TOKON10実行委員会公式ブログ

第49回SF大会TOKON10実行委員会の公式ブログです。
開催日程:2010年8月7日(土)〜8日(日)
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大阪SF大全3 「東海道戦争」
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    筒井康隆「東海道戦争」(1965)




     初期の筒井康隆の大傑作にして、筒井康隆の名前を世に轟かせた最初の作品として有名な作品であり、今読んでもとても刺激的なアイデアに充ちている。この作品の主人公は「山ひとつ裏が、伊丹の大阪国際空港」に住んでいる。これは紛れもなく大阪SFである。と同時に、「大阪SF」のような、地域に根ざしたアイデンティティを解体する作品でもある。この作品が発表された65年に筒井康隆は東京に転居している。それ以前にも筒井は「宇宙塵」や日本SF作家クラブ設立(63年)などに関わって、何度も東京に来ていたようだ。現在でも対立が見出せるような、東京SFファンダムと関西SFファンダムの初期のメンタリティを、おそらくは感じ取っていたのではないかとも思われる。
    作品の内容は極めて真摯なものである。
     放送局に原稿を書いている「おれ」はラジオの音で目を覚ます。放送局に向かう途中、戦車などを見て、何かが起こっていると感じる。どうやら東京と大阪の戦争が起こっているようである。アナウンサーの山口と合流した「おれ」は、戦争を取材に行く。その間、山口は、この戦争が、擬似イベントであり、戦争をテレビで楽しみたい大衆のために起こっているのだと述べる。やがて最前線に辿り着いた二人は殺戮に巻き込まれ、首をもぎ取られて死んでしまう。
     あらすじにしてこのような作品である。この作品には極めて重要な筒井康隆的特徴が存在している。紙面と体力とが許す限り、列挙していきたい。まずこの戦争が「情報社会で起こる戦争」であるということである。それは東京が大阪を攻撃するというニュースが回ったから大阪が東京攻撃を準備し、大阪が東京攻撃をするというニュースが回ったから東京が大阪攻撃を準備するという堂々巡りになっている。戦争がおこる実体的な根拠はないのだ。さらに、大衆が戦争を望むからそれが起きるとの指摘もなされている。筒井康隆において、戦争は重要なモチーフであり、自らも小学校高学年で戦争を体験していると述べている。「攻撃衝動=死の欲動」の社会的な噴出こそ戦争であると筒井は考えており、それは社会が進歩・発展するために個人を啓蒙していかなければならないという思想の結果として生じるのだと、フロイトの「文化への不満」をベースにして考えていたと思われる。(僕は筒井康隆の卒業論文を参照してこの考えに至っている。なお、この「死の欲動」に関しては文体レベルや構造レベルに深く刻み込まれており、表面的には「銃撃」というモチーフで現されると考えている)
     この作品の背景にはブーアスティンの『幻影の時代』の影響が指摘される。それは「擬似イベント」批判の書である。本作では戦争が放送メディアによって都合のいいように仕組まれ、大衆を楽しませる。「マスコミの世界では、贋造の出来事が本物の出来事を追いやってしまう」オリンピックや万国博もこの戦争と同じ「擬似イベント」であり、「擬似イベントが増大すれば、客体と主体の間――つまり役者と観客とに区別がなくなるんだ」と述べられる。実際に、取材にいく主人公も、戦争に巻き込まれる当事者になる。これはバフチンのカーニヴァル論における、観客と役者の区別が無いという指摘を思い起こさせる。これは筒井康隆において極めて重要な認識であり、『朝のガスパール』と『電脳筒井線』においてパソコン通信を舞台にして実現させたものでもある。
     おそらく筒井は、この「マスメディア」を、「現象」に代わるものとして考えたのだと思われる。現象とは、カントにおける、超越論的主体(認識する主体)が認識する対象のことである。超越論的主体にとって外界も内界も等しく現象として現れるので、それがいかにして区別ができるのかは、カントやフロイトがともに取り組んだテーマであり、筒井康隆もまたそのテーマに取り組んでいる。「現象」における、「夢」「妄想」「虚構」「現実」の区別について筒井は頻繁に問題にする。近代以降、世界を理解するコスモロジーは、宗教的なものから科学的なものに変化した。世界を説明する理論によって、我々の持っている世界像が変化してしまう。あるいは筒井康隆の作家論的な個人史的な体験として重要であるのは、戦前と戦後の言説空間の変化であろう。科学が、あるいは科学に基づく理論、もっと具体的に言えば、その「科学的正当性があるものとして我々に届く文字や情報」こそが、世界認識を形成すると同時に、現実にテクノロジーとして生活や都市を変化させていくという認識が筒井にはあった。「メディア」や「情報」が、意識や無意識に入り込んで、世界認識を構築するという認識が、65年において既に語られているのだ。
     だがこれを、「世界はメディアで構築されている」「バーチャルだ」と理解してはいけない。筒井の初期作品は、そのような超越論的主体による世界が操作・破壊可能な「美的対象」と化してしまうような主体の思い上がりに対する極めて強い警戒と抑制と制裁を描いている。例えば本作では最前線での祝祭的な状況が描かれ、狂乱の中での虐殺の持つ祝祭性=熱狂が描かれる。だが主人公は暴力の中で、死ななければならないのだ。「テレビで見ている奴は面白いだろう。だがおれは、ちっとも面白くない」「戦場で殺される者はどうなる?」
    「東京」や「大阪」の文化や地域性を巡る「対立」は本当に根拠のあるものなのだろうか? 筒井の考えでは、それはおそらく、「文化」によって抑圧されている攻撃衝動が捌け口を見出して殺到する「あて先」がどこになるか次第の、偶発的なものに過ぎない。フロイトは「微小な差異のナルシズム」という概念を提示しており、隣り合った国や文化がいがみあうことが多いという観察に基づいて、「似ているからこそアイデンティティを強調して違いを強調するためにこそ憎しみあい、そして自己愛を獲得するのだ」というようなことを言っている。
    しかし一方で、地域性やローカリティのようなものが全て構築されたものであるという結論に飛びつくのは早計過ぎるだろう。グローバル化にともなう地域のフラット化などということも言われているが、それは功罪半ばしているものだ。地域とそこに根ざした「伝統」など、例えば筒井康隆における上方落語や上方文化の影響などを考えるに、そのこと自体は否定しようと思っても否定できないだろうし、そうする必要はないものなのかもしれない。
     筒井の透徹した人間存在と社会・文化の持つ「攻撃衝動」への認識は、そこから、それをどのような方向付けに向わせるのかを巡り、「自由」と「ジャンル」という主題とともに、テクノロジーとメディアの進化に応じて、そして世界を説明する「理論」の変化に応じて変化し続ける。ここから先は、筒井康隆の作家としての本質論になってしまうので、本論ではこの辺りで筆を擱きたい。本作は、確かに現在でも十分に刺激的で面白く、かつ示唆に富む作品であり、筒井康隆初期の代表作として必読の作品である。(藤田直哉)
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