TOKON10実行委員会公式ブログ

第49回SF大会TOKON10実行委員会の公式ブログです。
開催日程:2010年8月7日(土)〜8日(日)
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特別掲載:東京SF論『真・女神転生』をめぐる外挿法(エクストラポレーション)の射程
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     引き続いて、岡和田晃による『真・女神転生』論をご覧ください。



    『真・女神転生』をめぐる外挿法(エクストラポレーション)の射程
                           岡和田晃



     本論考では、今や一大産業と化した感のある『女神転生』シリーズの中でも、人口に膾炙し、かつ尖鋭的なシナリオと練りこまれたゲーム性によって、名実ともにシリーズを代表する傑作との評価を崩さない『真・女神転生』と、同タイトルが体現したSF的想像力について、主に、SFの重要な技巧である外挿法をめぐる形で論じていく。


    ●空無化された境界

     「メガテンの記憶」において鈴木一也は、『女神転生』シリーズの出発点を、西谷史の小説『デジタル・デビル・ストーリー』が体現したような、「伝奇モノと云われるバイオレンスとセックスとクリーチャーの盛り合わせ」に置いている。加えて鈴木は西谷の小説を、ライトノベルの最初期の作品として位置付けている。
     伝奇小説が有したいわゆる偽史的想像力と、その想像力が表象する戦後日本の時代精神が、いかにしてライトノベルに流れ込んだのかということについては、たとえば笠井潔が「山人と偽史の想像力」、「「リアル」の変容と境界の空無化」などにおいて、戦後日本の思想史的な系譜学を踏まえたうえで精緻な考察を行っている。
     笠井は、おそらく西谷の諸作品もそのカテゴリーに収められることになるだろう八〇年代の伝奇小説を、山口昌男の文化人類学に見られるような、周縁、日常に対する非日常の境界を明確化した作品だと位置づけた。そのうえで笠井は、「いまや(引用者註:発表時は二〇〇四年)探究されるべきは、境界論的な境界ではなく空無化された境界」だと明言している。
     しかしながら振り返ってみると、空無化された境界の果てに待ち受けていたものは、人間と世界とを媒介する社会が完全に消滅した圧倒的な真空にほかならかった。
     むろん、そこにも可能性は宿りうるが、批評的言説の多くは、空無化された境界を成立させた位相と、世界と自己とを媒介する中間領域が消滅した状況下において中間領域に代わるオルタナティヴな想像力がいかにして可能になるのか、という問題意識を欠いてしまっていた。
     そのため、「空無化された境界」をめぐるフィクションや、フィクションをめぐる言説の多くは――個々の自意識の中で当て所なく自涜を続けるような――ひどく貧しいものへと堕してしまった部分が、確実にある。
     そうした実例の一つとしては、福嶋亮大の「セカイ系評論と決断主義」が挙げられる。同論考において福嶋は「どのみち、今の日本では「物語」の選択はほとんど任意的・趣味的なものとなっている。」と乱暴に要約し、個々のフィクションの担い手の特性を捨象して「物語性や思想性を放棄し、崇高のイメージで一発キメている作家」と一括りにする。
     そして彼は、真空の内部で苦闘する想像力の位相を、すべからく空無化された状況に寄り添う「美やアイロニーと一体化すロマン主義者」として片付けようとしている。
     もちろん福嶋の発言はあくまでも事例の一つにすぎず、そこのみを批判するつもりはない(ついでに言えば福嶋の批判対象には筆者自身も含まれているが、この場を借りて個人的な攻撃を行なうつもりもない)。
     しかし、かような個々の想像力の間に横たわる差異を暴力的に消滅させようとする類の短絡的な姿勢がもたらす閉塞的な状況に対し、打開のすべを模索が可能な想像力のあり方を模索することが、フィクション、ひいては表現全般の言説をめぐる喫緊の問題として立ち上がっていることは言を俟たない。
     そのためには笠井の言う「空無化された境界」を、SFの形で考察し直す必要があるだろう。


    ●和製サイバーパンクの異端児

     そもそも西谷自身の小説にせよ、『神々の血脈』や『東京SHADOW』のページを改めて繰りなおすと、ライトノベルと言う言葉から私たちがまま連想しがちな、煩瑣な萌え記号の充溢からは縁遠い、圧倒的な豊饒さへ直面することに気がつかされる。
     むろん、伝奇小説やライトノベルの中にも優れた作品は多数、存在している。ここでは両方のジャンルにまたがる佳作として望月守宮の『無貌伝』シリーズを提示しておきたいが、一方で、かつての西谷作品に書かれてきたような豊穣さにもまた、焦点が当てられてしかるべきだろう。
     確かに、『女神転生』シリーズは、バブル経済に代表される80年代という稀に見る「ゆたかな社会」をそのまま反映しているようにも見える。
     しかしながら見落としてはならないのは、西谷の小説が基盤としたような、コンピュータ・サイエンスと魔術理論を融合させ、悪魔召喚プログラムを開発した高校生が日本神話の神々とともに、堕天使や悪魔と戦うという構図は、必ずしも伝奇が「ゆたかな社会」を表象してきたというだけではなく、むしろSF的な外挿法(エクストラポレーション)を前提としているところ大きいことだ。
     かつて、コンピュータ・テクノロジーの進化を軸に、SFやゲームが、メディアと文化、そして社会をラディカルに変革するという熱気が投影されていた時代があった。
     SFにおけるその成果は、なんといってもサイバーパンクである。サイバーパンクは単なる文学的な流行り廃りではまったくなく、芸術ジャンルの内部運動を経て、芸術作品を通してもたらされた現実認識の異化作用という効果までもを刷新しようとしたラディカルな運動だった。
     現に、サイバーパンクの旗手であったウィリアム・ギブスンは、ロジャー・ゼラズニイやJ・G・バラードといったSFにおける先達や、ウィリアム・バロウズのよ旧来の文学観からするとまさしく異端的な書き手から、積極的に方法を吸収していた。こうしたサイバーパンクの熱気は、巽孝之の『サイバーパンク・アメリカ』へ克明に記録されている。
     運動としてのサイバーパンクは、やがて90年代に入り、「サイバーパンク党」の「書記長」として振る舞ったブルース・スターリングが「80年代サイバーパンク終結宣言」を描いて自ら引導を渡すこととなった。そして、サイバーパンクとして認知された作家たちは、もはや特定のラベルに囚われることのない、各々の構築した領域へとその仕事を進めていくことになる。
     しかしながら、アメリカのサイバーパンクがもたらした成果は遠く日本においても浸透を見せた。その収穫の一つに、柾悟郎の『ヴィーナス・シティ』を挙げることができる。2010年の私たちから見ると、『ヴィーナス・シティ』が描き出したヴィジョンのうち、もはや色褪せているようにも見える部分は少なくない。身体改造、通信方法の転換などは、私たちにとってはもはや何も目新しいものに見えず、かえって「東京おたくランド」なるグロテスクなカリカチュアそのものが強調されてしまったような皮肉な情勢さえうかがえる。
     だが『ヴィーナス・シティ』に充溢している、サイバーパンク精神を全身で呼吸しているという軽やかな息吹は他に替えがたいものであり、その一点において『ヴィーナス・シティ』は今でも読むに値する作品となっている。そして『ヴィーナス・シティ』と同年に発表された『真・女神転生』もまた、和製サイバーパンクの傑作として理解することが可能だと言える。
     そもそもサイバーパンクとは、ダナ・ハラウェイの『サイボーグ宣言』、ルーディ・ラッカーの『ソフトウェア』、そして何よりもスターリングが編んだアンソロジー『ミラーシェード』、そしてラリィ・マキャフリィの『アヴァン・ポップ』に顕著なように、人間と機械、性と生、実在と情報といったような相反する要素がただ対立するのではなく、相互浸透と止揚の過程を経たうえで、いまだ誰も見たことがないフロンティアを希求しようとした運動だった。
     はからずしも『ヴィーナス・シティ』と同年に発表された『真・女神転生』は、こうしたサイバーパンク的な二項対立を、科学とオカルティズムの止揚という形で、そして何よりも、ゲームをプレイするユーザー自身が完成させる双方向的な物語として提示したと言ってよいだろう。


    ●属性(アラインメント)とポストヒューマニズム

     『真・女神転生』の世界は二元論の世界だ。そこに生きる者たちは、ロウ(秩序)と混沌(カオス)、ライト(光)とダーク(闇)という属性(アラインメント)を初めから帯びさせられることになっている。
     主人公は当初は中立(ニュートラル)からゲームを開始するが、面白いのは、中立の主人公は多くの場合、属性間の天秤を揺らすことなく、ゲーム内でのクエストを数多くこなすことで、徐々に特定の属性へ傾斜していくことになる(中立のままでエンディングを迎えることもまた可能だが、それは最も難しい選択肢となっている)。
     鈴木一也が「メガテンの記憶」で言うとおり、この属性システムは明らかにマイクル・ムアコックの創造した「エターナル・チャンピオン」シリーズの宇宙観に基づいている。
     会話型(いわゆるテーブルトーク)RPGの『ストームブリンガー』は、ムアコック作品の背景世界を丹念に慫慂し、体系的なルールメカニズムとワールドセッティングを提示したものだった。ニューウェーヴSFの洗礼を受けたヒロイック・ファンタジーの鬼っ子としてのムアコックの精神が、国産サイバーパンクの異端児としての『真・女神転生』の独自性に確かな花を添えているとはまた痛快な話だが、それ以上に、この属性という概念が『真・女神転生』が紡ぐ物語を、日本という狭い世界に留まらない、ジャンルとしての特質を活かした広がりを与えている。
     『真・女神転生』の世界で生きるためには、誰もが何らか属性の内に身を置かねばならない。それはイデオロギーというよりも、イデオロギーを成立させる前提となる共同体の理念型、ひいては一種の身分と国籍の獲得に近いものがあると考えられる。
     『真・女神転生』は、鈴木一也がシナリオ・ライティングに携わった前作『女神転生供戮紡海い董宗M・ウォルター・ミラー・ジュニアの『黙示録三一七四年』、ロジャー・ゼラズニイの『地獄のハイウェイ』、アシモフ&シルヴァーバーグの『夜来る(長篇版)』、さらには『ダンジョンズ&ドラゴンズ』のワールド・セッティング“Dark Sun”といった系譜に連なる――いわゆるポスト・ホロコースト的な暴力性を全面に押し出している。
     『真・女神転生』において、いわゆるクリーチャーは、天使や精霊といった存在をもそっくり含めて悪魔と呼称される。キャラクターは銃器や魔術をもって、彼らと対峙し、時にはコミュニケーションを図って仲魔にし、その力を自らの糧としていくことになる。
     こうした舞台装置の上でプレイヤーが演じることになる主人公は、直面する選択肢の多くは、人間性の根本的な原理を問い直させられるようなものばかりだ。そしてその最たるものは、物語のクライマックスにおいて、主人公は自らと属性を異にする友を殺さねばならないという点だろう。
     友の一人は、主人公のために命を投げ出し、秩序の原理を体現したロウヒーローとして、東京にカテドラルを建築しようと死力を尽くす。
     対して、飽くなき力を求める友は、悪魔と自らの力を融合させ、混沌の原理を体現したカオスヒーローとして、己の欲望を最大限に増幅させ、それを力へと転化させようとする。いずれの属性を進むにせよ、彼らのどちらかとは対立を免れることはできない。
     サイバーパンク作品の多くは、テクノロジーの果てに、旧来の人間性とは異なる圏域へと到達する、いわばポスト・ヒューマニズムを夢見るが、『真・女神転生』は、それを、かつて八百万の神々が支配した日本独自の精神性へと再帰させたところに大きな特徴があると言ってよいだろう。
     プレイヤーが成り代わる主人公は特定の属性を選択し、他の属性と戦わねばならないが、属性を選択しない道を選んだのであれば、他のあらゆる属性を敵に回さざるをえないのだ。そう考えれば、『真・女神転生』における中立という属性は、さながら存在論的な様相をも呈するものであり、加えて、和製サイバーパンクの異端児としての『真・女神転生』の独自性を裏側から指し示してもいるものだと言うことができる。


    ●双方向性と拡張する神話

     『真・女神転生』の発表の翌年、鈴木一也は『真・女神転生RPG』という会話型RPGを発表している。
     これは『真・女神転生』の世界観を統制しているブラック・ボックスを、ユーザーが自在に活用できるように公開しつつ、ユーザー独自の色付けを加えていくことで、ユーザー自らその枠組みに従いながら、自分だけの物語を創造し、友人とともに体感できるように工夫された作品であった。
     そこでは、『真・女神転生』に登場したダヌー神族(ダーナ神族)などの西洋・東洋の垣根を越えた各種神族の設定、ヴードゥーやマントラへ至る魔術の設定、ひいては真言立川流からオウム真理教さえもが含まれるカルト集団までもがデータ化されて紹介されていた。そのこだわりはある意味において、『真・女神転生』の世界を補完する役割を担っていたと言ってよいだろう。
     そしてユーザーはそれを受け止めた。例えば筆者の私淑する人物は、『真・女神転生RPG』の枠組みを用いて、さながら諸星大二郎の劇画にも相通じるような、天津神族と国津神族との対立にインド系の神々の侵略や、国津神族と姻戚関係にあるとされるヘブライ神族が介入する様が、『竹取物語』など日本の古典文学へと表象されるという壮大な物語を創造していた。
     こうした事例は、商業的な現場にあまり表出されることはないのかもしれないが、ユーザー間に『真・女神転生』を母体にした物語が確かに引き継がれてきたということを意味している。かような姿勢は『真・女神転生』の二次創作と捉えるよりも、『真・女神転生』を核に据えたサーガが、各々のユーザーによっても創造され続けてきたということを証し出すものとして理解すべきだろう。
     会話型RPGのルールシステムの系譜としては、『真・女神転生RPG』は、「スワップ・ダイス」という確率論の暴力をユーザーの介入によって逆用するという画期的なシステムの特徴性のみがまま着目される。しかし総体としての『真・女神転生RPG』のグランドデザインが、和製サイバーパンクとしてのサーガを広範なユーザーへ切り拓いてきたことは、もっと注目されてよい。
     1993年時の発表から現在に至るまで、そうしたサーガが語り続けられていることは、『真・女神転生RPG 誕生篇』から、『真・女神転生TRPG 魔都東京200X』へと至るRPGデザイナー/ライターの朱鷺田佑介がデザインを手がけた『真・女神転生』の世界観を軸にした会話型RPG群が一貫して高い評価を受けてきたことでも裏付けられている。
     そして鈴木一也自身も、『真・女神転生RPG』のルールメカニズムを用いた大作パソコンゲーム『偽典・女神転生』を世に問うことになった。『偽典・女神転生』は、『真・女神転生』と並んでゲームというメディアにおける和製サイバーパンクにして「東京SF」の傑作『トーキョーN◎VA』第2版を発表することとなった健部伸明らがノベライズを手掛けていたが、『真・女神転生』の熱気は、常にその設計図を描いたものたちをも巻き込みながら、螺旋的に拡大と発展を続けてきたというわけだ。
     『偽典・女神転生』は何よりも、国産コンシューマーゲームの枠組みの限界に迫った宗教性の根源を追究したシナリオと斬新な演出によって知られており、ゲーム畑のみならず文芸的な側面からの再評価が待たれるが、「メガテンの記憶」によれば同じPCゲームというフォーマットで鈴木一也は『新世黙示録 Death March』を発表する予定であるという。
     そもそも『新世黙示録』は、『真・女神転生RPG』に続いて鈴木がデザインした会話型RPGのタイトルを踏襲しており、おそらくは設定のいくらかは近似的な関係にあるものと推測される。その会話型RPG版『新世黙示録』においては、『真・女神転生RPG』に記されていた設定がさらに濃密なものとして膨らまされたうえで、独特の行為判定システムを軸に再考されていた。
     現在、会話型RPG版『新世黙示録』そのものも第2版が準備中であるということだが、こうした一連の作品が、世界各地に散らばった数々の神話・伝承の類を『真・女神転生』というフレームのもとへ外挿させ、ひいては『女神転生』シリーズが構成する壮大なサーガへ新たな一ページを加えようとしていることはまさしく疑いがないだろう。


    ●三島問題と東京ダンジョン

     『女神転生』シリーズに大きな影響を受けたという樺山三英は、『女神転生』のシステムが下敷きにしている『ウィザードリィ』を「ある種そぎ落とされたシステムの世界」としたうえで、『女神転生』を「極端に誇大妄想的に膨れ上がった世界」と対峙させている(「ハムレット・スリップストリーム」)。
     この「誇大妄想的に膨れ上がった世界」という樺山の賛辞は、『真・女神転生』シリーズが扱う神話が、外挿の経緯を経るだけではなく、内側からも照応されうるということをも示唆していると受け取ることができる。
     そもそもゲームというジャンルで表現される物語は、現実世界と直接の照応関係を持たないと、往々にしてその価値が不当に低く見積もられてきた。
     そのためか、『真・女神転生』は、神話的な物語の根幹に、戦後日本が抱えた文学的事件をまま背景としていることは、ほとんど語られてこなかった。
     『真・女神転生』は吉祥寺に始まり、半ば廃墟と化した東京をぐるりと一周していくことで、廃墟と化した東京の相貌を浮き彫りにし、そこに暮らす人間と、超越者たちとの関わりを可視化させていく話であるが、東京がかような崩壊の憂き目を見るのは、アメリカによってI.C.B.M.(大陸間弾道ミサイル)が撃ち込まれたという、いわば終末戦争(ハルマゲドン)的な情景が、物語の半ばで体現されてしまったからにほかならない。その際に核になるのが、三島(由紀夫)問題である。
     『真・女神転生』における三島問題は、ゴトウと呼ばれる、明らかに三島をモデルとした人物を介して語られる。彼は、世紀末日本の行く末を憂うがため、八百万の古き神々、すなわち悪魔たちと契約を結びクーデターを決行する。そして彼は「イチガヤ」の自衛隊基地を占拠し、東京へ戒厳令を敷くのである。
     プレイヤーはゴトウへ接触し、ゴトウと敵対するアメリカ合衆国大使トールマン(史上、核兵器を使用した唯一の大統領であるトルーマン大統領のもじり)の殺害を依頼してくるが、対するトールマンはトールマンで、プレイヤーへゴトウを殺すように命じてくる。
     ゲーム内において、ゴトウを殺すと「属性」をローに、トールマンを選ぶと「属性」がカオスへと進む重要なフックとなるイベントであるが、真に重要なのは、このゴトウの事件を契機として、東京へアメリカからI.C.B.M.が撃ち込まれてしまうことにある。トールマンの正体が雷神トールであり、物語世界へ破滅をもたらす神話的な位置づけをも与えられているることをも勘案すると、この事件はなかなかに示唆的で、かつ『真・女神転生』を一種の「戦後文学」として見ようとする眼差しを私たちへと与えるだろう。
     大江健三郎は、同時代を生きた文学者としての立場から、三島由紀夫がその人生の最期の日に市ヶ谷駐屯地へ押し入ったことを次のように述べている。少々長くなるが、同時代を体感した文学者の貴重な証言として紹介したい。
     さて三島由紀夫は、かれの擬古文的な文体や耽美的な美学が韜晦して押しかくしていた、しかしまぎれもない戦後文学者の特質において、同時代と深くかかわっていました。ただ、かれより他のほとんどすべての戦後文学者が、一九四五年の敗戦のもたらした政治的、社会的、倫理的な変革の方向づけに、能動的な姿勢で同行しようとしたのに対して、三島はやはり能動的な姿勢で、逆行しようとしたのです。
     (中略) 
     現実判断の能力にもたけていた三島由紀夫は、かれの自衛隊でのクーデタ呼びかけが、現実的な有効性を持つとは考えていなかったにちがいありません。それはあえて口に出してそう言ってみるだけ滑稽なような話ですが、あえて敷衍すれば、彼は市ヶ谷の自衛隊に闖入した、あの場でクーデタが引き起こされることを期待していなかったのみでなく、自分の私兵との行動が契機をなして、のちにクーデタが成立するというプログラムについても、いかなる期待も持っていなかったと思われるのです。もしいくばくかの期待を将来にかけて書いたとすれば、彼の遺した文章は、あまりにも具体的な意味内容に欠けています。
     つまりはクーデタ呼びかけとその失敗、そして自決という、主観的にのみ首尾一貫する筋書きを、かれは自己演出したのですが、このパフォーマンスは、かれの天皇国家観、文化観、歴史観を顕在化させて、それと同時に、顕在化したものをしめくくるという、戦後史上へのひとつの幕引きへの配慮をこらしたものでした。つづいてそれは、日本の現代文学の状況からも、三島由紀夫が顕在化させたものを、それが最後の花火であったかのように消滅させてしまう、という役割を果たしたのです。(「戦後文学から今日の窮境まで」)

     大江の言う「日本の現代文学の状況」という言葉を「現代日本のフィクションの状況」へ置き換えれば、『真・女神転生』の目指したものが見えてくる。そしてここで大江が語る三島の「能動的な姿勢」の「逆行」、ひいては「三島由紀夫が顕在化させたもの」とは、フィクションで表象される美学と、行動によって変革される思想状況との一致という、日本浪漫派の延長線上に位置づけられる問題にほかならない。それは、例えばミシェル・フーコーが述べたような「言葉と物」の乖離へも通じうる。
     そして、三島自身も死の直前に編集者へ渡したという『天人五衰』のラストで描かれる、圧倒的な「無」の静謐が露わにした、ヒューマニズムの終焉とも言うべき圧倒的な静謐さとも密接に関わっている。
     笠井潔は、三島の姿勢を「天皇の創造的な再中心化」と述べており、「一九六〇年代に三島由紀夫が、続いて七〇年代に解体期左翼が準備し」、「八〇年代的な消費者大衆の無意識的な渇望と絶妙に交差した」ものとして系譜付けることにしている(「山人と偽史の想像力」)。
     こうした流れで見ると、『真・女神転生』が、三島由紀夫のクーデタに成功した未来像を、ポスト・ホロコースト的な廃墟としての東京して描き出したことには、何かしらの社会史的な必然性があるのではないかと考えざるをえない。
     『テロルの現象学』において笠井潔は、「三島にとっては自殺こそが、観念の肉体憎悪の究極の形」とし、「肉体を観念の支配下におき、肉体を美的に形式性の奴隷たらしめることの極限的完成」として、三島は「死」を「美的に完結したもの」と措定したのだと書いている。こうした三島の姿勢は、『真・女神転生』のヴィジョンと奇妙なまでに対照的だ。
     そして大江健三郎自身も、『さようなら、わたしの本よ!』において、もしも三島が、「肉体主義」を「美的に完結したもの」としなかったとしたらどうなっていたのかという考察を行なっている。それはすなわち、三島が自決するのではなく、「自衛隊にクーデタを挑発する、しかも最初の失敗でそれをあきらめない。むしろ失敗に続く国家の弾圧すら逆手にとる」といった「ポジティヴな構想」にほかならない。
     その後、あまりにも「早熟」だった三島が、監獄内での熟考を経て、バブル時代の狂騒に沸く日本に復帰したら何が起こったのか。それとともに、三島の「考えと行動力は本気なもの」と受け止めた者たちはどうなっていたのか。いや、仮に三島が死んだままでいても、その「失敗を教訓」にして、三島と同様の問題意識を抱えたものたちが、彼の自決後の「三十年、もし準備を重ねていた」ならばどうなっていたのか、との問いかけが、『さようなら、私の本よ!』では投げかけられる。大江は『さようなら、私の本よ!』に関係したとあるインタビューで、こうした問いへの答えを自ら出している。そこでは大江は、おそらく三島はオウム真理教すら越えるような、カリスマ的な教祖と化していただろう、とありえたはずの未来を予測していた。そう考えると、大江のヴィジョンと『真・女神転生』の発想の相同性が見えてくる。
     『真・女神転生』の数年後、はからずしも『真・女神転生』が描き出したヴィジョンというものは、地下鉄サリン事件に代表される一連の騒動において、現実化されてしまった。真・女神転生』は着実に何かを捉えていた。それが、オウム事件以降、可視化されてしまったのだった。
     そう考えると、オウム事件、そして9.11を経た後の私たちがいま『真・女神転生』を現代の神話として受け止めることには何の不都合もないことがわかるだろう。ありうべき未来を考えるために。
     いや、ひょっとすると、私たちはそれと気が付いていないだけで、本当はトールによってI.C.B.M.を落とされてしまっているのではなかろうか。
     鈴木一也は、自らの創作姿勢を、唐十郎の「赤テント」に準えているが(「ゲームデザイナー対談」)、それは巽孝之の言う「書割国家」としての日本(『日本変流文学』)から逃れるための、苦肉の策であったのかもしれない。
     西谷史は、三島由紀夫を軸に、三島と渋谷、そして明治神宮と東京ダンジョンの相同性を語った(「悪魔について」)。そして「メガテンの記憶」において鈴木一也は、自らが『女神転生』シリーズの創造に携わった経験と同じくらいの重みをもって、東京をダンジョンとして再解釈することへの情熱を語った。
     東京という地勢を、ひとつの壮麗な廃墟とそれに付随する地下都市として語り、再解釈すること。その意識は、例えば松浦寿輝の『花腐し』や清水博子『街の座標』など、東京を迷宮都市として語るヴィジョンにも相通じるものがあるだろう。そう考えれば、『真・女神転生』という巨大な作品が、いかに豊穣なSF性を外挿させてきたのか、その射程がおぼろげながら窺えるように思える。
     そういえば、『真・女神転生』の事実上の続編と見なすこともできる『偽典・女神転生』は、初台のシェルターから物語を開始するのであった……。(岡和田晃)


    参考:三島由紀夫の市ヶ谷駐屯地占拠と割腹自殺を伝える当時のニュースの動画。
    http://www.youtube.com/watch?v=hPTd6BPMGpM&feature=related
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