2010.02.27 Saturday
東京SF大全16 『15×24』
SFセミナー三十周年特別企画! ということで、第一回SF評論賞選考委員特別賞を受賞された鼎元亨さんに、新城カズマさんの『15×24』論をご寄稿いただきました。SFセミナーが三十年を迎えたことを、執筆者一同、心から喜び申し上げます。
『15×24』(小説、新潮カズマ著、集英社、2009)
新城カズマ著『15×24』は、2009年9月から12月にかけて6冊に分冊されて集英社スーパーダッシュ文庫として集英社から発行された。商品カテゴリーとしてはライトノベルとされるが、いまどき、ライトノベルだからといって予断を持つような読者はおられまい。
15人の17歳がネット心中に向かう一人をめぐって2005年12月31日午前7時49分から2006年1月1日午前7時49分の24時間に渡って東京を奔走する物語である。意図せず発された自殺の予告が、阻止せんとする者、達成させんとする者をそれぞれ走らせる。その奔走が雪崩のごとく人を巻き込んで、日常の皮膜をめくり上げて、東京のアンダーグラウンドを露わにする。
これは東京の胎内巡りの物語だ。死を駆動力に、彼らは路上を駆け、公園に集う。彼らは家に帰れない。都市は路上と公園という器官を持つ生体機械複合体だ。家という分泌器から絞り出された彼ら細胞は、ネットと携帯という迷走神経で語り合い、路という血管を走り、公園という臓器で化合を起こし、再び迸るべき脱出口を目指す。
彼らは未分化の細胞で、労働者の消費者の遊民のヤクザの家庭婦人のアイドルの犯罪者の保安官の、可能性であり未だどれでもない。一人の死を追いかけて、自らが一部である高次生物の「死と再生」を体験する。
この作品は古典的な「死と再生」の神話として意識的に書かれている。
15人の主人公たちの通過儀礼だけでなく、東京という都市の誕生と「死と再生」の歴史を追いかける物語でもある。
「とくせん」さんの神渡りから国譲りを経て江戸として誕生し、御一新と昭和の戦争という二度の「死と再生」を経て、今一度「第二の敗戦」という死からの再生を目指して更なる拡大増殖を目指す。東京という生物の神話が24時間の冒険譚にオーヴァラップして語られる。
実はこの作品で語られる東京は、今寿命の尽きんとする東京の西半分にすぎない。作者はあえて、東半分を巻き込んで再生せんとする「新東京」を語る事を避けた。なぜなら東半分は別の無意識、別の神話を持つ別の生き物になるはず、と作中で語られているから。
また、東京が地脈に沿って有機的に成長していった結果、高次の抽象性を持ち得なかった事も指摘している。天を摩せんと塔を築き、そこから俯瞰する事はできても、天からの視点を遂に自らは持ち得ない東京の限界をも語っている。東京の道路に沿ってパターンを描く時、それを天から見下ろしてメッセージとして認識する視点は「西」、関西でも広島でも博多でもなく「もっと西」からしか得られなかった東京、いや日本という生物の限界も、やはり作中で語られている。
ともあれ、主人公たちが演ったのは壮大な鬼ごっこであり、迷路巡りであり、野球であり、コンゲームであり、ダンスパーティーだったわけだが、これらすべては神事、神話的儀式と私は解釈する。多くは死神との対話であり、都市誕生以前の古い神との交感であり、都市自身の潜在意識まで降下して再び意識水面まで上昇する生と性の儀式だ。彼らは自身が都市の「死と再生」を体験する。そして、その神事が執り行われる場、都市という生物の器官が「公園」だ。時としてグラウンド、時としてフェミレス、ジャズバー、雀荘、秘密地下集会所だが、その機能は公園だ。「公園」で主人公たちは化合して物語を駆動する。
都市は原野を田圃に変え、住宅に変え、道路を走らせ、市場を立て、工場を造り、オフィスビルを築く。しかし公園はけっしてその余地ではない。「なりなりてなりあわぬところ」に見えて、それは神話的器官として、あるいは性器として分化形成されるのだ。
「公園」のない都市はない。いや「公園」という器官を備えて初めて、そこは都市になる。東京の大都市たる所以は、その軟らかい組織を内包する事、「内包するべき」と都市が自覚的であるところにあるのかもしれない。
未分化の細胞は「公園」という器官で受精し、迸る脱出口を探して奔る。旅立ちは死でもある。この物語で死が東への船出で象徴されるのは興味深い。なぜ東京以前のように死が「西」でなく、日の本「東」なのか。それが戦後東京が誰の精を受けて生まれたのかを示すのだろう。
ライトノベル?いまどき、あなどるような読者はおられまい。(鼎元亨)
『15×24』(小説、新潮カズマ著、集英社、2009)
新城カズマ著『15×24』は、2009年9月から12月にかけて6冊に分冊されて集英社スーパーダッシュ文庫として集英社から発行された。商品カテゴリーとしてはライトノベルとされるが、いまどき、ライトノベルだからといって予断を持つような読者はおられまい。
15人の17歳がネット心中に向かう一人をめぐって2005年12月31日午前7時49分から2006年1月1日午前7時49分の24時間に渡って東京を奔走する物語である。意図せず発された自殺の予告が、阻止せんとする者、達成させんとする者をそれぞれ走らせる。その奔走が雪崩のごとく人を巻き込んで、日常の皮膜をめくり上げて、東京のアンダーグラウンドを露わにする。
これは東京の胎内巡りの物語だ。死を駆動力に、彼らは路上を駆け、公園に集う。彼らは家に帰れない。都市は路上と公園という器官を持つ生体機械複合体だ。家という分泌器から絞り出された彼ら細胞は、ネットと携帯という迷走神経で語り合い、路という血管を走り、公園という臓器で化合を起こし、再び迸るべき脱出口を目指す。
彼らは未分化の細胞で、労働者の消費者の遊民のヤクザの家庭婦人のアイドルの犯罪者の保安官の、可能性であり未だどれでもない。一人の死を追いかけて、自らが一部である高次生物の「死と再生」を体験する。
この作品は古典的な「死と再生」の神話として意識的に書かれている。
15人の主人公たちの通過儀礼だけでなく、東京という都市の誕生と「死と再生」の歴史を追いかける物語でもある。
「とくせん」さんの神渡りから国譲りを経て江戸として誕生し、御一新と昭和の戦争という二度の「死と再生」を経て、今一度「第二の敗戦」という死からの再生を目指して更なる拡大増殖を目指す。東京という生物の神話が24時間の冒険譚にオーヴァラップして語られる。
実はこの作品で語られる東京は、今寿命の尽きんとする東京の西半分にすぎない。作者はあえて、東半分を巻き込んで再生せんとする「新東京」を語る事を避けた。なぜなら東半分は別の無意識、別の神話を持つ別の生き物になるはず、と作中で語られているから。
また、東京が地脈に沿って有機的に成長していった結果、高次の抽象性を持ち得なかった事も指摘している。天を摩せんと塔を築き、そこから俯瞰する事はできても、天からの視点を遂に自らは持ち得ない東京の限界をも語っている。東京の道路に沿ってパターンを描く時、それを天から見下ろしてメッセージとして認識する視点は「西」、関西でも広島でも博多でもなく「もっと西」からしか得られなかった東京、いや日本という生物の限界も、やはり作中で語られている。
ともあれ、主人公たちが演ったのは壮大な鬼ごっこであり、迷路巡りであり、野球であり、コンゲームであり、ダンスパーティーだったわけだが、これらすべては神事、神話的儀式と私は解釈する。多くは死神との対話であり、都市誕生以前の古い神との交感であり、都市自身の潜在意識まで降下して再び意識水面まで上昇する生と性の儀式だ。彼らは自身が都市の「死と再生」を体験する。そして、その神事が執り行われる場、都市という生物の器官が「公園」だ。時としてグラウンド、時としてフェミレス、ジャズバー、雀荘、秘密地下集会所だが、その機能は公園だ。「公園」で主人公たちは化合して物語を駆動する。
都市は原野を田圃に変え、住宅に変え、道路を走らせ、市場を立て、工場を造り、オフィスビルを築く。しかし公園はけっしてその余地ではない。「なりなりてなりあわぬところ」に見えて、それは神話的器官として、あるいは性器として分化形成されるのだ。
「公園」のない都市はない。いや「公園」という器官を備えて初めて、そこは都市になる。東京の大都市たる所以は、その軟らかい組織を内包する事、「内包するべき」と都市が自覚的であるところにあるのかもしれない。
未分化の細胞は「公園」という器官で受精し、迸る脱出口を探して奔る。旅立ちは死でもある。この物語で死が東への船出で象徴されるのは興味深い。なぜ東京以前のように死が「西」でなく、日の本「東」なのか。それが戦後東京が誰の精を受けて生まれたのかを示すのだろう。
ライトノベル?いまどき、あなどるような読者はおられまい。(鼎元亨)