないままに、保持し続けるのである。(『邪眼(イーヴル・アイズ)』序文、ブルース・スターリング)

                       周知の通り、初期サイバーパンクは「運動」だった。
                       文字通りに革命的なアンソロジー『ミラーシェード』(ブルース・スターリング編)をことのはじめに。
                       『ニューロマンサー』(ウィリアム・ギブスン)に『スキズマトリックス』(スターリング)、それに『ウェットウェア』(ルーディ・ラッカー)に『重力が衰えるとき』(ジョージ・アレック・エフィンジャー)、そして『ヒーザーン』(ジャック・ウォマック)。
                       日本からは、「接続された女」に匹敵しうるキャパシティを誇る『邪眼(イーヴル・アイズ)』(柾悟郎)。
                       サイバーパンクは悲しいまでに儚く、だが美しき黄金時代を築いた。

                       それから……。

                       スターリングが「80年代サイバーパンク終結宣言」を書いて、初期の「運動」に一応の死亡宣告を行ない、ぼくたちがようやく気がついたのと前後し、サイバーパンクは単なる「黄金時代」のエピゴーネンと化してしまった。
                       断言したくはない。が、少なくとも、そう思われている気がする。

                       そして、サイバーパンクとは、まさに東京SFそのものだった。
                       『ニューロマンサー』の「千葉シティ」には、言うならば東京の夢が提示されていた。だが、10年後に書かれた『ヴィーナス・シティ』(柾悟郎)ではそれは横溢する幼児性に支配された美学なき「東京おたくランド」なるザンネンな代物に変貌してしまっていた(ただ、それでもなお、作品の全体からはサイバーパンクの熱が感じられた)。
                       とすれば批判されるべきは凋落を辿る時代性だろう。『ヴィーナス・シティ』からさらに15年以上が過ぎ去ろうとしている今となっては、『クローム襲撃』を目にしても、コンピュータの容量が現代的に見てありえないと愚痴る意見の方が目立つケースすらあったりする(タメイキ)。

                       でも、「エピゴーネン」だと思われているものは本当に「エピゴーネン」なんだろうか? 通説、あるいは時代の風潮において残骸と思われているものの中から、立ち上がってくる要因はないのだろうか。
                       サイバーパンクの遺伝子を受け継いだ作品群は、サイバーパンクを、ただ単にエンターテインメントのガジェットとして消費しただけの駄作として終わってしまったのだろうか?



                       ここに『シャドウラン』というロールプレイングゲームがある。RPGといっても電源は要らない。紙と鉛筆さえあれば遊ぶことができる、ある意味とてもサイバーパンクらしいチープかつリーズナブルなゲームだ。
                       だけれどもこのRPG、初期サイバーパンクの革新性を、そのコンセプトにおいて熱く受け継いでいるゲームのひとつだと言っていい。

                       「5128年ごとに歴史のサイクルが区切られ、2011年12月24日に世界は第六のフェイズに移行する」(高橋志臣による要約)古代のマヤに伝わる神話。その神話が現実となり、サイバーパンクな近未来と幸福な結婚を果たしたら……。
                       これが『シャドウラン』のコンセプトだ。

                       わかりやすさと利益を最重要視する大企業は、リベラリズムの徹底にひた走り、ネイティヴ・アメリカンや失業者たちの自治組織はテロ活動でわが身を燃やす。
                       日本は韓国を唆して北朝鮮に宣戦布告させ、北朝鮮を占領した後、「日本帝国」なる景気のよい改名を果たした次第。
                       その頃、少しずつミュータントが誕生するようになった。世界中のコドモの1%が畸形化して生まれてきた。その姿は――それこそ『指輪物語』に登場するような――ドワーフやオーク、エルフにトロールといった連中に酷似していたという。いつしか、彼らはメタヒューマンと呼ばれるようになった。
                       そして、2011年12月24日。何百人もの新幹線の乗客が、富士山の頂にグレート・ドラゴン「龍冥(リョウミョウ)」の姿を目撃する。
                       翌年、ついにグレート・ドラゴン「ダンケルザーン」がメディアのロングインタビューに答え、魔力の復活と畸形化をベースにした「第六世界」が到来したのだ。
                       第六世界では、住人の1割以上がメタヒューマンへと変貌してしまっている。ネイティヴ・アメリカンの独立国家のように、エルフだけの独立国家ができたくらいだ。あげくの果てにドラゴン・ダンケルザーンは、大統領にまでなってしまう。
                       もうお気づきかもしれない。ここでの「エルフ」というのは、徹底して人種や政治問題のメタファーなのだ。
                       いや、メタファーといったら言葉足らず。『シャドウラン』の世界では、「エルフ」も実在する。だが、「エルフ」も「ドラゴン」も、人種のサラダボウルの一種という意味では、黒人や東洋人とまったく同じ位置づけなのだ。

                       そして、この『シャドウラン』を語るうえで、ジャック・ウォマックの小説に出てくるドライデン・コーポレーションにも引けをとらない、十大巨大企業(メガコーポ)は無視できない。変容した第六世界で、カネと権力に魂を売った俸給奴隷(スレイヴ)たちは、あの手この手でインフラや娯楽を牛耳り、世界を牛耳ろうと画策している。
                       おかげでテクノロジーはたいそう進化し、人々はSIN(いわゆる「国民背番号」)で管理され、コムリンクという装置を埋め込まれて、オンラインに常時接続されている。サイバーパンクならではのガジェットもたんまり盛り込まれている。
                       『シャドウラン』を遊ぶプレイヤーは、こうした暗黒社会の底辺で生きる、デミヒューマンなどのキャラクターに成り代わることになる。
                       彼らは安い賃金で、気ままにその日を暮らしつつ、大企業のエージェント(通称:「ミスター・ジョンソン」)から依頼を受けて、時には「殺し」をも含む「仕事(ビズ)」をこなして日銭を稼ぐ、というわけだ。「簡単な仕事」が、企業の論理と政治に絡むヤバいヤマで、地を這い泥水を啜る生活を余儀なくされていたカスどもが、やむなく世界の命運を握る……。それが、『シャドウラン』だ。
                       
                       面白いのは、『シャドウラン』を遊ぶ際、こうした情報に基づいて、誰かが「遊ばせてくれる」わけではない、ということ。語弊はあるかもしれないが、遊ぶために努力を要するからこそ、下手するとキワモノとも思われがちな独自の設定が生きてくる。
                       『シャドウラン』は複数人のプレイヤーを想定したRPGだけれども、多くのRPGのように、誰か一人はゲームマスターと呼ばれる存在になり、とびっきりのシャドウラン風味の冒険を用意する。
                       もちろん、既製品のシナリオというのもあるけれども、勝手にコンピュータが物語を上演してくれるわけではないので、シナリオをかみ砕いて自分なりに解釈しなければならない、という点は変わらない。それに、既製品もよいが、自分でシナリオをデザインする方がずっと楽しい。

                       ゲームマスター以外の存在は、『シャドウラン』世界で生きるキャラクターを創造し、そのキャラクターを文字通り「演じる」。
                       いちど物語に「参加」したのであれば、そこから先は第六世界の論理で考え、キャラクターの倫理で行動しなければ何も始まらないからだ。
                       しかし一方で、キャラクターの思考や価値基準を理解するためには、プレイヤーは第六世界の論理と倫理を、いちど距離を取って認識する必要がある。なぜならば、私たちは現実世界に身を置いたまま、あくまで自発的に仮想空間を「想像」しようとする立場にあるからだ。
                       ルールはそのための補佐に過ぎず、いわば私たちが作品世界を解釈するための、通訳の機能を果たすものだ。
                       そして、RPGがSFが交わるいちばんのポイントは、まさしくこの想像/創造性にある。
                       言うならば、『シャドウラン』はいわば、巨大な批評的ブラックボックスだ。
                       ブラックボックスを動かす基本的なルールは、『シャドウラン』のルールブックに書いてある。けれども、肝心な部分は、手探りで見つけ出すしかない。
                       社会学者Gary Alan Fineは“Shared Fantasy”で、こうしたRPGの物語構造を、「キャラクター自身としてのリアリティの自覚」と、「プレイヤーとしての自覚」をフレームとして切り分けた。こうしたフレームは絶えず入り交じるかと思えば、互いに違いの論理を翻訳し、説明する必要に駆られるのだ。

                       『シャドウラン』のかような特性は、サイバーパンクのリアリティを復活させるものだ。
                       『シャドウラン』世界では、ヤマテツ、ミツハマ、レンラク、シアワセといった日本の財閥を思わせる大企業が、インフラを牛耳り、テクノロジーの進歩の鍵を握っていると説明したが、彼らのおかげで、最新版『シャドウラン』のキャラクターは、常時、強化現実としてのARに接続することが可能になっている。
                       一方で、望むのであれば、機械に頼らずとも電子マトリックスの結節(ノード)を駆け巡るテクノマンサーとして生きる道を選ぶことも許されている。
                       プレイヤー×キャラクターという二項対立のほかに、外装されたテクノロジーの要素、そしてそれに対するさまざまな位相(文芸としてのサイバーパンク、テクノロジーとしてのサイバーパンク……etc)といったさまざまな位相での解釈を許容する懐の深さが、『シャドウラン』のプレイングが形成するフレームをいっそう豊かなものへ変える。

                       ぼくたちの生きる時代はベタついている。
                       近所のTSUTAYAに出かけるまでもなく、DMM.COMを漁れば格安で『ブレードランナー』なり『JM』なり『マトリックス』なりを観ることができるし、iPhoneのレンズを通せば、推理ゲームだろうとロメロ・ゾンビとの追っかけっこだろうと自由自在だ。Google Earthを駆使すれば、ウクライナだろうがアイルランドだろうが、知らない土地も(外貌なら)わかる。
                       そういった環境を、『シャドウラン』は今一度想像の中に回収し、あり得べき形は何かと再検討させるわけだ。

                       『シャドウラン』と並ぶサイバーパンクRPGの雄として、『サイバーパンク2.0.2.0』がある。これは、著名デザイナーとしては珍しい「黒人」のマイクル・ポンスミスが創造した、『ミラーシェード』の作家たちが築き上げた世界観を、そっくりそのまま構造化させた作品だ。
                       「絵」としてのサイバーパンクを大事にしながら、そのダイナミズムを体感し、観念や言葉を架空世界の設定として解体−再構築させつつ、その初期衝動を可能な限り延命させること。それが、『サイバーパンク2.0.2.0』のコンセプトだったと、ぼくは思っている。
                       『シャドウラン』は逆に、記号としてのサイバーパンクに新しい可能性を招き入れるため、あえてファンタジー文学の記号と織り交ぜて、作り物臭さを塗り替えながら、サイバーパンクそのものの読み直し(リ・リーディング)をはかること。そうした試みなのではなかろうか。

                       だから、ぼくはこう思っている。
                       「運動」として始まったサイバーパンクを、美学として定着させ、ひいては人々の生きる糧として洗練させていった一因は、ほかならぬ『シャドウラン』のようなRPGにあったんじゃないか。
                       たとえば、『シャドウラン』での日本では、再び天皇制が施かれている。このことの意味が、テクスト解釈の次元だけではなく、一種のシミュレーションの形式として、いかなるものかを考えるのは無駄ではないはずだ。

                       もともとその成立時において、SFファンダムや創造的アナクロニスム協会といったカウンター・カルチャーと、RPGのコミュニティは相性がよかった(あるいは起源を一にしていた)。
                       ブルース・スターリングも、『アッチェレランド』でポスト・サイバーパンクの雄として知られるチャールズ・ストロスも、『ジェイクをさがして』で圧倒的な筆力とキャパシティを感じさせるチャイナ・ミエヴィルも、そして伊藤計劃も、もとはRPG畑の出身だ(*)。
                       彼らが『シャドウラン』を直接遊んだかどうかはわからないけれども、間接的であれ、『シャドウラン』の遺伝子とシンクロしているのは間違いないだろう。
                       『シャドウラン』はサイバーパンクが何なのかを、常にアクチュアルな地平で問い直す作品だ。岡田剛『ヴコドラク』のように、『シャドウラン』と共鳴する地平で書かれた作品もある。
                       『シャドウラン』が提示するアクチュアルなシミュレーションは、現代において東京SFがどのような意義を持つのか考えるということと、まさしく同義なのではないかと思う。

                       『シャドウラン』は本当に展開豊富なタイトルなので、実例を挙げたらきりがないのだけれども(個人的には、ブードゥー魔術とバイオテクノロジーの処理が気に入っている)、地政学的に興味深い設定は、コロラド州デンバーだ。ここはグレート・ドラゴンの統治のもとに、プエブロ企業評議会、(ネイティヴ・アメリカンの)スー国、カナダ・アメリカ合衆国、アメリカ連合の4カ国に共同統治されている条約都市だ。
                       ここに、アラン・ロブ=グリエの『反復』の舞台となっているような、米英仏ソの四カ国に共同統治されている戦後のベルリンや、パラレルワールドの東京で、ソ連に占領された東日本とアメリカに占領された西日本のいずれにも属さない、「東京市国」での政治劇を描いた笠井潔「鸚鵡の罠」を繋げることもできるだろう。
                       逆接的に聞こえるかもしれないが、こんな批評性豊かな題材を、一部のゲーマーだけに独占させておくのはもったいないと思わないか。
                       何も終わってはいない。サイバーパンクの精神をもって、新たな表現を紡ぎ出すことはいくらでも可能なのだ。

                      (岡和田晃)


                      (*)たとえば『ハーモニー』など伊藤計劃の作品に至っては、サイバーパンク以前に「なんだか、作者が死んだからすごい(著者が自らの死をもって作品のヴィジョンを実践した)」と理解されている節すらあるのだが、そうした受容は哀しいものだ。彼は死をもって自らの作品を完結させたわけじゃない。むしろ反対だ。彼は、最後まで持って生まれた時間を芸術へ昇華させようとしていた。伊藤計劃が切り拓こうとしていた圏域については、おそらく、今一度(RPGが基体とする)シミュレーションの立場から、考察できる可能性がある。と、ここに書いておくのは、無駄ではないと思う。
                       ちなみにこれは伊藤計劃という「固有名」を特権化せよという主張ではまったくない。伊藤計劃が実践したような、観念の操作だけではなく、観念を成立可能にする社会的要因や身体性についての意識を輻輳的に把捉する必要性が高まっているだろうという意味において言っている。
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