2010.04.01 Thursday
大阪SF大全4 『日本アパッチ族』
小松左京『日本アパッチ族』
1964年カッパノベルズで刊行された著者の処女長篇となる本書は、死刑が廃止された代りに犯罪者は大阪市内にバリケードで封鎖された「追放地(戦争中空襲で破壊され巨大な鉄屑の廃墟と化した旧陸軍砲兵工厰跡地)」に排除されることになっている《もうひとつの日本》で、もっとも大きな罪の一つである「失業罪」に問われた主人公の木田福一が、彼の地で出会った「アパッチ」と呼ばれる鉄を食しみずからも鉄化する新人類と出会い、彼らと同化して、国家権力と対決しついには日本人を滅ぼすに至る《歴史》を、主人公による回想記の形式で描いた一種の歴史改変SFである。さまざまな処女作がいつもそうであるように、この傑作にもいくつもの信じられないような《伝説》が添えられていて、そのなかでももっとも有名なエピソードは、著者の新婚時代、あまりの貧乏生活のためにラジオを質入れし、娯楽がなくなってしまった新妻のために毎晩面白い話を語り聞かせたものが本作の原型となった、というものだろうが、そういう、ほとんど夢のような物語の理想郷を出自に持つにふさわしく、皮肉な黒い笑いにつつまれた豊穣でソリッドな語り口の本書には、SF的思弁の不穏さと繊細さがあますところなく備わっている。
夙に指摘されているように、小松左京の原風景は戦後の焼跡にある。すべての価値が破壊された「焼跡」において、あらゆる有意義な価値が無価値とならべられることで、人類とその文明を根底から批判することができる、というふうに敗戦によって強いられた経験をひとつの強靭な認識へと転換する装置としてSF的想像力は把握されている。よく知られていることだが、食鉄人種「アパッチ」は、戦後に実在した在日朝鮮人による屑鉄泥棒の集団で、彼らの国家による排除と抵抗は戦後ひっきりなしに発生した在日朝鮮人による暴動騒乱事件のひとつ(それがどれほどの規模のものであったかを知るには、たとえば教育問題で大阪府庁が占拠され、米軍が介入して事件が鎮圧されたなどという事例を見ればよい)なのだが、小松の物語内では、朝鮮人は男たちはすべて摘発されて、アパッチとはほとんど周縁的な関係しか持たない女子供と年寄りしかいないまったく微弱な存在に置き換えられており、それはこの作品が、小松が《もうひとつの日本(戦後)》を描くにあたって、現実の日本を揺さぶった異質な存在である「アパッチ(在日朝鮮人)」を、まったくのフィクション的存在(食鉄新人類)に置き換えることによって、荒唐無稽な物語性とともに文明批評的な思弁を可能にした、という文学的方法の賜物であることを示しており、そしてそれは一種の「現実の消去/抹消」でもあって、そこにはSFというジャンルそのものに内在する非政治性を見ることもできるだろう。また、この物語のモデルとなったのは、著者自身の弁によるとカレル・チャペックの『山椒魚戦争』だそうなのだが、そこで描かれた「山椒魚」が、当時ヨーロッパを席巻しはじめたナチスを意識して作られた存在であったのに対し、人間性(とその文化)が産み出しそしてそれを破壊してしまう存在を、面白おかしくさらには哀切に描く、という意味ではほとんど相似形を為す二つの作品が、しかし、『山椒魚戦争』においては、まるで「死刑執行人もまた死す」とでも言うように人類を破滅させた山椒魚もまた滅びる、と「希望」のように「人類の復活」を示唆して終るのに対し、『日本アパッチ族』では、物語を人類からアパッチへの過渡期にあらわれた人物の錯誤に満ちた手記として提示し、その「非人間性」にこそ「未来」を見出す他ない(決して世界は「人間(性)」に後戻りできない)という認識へと転化されているのが、いってみれば「戦前」と「戦後」との大きな断絶を感じさせる。まさにアウシュヴィッツの跡に書かれる文学は野蛮なものになる他はないのだとでも言うかのように。
価値転倒が産み出す黒い笑いの闊達さと滅びゆく人類(日本人)への挽歌の哀切さを兼ね備えた複雑で繊細な物語世界は、同時に、戦後日本がくぐり抜けてきた苛酷な現実と折り合った著者自身の体験(焼跡と左翼運動と工場経営と)と、神曲に感銘を受けイタリア文学を専攻した豊かな教養に裏打ちされた文学的方法意識によって作り出されたものであり、そこに現出した《もうひとつの日本》のすがたは、基本的な部分ではいまなおまったく変わっていない現代日本を生きる者にも、きわめて切実にある覚悟、いわば「人間の終り」を受け入れよ、というような覚悟を迫る作品となっている(そして同時に、そのような物語的思弁の契機となる現実/差異の消去への遡行という「歴史意識」も忘れるわけにはいかない)。物語の中で、新人類であるアパッチは、日常生活では決して笑わず、死ぬ時にだけとつぜん爆笑する不気味な存在として描かれているのだが、昨今の「お笑い」ブームには、まるで人類がアパッチのように死ぬ瞬間だけの大笑いを続けているような幻想を抱かないだろうか。戦後、商業都市としては凋落の一途をたどりつつ「お笑い」の町としてメディアのなかだけで急速に発展した「大阪」という町がメインの舞台になっているのも、この作品のリアリティを支える一要素であるかもしれない。
最後に、ほとんど私的な事柄だが、少年期に大阪に転居してきた私には、この小説の前半部で濃厚に記述される大阪の風景は、まさにそれを読みながらそこに暮らす(舞台の一部となる森ノ宮のあたりまで、私は自宅から自転車で10分ほどのところで育った)という特権的読書体験を与えてくれたもので、今回この企画を受けてほとんど25年ぶりに再読したのだが、最初に鶴橋の駅に降りた立っときに、そのときはもちろん知らなかった焼肉とキムチのにおいをほとんど「異国のにおい」として嗅いだことや、日本橋の真ん中で汗みずくになりながらビルの解体工事で鶴嘴をふるっていたときの砂のにおいを思い出した。アパッチは鉄を食うのだが、土方は砂を食うのである。(渡邊利道)
1964年カッパノベルズで刊行された著者の処女長篇となる本書は、死刑が廃止された代りに犯罪者は大阪市内にバリケードで封鎖された「追放地(戦争中空襲で破壊され巨大な鉄屑の廃墟と化した旧陸軍砲兵工厰跡地)」に排除されることになっている《もうひとつの日本》で、もっとも大きな罪の一つである「失業罪」に問われた主人公の木田福一が、彼の地で出会った「アパッチ」と呼ばれる鉄を食しみずからも鉄化する新人類と出会い、彼らと同化して、国家権力と対決しついには日本人を滅ぼすに至る《歴史》を、主人公による回想記の形式で描いた一種の歴史改変SFである。さまざまな処女作がいつもそうであるように、この傑作にもいくつもの信じられないような《伝説》が添えられていて、そのなかでももっとも有名なエピソードは、著者の新婚時代、あまりの貧乏生活のためにラジオを質入れし、娯楽がなくなってしまった新妻のために毎晩面白い話を語り聞かせたものが本作の原型となった、というものだろうが、そういう、ほとんど夢のような物語の理想郷を出自に持つにふさわしく、皮肉な黒い笑いにつつまれた豊穣でソリッドな語り口の本書には、SF的思弁の不穏さと繊細さがあますところなく備わっている。
夙に指摘されているように、小松左京の原風景は戦後の焼跡にある。すべての価値が破壊された「焼跡」において、あらゆる有意義な価値が無価値とならべられることで、人類とその文明を根底から批判することができる、というふうに敗戦によって強いられた経験をひとつの強靭な認識へと転換する装置としてSF的想像力は把握されている。よく知られていることだが、食鉄人種「アパッチ」は、戦後に実在した在日朝鮮人による屑鉄泥棒の集団で、彼らの国家による排除と抵抗は戦後ひっきりなしに発生した在日朝鮮人による暴動騒乱事件のひとつ(それがどれほどの規模のものであったかを知るには、たとえば教育問題で大阪府庁が占拠され、米軍が介入して事件が鎮圧されたなどという事例を見ればよい)なのだが、小松の物語内では、朝鮮人は男たちはすべて摘発されて、アパッチとはほとんど周縁的な関係しか持たない女子供と年寄りしかいないまったく微弱な存在に置き換えられており、それはこの作品が、小松が《もうひとつの日本(戦後)》を描くにあたって、現実の日本を揺さぶった異質な存在である「アパッチ(在日朝鮮人)」を、まったくのフィクション的存在(食鉄新人類)に置き換えることによって、荒唐無稽な物語性とともに文明批評的な思弁を可能にした、という文学的方法の賜物であることを示しており、そしてそれは一種の「現実の消去/抹消」でもあって、そこにはSFというジャンルそのものに内在する非政治性を見ることもできるだろう。また、この物語のモデルとなったのは、著者自身の弁によるとカレル・チャペックの『山椒魚戦争』だそうなのだが、そこで描かれた「山椒魚」が、当時ヨーロッパを席巻しはじめたナチスを意識して作られた存在であったのに対し、人間性(とその文化)が産み出しそしてそれを破壊してしまう存在を、面白おかしくさらには哀切に描く、という意味ではほとんど相似形を為す二つの作品が、しかし、『山椒魚戦争』においては、まるで「死刑執行人もまた死す」とでも言うように人類を破滅させた山椒魚もまた滅びる、と「希望」のように「人類の復活」を示唆して終るのに対し、『日本アパッチ族』では、物語を人類からアパッチへの過渡期にあらわれた人物の錯誤に満ちた手記として提示し、その「非人間性」にこそ「未来」を見出す他ない(決して世界は「人間(性)」に後戻りできない)という認識へと転化されているのが、いってみれば「戦前」と「戦後」との大きな断絶を感じさせる。まさにアウシュヴィッツの跡に書かれる文学は野蛮なものになる他はないのだとでも言うかのように。
価値転倒が産み出す黒い笑いの闊達さと滅びゆく人類(日本人)への挽歌の哀切さを兼ね備えた複雑で繊細な物語世界は、同時に、戦後日本がくぐり抜けてきた苛酷な現実と折り合った著者自身の体験(焼跡と左翼運動と工場経営と)と、神曲に感銘を受けイタリア文学を専攻した豊かな教養に裏打ちされた文学的方法意識によって作り出されたものであり、そこに現出した《もうひとつの日本》のすがたは、基本的な部分ではいまなおまったく変わっていない現代日本を生きる者にも、きわめて切実にある覚悟、いわば「人間の終り」を受け入れよ、というような覚悟を迫る作品となっている(そして同時に、そのような物語的思弁の契機となる現実/差異の消去への遡行という「歴史意識」も忘れるわけにはいかない)。物語の中で、新人類であるアパッチは、日常生活では決して笑わず、死ぬ時にだけとつぜん爆笑する不気味な存在として描かれているのだが、昨今の「お笑い」ブームには、まるで人類がアパッチのように死ぬ瞬間だけの大笑いを続けているような幻想を抱かないだろうか。戦後、商業都市としては凋落の一途をたどりつつ「お笑い」の町としてメディアのなかだけで急速に発展した「大阪」という町がメインの舞台になっているのも、この作品のリアリティを支える一要素であるかもしれない。
最後に、ほとんど私的な事柄だが、少年期に大阪に転居してきた私には、この小説の前半部で濃厚に記述される大阪の風景は、まさにそれを読みながらそこに暮らす(舞台の一部となる森ノ宮のあたりまで、私は自宅から自転車で10分ほどのところで育った)という特権的読書体験を与えてくれたもので、今回この企画を受けてほとんど25年ぶりに再読したのだが、最初に鶴橋の駅に降りた立っときに、そのときはもちろん知らなかった焼肉とキムチのにおいをほとんど「異国のにおい」として嗅いだことや、日本橋の真ん中で汗みずくになりながらビルの解体工事で鶴嘴をふるっていたときの砂のにおいを思い出した。アパッチは鉄を食うのだが、土方は砂を食うのである。(渡邊利道)