TOKON10実行委員会公式ブログ

第49回SF大会TOKON10実行委員会の公式ブログです。
開催日程:2010年8月7日(土)〜8日(日)
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東京SF大全20 『AKIRA』
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    「AKIRA」(週刊「ヤングマガジン」1982年〜1990年連載)




     東京湾に浮かぶネオ東京と旧市街地を結ぶ夜のハイウェイを、オートバイの一団が駆け抜けてゆく。目の前の道路の崩落に気づいた先行車の少年は、持ち前の運動神経で急停車をかける。族のヘッドは、「健康優良不良少年」こと金田。その金田の眼に映るのは、38年前に旧東京を破壊した「新型爆弾」の被爆跡である。

     見開き2ページにわたって描かれた「爆心地」の絵は、作品中、最もインパクトのある画面のひとつである。そこには強度を漲らせたひとつの「虚無」の姿が露出している。そしてこの「爆心地」の下には、世界が畏れるアキラが眠っており、アキラの目覚めは「ビッグバン」として演じられるのだから、根源的な虚無を巡る破局と再生の物語を綴る大友克洋のペンを握る手は、神話的欲望に染め上げられつくしていると言っていい。このような大友の姿は、同時代的であると同時に反時代的でもある。

     文芸評論家の井口時男が「私が仮に「破局願望」と名付けたのは、私の耳にはっきりと聞こえるその流れの水のことである。全面核戦争や大震災という気紛れな破滅を、私たちはただ畏れているのではない、実は畏れつつ待ち望んでいるのだ」(『物語論/破局論』あとがき)と書くのは1987年のことである。当時の社会の水面下に流れる水音に呼応するかのように、『AKIRA』は「ヤング・マガジン」に連載され、オウム真理教は「ハルマゲドン」の物語を語った。1995年に阪神大震災は起き、東京では地下鉄サリン事件が襲いかかった。その2年後には「少年A」の事件、2001年には「同時多発テロ」が「破局願望」を満足させた。「これは俺の望んでいたことだ……しかし俺は、そのことを、ボードリヤールのように率直には書けなかった」(「断片」)と、2004年に井口は書くことになる。

     大判のコミックスで全6巻におよぶ長大な『AKIRA』のストーリーの大半は、壮大な「破局」の場面をスペクタクル豊かに描き出すことに費やされる。その状景に興奮を覚えながら、私たちは「これは俺(わたし)の望んでいたことだ」と肉体的享楽を味わいつくしたのである。だがそれは、時代の流儀に違反するものでもあった。というのも、肉体の受苦(パッション=情熱)は、物語の欲望とともに、80年代の価値観からは締め出されていたのだから。

     その作品の名を口にすることはなかったが、井口時男は、『AKIRA』が胚胎していた欲望の最も近くにいた批評家だった。「物語批判」全盛の時代に、「物語の身体――中上健次論」(1983年)を引っ提げてデビューした井口は、恰も「遅れて来た実存主義者」のごとく、物語の欲望を信じる反時代的な人間だった。そしてそうであるがゆえに、時代が漏らす呻き声に敏感に反応し得た文学者だった。井口には次のような言葉を口にする権利がある。「八〇年代的物語批判など何の効力も持たなかった。物語への欲望の根っこに手をつけない表層的な物語いじりにすぎなかったからだ。消えたあの作家、この作家、あるいは、文化人面したあの作家、この作家を思い浮かべよ」(「断片」)

     「物語への欲望」とは、「実存」そのもののことだと言ってよい。固有の「私」の身体が世界との関わりにおいて被る親和と異和の体験が、制度の限界を暴きたてる。井口は「物語の起源にある死への欲望」を確認しつつ、「現在という制度を無化しうるのも、実現された世界像ではなく、制度に回収不可能なこの欲望の力である」と言うが、真正の物語とは、この欲望の燃え立つ炎のことを指す。80年代のカルチャーが無邪気にも試み続けたのは、炎の剥製化、すなわち生の仮死化であった。物語の欲望は、孕まれた矢先に、その芽を摘み取られ、流産させられ続けたのである。

     当時、私はこの堕胎行為に加担したサブカル文化人に強い違和感を覚え、孕まれた物語の欲望の擁護を構想さえしたが、彼らが知らなかったことは次のようなことである。「欲望の仮死によってしか解体できないような物語には何の力もない。それはいつでもシミュレーションのシステムに回付されるばかりだから。そうではなく、いま・ここに現に受難しつづけている身体の欲望に発する力のみが、自足することで制度をなぞろうとする物語の力に拮抗でき、一方、言葉という過剰に賭けてすべてを物語らねばやまぬ欲望のみが、いま・ここの虚無に曝された身体の過剰さと拮抗し合えるのである」(「物語・破局・シミュレーション」)

     「いま・ここの虚無に曝された身体の過剰さ」を痛ましいまでに抱え込んでしまった『AKIRA』の登場人物が鉄雄(41号)である。金田とともに冒頭の「爆心地」に遭遇した直後に、鉄雄は過剰な力を付与されてしまうが、もともと鉄雄はその存在のうちに、危険なまでに空虚を抱え込んでいた少年だった。「小さいときから、何をするにも、いつでもお前がボスだったなァ」と金田に劣等感を抱く鉄雄は、どうやら郊外の団地らしい「空虚」そのものの土地で、金田と出会うのだし、その土地に鉄雄を連れてくるのは、「冗談じゃないわよ もう 実の子でもないのに」と邪険に扱う継母である。孤独な心を支えるために、鉄雄が肌身離さず身につける「おふくろの写真」の収められたロケットは、拾ったものにすぎない。常に「真空」に苛まれる彼は、「大東京帝国」の指導者になってからも、傍らにカオリという母代りの少女を置いておかねば安息感を得られない。一時期はクスリを飲まねば安定しない虚弱児であった。「健康優良不良少年」金田に比べれば、不健康なこと極まりない。金田は人間サイズのワルにすぎないが、鉄雄は底が抜けている。鉄雄の真空は徹底した悪に染め上げられる類のものなのだ。世界の「真空」を「悪」が充填するというテーマは、サリン事件以降、村上春樹のオブセッションになっているが、鉄雄と『海辺のカフカ』の主人公の少年は、恰も双生児のようだ。

     『AKIRA』は、始源の虚無に触れることを欲望する。だから、「東京」は「ネオ東京」に、「ネオ東京」は「大東京帝国」に、絶えず名前を変え続けなければならない。「名前」は隠蔽装置でしかないから。「始源の虚無」とは、名付け得ぬ「暴力」のことである。28号に与えられた「アキラ」という名も仮のものにすぎない。じっさい、冥界を思わせる爆心地の真下に埋められた奇怪な装置(「自ら開けた恐怖の穴」と呼ばれる)に眠っていたアキラは、ほとんど唖と言っていいほどに、言葉を発する(表象する)ことはない。アキラは表象不可能な力のことである。アキラの頭の中を覗こうとした鉄雄は、桁外れの力に触れ、怯える(「危うくこっちがはじき飛ばされそうになったんだからな」)。

     繰り返し言えば、『AKIRA』の根底には、アナーキーな力の発現による「破局願望」がある。「東京」は、構築されるべきであり、かつ構築されてはならない。むしろひとつの「構築」からもうひとつの「構築」への運動こそが、重要視される。都市の廃墟の彼方にアナーキーな熱狂を幻視する作品として、村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』が先行している。「力」という真の実在に直接触れたいという70年代の「熱」を湛えた作品である。このような直接性の物語は、粗すぎて、大雑把すぎるから、代わりに、「交換」「取り消し」「省略」「削除」といったパソコン的方法を考案したのが、80年代の小説を担った高橋源一郎(たとえば『優雅で感傷的な日本野球』)ではないか、という興味深い見解を井口は述べている。「いわば、蕩尽の物語が素朴にエネルギー論的であるとすれば、高橋源一郎はそこに電子テクノロジーを導入して精密化しようとするのである。彼は「システム」と同じ速度で運動しようとするのだと言ってもよい。それはいかにも「高度資本主義」的に洗練された「優雅」なやり方だ」(「贋前衛の贋の終末」)1952年生まれで1976年デビューの村上龍と1954年生まれで1973年デビューの大友克洋は、ほぼ同じ美学に親和するのだと言える。

     たとえば、金田と鉄雄は暴走族のメンバーである。暴走族が最も輝いていた70年代のオーラを彼らは背負っている。知的な計算を欠落させたガキのアナーキーな空元気とでも呼ぶべき美学に、彼らは本能的に殉じている。『AKIRA』の筆のタッチは、70年代劇画(さいとうたかをや川崎のぼる、彼らの起源は関西の貸し漫画にある)を引き継ぐものであり、群衆シーンは白土三平の『カムイ伝』を思わせる。最後の場面で、金田は「旗はボロでも心は錦」と粋がってみせるが、こうした言葉も80年代のおしゃれで計算ができる若者像(「ヤッピー」が時代の理想像だった)からは、かけ離れたものだった。だから、国連や日本政府らの干渉を拒む金田が呼ぶところの「俺達の国」は、近代国家の理念に準じて設立されたものではまったくない。群れをなしてオートバイを走らせるエンディングからも知られるように、それは暴走族のグループ立ち上げの瞬間なのである。橋の上から垂らされる横断幕のような旗には「大東京帝國」の文字が書かれているが、その大仰なネーミングといい、「帝国」の「国」が旧漢字の呪術性を効果的に使っているところといい、「夜露死苦」だの「愛羅武勇」だの、漢字を意味伝達の手段ではなく、刺青の彫り柄のごとく用いる暴走族文化の美学に通じている。

     都市の廃墟を駆け抜ける彼らの姿を後ろから捉えた場面は、余白としての未来を感じさせて爽快だ。だが行く手の先には、爽快さだけではない、鈍重で退屈な大人の務めも控えているはずだ。その部分を、大友は巧妙にも省略している(そこがこの作品の弱点とも言える)。ともあれ、これだけのエネルギーを感じさせる作品は、日本文化においても、めったにない。歴史的傑作である。(石和義之)
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