TOKON10実行委員会公式ブログ

第49回SF大会TOKON10実行委員会の公式ブログです。
開催日程:2010年8月7日(土)〜8日(日)
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大阪SF大全1 『傀儡后』
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     牧野修『傀儡后』 (ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)2002


     正直に言うと、このお話を持ちかけられたときには驚きました。確かに、東京のことはよくわからないので、東京SF論なんて書けないと言ったのは僕です。でもまさか、それを逆手に取って、大阪SF論とは。どうやら東京人を相手にするときには、言葉にもっと気をつけないといけないようです。ともあれ、ここは実行委員でも優れた評論家でもある藤田さんのみごとな手管に敬意を表して、このお礼は後日あらためて丁寧に、ということにしましょう。

     しかし、牧野修先生の『傀儡后』を論じるにあたって、大阪を舞台にしているという点を強調するのは、あながち意味の無いこととは言い切れません。その理由はいろいろな角度から説明出来ます。たとえば、この『傀儡后』は、ミステリの手法にのっとって書かれた物語ですね。つまり、謎が伏せられていて、読者はこの謎の周囲をめぐりつつ、物語を読み進めていきます。『傀儡后』の場合、隕石の落下によって形成された危険指定地域の「内部」にいったい何が存在しているのかという謎が、それにあたります。もちろん、ミステリである以上、物語の謎は終盤まで解明されません。だからこそ、読者はこの謎に引きつけられるのですし、それが『傀儡后』の醍醐味です。ところで、この危険地域というのは、作中では、隕石の落下地点である守口市を中心に、半径六キロにわたって広がるとされています。この物語の大部分は、この円周の境界線付近の土地を舞台にしています。そうすると、この物語は、文字通り円周の上を動いていると同時に、謎の周囲をめぐるという意味で、比喩的にも円を描いていると言えそうです。あるいは、同じことですけれど、『傀儡后』の舞台は、物語のフレームであると同時に、物語のエンブレムでもあるのです。もし舞台設定の背後にこれほどの計算がはたらいているとすれば、おそらく、大阪が選ばれたこともどうでも良い細部なんかではないはずです。

     こうして異例な細部に着目することで、ときに、物語全体の意味に光が当たる場合があります。しかし、それとは別に、その細部が作者本人の秘密を形にしているがゆえに、読者にはけっしてそうした秘密が理解出来ないか、もしくは理解出来るとしても偶然に頼らざるを得ないという場合もまたありえます。じつは、『傀儡后』の舞台が大阪である理由とは、そうした偶然によるのでなければ、けっしてテクストそれ自体の内部からはわからないような秘密なのです。ぜひじっさいに確認してみていただきたいのですが、作中の説明にしたがって、守口市を中心にした半径六キロの円を地図にあてはめてみると、阪神高速13号東大阪線を南端に接している円周が描かれます。大阪にお住まいでない方にはわかりづらいと思いますが、これはだいたい、本町から谷町四丁目を東西に横切って、いわゆる“キタ”と“ミナミ”を隔てるラインになります。作中に、大阪城公園が危険区域に含まれるとか、危険地域を囲む金網を透かして府警察本部や府庁舎が見えるという描写があるので、この推定はまず正しいと見て良いでしょう。他方、上本町と宗右衛門町というふたつの地名は、作中ではっきりと言及されています。以上を考え合わせると、『傀儡后』の物語が動いている主な舞台の北限から南限、東端から西端までの範囲を、かなり厳密に特定することが出来ます。しかし、それで何がわかるというのでしょうか。これは、牧野先生ご自身が『大阪人』という雑誌の中でお話しになったことなのですが、先生はもともとミナミの繁華街でお生まれになって、これまでずっと谷町筋の近辺で暮らしてきたそうです。ということは、『傀儡后』の舞台となっている土地は、そっくりそのまま、牧野先生がこれまで過ごしてきた生活圏と一致するのです。つまりこれは、小説家の内密性です。読者に知らせるつもりのないままに、密かにしのび込まされた私秘的な署名のひとつなのです。とはいえ、僕たちは、今そのことを知ったからには、作者の秘密という仮説を立てた上で作品に向き合ってみるべきでしょう。

     一見すると、物語に作者本人の記憶が挿入されていることは、とりたてて不思議ではないように思えます。誰しも、自分の知っていることしか言葉に出来ません。でも反対に、作者は、自分の記憶をありのままに記述しているわけでもありません。でないと、作品は、ただの自伝になってしまいます。もしも自伝が虚構と対立するものならば、の話ですが。小説家は、自分自身の記憶を想像に変えます。そうして物語を記述します。そういうときには、現に物語を記述している作者は、現実の自分の人生にだけ所属しているわけでも、虚構の物語の内部にだけ所属しているわけでもありません。物語を現に記述している作者の前には、現実も虚構も、ひとしく言語化することの可能な対象、操作することの可能な対象として立ち現われてきます。おそらく、このために、『傀儡后』のメインテーマは「皮膚」なのです。仮面にせよ、衣装にせよ、それをまとっている本体からすれば、おしなべて表面的で、交換可能なものです。つまり「たまたま」それを身にまとっているというのに過ぎません。そういう表面性のイメージを押し進めた先に、皮膚というモチーフが現われます。そして、これに類したモチーフは、作中に散りばめられています。たとえば、「コミュ」の子供たちは、「ナマ声」を嫌うという描写があります。どうしてでしょうか。それは、コミュたちにとっては、「つながる」というコミュニケーションの本質だけが大切だからです。「つながる」という本質からすれば、会話も、肌で触れ合うのも、セックスも、たまたまそういう手段でコミュニケーションを取るというのでしかありません。つまり、本質に対する表面性に過ぎないのです。裏を返せば、自然音声は、表面的な手段を介してコミュニケーションを取っているという事実を覆い隠そうとするので――もしくは、覆い隠そうとするからこそ、なおさらに強調するので――コミュたちの生理的な嫌悪の対象になるのだと思います。同じように、「声」という本質からすれば、機器によってさまざまに取り替えることの出来る声色は、すべて表面性です。「人間」という本質からすれば、男だろうと、女だろうと、トランスセクシュアルだろうと、ひとしく表面性です。だとすれば、作者の存在にとっては、現実も虚構も、やはり表面性でしかないのです。しかし、だからこそ、気にかかる点があります。それは、そういう表面性を失えば何もなくなるというイメージ、皮膚をはぎとったところに中身は「存在しない」というイメージこそ、『傀儡后』が繰り返し描いているものだという点です。もし、皮膚の裏に中身がないなら、表面性の背後に本質がないなら、そのとき、作者と物語の関係とはいったいどのようなものでありえるというのでしょう。

     『傀儡后』には、「麗腐病」という病気が登場します。そして、この麗腐病者の死体を食すと、その死体の生前の記憶が体感されるという場面が描かれています。おそらく、ここで特記するべきは、記憶の持ち主が死んでいるという点、もしくは、記憶の持ち主が死体であるという点だと思います。今、見かけ上のグロテスクさを度外視してこの風景を考察するならば、記憶、すなわち物語と、その物語を語っている主体とは、「死」という関係で結ばれているという思考が透けて見えるのではないでしょうか。仮にこの推測が正しいとすれば、物語を記述する作者が死ぬ瞬間が、物語の誕生する瞬間です。そして、物語が誕生する瞬間とは、物語が終了する瞬間です。はじまりがあり、中があり、終わりがある。それが、物語です。これは、裏を返せば、物語は「終わり」を迎えるときにはじめて物語となるということを意味します。いえ、それだけでなく、物語のはじまりもまた、物語の終わりと同時にようやく、はじまりとして成立するということさえ意味するのです。物語の統一性は、結末からさかのぼって、回顧的に構成されます。だとすれば、物語とその作者との関係とは、じつは単に一方の記述が終了することで他方が開始するというような関係ですらありえません。なぜなら、物語の起源が回顧的に成立するというのであれば、「作者」の存在もまた同じく事後的に構成されるはずだからです。

     すべては「作者」という言葉が何を意味するかにかかっています。はたして、作者という言葉は、物語を記述した特定の実在人物を指し示すのでしょうか。しかし、厳密に言えば、この実在人物は「作者であった人」です。言い換えるなら「すでに作者でない人」です。それでは、作者という言葉は、本来の意味で物語の父であるはずの「物語を現に記述する主体」を指し示すのでしょうか。しかし、彼は、物語が生まれる前にも、物語が生まれた後にも存在しえません。つまり、「物語を現に記述する」という概念自体、じつは自己矛盾をきたしていると言うより他ありません。したがって、残るのは、物語の統一性の裏面に見いだされる作者です。すなわち、「物語に内在する作者」です。ひとたび物語が生まれたあとには、ただこの第三の意味での作者だけが、物語との関係を維持し続けます。しかし、この意味での作者は、何らの実体も、内容も保持しません。なぜなら、この作者の存在は、「物語の起源は物語自体に内在する」という自己回帰の円環以外の何ものをも意味しないからです。したがって、物語とは父なし子です。物語に作者は「いない」のです。物語とは、言うなれば「作者の子ではない息子」です。そこで『傀儡后』を振り返るなら、まさに、「七道貢」と「七道桂男」の関係がこのようなものとして描かれていることに気づかされます。そして、どうか思い出していただきたいのですが、『傀儡后』とは、父の語りから始まって、継子が父を放逐する瞬間に結末を迎える物語なのでした。そう、間違いなく『傀儡后』は、書くことについて徹底的に考え抜いている小説です。

     物語は、いつでも結末からさかのぼって意味を獲得します。そのときには、物語の統一性のもとに、それまで語られてきたさまざまな細部のエピソードが回収されます。これは、物語が「終わり」を有することに由来する不可避の出来事です。トートロジカルな言い方ですが、『傀儡后』は、傀儡后のエピソードをもって終了したからこそ、傀儡后の物語になったのです。そして、それが、おそらく「傀儡后がすべての物語を着る=所有する」という物語の結末に込められた意味でもあります。さらにまた、この小説が出版に至るまでの経緯自体が、まさに同じ行程を経ていたのでした。僕が言っているのは、この小説が、SFマガジンで連載していた時期から単行本化された時点までにこうむった変化のことです。

     もともとこの小説は、オムニバス形式の連載として、SFマガジンに掲載されていました。そのさいには、オムニバスなのだから当たり前ですけれど、基本的に場面も前後の脈絡も分断されたかたちで毎回のエピソードが書かれていました。言い換えると、物語の謎が解決されないまま放置されて、まったく別の物語へと「続いて」いくことが出来たのでした。しかし、最終エピソードが掲載されて連載が終結した後、Jコレクションから完成した作品として出版されたさいには、連載時には書かれていなかったプロローグが書き足されました。このプロローグは、その内容からして、最終エピソードに呼応するものです。つまり、単行本の出版に合わせて『傀儡后』をリライトするさいに、小説を書いている牧野先生の手つきは、物語が自己の意味を獲得していく(結末が先回りして始点を書き換える)運動をなぞっているのです。しかし、どうしてでしょう。それは、一冊の単行本として出版されるということ自体が、物語が終わりを有するという形式を必然的に決定するからです。オムニバスという形式には、結末は内属していません。確かに、個々のエピソードはそのつど終わります。しかし、仮想上は、そうしたエピソードは、無限に連接していくことが出来ます。つまり、オムニバス形式の連載の終わりに論理上の必然性は無いのです。しかし、出版物としての小説は違います。即物的な意味でも、形式的な意味でも、それには限界があるのです。だからこそ、書くことについての物語である『傀儡后』は、物語が載せられる表現媒体に合わせて、注意深く調整される必要があったはずです。 

     じっさい、連載形式から単行本へと移行するにあたって、決定的な手直しを施された登場人物がいます。連載時点で存在していた「壬生」という人物が、小説出版時に「涼木王児」という人物に統合、吸収されたのです。その結果、涼木王児は、物語の展開の中で二人分の役割を担わされて、ほとんど内破していると言えるほどに混乱を秘めた人物となりました。しかし、この奇妙な人物についてどんな解釈をするにせよ、それが牧野先生の構想の失敗だとか、気まぐれだということだけは絶対にありえません。反対に、これは、牧野先生の創作理念からして、必然の修正だったと解釈するべきです。重要なのは、牧野先生が、連載時には整合的であった物語の内容を、出版時にはあえて非整合的になるまで崩したという点です。おそらく、涼木王児は、物語の統一性に対する抵抗なのです。回収されざる細部。それが彼です。牧野先生の手つきの意味がこのようなものであるのなら、『傀儡后』の真のもくろみもまた、ここから知られます。つまりは、コミュたちが「ナマ声」を嫌うのと、理屈は同じなのです。物語が整合性を維持している限り、物語の意味は、自然なものとして、はじめからそこにあったものとして、受け取られてしまいます。しかし、それは違います。物語の意味は、つねに事後的に跡づけられるものです。だとすれば、本当に目を向けるべきなのは、物語の謎それ自体で、物語の答えではないのです。

     このブログをお読みになっている皆さんならよくご存知のとおり、SFの楽しさというのは、必ずしも、現実の思考問題や物語の未決案件を、あざやかな知性で解明することだけにつきませんよね。書かれていることの意味も内容もまったく理解出来ないのに、めまいがするほど強烈な印象を放つ描写というのは、それ自体ですでに、かけがえのない愉悦です。のみならず、そうした理解未満のものが放つ魅力というのは、往々にして、その意味が理解されると同時に雲散霧消してしまいます。たとえば、『傀儡后』の中には、直接に物語の筋には関係がないのに、奇妙に印象に残る一場面が存在します。そこでは、「何の役にも立たない」ガラクタたちの目録が列挙されています。ためしに少しだけ読み上げてみましょうか。「レンズにカビの生えた反射式望遠鏡。さびたイタリア製の自転車の前輪。青い硝子の浣腸器。アール・デコ調の凝った鳥籠に入れられた水道のメーター。人魚のミイラ。猿の手のミイラ。発泡スチロールの雪だるま。アルミ製の大きなボールに入った数十個のプラスチックの蟹。双頭のカモシカの剥製・・・」。まだまだ続きますが、その興趣を理解するにはこれで充分でしょう。これらのガラクタたちの来歴は、語られることがありません。つまり物語を持たないオブジェたちです。そして、物語を持たないオブジェが美しいことがあるとすれば、それは純粋に自己自身の存在によって美しいのです。つまり、ここに並べられたオブジェは、純粋に言葉によって面白くも美しいのです。

     今こそ、物語以前の言葉、意味を未だ持たない純粋に存在するだけの言葉、そしてそうした言葉を現に記述している主体の存在身分に目を向けるときです。先に作者の存在について議論したさいに、「現に記述している作者」というのは、自己矛盾している存在、端的に無内容としか見なせないような存在(あるいは非存在)だと判明したのでした。なぜなら、現に記述している作者とは、物語の地平、つまり意味を有する言葉の地平を超え出つつ、その記述行為によってただ言葉が存在しているという事実だけを「体現」している存在だからです。厳密に言えば、現に言葉を記述する主体と、現に記述されている意味以前の言葉というのは、言語活動が現に存在しているというひとつの事実の表と裏なのです。そして、いずれにしても、意味を保有する言葉を通して表現されることは出来ません。かてて加えて、記述行為と記述対象とが相即しているからには、この記述行為はひとつの自己言及をなしています。ここにおいて、『傀儡后』の中で語られる「街読み」のエピソードの意味が明らかになるはずです。この挿話では、街の風景をテクストとして読み取る能力を持つ人物が、自己の意識を消し去って街と同化していったとき、その最奥で「わたしが……ある」という言葉を目撃する様子が語られます。その描写にしたがうと、自我と世界の境界がほとんど消滅した言語活動の極限地点では、先ず、「わたし……がある」という言葉が、誰が発しているのかわからない空語として経験されます。それが幾度も繰り返された後、この人物は「音」に気づきます。そして、この音が「風の音」だと気づきます。すると、空が見え、月が見え、次々と知覚が開かれていきます。そうして突然、彼は、自分の存在に気づきます。と同時に、「わたしが……いる」とは、自分自身の発語だと自覚するのです。そして、彼は、自己の身体を認識し、最後に自分の名前を思い出します。

     このほとんど現象学的な記述の態をなしているエピソードにおいて明らかになるのは、「わたしが……ある」という言表が、無内容の言表から一人称の言表行為にシフトすることで、自己が触発されると同時に自己の身体を知覚するようになるということです。さらにまた、「わたし……がある」という言表が一人称の言表行為へとシフトするという出来事の内部には、「世界を認識する=自己を認識する」という鏡うつしの往復運動が内在しているということです。じっさい、「わたし……がある」と言表するとは、「言表する者が自己を言表している」、「言表している者が言表されている」という自己反照の行為を実践する以外の何ごとでもありません。そしてまた、これは、コミュたちの志向する「つながる」体験、すなわち「触れるとともに触れられる」体験とまったく同一の構造をあらわしています。

     このように、「わたし…」と「…がある」との往復を、もしくは、単なる「音」から「意味(風の音)」への移行を可能にするこの原理は、ときとして「声」と呼ばれます。何となれば、まったく無意味としか思えないような音を耳にするのであっても、それが誰かの声だと思うから、その意味を探り出そうとする欲求が芽生えるのです。おそらく、上に掲げた無意味なオブジェについての記述も、そして牧野先生のいわゆる「電波文」も、この観点から理解することが可能なはずです。つまりそれらは、意味をなさない純粋の音韻、文字の羅列、語の遊びとしか思えないようでいて、それでも何らかの声を、つまり耳を傾けて欲しいという欲求をうったえかけている記述なのです。

     声とは、だから、何かを言いたいと思うこと、何かを書きたいと思うことです。そして、声の存在というのがこのようなものなら、この「書きたいこと」こそは、取り返しのつかないほど中身の無い空白、けっして書くことのできない純粋の無ということになるでしょう。なぜなら、声の実現、「書きたいこと」の実現というのは、完結した言表、つまり物語の実現である以上、「書きたいこと」の廃棄になるからです。そしてまた、声とはまったく実体ではなくて、ただ単に「わたし…」と「…がある」の分節を、あるいは「音」と「意味」の分節を可能にする否定原理でしかないからです。現に記述する作者の存在身分もまた同じことです。それは、実在の個人という意味での作者と物語に内在するという意味での作者とのはざまにあって、その両者を区別することで連結するような非実体的契機でしかありません。

     それが、「函崎アダリ」のエピソードが語ることです。彼には、同じ「コミュ」の仲間で、ミシマという恋人がいました。しかし、アダリは、ミシマとけんか別れをしてしまい、そのために彼女と「つながりたい」というのが以後の彼の行動原理となります。そこで、七道桂男が、ミシマと「つながる」ことの出来る手段としてアダリに提供するのが、「ネイキッド・スキン」です。小説冒頭で語られるとおり「肉体と世界が直接溶け合うための装置」である「ネイキッド・スキン」によって、アダリは、まさしく皮膚を剥かれた状態、つまり「わたし」と「世界」の区別が無化された状態とされます。そのときには、表面的な五感の区別もまた融解して、純粋な共通感覚、つまり純粋な声だけが充満します。そうして、アダリは、世界と、つまりミシマと「ツナガッタ」状態へと到達します。しかし、「ツナガッタ」状態とは、もはや自分と相手の区別が無い状態、つまり、触れるとともに触れられるという経験の中にある分節の構造が無い状態です。したがって、「つながりたい」の実現である「ツナガッタ」とは、もはや「つながりたい」の廃棄でしかありません。だから、「ツナガッタ」とともにアダリは彼の生を終え、中身のない抜け殻としての皮膚だけが、すでに完結した死の物語として、後に残るのです(ゆえに、「つながりたい」と「ツナガッタ」が、一方では現在形と完了形の時制の違いによって、他方ではひらがなの生命感とカタカナの死物感によって対比されているのも偶然ではありません)。

     今や、牧野先生が身を置いているのがどれほど矛盾に満ちた場所であるかが、明らかになりました。僕たちが「大阪」を導きの糸としてここまでたどってこれたのは、ひとえに、物語の中に書き込まれたそれを、作者の記憶に関わるものと見なしていたことによります。ところが、物語に書き込まれた記憶とは、つねに作者の記憶ではないものなのです。なぜなら、現在を過去へと繰り入れて保存するという記憶の活動は、ここで言う「声」の言述行為によってはじめて可能になるのであって、その逆ではないからです。つまり、声の記述の不可能性は、そのまま記憶の記述の不可能性なのです。そして、言語活動は、そうした書くことの不可能性を基礎にして成立します。いや、というよりはむしろ、声の言表不可能性というのは、ひとつの完了した言表から回顧して捉えられたものと言った方が正確です。声とは、「書きたいこと」とは、物語の意味が構成されるさいに、意味からとりこぼされて、意味化されなかった残余として、やはり回顧的にのみ思考することの出来るものなのです。そう、ちょうど、アダリをはじめとしてさまざまな人たちの挿話が物語の中途で消えていって、ただひとり傀儡后だけが最後まで残るとともに物語の意味となるというのと類比的です。

     だから、「書きたいこと」というのは、いつでも言葉を書きとめるつどに、書けなかったことです。「記憶」というのは、いつでも思い出すつどに、思い出せなかったものです。「わたし」というのは、今・ここにいる自分を自覚するつどに、誰でもない者なのです。それゆえ、完了した言葉の、物語の「内部」にはらまれている「無」というのは、つねに過去に失われたものとして捉え返されることになるでしょう。それが、『傀儡后』の最終章で描かれる光景の意味です。いわく、偏在者は、今・ここに存在する「わたし」として、さまざまな歴史の中の、さまざまな土地に生まれます。そのつど、「わたし」は、生み落とされた瞬間にすでに忘れている子供として生を受けるのです。そして、「失った世界を哀れむかのように」産声をあげるのです。

     この小説がみごとに描いているとおり、物語は、存在しなかった世界への喪失感を、満たされないノスタルジーを内部に抱えています。このノスタルジーが、書くことを可能にします。しかし、その反対に、書くことでこのノスタルジーが満たされるということは、絶対にありえません。でも、この中身の無いノスタルジーを主題にして物語を書くことは出来ます。言語の意味に抵抗して、せめてぎりぎりまで空転させられた言葉をつづることが出来るように。だから、もしこういう言い方を許していただけるなら、『傀儡后』というのは、きっと、そういう今・ここに生きている「わたし」をめぐって書かれた小説です。大阪SF? まさにそのとおりです。これほど斯様に真摯な思考を、大阪に託して書かれた小説なのですから。それはつまり、今このブログの連載で取り上げられている作品たちのひとつひとつが、東京に対して、やはり他に換えられない思いを抱きながら書かれたのとまったく同じことなのです。(横道仁志)
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