TOKON10実行委員会公式ブログ

第49回SF大会TOKON10実行委員会の公式ブログです。
開催日程:2010年8月7日(土)〜8日(日)
特別掲載:東京SF論「電脳金魚の大冒険」
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                          宮野由梨香

     今、催されている芸能山城組の「第35回 ケチャまつり」(7月29日(木)〜8月1日(日))に行ってきた。場所は西新宿、三井ビル前の55HIROBAである。初日は雨模様だったが、風の音とケヤキのさやぐ音が絶妙な効果をあげていて、屋外ならではの音を味わうことができた。
     西新宿といえば、日本SF作家クラブ発祥の地である台湾料理店「山珍居」にも近い場所である。新宿副都心の高層ビルの谷間……ここで毎年、たとえば「AKIRA」の曲などが芸能山城組によって奏されていることを考えると、なかなか興味深いものがある。
     9か月前、はじめてTOKON10の案内にある「電脳金魚の大冒険」という文字を眼にした時、宮野が思い浮かべたのは『黄金鱗讃揚』だった。芸能山城組が1978年に発表したアルバムに収められていた曲である。アルバムのタイトルにもなってCD化もされている。
     この曲は、「東京SF」である。
     あえて、そう断言する。
     荘重な宗教音楽が、金魚売りの「声」に乗っ取られていくさまは、パロディというのには、あまりに刺激的だった。
     本稿では、土地の固有性と音を通して、「東京SF」を考えてみたいと思う。

                  ○

     坂を登りながら、後輩は言った。
    「東京の地形って、変ですよね?」
    宮野がまだ大学生だった時のことだ。
    もより駅から、大学にたどりつくには、けっこう急な坂を登らなくてはならなかった。登ったとたんに少し下り、また登る。
    「わけのわからない坂が多くて疲れます。……この坂、いったい何ですか? どうして、こんなにいきなりアップダウンするんですか? 京都には、こんな変な坂、ありませんよ」 
    彼女は京都出身だった。
    不注意な宮野は、この時はじめて、東京の地形の特殊性を意識した。
    「確かに、坂が多いわね。ここ地名からして、○○坂だし」
    「そうなんですよ。○○坂とか、○谷とか、○窪とか。東京って、そんなのばかりですよね。ここって関東平野じゃないんですか? 平野って、平らだから平野というんじゃないんですか?」
     この疑問を解いてくれたのが、中沢新一の『アースダイバー』(講談社・2005年)だった。
     縄文海進期には、東京は海がかなり奥まで入り込む、複雑なフィヨルド状の海岸地形をしていた。それによって、現在の東京の構造を解いていく。とてもSF的でエキサイティングだった。「おおお」と眼が洗われるような気持ちがしたものである。
     もちろん、これは神話の一種である。神話もまた、土地の固有性を語るための試みだ。
     ここは、ここであって、他のどんな場所とも交換不可能である。同じ面積の別の場所と取り換えることなど決してできない場所である。
    そういう思いを否定するのが「近代」であったことは言うまでもない。
     だが、「近代」が否定しようとしたのは「土地の固有性」そのものだったのだろうか?
     そこは、もう少し掘り下げて考えてみる必要がありそうである。

                  ○

     カリフォルニア出身のガードルート・スタインは、移住先のパリから帰郷した時、次のように言ったそうである。

    When you get there,there’s no there there.

    これについて、リービ英雄は次のように述べている。
     
     カリフォルニアの自然は、実にショッキングなものである。
     スプリンクラーを止めたらたちまち砂漠にもどる芝生の上を歩きながら、広々とした、雲一つないコバルト色の空におどろく。最初にその下を歩いた日には、その空にこの惑星のものとは思えないほど「異質」でショッキングな美しさを覚えてしまった。(中略)
    there にはthereがない、そこには「そこだ」という実感がない。カリフォルニアに1か月もいればスタインの名言の内容はよく分かるのだ。(中略)
     日本の知識人も、ヨーロッパの知識人も、二十世紀において文化のたどりついた空洞化という意味で「アメリカナイズ」を言うとき、それは実は「カリフォルニアナイズ」を意味しているのではないか。
                           (「『there』のないカリフォルニア」)


     その意味では、坂だらけ、歴史と伝説だらけの東京は、thereに満ちあふれている。
     単なる面積で切り売りされることを、土地そのものが拒むような場所である。
     一方、東京は、かなりの面積の土地を、「埋め立て」によって確保してきたという歴史を持つ。
     埋め立てられたばかりの土地には、thereがない。
     これは、東京を考える上で、非常に重要なことである。
     その東京で生きるわれわれにとっても。

                  ○

     東京はゴジラに襲われた。
     冒頭で船を襲うゴジラは、もちろん「水爆」の象徴である。
     だから、ゴジラは国会議事堂を襲う。日本は世界で唯一、「原爆投下」がなされた国だからだ。それは、世界史上というより、人類史上、大きな出来事であった。
     講談社『日本の歴史』全26巻の冒頭は、次のような言葉で始められている。

     人類社会の歴史を人間の一生にたとえてみるならば、いまや人類は間違いなく青年時代をこえ、壮年時代に入ったと言わざるをえない。
     それは、1945年8月6日、日本列島の広島に始まった。(中略)
     このアメリカによる原爆投下は、ごく短期的には「大日本帝国」の降伏、その敗戦をもたらす決定的な契機となったが、人類が自らを滅しうるだけの巨大な力を、自然の中から開発したという疑う余地のない厳粛な事実を、多大な犠牲を払って結果的に明確にしたという点で、人類の歴史に決定的な時期を画することになった。(中略)
     人類がたとえ多少の犠牲をはらっても、豊かさを求めてひたすら自然の開発を押し進め、前進することになんの疑いも持たなかった「青年時代」は、もはや完全に過去のものになった。広島・長崎への原爆投下によって、人類がはじめて体験した核兵器による被害の恐るべく驚くべき実態を、さらにさらに広く世界の人々に訴え、人類が自らの中に犹爿瓩陵廾をはっきりと抱くようになった「壮年時代」にふさわしく、注意深い慎重な歩みを進め、死滅の危険の元凶の一つである核兵器の廃絶を実現するための条件を広くつくり出すことは、われわれに課せられた使命といわなくてはならない。(中略)
     人類の直面する死滅にいたる危険はこのような兵器だけではない。(中略)
     自然の開発が、自然を破壊して人類社会の存立を危うくし、そこで得られた巨大な力、あるいは極微の世界が人類を死滅させる危険を持つにいたったのである。
          (『日本の歴史0巻』網野善彦『「日本」とは何か』講談社 ・2000年)


     映画『ゴジラ』は、このような時代の科学者の苦悩をみごとに描いていた。
     人類の歴史ということを考えた時、現在が未曽有の転換期にあたることは言うまでもない。これだけ変化の激しい時代が、乱世でなくて何だろうか?
     かつて、民族のサバイバルということを考えた時、多大な威力を発揮したもの。
     近代のシステムが前提とするような、ものの捉え方や感じ方や考え方。それを踏まえた社会システム。
    人類全体のサバイバルということを考えた時、果たしてそれらは有効なのか?
     もちろん、既に答えはでている。
     では、なぜ、我々はそれらをいまだに捨てられないのか?
     それは、「改良」可能なものなのか?

                 ○


     地球にとって、人類とは何なのだろう?
     どうして「近代化」ということは起きたのだろう?
     必然なんだろうか? 偶然なんだろうか?
     かつて、環境問題は「自然VS人間」という図式で語られることが多かった。
     現在は、そのように単純な捉え方をしないのが普通である。われわれが「自然」と認識してきたような、例えば日本における田んぼと里山に象徴されるような風景をつくり上げたのは、人間であることがわかってきたからだ。しかも、どうやら「里山」は荘園制度によって成立したものであるらしい。

     平安時代の大開発によって形成された荘園的世界は、それまでの不安定な集落とは異なり、今日の集落にもつながる安定した集落を出現させた。災害のみをもたらしてきた神=自然は、水などのめぐみをもたらす存在として村落の中心におかれ、慈愛に満ちた菩薩や仏の顔を前面に出すようになったのである。
    (飯沼賢司『環境歴史学とはなにか』(山川出版社・2004年)49頁)
     
     
     言うまでもなく、平安時代は仏教が日本に浸透していった時期でもある。
     この時期の仏教説話こそ、現在のSFと同質のものではないかと宮野は考えたことがある。このことについては、いずれ稿を改めて論じることにしよう。

                 ○

     ガムランの音は、赤ん坊をあやすガラガラの音とよく似ている。
     芸能山城組が奏でる「黄金の雨」という曲を聴いた時に、そう思った。
     赤ん坊が泣いたとする。
     乳は飲ませたばかり。オムツも濡れていない。暑くも寒くもない。
    「何で泣くのよ? 寝てくれないと、私も眠れないのよ また3時間後には『お腹すいた』って泣くんでしょ? それまで、せめておとなしくして、母を少しでも眠らせてよ」
     と言っても、言葉はまだ通じない。
     母は考える。
    「だいたい、この『泣く』って何なのよ? 泣くことによって呼吸器官を鍛えるんだとも習ったけど、そういう機能的な問題とも違う気がするのよね」
     妊娠中に「やはり直立歩行は間違っている」、出産時に「こうまで介助を必要とするなんて、もう種として終わっている」と思った母である。泣きやまない赤ん坊を見て「これらは、すべてセットかもしれない」と気がつく。
     人類はやはり群れを形成する動物なのだ、と思う。単独で育てていて、こんな状態で外敵に襲われたらひとたまりもない。よく通る泣き声は、敵だって聴きつける。敵ではなくて、仲間が来てくれると信じているからこそ、赤ん坊は泣く。
     その信頼の根拠は何か? 
     もしかして、無事、出産できたということにあるのかもしれない。出産が仲間の存在と、「社会」を前提とするのなら、育児環境もそれを前提にしていいはずだから。
     母は、泣いている子を抱き上げる。
    「仲間や保護者が、声の届く範囲にいることを確認したいのかな? ほら、抱っこしたよ。泣きやんでおくれ」
     それで、泣きやむこともあるが、泣きやまない時もある。
    「まだ、何かあるの? もしかして、存在の根本的不条理に向かって泣いているの? それは、母にはどうしようもないわよ。それとも未生怨? 今さら遅いから、あきらめるのよ。解決策は生きている限り無いんだから、気をまぎらして凌ぐしかないわね、ほら」 
     ガラガラを振ってやる。オルゴールつきメリーを回してやる。
     そして、子守唄を歌う。
    子守唄といっても様々ある。いろいろ試してみる。「ヒルダの子守唄」なんてのも歌ってみる(笑)。これも含めて、近代の作者つき子守唄は用途に適さないことがわかる。西洋のものでは、子守唄よりも、むしろ讃美歌の方がいい。パレストリーナも悪くない。
     しかし、いちばん寝付き率が高いのは、日本古謡であることが判明する。
    中でも「道端の黒地蔵」という、単純なメロディが山の手線構造でエンドレスに繰り返される伝承子守唄がよく効く。添い寝していると、いつのまにか、歌っている母も眠ってしまう。
     母は気がつく。
     どうやら、赤ん坊が眠るのには、ある種の「音」が必要なのだ。
     13世紀に神聖ローマ帝国のフリードリヒ2世が試みた「沈黙の育児」の結果、赤ん坊がすべて死んでしまったのは、言葉の有無以前に、音そのものが無かったせいかもしれない。
     そして、数年後、第2子出産のために、入院した母はつぶやく。
    「……子供を抱っこしていないと、こうも眠れないとは!」
     寝かしつけていた母は、こうしていつのまにか、寝かしつけられる側になっている…。

               ○
     
     土地は常に音を奏でる。
     土地の固有性と音は、切っても切れない関係にある。
     音は、その土地が今どういう状況にあるかを端的に示すものである。
     芸能山城組を率いる山城祥二(大橋力)は、「人類本来の音環境」について、次のように述べている。

     私たち人類にとって理想の音環境はありうるのだろうか。あるとすればそれはどのようなものなのだろうか――。(中略)地球の生命は原則的に、その種が誕生した棲み場所、つまり進化的適応を遂げ種固有の遺伝子が構成される揺籃となった生態系のもつ環境とちょうど鍵と鍵穴のようにぴったり合った活性を、遺伝子およびそれが設計した脳・神経系の中に、〈本来のプログラム〉としてもっている。(中略)このような種に固有の〈本来の環境〉にひびく固有の音の構造こそ、遺伝子に約束された理想の音環境の具体的な姿に他ならない。
         (大橋力『音と文明―音の環境学ことはじめ』(岩波書店・2003年)70頁)


     ガムランの奏でる音楽は、「人類本来の音環境」つまり人類発祥の地である熱帯雨林の音に非常に近いものだという。(同書63頁)
     その熱帯雨林の「人類本来の音環境」での生活は、狩猟・採集を基礎とするものであり、「農耕」というのは決して本来的なものではないと、山城は主張する。

     人類本来の環境である熱帯雨林に生きる森の民たちは、人類本来のライフスタイルにのっとって、その棲む森から必要な食べ物を直接狩猟し採集すればよい。(中略)
    ところが、森を捨ててこうした恵みがえられない環境の中に棲み場所を移した人間たちは、もともと森が自動的に与えてくれたはずの食糧を自分たちの手であらためて作り育てなくてはならなくなる。そこで、本来は必要がなかった農耕や牧畜という〈適応行動〉を余分に行い、森に棲んでいたときに食べていたものに近い効果をもつ食糧を作りだして生きることになる。
                          (同書86頁)


     そして、近現代文明について、それはむしろ農耕という本来的ではない行動から逃れ、より本来的である「狩猟・採集」に戻ろうとする行為として解釈できる、と指摘する。

     近現代文明の誇る科学技術とは、熱帯雨林を遠くはなれた人間たちが、遺伝子プログラムに導かれて本来の森の環境や生活との近似を計る適応行動の一体系に他ならないと信じられるのである。
     この実態は、現代型ホモ・サピエンスのDNAが、森の生活を本来のものと設定した状態のまま今なお微動だにしていないであろうことを強く想定させる。
                              (同書87頁)

     この考え方は「近代文明」がどうして世界中に拡散したのかについて、説得力のある見解を提示しているように思う。
     もしかしたら、近代が否定しようとしたのは「土地の固有性」そのものではなく、「土地の固有性」に強く結びつけられていた農耕ストレスだったのかもしれない。だから、農耕ストレスとは無縁な土地(日本においては埋め立て地とか、北海道とかが、それにあたる)に強く引き付けられるものを感じたという解釈も成り立つ。
     そして、もちろん、狩猟・採集こそ「土地の固有性」を前提とする行為である。
     その一方で、科学技術の成果が、それこそ人類滅亡の危機を招いていることも、やはり事実なのである。そこを、どう考えどう対処していくか。
     何せ、未曽有の過渡期であるから、状況は刻々と移り変わる
     有効な方策は、現象の裏側に動くシステムを見抜くことによってしか得られないだろう。
     SF的発想は、そのために是非とも必要だろう。
    (個人的見解だが、SF者には「農耕ストレス」への耐性が低い人が多い気がする)
     ジャパニメーションが、世界を席巻している理由というのも、これから「近代」の問題と結び付けて、しっかり考えなくてはならないテーマの一つである。
     東京という場所はその意味でも非常に重要であろうし、20年ぶりにこの地で日本SF大会が行われる意味は大きい。

                   ○

    おお 
    黒き黎明は黒く燃え
    おお
    溶けゆくものの主よ
    聖なる美麗を持って幻象の真相なるを描きあれるや
    (中略)
    おお 
    観よ
    天地に気は充満たり
    おお
    観よ
    見てらっしゃい 買ってらっしゃい
    黄金鱗魚(きんぎょ) 
    金魚ぇ金魚
    石焼き芋 
    竹や竿竹
    豆腐
    毎度お馴染の塵紙交換
    さて お立会い 取り出したるは蝦蟇のあぶら……
         (「黄金鱗讃揚」作詞…耶摩城竜、作曲…山城祥二)
               
               ○
     
     金魚の養殖は、アップダウンに富み、湧水の豊富な江戸の坂下の土地で盛んに行われたという。
     金魚は人工環境のもとでしか生きられない生物である。
     我々、人間も、人工環境でしか生きられない。
     それは、熱帯雨林の森の中でも同様である。仲間とともにあることは、すなわち「人工環境」の中にあるということなのだ。
    「農耕ストレス」のない「森の民たち」であっても、仲間が営む社会がなければ、子を産み育てることさえできないのだから。
     ……まあ、だからね。
    我々は「電脳金魚」なのだよ。
    日本SF大会は、年に一度のお祭りである。
    お祭りには、金魚掬いがつきものだ。
    掬いに、あるいは、掬われに来てね。
    狩猟・採集の欲望を満たしてね。
    もちろん、電脳金魚も、SF都市たる東京のいとしい一部なのである。









                    
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    特別掲載・東京SF論 『DARKER THAN BLACK 黒の契約者』
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      (C)BONES・岡村天斎/DTB製作委員会・MBS
       主人公・黒(ヘイ)=手前=たち「組織」のメンバー

      0.作品の沿革 高槻 真樹
       「DARKER THAN BLACK 黒の契約者」は、2007年4月から9月まで放映されたテレビアニメである。その長く独特なタイトルから想像できるとおり、非常に特異な世界観を持っており、ファンの間で話題を呼んだ。何らかの形で原作付き作品が当たり前である昨今において、オリジナルSFドラマは、やはり貴重である。
       舞台は現代の東京。正体不明の「ヘルズゲート」なる空間が出現し、夜空からは星が消えた。それと同時に「契約者」なる奇妙な異能力者たちが出現、世界中で暗躍するようになる。「契約者」たちは、テレポートや電撃など様々な超能力を使うことができるが、能力を使うたびに「対価」を支払わなければならない。その対価とは極めて不条理なもので、「指の骨を折る」ことから「小石を並べる」ことまで、実にさまざま。ゲートからもたらされる未知の技術を巡って、契約者たちの争奪戦がやむことなく繰り広げられている。
       SFファンならすぐに気付くだろう。この作品の発想の源泉は、映画「ストーカー」の原作として有名なストルガツキー兄弟の長編「路傍のピクニック」(ハヤカワ文庫SF版の邦題は映画に合わせ「ストーカー」)にある。
       だがその一方で、本作品のもうひとつの売りは、入念なロケハンに基づいた現実の東京の光景が作品の中に取り入れられていること。まさしく正真正銘の「東京SF」なのである。
       今回の「東京SF論」では、本作品の監督である岡村天斎氏をお招きした。監督と交互に論を交えながら、「黒の契約者」の魅力に多面的に迫っていくことにしたい。


      (C)BONES・岡村天斎/DTB製作委員会・MBS
       多くのシーンは実際の東京にロケハンして描かれた

      1.「技術」に背中を押されて  岡村天斎
       超能力という言葉の持つ「非日常」の匂いを際立たせるために、それ以外の情報をできる限り「日常」の匂いのする「リアル」感で埋める必要がありました。「リアル」感を求める為には、超能力には制限があり、舞台は実在の場所が望ましい。
       そんな理由から「Darker than BLACK 黒の契約者」の舞台には「東京」が選ばれます。 東京はインテリジェンスに関する意識が低いとされ、たくさんの外国人の入り乱れる情報戦争の舞台には最適だったわけです。
       前作「地球SOS」での舞台が、戦後夢見た二十一世紀のアメリカという半分空想の世界であったため、現実の東京を舞台にすえるというのは自分的には自然な流れでした。

       現実の場所を舞台にするという手法は最近とみに多くなっていますが、その理由のひとつにデジカメの普及があります。フィルム時代は1ショット百円…そんな貧乏観念が足かせとなり、そうそう気軽に写真を撮るという行為に踏み切れなかったのです。
       ロケハンに行ってもついついケチってあとあと必要になる角度を撮っていないとか…そんなことが良くありました。それが一回のロケハンで一人頭三千枚とか平気で撮れる様になったのですから…

       さらに舞台となる場所の選定方法も変化してきます。企画が始まった当初は、自分の土地勘のあるところに実際に車やバイクで乗りつけ、行ってみたら予想と違ってた…なんて事も良くありました。逆に、道に迷って清洲橋に出てしまい、そのロケーションが良くて写真を撮って帰ったこともあります。
       そんな苦労を重ねているうちに我々はGoogleEarthの存在に気付きます。こんなに簡単に航空写真が手に入る!ビル街なのか住宅地なのか河の護岸はとうなっているのか、地図だけではわからない情報が瞬時に手に入る!現地に行く前にロケーションの選択ができるというのは画期的なことだったのです。
       そしてとうとうStreetViewの登場に至っては、もう現地に行かなくても事足りるのか!?と思うほどです。ああ、カメラ位置があと一メートル低かったらそのままレイアウトに使えるのに…と思うことも何度もありました。
       しかし、それは続編である「流星の双子」の舞台をロシアの極東の都市ウラジオストクに設定した時、自らの首を絞めることになります。ウラジオストクには勿論StreetViewなどないのです。東京とウラジオストクとのインテリジェンス意識の違いにこんな所で気づかされるとは思いませんでした。

       ほんの数年の間に技術というものが進歩していくさまを目の当たりにし、これはもうSFだなと思わずにはいられない程でした。ほんの数年前の作品では、登場人物に携帯電話を持たせることさえ迷っていたのに、今では携帯電話の機能だけでストーリーが進んでゆく作品すらあるほどです。現実の技術が作品の内容に影響を与える。そんな事があるのだという一例を、少しですが紹介させていただきました。ちなみに、「Darker」の主人公である黒(ヘイ)は携帯電話を持っていません。


      (C)BONES・岡村天斎/DTB製作委員会・MBS
       主人公・黒(ヘイ)は、ワイヤーと電撃を駆使して戦う

      2.ゲシュタルトな現実    高槻真樹
       以上、ここまでの岡村天斎監督の証言から、「黒の契約者」についてひとつの構造が見えてくる。この物語はフィクションではあるが、実在する東京という舞台の上に乗せられているということだ。果たしてそれは何を意味するのか。
       それはアニメの存在意義を再検証する試みであり、私たちの知覚について新たな問いかけをなすものであるといえる。現実に出自を持つリアルな東京、しかしながら、そこでは現実の世界にあるはずもない、「ゲート」という強烈な虚構がどっかりと腰を据えている。
       この作品は、ミクロとマクロの領域で虚構と現実が複雑に絡み合っている。個々の登場人物のレベルでは、細部まで考え抜かれた綿密な生活描写に満たされているが、その現実感をいちいち動揺させるのが、契約者たちの能力であり、不条理な「対価の支払い」シーンである。ミクロでもマクロでも虚構と現実は鋭く対立し合う。現実が感じられる時は虚構については忘れているし、虚構が浮かび上がる時、現実の存在感は消えうせている。心理学の入門書に必ず載っている「ルビンの壷」のように、「地」と「図」がぐるぐると入れ替わる。

      ルビンの壷
       ルビンの壷

       向き合った人の横顔と壷のどちらにも解釈できる図形は面白いが、ここで忘れがちなのは「横顔」と「壷」の両方を同時に知覚することはできないということである。人間の知覚は部分と全体のせめぎ合いのうちにあり、どちらか一方だけでは理解できない。こうした人間の心理の特徴に着目し、科学的に解き明かしていった「ゲシュタルト心理学」という学派がある。
       実在する「東京」とゲートのある「虚構世界」を一体化させた「黒の契約者」は、こうした部分と全体の相互干渉を意識させずにはおかないという意味において、優れて「ゲシュタルト心理学」的なアニメであるといえる。
       もともと最初期の心理学では、人間の五感を細分化していき、「知覚の点」の集積として理解しようとした。だがそれでは、三角形を見ても「三本の線」としてしか理解できない。交差する三本の線で囲まれた領域としての「三角形」を全体として認識するのもまた人間の特徴である。
       アメリカの心理学者であったクリスチャン・エーレンフェルスは、暗室で交互に点灯する光点を被験者に見せる実験を行っている。点滅が0.2秒以上のときは、二つの光点が交互に点滅しているように見える。だが、0.2秒以下の場合は、ひとつの光点が左右に移動しているように見えるようになる。これが全体をひとまとまりのものとして知覚させる「ゲシュタルト質」というものである。これはいわば、不連続な画像をひとまとまりの動きとして認識してしまうアニメーションの原理を説明するものでもある。つまり、ゲシュタルト質のおかげで、我々はアニメを見ることができるわけだ。

       アニメーションは、本来、現実から遠く離れた虚構を描きだすことに長けた表現形式である。人も動物も果ては無生物さえもぐねぐねと変形し、怪物は闊歩し、動物は言葉を話す。本来、そういうものがアニメーションであるとされた。
       ところが日本の「アニメ」は、わざわざ現実をなぞり、実写と見まがうほどのリアルな情景を作り出そうとする。いったいなぜそんな物好きなことをしなければならないのか?それならばいっそ実写で撮った方がいいのではないか、「アニメ」に対して常に突きつけられてきた疑問である。
       むろん荒唐無稽なストーリーやダイナミックなカメラワークを実写で再現するのは困難であり、ゼロから画面を作り上げるアニメだからこそ可能なドラマ表現があるのだ、とこれまでは説明されてきた。だがこれも最近は苦しい。最近は派手な特撮表現や特殊なカメラワークも、CGを使えばかなり容易に実現してしまう。
       アニメは窮地にあるのか。そうではない。近年のハリウッドのアクション大作を見ていれば誰でも気付くことがある。CGで描かれた物は皆ひどく軽い。本来そのものが持っているはずの重量感がどうしても出ない。それはCGが過渡期にあるせいであり、すぐに解決する、という意見もあるかもしれない。だが、これは意外に手ごわい問題ではないかと私は考える。おそらく現実の実写映像は、情報が多すぎるのだ。ある程度情報を整理したCG映像と突き合わせた時に、どうしてもうまく噛み合わない事態が発生する。
       もちろんCGも日々進歩していくことだろうが、実写映像もより高品質になっていく。永遠のいたちごっこだ。ここで「映像に含まれる情報を際限なく増やしていくことが本当に望ましいのか」という問題に突き当たる。映像がより高品質になり、多くの情報を含むようになるほど、フォローしなければならない要素は増え、取れる表現の手段は限られていく。
       もしこのチキンレースから降りて、あえて映像の持つ情報を下げる方向に向かったとするならば、そこには新しい表現の可能性が広がっているのではないだろうか。そのようなドラマツルギー(作劇法)のひとつとして、アニメを捉えなおしてみたい。
       確かにこの作品に登場する東京は、現実の東京をなぞる形で作り出されている。だが、ならば岡村監督らがロケハンで撮影したデジカメ映像とアニメ作品の背景美術は同じものなのか。そうではない。そこからは、たぶん実写写真を見た時に関心が向くさまざまな要素が排除されており、作品を成立させるために不可欠な要素が足されたり強調されたりしているはずである。
       ここで注意しなければならないのは、それらのすべてが岡村監督の意図のもとにあるというわけではないし、細部に分け入りすぎるとかえって物事を見失う。重要なのは、それら全体をゆるやかに覆う全体像である。そして、ここでは、ゲートと東京が一体のものとして結び合わされている。岡村監督らは「ゲートのある東京」をリアルに見せるために最善の方法を探った結果、もっともふさわしい表現手段を取っていったはずである。これが結果的に「ゲシュタルト心理学的」に統合された新しい映像表現とを生むこととなった。


      (C)BONES・岡村天斎/DTB製作委員会・MBS
       ヘルズゲート。この壁の内側では人間の現実は通用しない

      3.情報を「正確に」増やすには  岡村天斎
       さて、高槻氏の原稿を一読させていただき、思いついたことを少々ダラダラと書かせていただこうと思います。的外れかとも思いますが、まあ一興ということで。

       今回この「darker」という作品に関しては「マクロ」の視点、いわゆる「神の目線」を極力排除するようにしています。なぜそんなことに執着したのかと言えば、前述の「リアル感」描写の一環に他なりません。現実世界に生きている我々には、状況の概要を俯瞰して正確に知る術などありません。
       したがって全てを正確に把握している人物などいる訳もなく、たとえ説明してくれる人がいてもその情報は推察に過ぎず、合っているのか間違っているのかはその都度ある程度の確率でしか語れないのです。

       ほら、ちょっとSF論らしい量子論的な話になってきたでしょ。「Darker」世界においては、「観測」霊であるとか「EPR」であるとか「黒猫」とか、ちょっと量子論を齧った人間からすると聞き慣れた単語が散見されます。しかし、残念ながら私個人としては、大学生の時の化学の時間に講義を受けたシュレディンガーの波動方程式で挫折して以来、量子論に対する認識は「全く理解できないモノ」という所で固まってしまいました。

       「映像に含まれる情報を際限なく増やしていくことが本当に望ましいのか」という問題が提示されていますが、私は「まさにその通り、望ましいのだ」と言わざるを得ません。では、なぜ無限に映像の密度を増やしてゆく方向にみんなが進んでいかないのか。
       もちろん、面倒くさいからです!物理的作業量とコストの折り合いをつけずに作品を作るのは、プロとして恥ずべき行為なのです。

       情報量の多いものに触れることが人間にとっての快楽であることに疑う余地はありません。ただ、「映像の中に含まれる情報」をどこまで快感として知覚できるのか?というのも重要です。子供の頃の嗜好と大人になってからのそれとでは大きく乖離があるでしょう?それは知覚できる情報に違いがあるからです。
       料理に例えると分かりやすいかと思われます。子供の頃は旨味とか苦味とかを知覚できにくいため、より分かりやすい甘味の多いものを美味しいと感じるものです。経験を積むにつれてやがて旨味や苦味、酸っぱさを情報として美味しいと知覚するようになってゆく。それによって嗜好が変わってゆくわけです。
       でも、むやみやたらと味の情報を増やせば料理はおいしくなるかというと、そういう訳ではありませんね。間違った情報は増えると雑味となって料理の邪魔をし始めます。
       アニメーションという映像表現はそういう間違いの発生しやすい手段で作られています。何しろ人間が勘に頼って手で描いてるのですから。パースペクティブの狂い、遠近法の誤解、重力加速度への不理解、なにより立体認識の甘さ。
       たとえば動画の線を1本増やして2本にしたとします。その場合の作業量は単純に2倍になるわけではありません。二つの線の間の間隔と曲率をを常に一定に保たないとその物体はブヨブヨと曲がって見えるわけです。
       正確なパースを取ることや正確な動画を描く事で、われらの料理人は出し汁の中からアクを取り除くように「雑味」を取り除いているのです。そういう目に見えない努力という情報を知覚できるかどうかも重要ですね。
       ただ、そういった「狂い」を「味」というまた別の情報に昇華しやすいのもアニメーションの特性です。どこまでが「味」でどこからが「雑味」なのか、結局その判定は個人の嗜好に左右されます。

       「Darker」という作品において、現実の風景を多用したのには、このように映像の情報量を「正確に」増やすという目的もありました。都会の情景を描くという作業にはとてつもない知識と才能そして労力が必要です。数年前「Wolf's Rain」という作品を作った時は、現実の東京を舞台にという意見はその労力の膨大さを恐れて却下しました。しかし、技術の発達とともに、逆に現実を舞台にした方が労力を減らせる状況になったというわけです。

       この風潮は今後も続くのでしょうか?答えは、YESでもありNOとも言えます。日本のアニメーションの現場は常に低予算との戦いです。作業を効率化できる技術がそこに存在し一般化してゆけば、それを使わないわけがありません。
       しかし、みんなが同様の作品を作っていては飽きられます。そして、機械に頼らずに作られた映像には別の情報が上乗せされます。「ありがたみ」という情報です。CGで描けば簡単にできるのに(この認識も実は偏見に満ちており、CGも実際はオペレーターの手腕によって出来上がりはまったく違うのですが…)、わざわざ人の手で描いてるよ!という「ありがたみ」才能という名の「ありがたみ」…意外と侮れない情報量だと思います。
       ただ、本当に力のあるアニメーターが渾身の力を込めて超リアルに描いたカットが、CGを基にしていると思われたり…そんな残念なことも結構よくあることなのです。


      (C)BONES・岡村天斎/DTB製作委員会・MBS
       黒は、霧原未咲ら国家公安局にも追われている

      4.衝動と限界から見えること 高槻真樹
       予想外の答えであったといわなければなるまい。だが、そうであるからこそ往復書簡形式で論を進めていくことに意味があるというものだ。用意していた原稿は捨てて、素のままに話を進めていくことにしよう。
       私は前章で「映像に含まれる情報を際限なく増やしていくことが本当に望ましいのか」と問うた。当然同意してもらえるものと思い込んでいた。だが岡村監督の答えは「まさにその通り、望ましいのだ」というものだった。いま私は、己の思考の浅さを反省している。
       確かに100パーセントに近い形で情報量をコントロールすることが可能なアニメーションは可能性を秘めているかもしれない。だがそれだけではだめなのだ。人間は際限なく情報量を求めていく存在でもあるのだから。先鋭的な芸術家たちの反対を押し切る形で「モノクロ・サイレント→トーキー→カラー→ワイド→3Dと映像ハードウェアの高品位化は一貫して推し進められてきた。「それで一体何を撮るのか」という問いに答えるよりも早いスピードで。なぜなら人間の潜在的欲求がそれを求め続けたから。
       ところが、実際にその要求に基づいて作品を作る段になると、もうひとつの壁に突き当たる。ここで岡村監督が指摘しているとおり、「人間が捉えきれない情報をいくら盛っても意味がない」ということだ。ならばどうするべきか。人の眼が反応しやすい、快適と感じる動きをひとつひとつ試行錯誤で探り当てていくしかない。つまり、正解は「人間の眼の指向性を探り当てた上で、現在の技術で可能なベストの表現手段を見つけ出す」こと。もちろん岡村監督も言っているように「予算の範囲内で」というのも極めて重要だ。
       何にしても、ここで留意すべきは、人間の大脳的・視覚的性癖を意識することなしに適切な映像表現を行うことはあり得ないということだ。
       話をゲシュタルト心理学に戻す。最適の入門書にして最も信頼できる文献ともいわれるW・ケーラーの「ゲシタルト心理学入門」(東京大学出版会)という書物がある。ここでケーラーは、2章で述べたクリスチャン・エーレンフェルスの実験(※)について、当時の科学者の多くが理由を調べてみようともしなかったと語っている。
       「ひとつの知覚的事実として受け入れられたのではまったくなく、観察者の思考における誤りの所産であると思われた」(37ページ)
       つまり「ただの錯覚」だと片付けられてしまったわけだ。ケーラーはそのことを「単なる言いわけ」で「言いのがれ」だと強く批判している。確かに映画のフィルムによってスクリーンに再現される動きをみて、スクリーン上に本当に動きが発生していると思う者はいない。だがそれを「錯覚」として片付けるのはただの思考停止であろう。映画の教科書でも古いものはいまだに「人間の眼の錯覚」と書いているほどだ。
       実際は逆だろう。人間の眼が多数の静止画の集積として動きを理解しているのである。そのことを利用して、映画フィルムは成り立っていると解釈すべきなのだ。細分化された要素を寄せ集めることで人間を理解できるとした当時の主流な論説のままでは、映画フィルムが動いて見える理由は説明できない。ゲシュタルト心理学は「視覚要素はけっして独立な局所的事実ではなく、それらの過程がお互いに作用を及ぼしあうということ」(39ページ)を証明してみせた。すべては連動した一体なのである。
       私たちは人間としての自分自身をあまりにも知らない。もちろん常に知ろうとはしているが、ともすると「錯覚」などと片付けて意識上から零れ落ちてしまう。人間について知るためにはどうすべきか。客観的に見ることができるように、何らかの形である程度現実から引き離してやることが必要になる。ひとつには「絵の動き」に置き換えて抽象化すること、線と動きを整理し留意すべきポイントを絞ること。もうひとつには、ストーリーに荒唐無稽な要素を入れて現実から一歩引き剥がすこと。
       そう、「黒の契約者」だ。ここまで見てきたとおり、本作品を見ることは、同時に人間とは何かについて、さまざまな次元で考え、知ることでもある
       物語の舞台は、まさしく私たちが暮らす現実から引き写された「東京」である。しかしその中心にあるのは現実にはないはずの「ヘルズゲート」。不可思議な事象を前に、私たち人間はどう振舞うか。もちろん最初は驚くが、驚きは実は持続性がない。どんな事態でも日常に組み入れて慣れてしまうのもまた人間である。
       本作品では、この非常時に中止にもならず各地で同人誌即売会が相変わらず開催されていることが語られる。サブエピソードの主人公である探偵も、中華料理屋の親父も、アパートの大家も、直接ゲートに関わらない市井の人々は、ゲートについてほとんど考えようとはしない。見上げれば目の前にいつもあるにもかかわらず。理解不能な異質さを前にしても人々はなるべく日常を維持しようとするからだ。
       その一方で理解できないまま未知の技術を利用しようとするのも人間である。契約者たちも、CIAも、黒の所属する「組織」も、分からないなりに技術を手に入れて使える形で使えればいい、それで相手を出し抜けて優位に立てるなら、とある意味割り切っている。本作品のテーマ的原作「路傍のピクニック」の中でストルガツキー兄弟が指摘しているとおり、「顕微鏡の台座で釘を打つ」行為なのかもしれないが。もちろん、ミーナ・カンダスワミのように、そうした割り切りに耐えられず、どうしても自分でゲートを調べてみたいと思う者もいる。それもまた、人間である。
       ヘルズゲートは確かに異質な存在だ。岡村監督は、ゲートの正体について明かすつもりはないと明言している。だが、「黒の契約者」の世界はまったくの出鱈目でも不可知でもない。一回見ただけでは分からない答えも、巧妙に作品中に隠されていたりする。主人公であるにもかかわらず、契約者としての「対価」がはっきりしない黒。しかし岡村監督は言う。
       「最初から全部観直して下さい!答えが描かれています」
      (DARKER THAN BLACK 黒の契約者 OFFICIAL FANBOOK トーキョーエクスプロージョン調査報告/スクウェア・エニックス刊)
       基本的には未知で不可思議だが、少しずつ理解することはできる。最終的に完全に理解することは適わないとしても。だからこそどうしようもなく惹かれる。そのようなものとしてゲートも、「黒の契約者」という作品も、私たちの前に存在する。人間と私たちの住むこの世界がそうであるように。


      (C)BONES・岡村天斎/DTB製作委員会・MBS
       黒は戦闘中必ず仮面を被る

      ※ ケーラーの著書では、同様の実験をドイツの心理学者マックス・ウェルトハイマーが行ったものとして挙げている。エーレンフェルスもウェルトハイマーも初期のゲシュタルト心理学者。エーレンフェルスの実験が光点の動きを追ったものであるのに対してウェルトハイマーは光から生まれる影の動きを追ったもの、となっており、実験に若干の差異がある。いずれにしても導かれる結論は同じである。
      【参考文献】
      W・ケーラー「ゲシタルト心理学入門」(東京大学出版会)
      「DARKER THAN BLACK 黒の契約者 OFFICIAL FANBOOK トーキョーエクスプロージョン調査報告」(スクウェア・エニックス)
      『ゲシュタルト心理学の原理』クルト・コフカ 松岡正剛の千夜千冊・遊蕩篇
      (http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1273.html)
      番組公式HP www.d-black.net
      ◆ゲシュタルト心理学について助言をいただいた翻訳家の増田まもる氏に感謝します(高槻真樹)


      (C)BONES・岡村天斎/DTB製作委員会・MBS
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      | 東京SF論 | 03:38 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - | ↑PAGE TOP
      特別掲載:東京SF論 『見えるものと見えないもの』
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        見えるものと見えないもの――『機動警察パトレイバー2』

        海老原豊

        押井守監督の劇場版アニメ『機動警察パトレイバー2』は、一口に言ってしまえば東京に戦争を起こす物語だ。軍事エキスパートの柘植を首謀者に、コンピューターのハッキングや、毒ガスを積んだ(実際には無害な着色ガスだったが)飛行船を市中で撃墜させるなど、情報を掌握することで力の位相差を生み、兵隊と武器の圧倒的な少なさを補うポスト近代的な戦争が東京で展開される。この東京戦争が最後まで燃焼しつくす前に、再結成された特車2課中隊というヒーローたちの到着と相成り、結局のところ、総力戦としての近代戦争ではなく、柘植が描いたポスト近代的な情報・コンピューターによる戦争は、昔ながらの「ロボットによる格闘」によって握りつぶされる。砂場で遊ぶ子どもがその手の中に強く握り締めるロボットの人形が、ぶんぶんと振り回されて、年頃にしては繊細で器用な別の子どもが作った砂のお城に突き刺さり崩れるイメージ。

        『パトレイバー』という、人が操縦する巨大ロボットが登場〈しなければならない〉アニメのシリーズにおけるやれること/やれないことの境界線は、当然ある。作るほうも見るほうも、この境界線をわきまえているほどには大人だ。南雲隊長が敵戦闘レイバーの攻撃を突破する最後のシーンは、直接に描かれない。エレベーターに向かうシーンと、ぼろぼろに破壊されたレイバーを載せたエレベーターが地上に現れるシーンは直接に繋げられている。押井が描きたいのはロボットの格闘ではないといいたいのだろうと、このシーンから読み込む程度には私たち見るものは約束事を知っている。また、従来のロボット・アニメの主人公的な振る舞いを戯画化した太田だけでは到底、柘植を倒すことなどできないことも確認しておこう。思考が切れすぎるために上層部から煙たがられる剃刀・後藤隊長の存在なくして柘植のしかける東京戦争に勝利することはできなかった。かくして物語の水準でも、私たちはコンピューターと情報を駆使した戦争を戦うためには、後藤=柘植のような人物が必要であることを十分に理解している。

        私がここで(ごく簡単にだが)考えてみたいのは、物語の水準では必要とされていない巨大ロボットの格闘を、ロボット・アニメのお約束という物語外の巨大な装置に投げ込み、私たちの目の前から抹消してしまうことではなく、物語の層へと塗り直すことができないだろうかということだ。見えるものと見えないものの絡み合いを指摘し、解きほぐしていくことが具体的な手続きとなる。

        東京戦争をクーデター=226事件の表象であると考えることは、押井の226事件へのこだわりを考えてみれば、おかしなことではない。本作『パト2』に限ったことではなく、OVAの5,6話『特車2課の長い一日』に見ることもできるし、『人狼』が描く騒乱にもその片鱗は見出せるだろう。表象といっても、当然、そこにはズレが生じ、中には決定的といってもいいズレが生まれてくる。東京戦争と実際の226事件との一つの大きな違いは、報道である。226事件であればラジオや新聞といった視覚外メディアが軍隊の存在を伝える媒体であったわけだが、『パト2』では市中が軍隊による管理下に置かれた様子が描かれ、その様子はテレビを通じて全国に執拗に流される。注意するべきは執拗に「描く」のではなく、執拗に「流す」ところだ。もちろん、『パト2』では、東京戦争へと続く一連の軍事テロ行為への不安を沈静化することを狙って軍事力のメディア露出が許されているのだと考えられるが、一枚の「絵」として切り取られたとき、人々の心理に安心を生むのか不穏を生むのかは、火を見るより明らかだろう。だから、後藤が特車2課のレイバーを警備活動に従事させたくなかったのも、現場に搬入するも、「故障」といって起立させることを拒んだのも、理由がある。後藤はそれがどのように見えるか理解していたからだ。

        見えるものは常に見えないものによって輪郭を作られている。光が常に影を生み出すのと全く同じ理屈だ。TVメディアによって切り取られた一枚の「絵」があるとき、その背後に捨てられた膨大な背景を想像すること。この時代における当たり前の処世術、メディア・リテラシーであるはずだが、それはしかし、本当に当たり前になっているのだろうか。柘植が間隙をついたのは、絵と背景の間に空いた、本来は個々の人間が感じるであろう現実感と想像力で補うべき闇だったのではないか。軍人としての柘植が平和維持活動の一環として派遣された海外で、率いる部隊が攻撃を受けながらもこちらには発砲許可が出ないという緊張を描いた冒頭。柘植の視界はディスプレイ越しの視界だ。柘植はレイバーの中に入り、レイバーのディスプレイを通じて外界へとアクセスをしていた。この時、レイバーは柘植の目となり手となり耳となり、つまりは身体となっていたわけで、ディスプレイの絵と外界という背景は一致していたといえる。だが、柘植の外に広がる世界には、確実に闇が広がっていた。軍事行動が行われていると思われる地域に自国の兵士を派遣しながらも、発砲を禁止する(そうせざるを得ない)日本という国の目には、柘植とその仲間たちがレイバーのディスプレイを通じて見て体感したものが確実に伝わっていない。柘植においてレイバー/柘植が一体となっていても、柘植/日本の間に歪みが生じていた。日本では単にディスプレイの歪みとして処理された柘植の戦闘は、実は、見るものの歪み、つまり日本という国の問題だったのではないか。

        柘植が東京戦争を仕掛ける際に、まずは切り取られた絵、種々のメディアを通じて見えるものを積極的に改変することが始めたのは道理といえよう。当然だが、東京戦争は実際の戦争であった。何から何までコンピューター端末とそのディスプレイの上で行われた仮ヴァーチュアルなものなどではない。柘植が戦略としてとったのは、切り取られた見えるものを徹底的に改変し、その一方で捨象された背景の中に強烈な爆弾をしかけるということだったのではないか。見えるものと見えないものの間を開くこと。海外の戦場で柘植が見たものと、国内にいる日本国民が見たものは違っていた。どれほどカメラ・アイとディスプレイが高性能になろうとも乖離が生じてしまう。もはやこれはテクノロジーの問題などではない。日本国民の、いや人間の、心性に起因している。目立つものに注目をしさらに見たいと願い、見たくないものは目の端に追いやりやがては視界から抹消する。

        いまさら指摘するのも気がひけるが、この作品に見えるものイメージが充満しているのは、誰もがすぐに気がつくことだろう。ベイブリッジを攻撃した戦闘機の画像、航空管制室のディスプレイに映し出された敵戦闘機の影、撃墜された気球からもれ出た着色ガス、東京に遍在する軍隊、それを映し出し東京を日本に遍在化するTVメディア。自衛隊諜報部の荒川がメガネをかけた斜視であるのも、視覚とその歪みを伝えるイメージだ。荒川の視覚が歪んでいる(かもしれない)というのは、1つのヒントとなって、私たちを見えないものへと向ける。起立しないパトレイバー。敵の電波施設へといたる海底通路。そこへいたるために通った、幻の地下鉄新橋駅。だいたい、特車2課中隊のメンバーは警視庁という組織の中に四散していて、最初から野亜や明日馬は(登場はしているが)「見えない」のだ。こうして一連の見えるもの/見えないもののイメージをたどっていくと、境界面に立つのがレイバーであることが確認できる。

        柘植はレイバーの中の存在だった。レイバーと一体になり、中から外界を見ていた。しかし外界は柘植とそのレイバーの視点を共有しなかった。柘植の見えるものは、日本人にとっての見えないものにされた。だから柘植は自分と仲間たちが見たものを伝えるために、まず日本人の「見えるもの」を書き換えることから始めた。他方、特車2課は、柘植と同じくレイバーという視点を通じて外界にアクセスしつつも(レイバー整備のシーンが野亜と明日馬の登場シーンだ)、柘植が執拗にこだわる「見えるもの」という土俵に乗ろうとしない。柘植、そして後藤が気づいていたように、勝負は「見えないもの」で行われるのだ。地下鉄‐海底トンネル‐東京湾埋立地という見えないものの道をたどるには、見えてはいけないのだ。かくして、パトレイバーの活躍は不必要だからわずかしか描かれていないのではない。柘植の軍隊による特車2課へのヘリ攻撃で完全に破壊されるレイバーの様子を、監督のアニメ的お約束への憎悪であると解釈することも可能だが、そこまで意地悪くなる必要もないはずだ。パトレイバーの活躍が不必要なのではない。否定辞「不」の位置をずらすだけで事は全て解決する。パトレイバーの「不」活躍が必要なのだ。そうしないと、勝てない。

        東京を舞台に柘植が仕掛けた戦争は、東京の特性を最大限に生かしたものだ。見えるものだけが全てであるという幻想こそがこの街の生きる駆動力なのだ。しかし、本当は東京には見えないものが溢れている。押井守が『パトレイバー』シリーズを通じてカメラの隅に捕らえていたのは、幻想からはみ出る見えないものの呼吸だったのではないか。(海老原豊)
        | 東京SF論 | 22:34 | - | trackbacks(0) | - | - | ↑PAGE TOP
        特別掲載:東京SF論『メガテンの記憶』
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           今回の東京SF論は、コンシューマーゲームを中心にマルチな展開を見せる『真・女神転生』(スーパーファミコンソフトほか、アトラス、1992)を取り扱います。
           言うまでもなく『女神転生』シリーズは、ゲームというジャンルにおいて、東京SFのコアへ最も接近した作品の一つであると言えるでしょう。
           その本質へ少しでも迫っていくため、まずは、『女神転生』シリーズに深く関わり、『女神転生供戞◆愎拭女神転生』、『偽典・女神転生』のメイン・シナリオライティングを担当された鈴木大司教こと鈴木一也様にお願いして、『女神転生』についての文章を書いていただきました。
           なお、鈴木一也様は過去、SF大会にゲストで招かれたこともあるほどSFに対しても理解が深いのですが、創作への情熱がほとばしるこの文章を目にすれば、東京というダンジョンを表現する鈴木一也様の視点が、まさしくSFにほかならないことがわかるでしょう。

           


          メガテンの記憶

          ゲームクリエイター 鈴木一也



          ≪メガテン前夜≫
           『デジタルデビルストーリー―女神転生―』は、小説家西谷史(にしたにあや)先生のデビュー作であった。西谷先生が小説家として身を立てようとする動機を与えたのが、ラブクラフト作品だと伺ったことがある。メガテンというRPG界の妖花は、実はこうしたところに最初の根を張っていたのである。
           この作品が発表された当時、伝奇モノと云われるバイオレンスとセックスとクリーチャーの盛り合わせが流行していたのだが、『デジタルデビルストーリー』は、そのラノベ版であったと云えるだろう。ラノベというジャンルも、ちょうどそのころから台頭していくのである。
           1980年代の終わり、ファミコンソフトを出せばミリオンヒットという黄金期はすでに終わっていた。そんな時代に『女神転生』は、メディアミックス展開によって新たに売り出されることになった。今は亡き名プロデューサー井上堯氏が三面六臂の働きをして、OVA、MS−X版ゲームソフト、ファミコンソフトと同時展開させ、メガテンの歴史を始めるのである。
           一方当時のアトラスは、マンションオフィスの小さな会社だった。飯田橋駅ビルにある都営住宅の2部屋を借り、開発を始めて1年経たぬ頃に私が入社した。このオフィスは、のちに住宅地に会社が入っているという朝日新聞の告発によって撤退を余儀なくされるのだが……。
           入社当時『女神転生』はすでに企画が進んでおり、私の上司であったMr.Booこと上田氏がその開発責任者であった。彼はパソコン版の『ウィザードリィ』にはまっており、私とすごく話が合った。まだまだRPGには理解が少なく、当時のSEGA社長などはRPGなど絶対に流行らないと断言していたほどだ。
           メガテンの企画はウィズにとても似た3DダンジョンRPGになっていた。しかしこれではマズイだろうということになり、新入社員であった私にもアイデアを出せと云うことになったのである。
           そこで、まず「悪魔を仲間に出来るのはどうか?」という提案をした。
           私が初めてRPGをプレイしたときのことだ。それは『D&D』だったのだが、当時RPGといえば、今で言うTRPGのことである。
           旅の途上、パーティーの前に現われたゴブリンに対し、私は交渉して味方になって貰おうとした。マスターいわく「そんなルールはない」であった。私は大いに不満に感じたことを覚えている。
           この敵を味方にしようというのは、実に日本的発想ではないかと思っている。世界中にチェスを起源としたゲームは普及しているが、取った駒を味方にして使えるのは日本の将棋だけである。
           戦争と云えば殲滅戦であり、異民族との戦いであって、負けた民は殺されるか奴隷となるという世界的な認識に対して、日本の戦争というのは所詮は内戦でしかなかったという歴史的背景がある。世界の城といえば、町ごと囲う城塞都市が基本なのはこのためだ。
           今でこそ海外のゲームにもテイマーは定番だが、当時敵を仲間にするゲームは私の知る限り、野菜がモンスターとして出現する日本のマイナーなパソコンゲームしかなかった。このゲーム、野菜を仲間にもするし、倒した野菜を食べてHPを回復するという野菜なのに肉食系の異色ゲームであった。仲間にした野菜と同じ野菜を食うと、「ボクのなかまを食うなんて〜」と泣きながら野菜が去っていくというちょっぴり心温まる作品だった。
           というわけで、当時としては斬新なこの案は採用されることになった。悪魔との対話システムは私の担当となった。
           しかしMr.Booはこれだけで満足をしなかった。もう一捻りこのアイデアを面白くさせろと私に命じたのである。
           そこで私は三日考えて「合体」のシステムを提案した。これはもちろん永井豪先生の『デビルマン』がアイデアの素になっている。悪魔なら合体! ということだ。
           アイデアは採用され、メガテンをメガテンたらしめた悪魔合体システムが誕生することになった。
           私は悪魔会話や合体のシステムの他、魔法や武器などの設定や、悪魔の設定、悪魔種族の分類を任された。この頃はダンジョンの設計やシナリオには関わっていなかったのである。
           女悪魔を多く出し、しかもできるだけ裸体に近いもので出すことも注文した。
           当時のゲームで女の敵キャラが出ることは希であった。
           こうした発想もまた、豪先生や伝奇小説から頂いているわけだ。


          ≪そして兇悛
           1987年9月『女神転生』はナムコから発売された。
           発売本数はナムコ作品としては大したものではなかったが、熱烈なファンをその頃から獲得し始めていた。しかし、兇寮作がすぐに決まらなかったのは、こうした売り上げの低さが原因だった。ナムコに柘植さんという広報担当の方がいて、彼を中心に社内でメガテンファンが誕生していた。彼らが上層部に強く兇鮟个垢茲Δ縫廛奪轡紊靴討れ、それがようやく実現化したのだった。
           『女神転生供戮任蓮▲轡淵螢をすべて任せてもらえた。もともとの『デジタルデビルストーリー』にあるように、舞台を現実世界、東京に広げた。ファミコンとして現実世界を舞台にしたRPGは初めてだったかも知れない。当時RPGとはファンタジー世界に限られていたからだ。
           内容はさらに過激になり、宗教色も強くなった。
           悪魔のデザインに金子一馬が入り、世界はより魅力的になってゆく。女悪魔もよりセクシャルに。サウンドもよりハードロックに。

           そして裏技なのだが、このゲームでは本来正義である「神」に逆らい、悪魔側について、造物主Y.H.V.H.を倒すことを可能にしたのだ。
           この絶対的正義はないという私の主張は、多くのユーザーから共感を得られたのではないだろうか。
           このテーマが受け入れられたのは、当時日本にとって世界的正義の価値基準であるアメリカ、その民主主義に対して日本人が疑問を感じ始めていたことが背景にあると考えている。この主張は『真・女神転生』でさらに明確化していく。
          (それから十余年の月日が流れ、『スターウォーズ・エピソード掘戮涼罎如嵬閏膽腟舛鮗蕕襪燭瓠廚箸亮臘イ繰り返し強調される陳腐さに、私は心底うんざりさせられたというのを蛇足として付け加えておこう)


          ≪多くの偶然の重なり≫
           当時ナムコ以外の会社からこの作品を発表しようとしたら、間違いなく任天堂のチェックで弾かれていたことだろう。全裸の女悪魔や、宗教的なテーマやシンボル、暴力的な描写など、任天堂規定では認められないものだらけだ。しかし、ナムコは独立したファミコン生産ラインを持つ数少ない企業だったのだ。そしてそれが任天堂チェックを免れる絶対条件でもあったのだ。
           『真・女神転生』では、『女神転生供戮亮太咾あって、メガテンはその独自世界がウリなのだから仕方ない、という諦めがあって承認された。
           『女神転生掘戮鮟个気覆い箸いΨ萃蠅癲▲淵爛該酩覆箸靴討惑箴緞椰瑤多くないという理由からである。これ幸いと、アトラスは独自に『真・女神転生』を作ることをナムコになし崩し的に認めさせる。ナムコの営業や広報は、社の決定を非常に悔やんだそうだ。
           こうした様々な事の重なり。そして『デジタルデビルストーリー』の西谷先生の小説家デビューから続くさまざまな偶然。
           私がアトラスに私が入社したのも、ちょっとした偶然の重なりによるものだ。父と喧嘩してそのゲーム会社飛び出したあと、私はふつうのIT会社に就職し、しばらくSEとして働いていたのだが、そのときの同僚で悪友だった大町という男が、会社を辞めてたまたま求人のあったアトラスに入社し、そしてすぐに私のことを呼んでくれたのだ。大町は私がもともとゲーム畑であったのを知って、彼自身ゲームに興味を持ったわけだ。
           私が父と喧嘩をしなければ……IT会社で大町に出会わなければ……そのIT会社の社長がヤンキー上がりのDQNばかり可愛がる茨城出身足立区在住じゃなければ……そして大町が「リクルート」12月号を手に取らなければ……合体も仲魔システムもそこでは誕生しなかったろう。『女神転生』も『ディープダンジョン』と同じように、忘れ去られたファミコンRPGのひとつとなったかも知れない。
           しかしこうして思い返してゆくと、結局単なる偶然の重なりではなく、この作品が世に出るために、さまざまに用意された必然があったのではないかと、考えさせられるのである。
           それこそこの偶然は悪魔が仕組んだ筋書きであったかも知れない。そしてメガテンの作品群は、世界をナナメから見る少年少女たちに、ひとつの銀の鍵をそっと与えることになるのだ。


          ≪真の世界へ≫
           『真・女神転生』は現実社会が悪魔の介入によって崩壊していく世界を描いて行く。舞台は東京。物語は吉祥寺から始まる。
           何故吉祥寺かと云えば、私がこよなく愛した街だったというのもあるが、さまざまな点で“揃っていた”というのが本当の答えだ。
           まず郊外のまとまった街であること。いきなり都心が舞台では広すぎるのだ。ゲームの最初は一定にくくられる空間が欲しかったのだ。
           そして枝分かれしたアーケード街。これがダンジョンに見立てられる。中野や武蔵小山では、このアーケードがほぼ一本道で面白みがない。
           さらにエコービルという謎の駅ビルがあった。吉祥寺という大きな街の駅ビルなのに十年くらいテナントが入らず、何か出るのだと云う噂の曰く付きの建物だった。たしか地下だったか、ゲームセンターだけが営業していたが、しばしば謎の機械トラブルが生じていた。後に「ゆざわや」が入るのだが、異様に天井の照明が多く、店内は目に痛いくらい眩しい。まるで僅かでも闇が侵入するのを怖れるかのようだ。
           JR吉祥寺駅自体、飛び込み自殺の多いヤバイ場所で、ある体験談によると、ホームから線路に腕を引っ張られたという話もあるほどだ。
           一方井の頭公園という自然エリアもあり、さらには動物園や植物園まである。実はこの井の頭公園というのも、心霊スポットとして知る人ぞ知る霊地なのである。
           当初は井の頭動植物園をPCが探索し、怪異を探るというエピソードがあった。動物に悪魔が憑依合体して街を襲うというプロットだったのだが、ROM容量が無いということでプログラムリーダーの岡田氏に却下されたのであった。
           そして、ここで初めてライト/ダークにロウ/カオス属性が加わるのだが、TRPGの『ストームブリンガー』からの頂き物であるのは知っている方はご存じだろう。ロウとカオスは、『ストームブリンガー』が表現しようとしたマイケル・ムアッコックの世界から来ているのだ。
           プレイヤーは最初ロウ側の主張を聞いて行動するが、自分がどうするのかを判断して行動する。この正義の価値をプレイヤー自らが決められるのも、メガテンならではである。


          ≪東京ダンジョン≫
           私は東京というダンジョンが好きだ。
           昔は目的も無く街を歩き、建築家の夢と妥協の産物である都市計画の構造や、無計画に広がった地下道を興味深く探索したものだ。
           『真・女神転生』は私にとって、愛する東京ダンジョンを皆に伝導する場でもあった。 スーパーファミコンというハードの表現力の限界はあったが、出来るだけそれを伝えようと努めた。
           こうした東京好きの背景にはもちろん、菊池秀幸の『魔界都市新宿』や荒俣宏の『帝都物語』、さらには栗本薫の『魔界水滸伝』が流れている。
           しかし東京という街の持つ猥雑な魅力は、どうしてもスーファミでは表現しきれなかった部分である。
           『真・女神転生2』や『真・女神転生・・・if』では、私はシナリオ担当から外れた。これらの作品が東京という都市から離れているのは、東京ダンジョンにこだわらない開発者がシナリオを担当したというのもある。

           完全にアトラスとは別ラインで作ったパソコン版メガテンの『偽典・女神転生』では、実際に東京の地下道を取材し、使える構造はそのままダンジョン構造に活かしたりもした。ここにおいて、東京は再び壮大なダンジョンと化したのである。しかし、未だ私の望む廃墟の美までは描ききれてはいなかった。それを作るには、相当なる資金と時間が必要とされるのだ。

           今現在『真・女神転生IMAGINE』の新しいシナリオを担当させて貰っている。
           この世界は私が作ったメガテンを愛する者たちが作ったといえるだろう。
           ここには東京ダンジョンがある。そして廃墟もまた。
           私の伝導は事を成したのであった。
           そして再び私がこの世界に舞い戻ってきたわけである。
           さらなる怪しの街を私は渋谷の地下と池袋に求めた。
           これらは奇しくも私がゲームに関わり長く事務所を置いた場所である。池袋は父銀一郎と黒田幸弘氏が作ったレックカンパニーというウォーシミュレーションのゲーム開発会社があった。そこで私はゲームのノウハウを身に付けつつ、空いた時間にはサンシャインシティの謎を探索した。
           渋谷は私が会社を起し13年間根付いた場所で、東京でも屈指の街ごと霊的スポットとなっている特殊な場所だ。
           今までとはまた違った、新生IMAGINEの東京ダンジョンが今年誕生する。
           オンラインゲームの魅力は、こうして世界がだんだんと広がって行くことにもある。
           メガテンという悪魔は、今も我々のすぐ隣で息づいていて、存在の拡張を続けていくのだ。


           最後にちょっとだけ宣伝をさせて貰いたいのだが『真・女神転生』とはまた別の私の世界、『新世黙示録 Death March』がザウスから発表される。
           これは東京でもずっと郊外の団地が舞台になっている。団地もまた、私がダンジョンに見立てる建造物なのだ。
           18禁ゲームと云うこともあって、ここではさらに“やってはいけないこと!”をたくさん盛り込んでいる。日常の惰眠がお嫌いな方には、是非とも「瞠目して待て!」とお伝えしたい。(鈴木一也)
          | 東京SF論 | 06:32 | - | trackbacks(2) | - | - | ↑PAGE TOP
          特別掲載:東京SF論『真・女神転生』をめぐる外挿法(エクストラポレーション)の射程
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             引き続いて、岡和田晃による『真・女神転生』論をご覧ください。



            『真・女神転生』をめぐる外挿法(エクストラポレーション)の射程
                                   岡和田晃



             本論考では、今や一大産業と化した感のある『女神転生』シリーズの中でも、人口に膾炙し、かつ尖鋭的なシナリオと練りこまれたゲーム性によって、名実ともにシリーズを代表する傑作との評価を崩さない『真・女神転生』と、同タイトルが体現したSF的想像力について、主に、SFの重要な技巧である外挿法をめぐる形で論じていく。


            ●空無化された境界

             「メガテンの記憶」において鈴木一也は、『女神転生』シリーズの出発点を、西谷史の小説『デジタル・デビル・ストーリー』が体現したような、「伝奇モノと云われるバイオレンスとセックスとクリーチャーの盛り合わせ」に置いている。加えて鈴木は西谷の小説を、ライトノベルの最初期の作品として位置付けている。
             伝奇小説が有したいわゆる偽史的想像力と、その想像力が表象する戦後日本の時代精神が、いかにしてライトノベルに流れ込んだのかということについては、たとえば笠井潔が「山人と偽史の想像力」、「「リアル」の変容と境界の空無化」などにおいて、戦後日本の思想史的な系譜学を踏まえたうえで精緻な考察を行っている。
             笠井は、おそらく西谷の諸作品もそのカテゴリーに収められることになるだろう八〇年代の伝奇小説を、山口昌男の文化人類学に見られるような、周縁、日常に対する非日常の境界を明確化した作品だと位置づけた。そのうえで笠井は、「いまや(引用者註:発表時は二〇〇四年)探究されるべきは、境界論的な境界ではなく空無化された境界」だと明言している。
             しかしながら振り返ってみると、空無化された境界の果てに待ち受けていたものは、人間と世界とを媒介する社会が完全に消滅した圧倒的な真空にほかならかった。
             むろん、そこにも可能性は宿りうるが、批評的言説の多くは、空無化された境界を成立させた位相と、世界と自己とを媒介する中間領域が消滅した状況下において中間領域に代わるオルタナティヴな想像力がいかにして可能になるのか、という問題意識を欠いてしまっていた。
             そのため、「空無化された境界」をめぐるフィクションや、フィクションをめぐる言説の多くは――個々の自意識の中で当て所なく自涜を続けるような――ひどく貧しいものへと堕してしまった部分が、確実にある。
             そうした実例の一つとしては、福嶋亮大の「セカイ系評論と決断主義」が挙げられる。同論考において福嶋は「どのみち、今の日本では「物語」の選択はほとんど任意的・趣味的なものとなっている。」と乱暴に要約し、個々のフィクションの担い手の特性を捨象して「物語性や思想性を放棄し、崇高のイメージで一発キメている作家」と一括りにする。
             そして彼は、真空の内部で苦闘する想像力の位相を、すべからく空無化された状況に寄り添う「美やアイロニーと一体化すロマン主義者」として片付けようとしている。
             もちろん福嶋の発言はあくまでも事例の一つにすぎず、そこのみを批判するつもりはない(ついでに言えば福嶋の批判対象には筆者自身も含まれているが、この場を借りて個人的な攻撃を行なうつもりもない)。
             しかし、かような個々の想像力の間に横たわる差異を暴力的に消滅させようとする類の短絡的な姿勢がもたらす閉塞的な状況に対し、打開のすべを模索が可能な想像力のあり方を模索することが、フィクション、ひいては表現全般の言説をめぐる喫緊の問題として立ち上がっていることは言を俟たない。
             そのためには笠井の言う「空無化された境界」を、SFの形で考察し直す必要があるだろう。


            ●和製サイバーパンクの異端児

             そもそも西谷自身の小説にせよ、『神々の血脈』や『東京SHADOW』のページを改めて繰りなおすと、ライトノベルと言う言葉から私たちがまま連想しがちな、煩瑣な萌え記号の充溢からは縁遠い、圧倒的な豊饒さへ直面することに気がつかされる。
             むろん、伝奇小説やライトノベルの中にも優れた作品は多数、存在している。ここでは両方のジャンルにまたがる佳作として望月守宮の『無貌伝』シリーズを提示しておきたいが、一方で、かつての西谷作品に書かれてきたような豊穣さにもまた、焦点が当てられてしかるべきだろう。
             確かに、『女神転生』シリーズは、バブル経済に代表される80年代という稀に見る「ゆたかな社会」をそのまま反映しているようにも見える。
             しかしながら見落としてはならないのは、西谷の小説が基盤としたような、コンピュータ・サイエンスと魔術理論を融合させ、悪魔召喚プログラムを開発した高校生が日本神話の神々とともに、堕天使や悪魔と戦うという構図は、必ずしも伝奇が「ゆたかな社会」を表象してきたというだけではなく、むしろSF的な外挿法(エクストラポレーション)を前提としているところ大きいことだ。
             かつて、コンピュータ・テクノロジーの進化を軸に、SFやゲームが、メディアと文化、そして社会をラディカルに変革するという熱気が投影されていた時代があった。
             SFにおけるその成果は、なんといってもサイバーパンクである。サイバーパンクは単なる文学的な流行り廃りではまったくなく、芸術ジャンルの内部運動を経て、芸術作品を通してもたらされた現実認識の異化作用という効果までもを刷新しようとしたラディカルな運動だった。
             現に、サイバーパンクの旗手であったウィリアム・ギブスンは、ロジャー・ゼラズニイやJ・G・バラードといったSFにおける先達や、ウィリアム・バロウズのよ旧来の文学観からするとまさしく異端的な書き手から、積極的に方法を吸収していた。こうしたサイバーパンクの熱気は、巽孝之の『サイバーパンク・アメリカ』へ克明に記録されている。
             運動としてのサイバーパンクは、やがて90年代に入り、「サイバーパンク党」の「書記長」として振る舞ったブルース・スターリングが「80年代サイバーパンク終結宣言」を描いて自ら引導を渡すこととなった。そして、サイバーパンクとして認知された作家たちは、もはや特定のラベルに囚われることのない、各々の構築した領域へとその仕事を進めていくことになる。
             しかしながら、アメリカのサイバーパンクがもたらした成果は遠く日本においても浸透を見せた。その収穫の一つに、柾悟郎の『ヴィーナス・シティ』を挙げることができる。2010年の私たちから見ると、『ヴィーナス・シティ』が描き出したヴィジョンのうち、もはや色褪せているようにも見える部分は少なくない。身体改造、通信方法の転換などは、私たちにとってはもはや何も目新しいものに見えず、かえって「東京おたくランド」なるグロテスクなカリカチュアそのものが強調されてしまったような皮肉な情勢さえうかがえる。
             だが『ヴィーナス・シティ』に充溢している、サイバーパンク精神を全身で呼吸しているという軽やかな息吹は他に替えがたいものであり、その一点において『ヴィーナス・シティ』は今でも読むに値する作品となっている。そして『ヴィーナス・シティ』と同年に発表された『真・女神転生』もまた、和製サイバーパンクの傑作として理解することが可能だと言える。
             そもそもサイバーパンクとは、ダナ・ハラウェイの『サイボーグ宣言』、ルーディ・ラッカーの『ソフトウェア』、そして何よりもスターリングが編んだアンソロジー『ミラーシェード』、そしてラリィ・マキャフリィの『アヴァン・ポップ』に顕著なように、人間と機械、性と生、実在と情報といったような相反する要素がただ対立するのではなく、相互浸透と止揚の過程を経たうえで、いまだ誰も見たことがないフロンティアを希求しようとした運動だった。
             はからずしも『ヴィーナス・シティ』と同年に発表された『真・女神転生』は、こうしたサイバーパンク的な二項対立を、科学とオカルティズムの止揚という形で、そして何よりも、ゲームをプレイするユーザー自身が完成させる双方向的な物語として提示したと言ってよいだろう。


            ●属性(アラインメント)とポストヒューマニズム

             『真・女神転生』の世界は二元論の世界だ。そこに生きる者たちは、ロウ(秩序)と混沌(カオス)、ライト(光)とダーク(闇)という属性(アラインメント)を初めから帯びさせられることになっている。
             主人公は当初は中立(ニュートラル)からゲームを開始するが、面白いのは、中立の主人公は多くの場合、属性間の天秤を揺らすことなく、ゲーム内でのクエストを数多くこなすことで、徐々に特定の属性へ傾斜していくことになる(中立のままでエンディングを迎えることもまた可能だが、それは最も難しい選択肢となっている)。
             鈴木一也が「メガテンの記憶」で言うとおり、この属性システムは明らかにマイクル・ムアコックの創造した「エターナル・チャンピオン」シリーズの宇宙観に基づいている。
             会話型(いわゆるテーブルトーク)RPGの『ストームブリンガー』は、ムアコック作品の背景世界を丹念に慫慂し、体系的なルールメカニズムとワールドセッティングを提示したものだった。ニューウェーヴSFの洗礼を受けたヒロイック・ファンタジーの鬼っ子としてのムアコックの精神が、国産サイバーパンクの異端児としての『真・女神転生』の独自性に確かな花を添えているとはまた痛快な話だが、それ以上に、この属性という概念が『真・女神転生』が紡ぐ物語を、日本という狭い世界に留まらない、ジャンルとしての特質を活かした広がりを与えている。
             『真・女神転生』の世界で生きるためには、誰もが何らか属性の内に身を置かねばならない。それはイデオロギーというよりも、イデオロギーを成立させる前提となる共同体の理念型、ひいては一種の身分と国籍の獲得に近いものがあると考えられる。
             『真・女神転生』は、鈴木一也がシナリオ・ライティングに携わった前作『女神転生供戮紡海い董宗M・ウォルター・ミラー・ジュニアの『黙示録三一七四年』、ロジャー・ゼラズニイの『地獄のハイウェイ』、アシモフ&シルヴァーバーグの『夜来る(長篇版)』、さらには『ダンジョンズ&ドラゴンズ』のワールド・セッティング“Dark Sun”といった系譜に連なる――いわゆるポスト・ホロコースト的な暴力性を全面に押し出している。
             『真・女神転生』において、いわゆるクリーチャーは、天使や精霊といった存在をもそっくり含めて悪魔と呼称される。キャラクターは銃器や魔術をもって、彼らと対峙し、時にはコミュニケーションを図って仲魔にし、その力を自らの糧としていくことになる。
             こうした舞台装置の上でプレイヤーが演じることになる主人公は、直面する選択肢の多くは、人間性の根本的な原理を問い直させられるようなものばかりだ。そしてその最たるものは、物語のクライマックスにおいて、主人公は自らと属性を異にする友を殺さねばならないという点だろう。
             友の一人は、主人公のために命を投げ出し、秩序の原理を体現したロウヒーローとして、東京にカテドラルを建築しようと死力を尽くす。
             対して、飽くなき力を求める友は、悪魔と自らの力を融合させ、混沌の原理を体現したカオスヒーローとして、己の欲望を最大限に増幅させ、それを力へと転化させようとする。いずれの属性を進むにせよ、彼らのどちらかとは対立を免れることはできない。
             サイバーパンク作品の多くは、テクノロジーの果てに、旧来の人間性とは異なる圏域へと到達する、いわばポスト・ヒューマニズムを夢見るが、『真・女神転生』は、それを、かつて八百万の神々が支配した日本独自の精神性へと再帰させたところに大きな特徴があると言ってよいだろう。
             プレイヤーが成り代わる主人公は特定の属性を選択し、他の属性と戦わねばならないが、属性を選択しない道を選んだのであれば、他のあらゆる属性を敵に回さざるをえないのだ。そう考えれば、『真・女神転生』における中立という属性は、さながら存在論的な様相をも呈するものであり、加えて、和製サイバーパンクの異端児としての『真・女神転生』の独自性を裏側から指し示してもいるものだと言うことができる。


            ●双方向性と拡張する神話

             『真・女神転生』の発表の翌年、鈴木一也は『真・女神転生RPG』という会話型RPGを発表している。
             これは『真・女神転生』の世界観を統制しているブラック・ボックスを、ユーザーが自在に活用できるように公開しつつ、ユーザー独自の色付けを加えていくことで、ユーザー自らその枠組みに従いながら、自分だけの物語を創造し、友人とともに体感できるように工夫された作品であった。
             そこでは、『真・女神転生』に登場したダヌー神族(ダーナ神族)などの西洋・東洋の垣根を越えた各種神族の設定、ヴードゥーやマントラへ至る魔術の設定、ひいては真言立川流からオウム真理教さえもが含まれるカルト集団までもがデータ化されて紹介されていた。そのこだわりはある意味において、『真・女神転生』の世界を補完する役割を担っていたと言ってよいだろう。
             そしてユーザーはそれを受け止めた。例えば筆者の私淑する人物は、『真・女神転生RPG』の枠組みを用いて、さながら諸星大二郎の劇画にも相通じるような、天津神族と国津神族との対立にインド系の神々の侵略や、国津神族と姻戚関係にあるとされるヘブライ神族が介入する様が、『竹取物語』など日本の古典文学へと表象されるという壮大な物語を創造していた。
             こうした事例は、商業的な現場にあまり表出されることはないのかもしれないが、ユーザー間に『真・女神転生』を母体にした物語が確かに引き継がれてきたということを意味している。かような姿勢は『真・女神転生』の二次創作と捉えるよりも、『真・女神転生』を核に据えたサーガが、各々のユーザーによっても創造され続けてきたということを証し出すものとして理解すべきだろう。
             会話型RPGのルールシステムの系譜としては、『真・女神転生RPG』は、「スワップ・ダイス」という確率論の暴力をユーザーの介入によって逆用するという画期的なシステムの特徴性のみがまま着目される。しかし総体としての『真・女神転生RPG』のグランドデザインが、和製サイバーパンクとしてのサーガを広範なユーザーへ切り拓いてきたことは、もっと注目されてよい。
             1993年時の発表から現在に至るまで、そうしたサーガが語り続けられていることは、『真・女神転生RPG 誕生篇』から、『真・女神転生TRPG 魔都東京200X』へと至るRPGデザイナー/ライターの朱鷺田佑介がデザインを手がけた『真・女神転生』の世界観を軸にした会話型RPG群が一貫して高い評価を受けてきたことでも裏付けられている。
             そして鈴木一也自身も、『真・女神転生RPG』のルールメカニズムを用いた大作パソコンゲーム『偽典・女神転生』を世に問うことになった。『偽典・女神転生』は、『真・女神転生』と並んでゲームというメディアにおける和製サイバーパンクにして「東京SF」の傑作『トーキョーN◎VA』第2版を発表することとなった健部伸明らがノベライズを手掛けていたが、『真・女神転生』の熱気は、常にその設計図を描いたものたちをも巻き込みながら、螺旋的に拡大と発展を続けてきたというわけだ。
             『偽典・女神転生』は何よりも、国産コンシューマーゲームの枠組みの限界に迫った宗教性の根源を追究したシナリオと斬新な演出によって知られており、ゲーム畑のみならず文芸的な側面からの再評価が待たれるが、「メガテンの記憶」によれば同じPCゲームというフォーマットで鈴木一也は『新世黙示録 Death March』を発表する予定であるという。
             そもそも『新世黙示録』は、『真・女神転生RPG』に続いて鈴木がデザインした会話型RPGのタイトルを踏襲しており、おそらくは設定のいくらかは近似的な関係にあるものと推測される。その会話型RPG版『新世黙示録』においては、『真・女神転生RPG』に記されていた設定がさらに濃密なものとして膨らまされたうえで、独特の行為判定システムを軸に再考されていた。
             現在、会話型RPG版『新世黙示録』そのものも第2版が準備中であるということだが、こうした一連の作品が、世界各地に散らばった数々の神話・伝承の類を『真・女神転生』というフレームのもとへ外挿させ、ひいては『女神転生』シリーズが構成する壮大なサーガへ新たな一ページを加えようとしていることはまさしく疑いがないだろう。


            ●三島問題と東京ダンジョン

             『女神転生』シリーズに大きな影響を受けたという樺山三英は、『女神転生』のシステムが下敷きにしている『ウィザードリィ』を「ある種そぎ落とされたシステムの世界」としたうえで、『女神転生』を「極端に誇大妄想的に膨れ上がった世界」と対峙させている(「ハムレット・スリップストリーム」)。
             この「誇大妄想的に膨れ上がった世界」という樺山の賛辞は、『真・女神転生』シリーズが扱う神話が、外挿の経緯を経るだけではなく、内側からも照応されうるということをも示唆していると受け取ることができる。
             そもそもゲームというジャンルで表現される物語は、現実世界と直接の照応関係を持たないと、往々にしてその価値が不当に低く見積もられてきた。
             そのためか、『真・女神転生』は、神話的な物語の根幹に、戦後日本が抱えた文学的事件をまま背景としていることは、ほとんど語られてこなかった。
             『真・女神転生』は吉祥寺に始まり、半ば廃墟と化した東京をぐるりと一周していくことで、廃墟と化した東京の相貌を浮き彫りにし、そこに暮らす人間と、超越者たちとの関わりを可視化させていく話であるが、東京がかような崩壊の憂き目を見るのは、アメリカによってI.C.B.M.(大陸間弾道ミサイル)が撃ち込まれたという、いわば終末戦争(ハルマゲドン)的な情景が、物語の半ばで体現されてしまったからにほかならない。その際に核になるのが、三島(由紀夫)問題である。
             『真・女神転生』における三島問題は、ゴトウと呼ばれる、明らかに三島をモデルとした人物を介して語られる。彼は、世紀末日本の行く末を憂うがため、八百万の古き神々、すなわち悪魔たちと契約を結びクーデターを決行する。そして彼は「イチガヤ」の自衛隊基地を占拠し、東京へ戒厳令を敷くのである。
             プレイヤーはゴトウへ接触し、ゴトウと敵対するアメリカ合衆国大使トールマン(史上、核兵器を使用した唯一の大統領であるトルーマン大統領のもじり)の殺害を依頼してくるが、対するトールマンはトールマンで、プレイヤーへゴトウを殺すように命じてくる。
             ゲーム内において、ゴトウを殺すと「属性」をローに、トールマンを選ぶと「属性」がカオスへと進む重要なフックとなるイベントであるが、真に重要なのは、このゴトウの事件を契機として、東京へアメリカからI.C.B.M.が撃ち込まれてしまうことにある。トールマンの正体が雷神トールであり、物語世界へ破滅をもたらす神話的な位置づけをも与えられているることをも勘案すると、この事件はなかなかに示唆的で、かつ『真・女神転生』を一種の「戦後文学」として見ようとする眼差しを私たちへと与えるだろう。
             大江健三郎は、同時代を生きた文学者としての立場から、三島由紀夫がその人生の最期の日に市ヶ谷駐屯地へ押し入ったことを次のように述べている。少々長くなるが、同時代を体感した文学者の貴重な証言として紹介したい。
             さて三島由紀夫は、かれの擬古文的な文体や耽美的な美学が韜晦して押しかくしていた、しかしまぎれもない戦後文学者の特質において、同時代と深くかかわっていました。ただ、かれより他のほとんどすべての戦後文学者が、一九四五年の敗戦のもたらした政治的、社会的、倫理的な変革の方向づけに、能動的な姿勢で同行しようとしたのに対して、三島はやはり能動的な姿勢で、逆行しようとしたのです。
             (中略) 
             現実判断の能力にもたけていた三島由紀夫は、かれの自衛隊でのクーデタ呼びかけが、現実的な有効性を持つとは考えていなかったにちがいありません。それはあえて口に出してそう言ってみるだけ滑稽なような話ですが、あえて敷衍すれば、彼は市ヶ谷の自衛隊に闖入した、あの場でクーデタが引き起こされることを期待していなかったのみでなく、自分の私兵との行動が契機をなして、のちにクーデタが成立するというプログラムについても、いかなる期待も持っていなかったと思われるのです。もしいくばくかの期待を将来にかけて書いたとすれば、彼の遺した文章は、あまりにも具体的な意味内容に欠けています。
             つまりはクーデタ呼びかけとその失敗、そして自決という、主観的にのみ首尾一貫する筋書きを、かれは自己演出したのですが、このパフォーマンスは、かれの天皇国家観、文化観、歴史観を顕在化させて、それと同時に、顕在化したものをしめくくるという、戦後史上へのひとつの幕引きへの配慮をこらしたものでした。つづいてそれは、日本の現代文学の状況からも、三島由紀夫が顕在化させたものを、それが最後の花火であったかのように消滅させてしまう、という役割を果たしたのです。(「戦後文学から今日の窮境まで」)

             大江の言う「日本の現代文学の状況」という言葉を「現代日本のフィクションの状況」へ置き換えれば、『真・女神転生』の目指したものが見えてくる。そしてここで大江が語る三島の「能動的な姿勢」の「逆行」、ひいては「三島由紀夫が顕在化させたもの」とは、フィクションで表象される美学と、行動によって変革される思想状況との一致という、日本浪漫派の延長線上に位置づけられる問題にほかならない。それは、例えばミシェル・フーコーが述べたような「言葉と物」の乖離へも通じうる。
             そして、三島自身も死の直前に編集者へ渡したという『天人五衰』のラストで描かれる、圧倒的な「無」の静謐が露わにした、ヒューマニズムの終焉とも言うべき圧倒的な静謐さとも密接に関わっている。
             笠井潔は、三島の姿勢を「天皇の創造的な再中心化」と述べており、「一九六〇年代に三島由紀夫が、続いて七〇年代に解体期左翼が準備し」、「八〇年代的な消費者大衆の無意識的な渇望と絶妙に交差した」ものとして系譜付けることにしている(「山人と偽史の想像力」)。
             こうした流れで見ると、『真・女神転生』が、三島由紀夫のクーデタに成功した未来像を、ポスト・ホロコースト的な廃墟としての東京して描き出したことには、何かしらの社会史的な必然性があるのではないかと考えざるをえない。
             『テロルの現象学』において笠井潔は、「三島にとっては自殺こそが、観念の肉体憎悪の究極の形」とし、「肉体を観念の支配下におき、肉体を美的に形式性の奴隷たらしめることの極限的完成」として、三島は「死」を「美的に完結したもの」と措定したのだと書いている。こうした三島の姿勢は、『真・女神転生』のヴィジョンと奇妙なまでに対照的だ。
             そして大江健三郎自身も、『さようなら、わたしの本よ!』において、もしも三島が、「肉体主義」を「美的に完結したもの」としなかったとしたらどうなっていたのかという考察を行なっている。それはすなわち、三島が自決するのではなく、「自衛隊にクーデタを挑発する、しかも最初の失敗でそれをあきらめない。むしろ失敗に続く国家の弾圧すら逆手にとる」といった「ポジティヴな構想」にほかならない。
             その後、あまりにも「早熟」だった三島が、監獄内での熟考を経て、バブル時代の狂騒に沸く日本に復帰したら何が起こったのか。それとともに、三島の「考えと行動力は本気なもの」と受け止めた者たちはどうなっていたのか。いや、仮に三島が死んだままでいても、その「失敗を教訓」にして、三島と同様の問題意識を抱えたものたちが、彼の自決後の「三十年、もし準備を重ねていた」ならばどうなっていたのか、との問いかけが、『さようなら、私の本よ!』では投げかけられる。大江は『さようなら、私の本よ!』に関係したとあるインタビューで、こうした問いへの答えを自ら出している。そこでは大江は、おそらく三島はオウム真理教すら越えるような、カリスマ的な教祖と化していただろう、とありえたはずの未来を予測していた。そう考えると、大江のヴィジョンと『真・女神転生』の発想の相同性が見えてくる。
             『真・女神転生』の数年後、はからずしも『真・女神転生』が描き出したヴィジョンというものは、地下鉄サリン事件に代表される一連の騒動において、現実化されてしまった。真・女神転生』は着実に何かを捉えていた。それが、オウム事件以降、可視化されてしまったのだった。
             そう考えると、オウム事件、そして9.11を経た後の私たちがいま『真・女神転生』を現代の神話として受け止めることには何の不都合もないことがわかるだろう。ありうべき未来を考えるために。
             いや、ひょっとすると、私たちはそれと気が付いていないだけで、本当はトールによってI.C.B.M.を落とされてしまっているのではなかろうか。
             鈴木一也は、自らの創作姿勢を、唐十郎の「赤テント」に準えているが(「ゲームデザイナー対談」)、それは巽孝之の言う「書割国家」としての日本(『日本変流文学』)から逃れるための、苦肉の策であったのかもしれない。
             西谷史は、三島由紀夫を軸に、三島と渋谷、そして明治神宮と東京ダンジョンの相同性を語った(「悪魔について」)。そして「メガテンの記憶」において鈴木一也は、自らが『女神転生』シリーズの創造に携わった経験と同じくらいの重みをもって、東京をダンジョンとして再解釈することへの情熱を語った。
             東京という地勢を、ひとつの壮麗な廃墟とそれに付随する地下都市として語り、再解釈すること。その意識は、例えば松浦寿輝の『花腐し』や清水博子『街の座標』など、東京を迷宮都市として語るヴィジョンにも相通じるものがあるだろう。そう考えれば、『真・女神転生』という巨大な作品が、いかに豊穣なSF性を外挿させてきたのか、その射程がおぼろげながら窺えるように思える。
             そういえば、『真・女神転生』の事実上の続編と見なすこともできる『偽典・女神転生』は、初台のシェルターから物語を開始するのであった……。(岡和田晃)


            参考:三島由紀夫の市ヶ谷駐屯地占拠と割腹自殺を伝える当時のニュースの動画。
            http://www.youtube.com/watch?v=hPTd6BPMGpM&feature=related
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            特別掲載:東京SF論「塚本晋也と新井素子の(一瞬の)交錯」
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              塚本晋也と新井素子の(一瞬の)交錯

                                  藤田直哉


               塚本晋也と新井素子の交錯
               この文章は、一見正反対の作風に思われる塚本晋也と新井素子とが、一瞬接近遭遇した瞬間について書こうと思う。人工的で、鉄と都市を描き、マッチョな作風の塚本晋也と、「あたし」の一人称の美少女的な作風で練馬を中心に描いていた新井素子とが、どう交錯するのか。それは『悪夢探偵2』(2008)において現れたと考えている。時間的に正確に言えば『悪夢探偵2』が影響を受けたと言えるのかもしれない。だが僕は、そこをあえて「交錯」と呼びたい。それが正当なのかどうかは、ご判断いただきたいと思う。


               後期塚本晋也の作風の変化――『ヴィタール』以降
               『悪夢探偵2』までの塚本の作風をまず確認していこう。塚本は2004年の『ヴィタール』によって明らかに変質した。
               塚本晋也は『鉄男』で89年にデビューし、和製サイバーパンクとして高く評価された。その「和製サイバーパンク」というのは、当時その言葉が流行っていたからそう名づけられるのを拒まなかった的なことも監督は言っているのだが、身体が鉄に覆われ、脳の中もデジタルに侵入されるそのビジョンは、明らかに和製サイバーパンクと呼べるものであった。都市が鉄として身体に侵入し、脳髄もテレビのブラウン管の中身に侵入される。そんな中で性的な欲望を巡り、主人公とライバルの「やつ」は激突し、とてつもない加速の中で、巨大な破壊と世界の終わりに向かっていく。
               塚本晋也において「東京」は重要なモチーフである。『鉄男』でも東京が身体に侵入してくるし、傑作ボクシング映画『東京フィスト』(95)においても、高島平や西新宿の無機質で人工的な東京の映像が大量に現れる。基本的に彼が描くのは、無機質で人工的な都市・東京の中で、無機質で人工的で淡々と生きている人(特にサラリーマンや知的産業の人)が、寂しさや生命力の枯渇を感じ、精神的にノイローゼ気味になり、自らの中にある野生を甦らせるためにボクシングという暴力や拳銃による殺し合い、果ては性(『六月の蛇』)などを求めるというモチーフが一貫している。
               余談めくが、札幌市の郊外で18歳まで過ごし、近所のレンタルビデオ店でビデオばかり借りてきて観ていた僕にとって、東京のイメージと言えば塚本晋也の映画と『AKIRA』のイメージだった。サイバーでソリッドで無機質な近未来空間だと思い込んでいたのだ。上京して、早稲田に住み、初めて、東京は「塚本晋也の映画」みたいではなかったと気がついた。北千住や駒込など、下町情緒の溢れるソリッドではない空間が東京の大半を占めていると知ったのは、上京し、東京中を歩き回るようになってからのことである。余談のようでこれが余談でないのは、18〜22ぐらいまでの僕は、塚本映画のような、SFっぽい場所を映画に収めようとして東京中を歩き回り、果ては塚本晋也『悪夢探偵』(2007)のロケハンに参加するようになったからだ。塚本映画に現れるソリッドで人工的な「東京」イメージは、かなり周到に「緑」や「自然」を排除した上でようやく成り立っているのだと知ったのはそのときだ。いざカメラに収めようとすると、東京には意外と木や「緑」が多いのだ。
               「緑」が作品内の映像に直接現れるという契機となった作品が『ヴィタール』である。この作品は交通事故で記憶喪失になった男が、その事故の際に同乗していた恋人の死体を解剖していきながら記憶を取り戻していく物語である。この作品においては映像的に今まで排除されていた自然が現れる。沖縄の海岸や、森、葬儀場の窓から見える緑、キャンパスの木々など、これまでは決して出てこなかったような景色が姿を現している。
               最も驚いたのは『悪夢探偵2』(2008)の後半のカットだった。『東京フィスト』の反復のような都市描写に、意図的に「自然」を写りこませているのだった。この「自然」と「都市」の和解のような描写に触れる前に重要なシーンが存在する。それは主人公影沼京一の母親にまつわるエピソードである。超能力で他人の声が聞こえ、世界の全てに怯え、主人公を殺害しようとし自殺した母親との、自然の中での笑顔に満ちたイメージカットがクライマックスで挿入されているのだ。家族と、笑顔に満ちた調和のシーンが、手持ちカメラの、他の映像とは全く異質の質感で描かれる。そしてそれは森の中や自然の中をロケーションとして描かれるのだ。これは塚本映画において今までに全く見られなかった映像である。『悪夢探偵2』は「家族」をモチーフにし、「自然」が導入されており、そして映像的に「都市」と「自然」の和解が描かれている。作家論的には、やはり塚本自身に子供が生まれたということを抑えておくべきなのだろうが、「家族」が「自然」と結びつくというのはやはり不思議な印象を受ける。
              「人工的な都市」に対し、「自然的な肉体」とも言うべきものが性という形で炸裂するというモチーフは『鉄男』から続いているものであった。『東京フィスト』の殴り合いや、ヒロインのピアッシングによる「生の実感」、あるいはより直接的には『六月の蛇』のヒロインが性的に昂揚する場面である。もちろん、『六月の蛇』のヒロインが性的に昂揚する場面には、それを「撮影」する男と、カメラのフラッシュのような「テクノロジー」も介入していることも見逃せない。
               そのような「性」と「肉体」の形で噴出していた「自然」が帰結として「家族」という再生産に繋がるというのも頷けなくはない。同時にこの「自然」は『ヴィタール』においては恋人の死における「喪」の意味を含んでおり、『悪夢探偵2』においても、母親が自分を殺そうとしたトラウマと、母親の自殺に対する「喪」と「和解」の意味を持っている。この「和解」は『鉄男』『鉄男2』の、都市の全破壊に向かうような「自然=衝動」とは若干異なっている。『ヴィタール』は35mmフィルムによるせいか、静的な映像も多く、『鉄男』の過剰なカメラの運動性とは全く異なる質感になっている。塚本自身は、男性=人工、女性=身体=自然、のような安易な図式はもちろん用いていない。塚本作品における女性は冷たくてクールで、いわゆる「女性らしさ」とは幾分ズレる配役を敢えてしている。だが、『ヴィタール』における恋人の女性の死への喪の作業が「自然」と結びつき静的に描かれるのと、『悪夢探偵2』において母の死が「家族」の描写と共に柔らかい光の「自然」として現れることには、『鉄男』などに現れていた「都市破壊」の衝動としての「自然」とは違うものを見出さなければならないだろう。
               必ずしも僕はこれに与するわけではないのだが、男性的欲望と女性的欲望について、可能無限と実無限というようなメタファーで捉えている精神分析派のコプチェクという学者がいる。僕はここでジェンダーを巡る果てしなき議論をしたくはないので、彼女の主張をなるべく汲み取るように述べると、社会的な規範や要請によって、エディプス過程の乗り越えや主体化の仕方の違いによって、基本的に男性と女性とは欲望や享楽の持ち方が違うとされている(もちろん、この場合の男性・女性は、例外を含んだメタファーとして考えるべきであろう)。可能無限というのは、次々へと、先へ先へと進んでいく果てしのない無限のことであり、実無限は他者と一体化しながらそこに享楽がある状態を指すという。
               『鉄男』における「衝動」は「ドリルチンポ」によって女性を殺害し、都市破壊に向かって直線的に道路を突き進むラストシーンに象徴されるように、次へ次へ、先へ先へと向かうものとして表現されていた。しかし『悪夢探偵2』における「家族」のシーンは、母親が「世界そのものをそれ自体として過剰に感受する人」として描いた上で、自分を取り囲む細密な葉っぱや木々や光が世界そのものを包み込んでいる状態を描くものであった。先へと突き進む「衝動=自然」ではなく、包み込む細密な世界それ自体である「自然」への移行が『鉄男』から『悪夢探偵2』には見出せる。これはコプチェクの言う可能無限と実無限に対応している。もちろん、可能無限が男性的系で実無限が女性的系だというのは、精神分析の立場から見たメタファーでしかなく、欲望の構造がそうなりやすい傾向が遺伝子によって脳構造の違いによって現れるという説も存在するのだが、このことの是非は今は議論の外に置くことにする。


               「自然」と「美少女イメージ」
               自然と人工はそもそも区別がつきにくい。文芸評論家柄谷行人は、何が自然で何が人工かの分割を巡るハレーションについて語っていたことがある(『隠喩としての建築』)。生成、創発などの「下から」的なイメージのある言葉は、創造、設計などの「上から」のイメージのある言葉に対して、「自然」や「人工」という対立で捉えられる傾向があるが、そもそも、ネット界隈で流行の生成や創発という用語にしたところで、それは「人間が作り出している」わけで、「管理者の目から見れば勝手に生まれている」ものに過ぎないので、人工と呼ぼうと思えば呼べる。筒井康隆がエッセイの中で自然破壊を論じて、人間もまた自然が生み出したのだから自然破壊というのは人工が自然を破壊しているというわけではないのではないかという趣旨のことを論じているが、これも人工と自然を巡る区分けの難しさを象徴する発言である。人間の中には、自然の部分と人工の部分があり、どこからどこまでがそうであって、どこからどこまでがそうでないのかというのは、多分に操作的な概念である。操作的な概念というのは、どこに「線を引くか」ということで政治的な利害が生じるために、その線引きの根拠を捏造する必要のある概念であるということである。
               例えば、男性性=人工 女性性=自然 のようなイメージ類型が存在する。ユングの夢判断の体系は「知性、論理、合理性、人工、意識」を男性性に割り振り、「感情、直感、非合理、自然、身体、無意識」を女性性に割り振っている。このことの根拠が脳構造にあるとか社会的な規定に過ぎないとかユングはオカルトだとかいう議論は全て脇に置くが、このようなユングの夢解釈は現在でも俗流の夢判断本などで利用されている。
               女性が自然で男性が人工などというのはもちろん現実的には嘘でしかない。女性が自然の産物であると同じように男性も自然の産物に過ぎない。構成要素は全てどちらも自然物である。あるいは生殖が自然である限りにおいて自然だが、生殖が人工であるかぎりにおいて人工でもあり、その比率は男女ともに変わらないはずだ。だがどのようなイメージを被せられるか、という違いは存在する。女性に自然のイメージを被せる人はいるだろうし、男性に人工のイメージを被せる人間もいるだろう。それは他人からの目である場合も自らそう規定する場合もあるだろう。
               女性に「自然」のイメージを被せるというのは、知識人や公的な言説の中で発せられることは少ないかもしれない。だが欲望の世界においてはそれは存在していたと言わざるを得ない。藤木TDCは『アダルトビデオ革命史』において、80年代前半の「美少女本番路線」についてこう言及している。それまでの本番ポルノビデオにおいては、水商売や風俗業に従事していた人々が出演して「演技」していたが、80年代前半の「美少女本番路線」においては、素人らしい「美少女」の「自然さ」「自由さ」を示すような「性感表現」が好まれたということである。その起源に藤木は70年代に篠山紀信が撮影していた「美少女シリーズ」において自然光を用いた質感を挙げている。つまりここで観察できるのは、ポルノを消費する男性が、女性に「自然さ」を欲望する視線を注いでいたということだ。
               この美少女ブームはポルノにおいてだけではなく、1980年代後半には、一般の芸能界にも起こった。おニャン子クラブなどはその代表である。女性に対して注ぐ男性の欲望の視線が変化したのだ。
               さて、話をSFに戻したい(ここから塚本晋也に戻るのに随分迂回路があるのだが、ご容赦ください)。この当時SFにおいて「美少女」という視線を注がれた人物がいた。新井素子である。吾妻ひでおのマンガによって「美少女キャラクター」として描かれた彼女について、ササキバラ・ゴウはこう述べている。「新井素子の作品は女の子の一人称で書かれ、少女まんがやアニメなどの影響を強く感じさせる内容のSFでした。高校生でデビューしたという作家本人のキャラクター性と合わせて、多くの男性読者が新井素子に「萌え」て、ロリコンブームなどと歩調を合わせるよう人気が高まります」(『〈美少女〉の現代史』p135-136)つまり、新井素子は、著作物を通して、著者本人が「美少女」として「萌え」られるという欲望の対象とされたのだ。このことを新井自身は、吾妻ひでおに対する(半ばまんざらでもなさそうなニュアンスも込めたような)反発として示していたりもする。もちろん、このイメージを利用することで売り上げや知名度が上がった部分もあるのだろう。でも、作品には若干そのことに対する葛藤が示されているように読める部分もあったりもする。
              「美少女」に「自然さ」を求める傾向があったことと、新井素子が『グリーンレクイエム』(1980)や『緑幻想』(1990)という作品を書いているのは偶然だろうか。『グリーンレクイエム』に登場する主人公の女性は植物系の異星人である。続編『緑幻想』は、そのタイトル自体が「自然という幻想を被せる人々」への皮肉のようでもあり、内容もまた植物が人類に復讐をしようとする話である。
               新井はまた『ネリマ大好き』(1992)という対談集も刊行している。彼女の作品は練馬が舞台になっていることが多い。塚本晋也が高島平や西新宿や品川などを描くのとは対照的である。新井にとっての東京は「練馬」が重要な場所なのだ。筆者も新井さんにインタビューをさせていただく際(「新井素子、練馬を語る」講談社BOX『東浩紀のゼロアカ道場「伝説の「文学フリマ」決戦!』収録)練馬にお邪魔させていただいたのだが、練馬は畑があり、家の庭には木が生えており、東京の中では「自然」が多くある場所であった。
               とはいえ、ここでは新井素子作品における「自然」を検討するだけの紙幅も筆者の能力もない。興味深く思っているのは、練馬を中心に描いていた新井素子と、冷たい東京を描いていた塚本晋也がクロスするポイントがあるのではないかということだ。先ほど述べた『悪夢探偵2』における、母親との記憶の中で、母親が「世界全体を微細に感受していた」ことと家族という主題と自然という描写が同時に現れたとき、真っ先に思い浮かべたのは新井素子の『チグリスとユーフラテス』(1999)だった。
               新井には家族的想像力があると東浩紀は述べている(「セカイから、もっと近くに!――SF/文学論」)。その家族的想像力の範疇は、キャラクターだけではなく、新井が好むというぬいぐるみや、果ては植物や、他の生物にまで及ぶのではないか。『チグリスとユーフラテス』で示された、人類が死滅したとしても、生物そのものが存在することによってある種の充足感すら得られるという家族的な感覚に近い地点に、『悪夢探偵2』は立っていたように思う。
               『悪夢探偵2』は基本的にはホラーである。母親は息子を殺害しようとし、世界の全てに怯え続け、発作を起こし、果ては自殺する。彼女にとって自分を取り巻く世界の全てが蠢く悪意のように感じられている。だが、そんな彼女も、森の中で、家族に囲まれて、自部を取り巻く全てが光り輝く微細な優しい光に包まれて、笑いあっている瞬間があったという記憶によって、主人公の影沼京一は救われることになる。彼女は世界全てを自分の内側に取り入れてしまうからこそ怯えているのだが、それは反転すれば世界全ての肯定となる。『チグリスとユーフラテス』で示されているのは、不幸ではない終末といったところだろうか。植物や、ぬいぐるみのような無生物、果ては微生物などを全て自分と同じような家族的存在と感じられたとき、そこには肯定しかない。自らの個体が死んだとしても、自分の遺伝子が残らなかったとしても充足して死んでいける、そんな「他の生物すら家族と感じる」途轍もない突き詰めた境地が『チグリスとユーフラテス』には描かれている。


               母的全体性と断念の方向性
               もちろん、そんな境地に達するのは簡単ではない。『チグリスとユーフラテス』は、様々な「生きる意味」を追い求めながら、それでは満たされない複数の人物を描くことで、最終的にルナがその境地に至るように書かれている。惑星の発展や、恋愛など、「生の意味」を様々なものに求めては挫折していく過程の末に家族的な肯定感が現れている。
              その「生命」への肯定性は「母」的な部分がある。『緑幻想』の結末において、「宿命的に、我々植物は、すべての生物を、すべての動物を、愛している」と、植物が人類や生命を愛していると語っている部分を思い出すだろう。それは「自然破壊」をするものをも肯定し、愛する。この「肯定」の難しいところは、それが「自然」や「母」という幻想を投影してしまうことすら肯定しているということである。だから、それに対してそのような幻想を「内面化してしまっている」という批判も届かない位置にこの「覚悟」は存在している。
               このような肯定感、受容性、家族的な包み込む気持ちは、おそらく現実世界においては決して維持できる類のものではないであろう。フィクションの中でこそ実現しているものである。この「母」は「母なる地球」「母なる台地」などと言われるときの、メタファーとしての母である。
               塚本晋也は『鉄男』において、鉄と一体化していき、都市と一体化することを、破壊衝動という形で目指していた。それが『悪夢探偵2』において、植物(を含む世界の全て)と一体化しており、そのことに恐怖と肯定感の両方を揺れ動く「母」を描いたという点は興味深いことである。可能無限的な「男性的」欲望は全体性を志向する。『鉄男』においても、破壊衝動という形で都市と一体化し、東京という全体性を獲得することが欲望されていた。一方で『悪夢探偵2』において植物と世界と一体化した肯定的な全体性のようなものとしての「母」が記憶の中で描かれる。SFというのは哲学が断念した「全体性」の亡霊への夢を追い求め続けていると言ったのは『SF入門』の中の東浩紀だが、『悪夢探偵2』の影沼京一はその亡霊に常に脅かされているという点で、極めてSF的な人物である。
               新井素子の作品はその「全体性」、「母的全体性」とでもいうべきものを提供する。フロイト理論的に言えば、全体性を獲得したいという欲望は、胎内における完全に満たされた状態へと回帰したいという欲望を起源にしたものに過ぎない。『グリーンレクイエム』『緑幻想』は、「自然」や「母」を投影してくる欲望に対して、植物と交換するネットワークによって「母的全体性」を(自らの美少女キャラクターイメージに透かし見られることを前提とした上で)提示してみせる。それは全体性を志向しては挫折せざるを得ないポスト近代の哲学や学問や欲望に対する慰めのようである。
              『悪夢探偵2』の最後の恐るべき長いシークエンスで、母親が生きていて、料理をしてくれるシーンがある。だが、それは幻影でしかなかったことに気がついて影沼京一は号泣する。号泣することで、今は失われた「母的全体性」への希求を断念する。だが彼は夢と現実と区別のつかない世界をさ迷う「悪夢探偵」でいるしかない。そして彼は、亡霊に脅かされ続ける過去の自分自身を救うことで、自分自身を救うしかない。自分を殺しもし、肯定もした「母的全体性」を断念する過程がここには描かれている。
               新宿や西高島平を東京を描いてきた塚本、練馬を中心に東京を描いてきた新井。鉄や都市と一体となることを夢見た塚本と、植物と一体となるさまを描いた新井。その一瞬の交差が、『悪夢探偵2』と『緑幻想』『チグリスとユーフラテス』とに見出すことが出来るように、筆者は夢想する。ただ、その交差は一瞬のものであっただろう。母的全体性を断念した影沼京一と、社会的な達成のようなものを次々と断念していき生命との一体感に辿り着いた『チグリスとユーフラテス』とでは、同じ断念の過程でも、全く逆の方向に向かっている。2008年の『悪夢探偵2』と1999年の『チグリスとユーフラテス』が交差するというのは時間的に見ておかしいのかもしれない。本当は比較するべきは2010年の『TETSUO THE BULLET MAN』と『もいちどあなたにあいたいな』なのかもしれない。だが僕は、時間を越えて一瞬の交差があったということを一つの物語のようにして述べたかった。全く異なる資質と作風の二人が交差するこの瞬間こそ、僕は何かの奇蹟的な瞬間だったのではないかと思えてしまうのだ。
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              特別掲載:東京SF論「『岬一郎の抵抗』における東京の変容」
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                『岬一郎の抵抗』における東京の変容

                                石和義之


                 1980年代半ばに「毎日新聞」に連載された半村良の『岬一郎の抵抗』は、第9回「日本SF大賞」を受賞した(1988年)。同時代の社会的事件である「メキシコ大地震」や「いじめ自殺」などを取り込みつつ展開するこの作品は、東京の風景の変容を通して、同時代の日本を覆っていた気分やメンタリティをヴィヴィッドに捉えることに成功していた。

                 では80年代の東京においては何が進行していたのか?一言でいえば、それは新東京による旧東京の解体現象とでも呼ぶべきものである。そして旧東京という共同体の解体は、経済至上主義というあからさまな世俗的価値の猛威によってもたらされた。この時期、経済活動の流れにおいて、「生産」から「消費」へという重要な価値の転換が起こった。文化シーンにおいては、「アリ」から「キリギリス」への価値転換である。「生産」は「勤労の精神」にのっとっており、それは「アリ」のストイックさに通じる。一方、「消費」は「奢侈的享楽の精神」にのっとっており、それは「キリギリス」のエピキュリアニズムに通じている。80年代のメンタリティの場面においては、「生産の精神」と「消費の精神」が様々な領域でせめぎ合っていて、究極的には「東側の体制の崩壊」というかたちでひとつの結末を迎えた。

                 『岬一郎の抵抗』の物語は、資本の力が東京下町の松川三丁目周辺の地域を徐々に圧殺してゆく光景を、その冒頭においてサスペンスフルに描き出す。松川町の犬や猫、そのほかにも小鳥や植木などが、原因のわからないまま、次々と衰弱し命を奪われてゆくのだ。やがて小動物たちの死の原因は、町内の工場が制作する化学物質であることが判明するが、その新しい農薬が農産物市場における経済競争の切り札になりうるがゆえに、有楽町にある役所は下町住民の陳情を受け入れようとはしない。「資本(肉食動物)=国家=新東京」と「小動物(草食動物)=下町共同体=旧東京」の対立が鮮明化し、一種のパワーゲーム、というよりは小動物の受身の防御戦のさまが物語をおしすすめる。

                 生存の手段としての抵抗を繰り広げる旧東京のほかにも、経済競争のリズムだけには同調すまいと、追い詰められた小動物の頑固さで、繊細さに徹しようと身を寄せ合って生きている重要な二人の登場人物がいる。それが岬一郎とその恋人の梶伸子である。「その二人はただ気の弱い者同士なのかもしれない。人を傷つけることに憶病でありすぎ、それよりは傷つけられて耐えるほうを選んでしまうたちなのだろう」彼らの消極的な希薄さは、瞠目すべき強度に達しており、彼らのスタイルは同時代への批判と成り得ている。一郎と伸子は、ともに、福井県の出身である。半村良の「福井県」への言及は、70年代におけるつかこうへいの「熱海」へのこだわりを想起させるところがある。70年代において、つかは『熱海殺人事件』を通して、熱海やブスや工員への屈折した愛を語ったが、80年代には貧しき者の連帯は消滅し、熱海もブスも被差別民として蔑視されていた。彼らを嘲笑したのは「近親憎悪」を抱え込んだ田舎者であり、尊敬に値するところなど何一つない彼らによって、新自由主義的な醜い光景は広められていった。

                 当時の「東京」に対する「田舎者」の羨望は異様なほどに膨張していた。小中学校を私は、目黒区の自由が丘で生活したが、大学生時にクラス会で、ネイティヴ自由が丘人と会ったりすると、地方出身者から、聞いたこともないような自由が丘の店のことを尋ねられると、呆気にとられていた。地元の人間は、静かにつつましく暮らしているのだが、ネイティヴ東京人の慎み深さを欠いた田舎者が、東京の風景の下品化に加担したというのが現状である。当時は「埼玉」差別など、田舎差別が娯楽と化していたが、田舎差別は田舎者の手によってなされていたのだ。田舎出身の文化人が、東京の風景をさんざん駄目にしておきながら、東京の風景は味気ないと、京都での生活を礼賛したりするのだから、まったくもってけっしからん。少しは責任取れよ。無責任ぶりは、政治家だけの専売特許ではないのだ。

                 このような旧東京解体に加担した田舎者の姿は、作品中においては、岬一郎の最良の理解者である野口の妻昌代によって、体現されている。「昌代は東京の生まれではないし、美意識が野口とは少し違っている。地方の町に育ち、東京を特別な都会として感じて来た。丸の内、銀座、赤坂、六本木、青山といったイメージで東京をつかまえていて、下町には外来者としての情緒しか感じていないようなのだ。彼女にとってその情緒は好ましいものだが、野口から見ると架空のものに近い」昌代という人物は、当時の大半の日本人の姿に重なっている。とにかく金を持っている奴が偉く、貧乏人は第二市民以下という共通感覚がほぼ完成形態をみせていた。『金魂巻』(渡辺和博)がベストセラーで、「マル金マルビ」というのが流行語大賞を取っていた。のちの「勝ち組負け組」への通路や「格差」肯定の欲望の下地はこのころ作られたと言っていい。小泉純一郎や竹中平蔵だけを批判するのは、あきらかに欺瞞的な態度である。

                 かつては敏腕の雑誌編集者だった野口を、昌代は次のようになじる。「貧乏臭さが身についちゃったのね、とうとう。町のおじさんたちに仕事をまわしてもらって喜んでいるなんて、以前のあなたとはまるで別人よ」そして田舎の俗物が喉から手が出るほど欲しがるようなスーパーパワーを手にした岬一郎が、そのパワーを相殺することで、倫理的な抵抗を試みる姿をさして、昌代は次のようにも言う。「あの岬という人を見てごらんなさいよ。ばかみたいじゃないの。あれだけの力を持っているくせに、こんな貧乏たらしい町でこそこそやってるじゃないの」

                 『岬一郎の抵抗』とほぼ同時期に、ホリエモン的新自由主義を体現する『愛と幻想のファシズム』(村上龍)が書かれたが(ホリエモンも『愛と幻想のファシズム』の主人公も、資本主義を「狩猟民族」のメタファーで正確に掴んでいる)、田舎者の都会幻想をめぐる欲望が、東京原住民の生存感覚を凌駕し、それを飲み込みつくす過程がほぼ完了するのがこの頃なのである。それは生産から消費への価値の転換であり、二人の経済人の名を登場させるなら、ウェーバーに対するケインズの優位ということになる。

                 「ケインズは供給よりも需要が、生産よりも消費が資本制のシステムにとって決定的な問題であることを洞察していた。ケインズはこの洞察を、マルクスのように資本主義を否定するためではなく、資本主義を肯定するために用いた。「ケインズ革命」と、その反ケインズ主義的な徹底というべき「情報消費化」は、資本主義の精神の、プロテスタンティズムの倫理からの解放と自立の完成態であるだけでなく、資本主義のシステムとしての純化と完成にとって、プロテスタンティズムの倫理の否定が不可欠であったということの、構造的な必然を解き明かしている」(見田宗介『現代社会の理論』)

                 消費優位の経済活動と消費を善とする文化シーンが、結託する形で倫理や理念の息の根を止めたのが80年代であり、それは旧東京が金融都市東京へと変貌するさまと平行していた。そうした状況において、『岬一郎の抵抗』の岬と野口は、時代の交換価値にはとうてい成りえなかった「精神」を擁護しようとして、周囲から孤立してゆく。バブルのとば口期に書かれたこの作品は、土地の意味論的な配置および産業構造が、そのまま価値の熾烈な闘争を反映していて、政治小説としてめっぽう面白い。要するに「有効需要」としての「欲望」をめぐる政治小説なのだが、「理念」や「精神」のような資本主義にとってのノイズを失って純粋化した裸の資本主義の力への危惧を感受したこの作品が、ソ連崩壊の前に書かれていることは、驚くに値する。

                 「資本主義」にとっての不純物としての「倫理=精神」は、「プラザ合意」後の中曽根経済政策の前に、まずはポストモダン現象としての文化、特にテレビジョン・カルチャーによって、その足腰を弱体化させられていた。テレビジョン・カルチャーにおいては、「理念」はギャグでしかなかったし、ポスト・モダニズムを云々していた所謂「現代思想」においては、「理念」や「理性」を攻撃することは、ソ連的な「全体主義」批判をすることに通じ、ひとまずは、新左翼の存在感をアピールすることにはなった。当時の文化が、中曽根康弘の先兵隊として、サッチャー=レーガン=中曽根らが推し進めていた新自由主義の地均しを行っていたと言っていい(今や「デコンストラクション」が資本主義を肯定するイデオロギーとして機能したことは明らかになっている)。彼らが均してくれた道を、中曽根は苦労せずに歩めたというわけだ。のちに小泉純一郎がそのコースを歩むことになるだろう。

                 当時の日本が置かれていた経済状況は、一言でいえば、「外需」から「内需」への転換期であった。80年代前半までは、国内の経済発展を促進する手段として、輸出商品の生産が最重要視されていた。これによって「ジャパン・アズ・ナンバー1」は達成された。この経済活動の過程においては、「節倹」が美徳とされ、「奢侈」は生活の価値観からは追放される(金は使わずひたすら稼げ)。だが、貿易黒字の拡大を目指す「重商主義」が限界に達し、「外需」が不足した時には、国内の経済活動は「節倹」から「浪費」へと方針を転換せざるを得ない。80年代においては「プラザ合意」による「円高」がその主要なドライヴとなったわけだが、それ以前にカルチャー・シーンでは、すでに、「見せびらかしとしての消費」が、時代のモードとなっていた。ブランド・ブームとか、「人間は内面ではなく外見が重要だ」(精神よりも物質)とか、すでに社会は十分に「動物化」していた。いまは凋落してしまった「西武グループ」が、消費生活の美意識を先導していた。ホイチョイ・プロダクションの「見栄講座」とかありましたな。けれども、やはり決定的なのは、日本経済を直撃した「円高」であろう。

                 1985年、アメリカ・ニューヨークのプラザ・ホテルで、いわゆる「プラザ合意」が取り決められた。アメリカの「双子の赤字」に起因するドル相場の不安定化を防ぐために、先進諸国が「円高ドル安」の方針に合意した。これにより、1ドルに対し、円は240円から1年後には150円までに、劇的に価値を上昇させることとなった。この急激なレートの変化を目の当たりにして、『岬一郎の抵抗』の登場人物の一人は次のように憤る。「汚い。一国の首相としてあまりにも自制心に欠ける。潔癖でない。彼は円とドルのレートについて話し合ったのだ。全国民を代表し、大きな責任を持ってだ。先方からの圧力が非常に大きいのは最初から判っていた。円高の方向は決定的だった」「結局急激な円高がはじまった。短い期間に高騰した。儲ける者もいたが損をする者も多かった。輸出に頼っていた業者の中には倒産する者も続出した」

                「円高不況」打開の政策として、時の首相中曽根康弘が打ち出したのが「内需拡大」政策である。これは時代の気分ともうまくマッチし、大成功を収めた。86年のダブル選挙では300議席獲得の大勝を手に入れたのだから、中曽根が82年から87年までの長期政権を実現した80年代という時代は、中曽根康弘していたのである。「生産する蜜蜂から消費する蜜蜂へ」という価値の転換を確認しつつ、見田宗介は次のように80年代を振り返る。

                 「一九八〇年代の末のある年に、成熟した東の消費社会の中心地、原宿から青山にかけての街路街路には、祭りの万国旗のように道幅いっぱいに張り渡された横断幕の列が、「輸入で世界と手をつなごう」という、政府の手による消費性向上運動の呼びかけを反復していた。最初は貧しかった国内消費市場→海外市場への依存→過剰な貿易収支の黒字→国際経済摩擦というふうに回路づけられ、多層化され拡大された、新しい蜜蜂の寓話であった」(『現代社会の理論』)

                 ところで、一つ忘れてはならないのは、「消費」はあくまでも、「権利」であって「義務」ではないということだ。自分の金を何に振り向けるかという行為は、個々人の手に委ねられている。自分の欲望を他人の思惑に左右されたくはない。「消費者」は、あくまでも「市民」なのであって、消費社会の「奴隷」なのではない。だが、自分がいったい何を欲しているか、という問題はけっこう難しいものなのだ。「欲望は他者の欲望に媒介されている」とはよく言われることだが、一般的なあり方として、大衆の欲望はメディア(=媒介)に操作されている。多様性としてある個々の欲望は、ファシズム的に一方向へと束ねられ、財布の中身を掠め取られる(アイスクリーム屋がわざと行列を作って大衆の付和雷同を刺激したとかあったなあ)。大衆消費社会にあっては、独自の消費活動にこだわりすぎると、「マイノリティー」の烙印を押されかねない。たとえば、アート系映画の没落、あるいはアキバ系の消費形態は、いまもなお、軽蔑されがちだし、時にはニュースキャスターによって揶揄されたりする。なかんずく、「内需」を盛り上げることが、国家的「是」となっている状況にあっては、「消費」に冷淡な態度をとることは「非国民」扱いされかねない。東京オリンピックの高揚期のさなか、周囲の空気に違和感を持ち続けた小林信彦は、自らを自嘲気味に「非国民」だと呼んでいる。

                 「町殺しが進行中であるにもかかわらず、反対運動はおろか、批判的言辞を口にしたとたんに、「保守主義者!」とどやしつけられかねなかった空気が私の<不安>になっていた。町殺し(環七工事のような物理的破壊及び町名変更)=東京オリンピックのため=反対する者は非国民――という図式が、すんなり信じられているのがやりきれなかった。立ち退きを拒む家は孤立し、狂人扱いされていた」(『私説東京繁昌記』)

                 『私説東京繁昌記』は、1984年9月に中央公論社から刊行された。『岬一郎の抵抗』とほぼ同時期に書かれたわけである。また、小林信彦が1932年生まれであり、半村良が1933年生まれであることを照らし合わせると、感慨深いものがある。二人には、他人には簡単には譲り渡すことの出来ない独自の生存感覚というものがある。東京オリンピック以前の風景としっかりと結びついていることが、彼らの強みであり、かつ、彼らを同時代から孤立させる。この固有の風景への愛着の感覚は、凡庸なエコノミストには、体感することのできないものである。この感覚こそが経済学の限界を暴きたてるものにほかならないが、「経済学批判」という知的に最もスリリングな企てに鈍感な彼らは、「国益」とかいう言葉を添えながら「町殺し」に加担し続けるだろう。小林信彦は、「町殺し」という言葉を建築家・石山修武の次のような文章から得ている。

                 「……東京の町の風景には独自の後ろめたさがある。アメリカの都市の風景には無い陰惨さがあるのだ。それが江戸の町を殺したという親殺しの記憶にも似た奥深い原罪意識である事はいうまでもない」

                 もとより、半村と小林の「故郷」への愛着には違いがある。『岬一郎の抵抗』の舞台が深川周辺であるのに対し、小林の思慕の対象はアールデコ調にモダナイズドされた浅草である。彼らの原風景は、東京オリンピック前後に、いったん破壊されたが、80年代にもさらに大きな変化を被る。風景に対する感性を失った欲望が、土地の精霊を圧殺する蛮行が繰り広げられた。プラザ合意後の円高状況に対する低金利政策が、投機マネーを不動産市場に集中させたのである。地上げの横行、都市再開発、ウォーターフロント計画など、住民の暮らしを慮るというよりは、経済本位での発想が大手を振ってまかり通った。作品中、四軒長屋の阿部家の夫人は、そのような状況に巻き込まれて、次のように嘆息する。「土地がどんどん値上がりしてるそうだし、町工場なんてもうこんなところにはいられない時代だって、みんなそう言ってるわ」

                 さらには、バブル崩壊後の銀行の不良債権処理と連動する不動産政策は、東京の風景を経済発想で歪めた。不必要なまでにマンションが続々と建てられた。2002年に書かれた文章で、小林信彦は言っている。「……東京はいよいよ奇怪なことになりつつある。(改行)佃島がその一例だが、高層マンションがにょきにょき立って、人間のいとなみは圧殺されかかっている。六本木、汐留と、あちこちに途方もない計画がひろがっている。関東大震災後の<新しい東京のグランドデザイン>がいかにすばらしく、高度成長時、バブル経済後の東京がいかに街づくりに無計画か、呆れるばかりだ」(『私説東京繁昌記』文庫版のためのあとがき)政治=経済の巨大な暴力と慎ましい一個人の絶望的な戦いを描いた『岬一郎の抵抗』において、半村良が心やさしい一地方人を生き延びさせるために付与するのは、「超能力」というSF的設定である。「超能力」という荒唐無稽で、かつ安易でもあるアドヴァンテージによって、福井県は大東京と対等に張り合える。あるいは大都市をはるかに凌駕することができる。むろんのこと、岬一郎は、同時代に根強く人々の心を支配した価値のヒエラルキーであるところの土地の序列競争に代表される権力ゲームにコミットすることを頑なに拒絶する。適正基準を超えた膨張(成長)への欲望のあさましさに嫌気を覚えるからだ。不健康のレベルにまで達した成長への欲望について見田宗介は次のようなことを言っている。

                 「子どもは成長しなければならないけれども、成長したあとも成長が止まらないことは危険な兆候であり、無限に成長しつづけることは奇形にほかならない。ましてや成長しつづけなければ生存しつづけられないという体質は、死に至る病というほかない。
                 成長したあとも成長しつづけることが健康なのは、「非物質的」な諸次元――知性や感性や魂の深さのような次元だけである」(『現代社会の理論』)

                 世俗の欲望に、アンチとして、精神を対峙させることは、ひとまずは妥当だといえる。けれども精神のみを特権化するのは、不当である。大切なのは、バランスだからだ。ただ、ここでひとつ指摘できるのは、世俗と精神のバランスがつり合いを逸していたのが、「バブル」という時期だったということである。この頃オウム真理教が勢力を拡大させていたことは、偶然ではあるまい。『岬一郎の抵抗』に看取できる軽薄な神秘主義は、時代のアキレス腱的な部分を指し示していたのだと、いえる。この作品はオウム真理教がメディアで取り上げられる前に書かれた。ちなみに作家の星野智幸は、『岬一郎の抵抗』の最終場面が富士山麓であることと、オウムの本拠地が一致していることに戦慄を覚えると自身のブログに書いている(私がこの作品の存在を知ったのは、星野のブログによってである)。

                 また、さらにつけ加えるなら、岬一郎の、パワーがありながら権力的には無力であろうとする姿は、本作品の言葉は「イエス」の名を指し示しているのだが、どうしても「天皇」という存在を想起せずにはいられない。この作品が書かれたのは、「昭和天皇」の晩年期と重なりあっている。この作品は、何かの終焉に見事に反応しているのである。

                 『岬一郎の抵抗』は、一般に自閉的で非歴史的、非社会的だと見做されがちなSFのイメージとは、まるで異なる作品である。「繊細な経済学者」あるいは「詩人の魂を持った経済学者」の眼と呼ぶべきようなセンサーが、剛毅な柔軟さで、世界と向き合っている。旧東京と新東京との闘争を正確に捉えた半村良の生存感覚は、そのまま世界に対する批評へとつながっている。「散文」の文脈において「詩」なるものを見定める、という務めを担うことができるのがSF小説だということを、この作品は証明している。
                                     
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