TOKON10実行委員会公式ブログ

第49回SF大会TOKON10実行委員会の公式ブログです。
開催日程:2010年8月7日(土)〜8日(日)
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特別掲載:東京SF論「塚本晋也と新井素子の(一瞬の)交錯」
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    塚本晋也と新井素子の(一瞬の)交錯

                        藤田直哉


     塚本晋也と新井素子の交錯
     この文章は、一見正反対の作風に思われる塚本晋也と新井素子とが、一瞬接近遭遇した瞬間について書こうと思う。人工的で、鉄と都市を描き、マッチョな作風の塚本晋也と、「あたし」の一人称の美少女的な作風で練馬を中心に描いていた新井素子とが、どう交錯するのか。それは『悪夢探偵2』(2008)において現れたと考えている。時間的に正確に言えば『悪夢探偵2』が影響を受けたと言えるのかもしれない。だが僕は、そこをあえて「交錯」と呼びたい。それが正当なのかどうかは、ご判断いただきたいと思う。


     後期塚本晋也の作風の変化――『ヴィタール』以降
     『悪夢探偵2』までの塚本の作風をまず確認していこう。塚本は2004年の『ヴィタール』によって明らかに変質した。
     塚本晋也は『鉄男』で89年にデビューし、和製サイバーパンクとして高く評価された。その「和製サイバーパンク」というのは、当時その言葉が流行っていたからそう名づけられるのを拒まなかった的なことも監督は言っているのだが、身体が鉄に覆われ、脳の中もデジタルに侵入されるそのビジョンは、明らかに和製サイバーパンクと呼べるものであった。都市が鉄として身体に侵入し、脳髄もテレビのブラウン管の中身に侵入される。そんな中で性的な欲望を巡り、主人公とライバルの「やつ」は激突し、とてつもない加速の中で、巨大な破壊と世界の終わりに向かっていく。
     塚本晋也において「東京」は重要なモチーフである。『鉄男』でも東京が身体に侵入してくるし、傑作ボクシング映画『東京フィスト』(95)においても、高島平や西新宿の無機質で人工的な東京の映像が大量に現れる。基本的に彼が描くのは、無機質で人工的な都市・東京の中で、無機質で人工的で淡々と生きている人(特にサラリーマンや知的産業の人)が、寂しさや生命力の枯渇を感じ、精神的にノイローゼ気味になり、自らの中にある野生を甦らせるためにボクシングという暴力や拳銃による殺し合い、果ては性(『六月の蛇』)などを求めるというモチーフが一貫している。
     余談めくが、札幌市の郊外で18歳まで過ごし、近所のレンタルビデオ店でビデオばかり借りてきて観ていた僕にとって、東京のイメージと言えば塚本晋也の映画と『AKIRA』のイメージだった。サイバーでソリッドで無機質な近未来空間だと思い込んでいたのだ。上京して、早稲田に住み、初めて、東京は「塚本晋也の映画」みたいではなかったと気がついた。北千住や駒込など、下町情緒の溢れるソリッドではない空間が東京の大半を占めていると知ったのは、上京し、東京中を歩き回るようになってからのことである。余談のようでこれが余談でないのは、18〜22ぐらいまでの僕は、塚本映画のような、SFっぽい場所を映画に収めようとして東京中を歩き回り、果ては塚本晋也『悪夢探偵』(2007)のロケハンに参加するようになったからだ。塚本映画に現れるソリッドで人工的な「東京」イメージは、かなり周到に「緑」や「自然」を排除した上でようやく成り立っているのだと知ったのはそのときだ。いざカメラに収めようとすると、東京には意外と木や「緑」が多いのだ。
     「緑」が作品内の映像に直接現れるという契機となった作品が『ヴィタール』である。この作品は交通事故で記憶喪失になった男が、その事故の際に同乗していた恋人の死体を解剖していきながら記憶を取り戻していく物語である。この作品においては映像的に今まで排除されていた自然が現れる。沖縄の海岸や、森、葬儀場の窓から見える緑、キャンパスの木々など、これまでは決して出てこなかったような景色が姿を現している。
     最も驚いたのは『悪夢探偵2』(2008)の後半のカットだった。『東京フィスト』の反復のような都市描写に、意図的に「自然」を写りこませているのだった。この「自然」と「都市」の和解のような描写に触れる前に重要なシーンが存在する。それは主人公影沼京一の母親にまつわるエピソードである。超能力で他人の声が聞こえ、世界の全てに怯え、主人公を殺害しようとし自殺した母親との、自然の中での笑顔に満ちたイメージカットがクライマックスで挿入されているのだ。家族と、笑顔に満ちた調和のシーンが、手持ちカメラの、他の映像とは全く異質の質感で描かれる。そしてそれは森の中や自然の中をロケーションとして描かれるのだ。これは塚本映画において今までに全く見られなかった映像である。『悪夢探偵2』は「家族」をモチーフにし、「自然」が導入されており、そして映像的に「都市」と「自然」の和解が描かれている。作家論的には、やはり塚本自身に子供が生まれたということを抑えておくべきなのだろうが、「家族」が「自然」と結びつくというのはやはり不思議な印象を受ける。
    「人工的な都市」に対し、「自然的な肉体」とも言うべきものが性という形で炸裂するというモチーフは『鉄男』から続いているものであった。『東京フィスト』の殴り合いや、ヒロインのピアッシングによる「生の実感」、あるいはより直接的には『六月の蛇』のヒロインが性的に昂揚する場面である。もちろん、『六月の蛇』のヒロインが性的に昂揚する場面には、それを「撮影」する男と、カメラのフラッシュのような「テクノロジー」も介入していることも見逃せない。
     そのような「性」と「肉体」の形で噴出していた「自然」が帰結として「家族」という再生産に繋がるというのも頷けなくはない。同時にこの「自然」は『ヴィタール』においては恋人の死における「喪」の意味を含んでおり、『悪夢探偵2』においても、母親が自分を殺そうとしたトラウマと、母親の自殺に対する「喪」と「和解」の意味を持っている。この「和解」は『鉄男』『鉄男2』の、都市の全破壊に向かうような「自然=衝動」とは若干異なっている。『ヴィタール』は35mmフィルムによるせいか、静的な映像も多く、『鉄男』の過剰なカメラの運動性とは全く異なる質感になっている。塚本自身は、男性=人工、女性=身体=自然、のような安易な図式はもちろん用いていない。塚本作品における女性は冷たくてクールで、いわゆる「女性らしさ」とは幾分ズレる配役を敢えてしている。だが、『ヴィタール』における恋人の女性の死への喪の作業が「自然」と結びつき静的に描かれるのと、『悪夢探偵2』において母の死が「家族」の描写と共に柔らかい光の「自然」として現れることには、『鉄男』などに現れていた「都市破壊」の衝動としての「自然」とは違うものを見出さなければならないだろう。
     必ずしも僕はこれに与するわけではないのだが、男性的欲望と女性的欲望について、可能無限と実無限というようなメタファーで捉えている精神分析派のコプチェクという学者がいる。僕はここでジェンダーを巡る果てしなき議論をしたくはないので、彼女の主張をなるべく汲み取るように述べると、社会的な規範や要請によって、エディプス過程の乗り越えや主体化の仕方の違いによって、基本的に男性と女性とは欲望や享楽の持ち方が違うとされている(もちろん、この場合の男性・女性は、例外を含んだメタファーとして考えるべきであろう)。可能無限というのは、次々へと、先へ先へと進んでいく果てしのない無限のことであり、実無限は他者と一体化しながらそこに享楽がある状態を指すという。
     『鉄男』における「衝動」は「ドリルチンポ」によって女性を殺害し、都市破壊に向かって直線的に道路を突き進むラストシーンに象徴されるように、次へ次へ、先へ先へと向かうものとして表現されていた。しかし『悪夢探偵2』における「家族」のシーンは、母親が「世界そのものをそれ自体として過剰に感受する人」として描いた上で、自分を取り囲む細密な葉っぱや木々や光が世界そのものを包み込んでいる状態を描くものであった。先へと突き進む「衝動=自然」ではなく、包み込む細密な世界それ自体である「自然」への移行が『鉄男』から『悪夢探偵2』には見出せる。これはコプチェクの言う可能無限と実無限に対応している。もちろん、可能無限が男性的系で実無限が女性的系だというのは、精神分析の立場から見たメタファーでしかなく、欲望の構造がそうなりやすい傾向が遺伝子によって脳構造の違いによって現れるという説も存在するのだが、このことの是非は今は議論の外に置くことにする。


     「自然」と「美少女イメージ」
     自然と人工はそもそも区別がつきにくい。文芸評論家柄谷行人は、何が自然で何が人工かの分割を巡るハレーションについて語っていたことがある(『隠喩としての建築』)。生成、創発などの「下から」的なイメージのある言葉は、創造、設計などの「上から」のイメージのある言葉に対して、「自然」や「人工」という対立で捉えられる傾向があるが、そもそも、ネット界隈で流行の生成や創発という用語にしたところで、それは「人間が作り出している」わけで、「管理者の目から見れば勝手に生まれている」ものに過ぎないので、人工と呼ぼうと思えば呼べる。筒井康隆がエッセイの中で自然破壊を論じて、人間もまた自然が生み出したのだから自然破壊というのは人工が自然を破壊しているというわけではないのではないかという趣旨のことを論じているが、これも人工と自然を巡る区分けの難しさを象徴する発言である。人間の中には、自然の部分と人工の部分があり、どこからどこまでがそうであって、どこからどこまでがそうでないのかというのは、多分に操作的な概念である。操作的な概念というのは、どこに「線を引くか」ということで政治的な利害が生じるために、その線引きの根拠を捏造する必要のある概念であるということである。
     例えば、男性性=人工 女性性=自然 のようなイメージ類型が存在する。ユングの夢判断の体系は「知性、論理、合理性、人工、意識」を男性性に割り振り、「感情、直感、非合理、自然、身体、無意識」を女性性に割り振っている。このことの根拠が脳構造にあるとか社会的な規定に過ぎないとかユングはオカルトだとかいう議論は全て脇に置くが、このようなユングの夢解釈は現在でも俗流の夢判断本などで利用されている。
     女性が自然で男性が人工などというのはもちろん現実的には嘘でしかない。女性が自然の産物であると同じように男性も自然の産物に過ぎない。構成要素は全てどちらも自然物である。あるいは生殖が自然である限りにおいて自然だが、生殖が人工であるかぎりにおいて人工でもあり、その比率は男女ともに変わらないはずだ。だがどのようなイメージを被せられるか、という違いは存在する。女性に自然のイメージを被せる人はいるだろうし、男性に人工のイメージを被せる人間もいるだろう。それは他人からの目である場合も自らそう規定する場合もあるだろう。
     女性に「自然」のイメージを被せるというのは、知識人や公的な言説の中で発せられることは少ないかもしれない。だが欲望の世界においてはそれは存在していたと言わざるを得ない。藤木TDCは『アダルトビデオ革命史』において、80年代前半の「美少女本番路線」についてこう言及している。それまでの本番ポルノビデオにおいては、水商売や風俗業に従事していた人々が出演して「演技」していたが、80年代前半の「美少女本番路線」においては、素人らしい「美少女」の「自然さ」「自由さ」を示すような「性感表現」が好まれたということである。その起源に藤木は70年代に篠山紀信が撮影していた「美少女シリーズ」において自然光を用いた質感を挙げている。つまりここで観察できるのは、ポルノを消費する男性が、女性に「自然さ」を欲望する視線を注いでいたということだ。
     この美少女ブームはポルノにおいてだけではなく、1980年代後半には、一般の芸能界にも起こった。おニャン子クラブなどはその代表である。女性に対して注ぐ男性の欲望の視線が変化したのだ。
     さて、話をSFに戻したい(ここから塚本晋也に戻るのに随分迂回路があるのだが、ご容赦ください)。この当時SFにおいて「美少女」という視線を注がれた人物がいた。新井素子である。吾妻ひでおのマンガによって「美少女キャラクター」として描かれた彼女について、ササキバラ・ゴウはこう述べている。「新井素子の作品は女の子の一人称で書かれ、少女まんがやアニメなどの影響を強く感じさせる内容のSFでした。高校生でデビューしたという作家本人のキャラクター性と合わせて、多くの男性読者が新井素子に「萌え」て、ロリコンブームなどと歩調を合わせるよう人気が高まります」(『〈美少女〉の現代史』p135-136)つまり、新井素子は、著作物を通して、著者本人が「美少女」として「萌え」られるという欲望の対象とされたのだ。このことを新井自身は、吾妻ひでおに対する(半ばまんざらでもなさそうなニュアンスも込めたような)反発として示していたりもする。もちろん、このイメージを利用することで売り上げや知名度が上がった部分もあるのだろう。でも、作品には若干そのことに対する葛藤が示されているように読める部分もあったりもする。
    「美少女」に「自然さ」を求める傾向があったことと、新井素子が『グリーンレクイエム』(1980)や『緑幻想』(1990)という作品を書いているのは偶然だろうか。『グリーンレクイエム』に登場する主人公の女性は植物系の異星人である。続編『緑幻想』は、そのタイトル自体が「自然という幻想を被せる人々」への皮肉のようでもあり、内容もまた植物が人類に復讐をしようとする話である。
     新井はまた『ネリマ大好き』(1992)という対談集も刊行している。彼女の作品は練馬が舞台になっていることが多い。塚本晋也が高島平や西新宿や品川などを描くのとは対照的である。新井にとっての東京は「練馬」が重要な場所なのだ。筆者も新井さんにインタビューをさせていただく際(「新井素子、練馬を語る」講談社BOX『東浩紀のゼロアカ道場「伝説の「文学フリマ」決戦!』収録)練馬にお邪魔させていただいたのだが、練馬は畑があり、家の庭には木が生えており、東京の中では「自然」が多くある場所であった。
     とはいえ、ここでは新井素子作品における「自然」を検討するだけの紙幅も筆者の能力もない。興味深く思っているのは、練馬を中心に描いていた新井素子と、冷たい東京を描いていた塚本晋也がクロスするポイントがあるのではないかということだ。先ほど述べた『悪夢探偵2』における、母親との記憶の中で、母親が「世界全体を微細に感受していた」ことと家族という主題と自然という描写が同時に現れたとき、真っ先に思い浮かべたのは新井素子の『チグリスとユーフラテス』(1999)だった。
     新井には家族的想像力があると東浩紀は述べている(「セカイから、もっと近くに!――SF/文学論」)。その家族的想像力の範疇は、キャラクターだけではなく、新井が好むというぬいぐるみや、果ては植物や、他の生物にまで及ぶのではないか。『チグリスとユーフラテス』で示された、人類が死滅したとしても、生物そのものが存在することによってある種の充足感すら得られるという家族的な感覚に近い地点に、『悪夢探偵2』は立っていたように思う。
     『悪夢探偵2』は基本的にはホラーである。母親は息子を殺害しようとし、世界の全てに怯え続け、発作を起こし、果ては自殺する。彼女にとって自分を取り巻く世界の全てが蠢く悪意のように感じられている。だが、そんな彼女も、森の中で、家族に囲まれて、自部を取り巻く全てが光り輝く微細な優しい光に包まれて、笑いあっている瞬間があったという記憶によって、主人公の影沼京一は救われることになる。彼女は世界全てを自分の内側に取り入れてしまうからこそ怯えているのだが、それは反転すれば世界全ての肯定となる。『チグリスとユーフラテス』で示されているのは、不幸ではない終末といったところだろうか。植物や、ぬいぐるみのような無生物、果ては微生物などを全て自分と同じような家族的存在と感じられたとき、そこには肯定しかない。自らの個体が死んだとしても、自分の遺伝子が残らなかったとしても充足して死んでいける、そんな「他の生物すら家族と感じる」途轍もない突き詰めた境地が『チグリスとユーフラテス』には描かれている。


     母的全体性と断念の方向性
     もちろん、そんな境地に達するのは簡単ではない。『チグリスとユーフラテス』は、様々な「生きる意味」を追い求めながら、それでは満たされない複数の人物を描くことで、最終的にルナがその境地に至るように書かれている。惑星の発展や、恋愛など、「生の意味」を様々なものに求めては挫折していく過程の末に家族的な肯定感が現れている。
    その「生命」への肯定性は「母」的な部分がある。『緑幻想』の結末において、「宿命的に、我々植物は、すべての生物を、すべての動物を、愛している」と、植物が人類や生命を愛していると語っている部分を思い出すだろう。それは「自然破壊」をするものをも肯定し、愛する。この「肯定」の難しいところは、それが「自然」や「母」という幻想を投影してしまうことすら肯定しているということである。だから、それに対してそのような幻想を「内面化してしまっている」という批判も届かない位置にこの「覚悟」は存在している。
     このような肯定感、受容性、家族的な包み込む気持ちは、おそらく現実世界においては決して維持できる類のものではないであろう。フィクションの中でこそ実現しているものである。この「母」は「母なる地球」「母なる台地」などと言われるときの、メタファーとしての母である。
     塚本晋也は『鉄男』において、鉄と一体化していき、都市と一体化することを、破壊衝動という形で目指していた。それが『悪夢探偵2』において、植物(を含む世界の全て)と一体化しており、そのことに恐怖と肯定感の両方を揺れ動く「母」を描いたという点は興味深いことである。可能無限的な「男性的」欲望は全体性を志向する。『鉄男』においても、破壊衝動という形で都市と一体化し、東京という全体性を獲得することが欲望されていた。一方で『悪夢探偵2』において植物と世界と一体化した肯定的な全体性のようなものとしての「母」が記憶の中で描かれる。SFというのは哲学が断念した「全体性」の亡霊への夢を追い求め続けていると言ったのは『SF入門』の中の東浩紀だが、『悪夢探偵2』の影沼京一はその亡霊に常に脅かされているという点で、極めてSF的な人物である。
     新井素子の作品はその「全体性」、「母的全体性」とでもいうべきものを提供する。フロイト理論的に言えば、全体性を獲得したいという欲望は、胎内における完全に満たされた状態へと回帰したいという欲望を起源にしたものに過ぎない。『グリーンレクイエム』『緑幻想』は、「自然」や「母」を投影してくる欲望に対して、植物と交換するネットワークによって「母的全体性」を(自らの美少女キャラクターイメージに透かし見られることを前提とした上で)提示してみせる。それは全体性を志向しては挫折せざるを得ないポスト近代の哲学や学問や欲望に対する慰めのようである。
    『悪夢探偵2』の最後の恐るべき長いシークエンスで、母親が生きていて、料理をしてくれるシーンがある。だが、それは幻影でしかなかったことに気がついて影沼京一は号泣する。号泣することで、今は失われた「母的全体性」への希求を断念する。だが彼は夢と現実と区別のつかない世界をさ迷う「悪夢探偵」でいるしかない。そして彼は、亡霊に脅かされ続ける過去の自分自身を救うことで、自分自身を救うしかない。自分を殺しもし、肯定もした「母的全体性」を断念する過程がここには描かれている。
     新宿や西高島平を東京を描いてきた塚本、練馬を中心に東京を描いてきた新井。鉄や都市と一体となることを夢見た塚本と、植物と一体となるさまを描いた新井。その一瞬の交差が、『悪夢探偵2』と『緑幻想』『チグリスとユーフラテス』とに見出すことが出来るように、筆者は夢想する。ただ、その交差は一瞬のものであっただろう。母的全体性を断念した影沼京一と、社会的な達成のようなものを次々と断念していき生命との一体感に辿り着いた『チグリスとユーフラテス』とでは、同じ断念の過程でも、全く逆の方向に向かっている。2008年の『悪夢探偵2』と1999年の『チグリスとユーフラテス』が交差するというのは時間的に見ておかしいのかもしれない。本当は比較するべきは2010年の『TETSUO THE BULLET MAN』と『もいちどあなたにあいたいな』なのかもしれない。だが僕は、時間を越えて一瞬の交差があったということを一つの物語のようにして述べたかった。全く異なる資質と作風の二人が交差するこの瞬間こそ、僕は何かの奇蹟的な瞬間だったのではないかと思えてしまうのだ。
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