TOKON10実行委員会公式ブログ

第49回SF大会TOKON10実行委員会の公式ブログです。
開催日程:2010年8月7日(土)〜8日(日)
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特別掲載・東京SF論 『DARKER THAN BLACK 黒の契約者』
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    (C)BONES・岡村天斎/DTB製作委員会・MBS
     主人公・黒(ヘイ)=手前=たち「組織」のメンバー

    0.作品の沿革 高槻 真樹
     「DARKER THAN BLACK 黒の契約者」は、2007年4月から9月まで放映されたテレビアニメである。その長く独特なタイトルから想像できるとおり、非常に特異な世界観を持っており、ファンの間で話題を呼んだ。何らかの形で原作付き作品が当たり前である昨今において、オリジナルSFドラマは、やはり貴重である。
     舞台は現代の東京。正体不明の「ヘルズゲート」なる空間が出現し、夜空からは星が消えた。それと同時に「契約者」なる奇妙な異能力者たちが出現、世界中で暗躍するようになる。「契約者」たちは、テレポートや電撃など様々な超能力を使うことができるが、能力を使うたびに「対価」を支払わなければならない。その対価とは極めて不条理なもので、「指の骨を折る」ことから「小石を並べる」ことまで、実にさまざま。ゲートからもたらされる未知の技術を巡って、契約者たちの争奪戦がやむことなく繰り広げられている。
     SFファンならすぐに気付くだろう。この作品の発想の源泉は、映画「ストーカー」の原作として有名なストルガツキー兄弟の長編「路傍のピクニック」(ハヤカワ文庫SF版の邦題は映画に合わせ「ストーカー」)にある。
     だがその一方で、本作品のもうひとつの売りは、入念なロケハンに基づいた現実の東京の光景が作品の中に取り入れられていること。まさしく正真正銘の「東京SF」なのである。
     今回の「東京SF論」では、本作品の監督である岡村天斎氏をお招きした。監督と交互に論を交えながら、「黒の契約者」の魅力に多面的に迫っていくことにしたい。


    (C)BONES・岡村天斎/DTB製作委員会・MBS
     多くのシーンは実際の東京にロケハンして描かれた

    1.「技術」に背中を押されて  岡村天斎
     超能力という言葉の持つ「非日常」の匂いを際立たせるために、それ以外の情報をできる限り「日常」の匂いのする「リアル」感で埋める必要がありました。「リアル」感を求める為には、超能力には制限があり、舞台は実在の場所が望ましい。
     そんな理由から「Darker than BLACK 黒の契約者」の舞台には「東京」が選ばれます。 東京はインテリジェンスに関する意識が低いとされ、たくさんの外国人の入り乱れる情報戦争の舞台には最適だったわけです。
     前作「地球SOS」での舞台が、戦後夢見た二十一世紀のアメリカという半分空想の世界であったため、現実の東京を舞台にすえるというのは自分的には自然な流れでした。

     現実の場所を舞台にするという手法は最近とみに多くなっていますが、その理由のひとつにデジカメの普及があります。フィルム時代は1ショット百円…そんな貧乏観念が足かせとなり、そうそう気軽に写真を撮るという行為に踏み切れなかったのです。
     ロケハンに行ってもついついケチってあとあと必要になる角度を撮っていないとか…そんなことが良くありました。それが一回のロケハンで一人頭三千枚とか平気で撮れる様になったのですから…

     さらに舞台となる場所の選定方法も変化してきます。企画が始まった当初は、自分の土地勘のあるところに実際に車やバイクで乗りつけ、行ってみたら予想と違ってた…なんて事も良くありました。逆に、道に迷って清洲橋に出てしまい、そのロケーションが良くて写真を撮って帰ったこともあります。
     そんな苦労を重ねているうちに我々はGoogleEarthの存在に気付きます。こんなに簡単に航空写真が手に入る!ビル街なのか住宅地なのか河の護岸はとうなっているのか、地図だけではわからない情報が瞬時に手に入る!現地に行く前にロケーションの選択ができるというのは画期的なことだったのです。
     そしてとうとうStreetViewの登場に至っては、もう現地に行かなくても事足りるのか!?と思うほどです。ああ、カメラ位置があと一メートル低かったらそのままレイアウトに使えるのに…と思うことも何度もありました。
     しかし、それは続編である「流星の双子」の舞台をロシアの極東の都市ウラジオストクに設定した時、自らの首を絞めることになります。ウラジオストクには勿論StreetViewなどないのです。東京とウラジオストクとのインテリジェンス意識の違いにこんな所で気づかされるとは思いませんでした。

     ほんの数年の間に技術というものが進歩していくさまを目の当たりにし、これはもうSFだなと思わずにはいられない程でした。ほんの数年前の作品では、登場人物に携帯電話を持たせることさえ迷っていたのに、今では携帯電話の機能だけでストーリーが進んでゆく作品すらあるほどです。現実の技術が作品の内容に影響を与える。そんな事があるのだという一例を、少しですが紹介させていただきました。ちなみに、「Darker」の主人公である黒(ヘイ)は携帯電話を持っていません。


    (C)BONES・岡村天斎/DTB製作委員会・MBS
     主人公・黒(ヘイ)は、ワイヤーと電撃を駆使して戦う

    2.ゲシュタルトな現実    高槻真樹
     以上、ここまでの岡村天斎監督の証言から、「黒の契約者」についてひとつの構造が見えてくる。この物語はフィクションではあるが、実在する東京という舞台の上に乗せられているということだ。果たしてそれは何を意味するのか。
     それはアニメの存在意義を再検証する試みであり、私たちの知覚について新たな問いかけをなすものであるといえる。現実に出自を持つリアルな東京、しかしながら、そこでは現実の世界にあるはずもない、「ゲート」という強烈な虚構がどっかりと腰を据えている。
     この作品は、ミクロとマクロの領域で虚構と現実が複雑に絡み合っている。個々の登場人物のレベルでは、細部まで考え抜かれた綿密な生活描写に満たされているが、その現実感をいちいち動揺させるのが、契約者たちの能力であり、不条理な「対価の支払い」シーンである。ミクロでもマクロでも虚構と現実は鋭く対立し合う。現実が感じられる時は虚構については忘れているし、虚構が浮かび上がる時、現実の存在感は消えうせている。心理学の入門書に必ず載っている「ルビンの壷」のように、「地」と「図」がぐるぐると入れ替わる。

    ルビンの壷
     ルビンの壷

     向き合った人の横顔と壷のどちらにも解釈できる図形は面白いが、ここで忘れがちなのは「横顔」と「壷」の両方を同時に知覚することはできないということである。人間の知覚は部分と全体のせめぎ合いのうちにあり、どちらか一方だけでは理解できない。こうした人間の心理の特徴に着目し、科学的に解き明かしていった「ゲシュタルト心理学」という学派がある。
     実在する「東京」とゲートのある「虚構世界」を一体化させた「黒の契約者」は、こうした部分と全体の相互干渉を意識させずにはおかないという意味において、優れて「ゲシュタルト心理学」的なアニメであるといえる。
     もともと最初期の心理学では、人間の五感を細分化していき、「知覚の点」の集積として理解しようとした。だがそれでは、三角形を見ても「三本の線」としてしか理解できない。交差する三本の線で囲まれた領域としての「三角形」を全体として認識するのもまた人間の特徴である。
     アメリカの心理学者であったクリスチャン・エーレンフェルスは、暗室で交互に点灯する光点を被験者に見せる実験を行っている。点滅が0.2秒以上のときは、二つの光点が交互に点滅しているように見える。だが、0.2秒以下の場合は、ひとつの光点が左右に移動しているように見えるようになる。これが全体をひとまとまりのものとして知覚させる「ゲシュタルト質」というものである。これはいわば、不連続な画像をひとまとまりの動きとして認識してしまうアニメーションの原理を説明するものでもある。つまり、ゲシュタルト質のおかげで、我々はアニメを見ることができるわけだ。

     アニメーションは、本来、現実から遠く離れた虚構を描きだすことに長けた表現形式である。人も動物も果ては無生物さえもぐねぐねと変形し、怪物は闊歩し、動物は言葉を話す。本来、そういうものがアニメーションであるとされた。
     ところが日本の「アニメ」は、わざわざ現実をなぞり、実写と見まがうほどのリアルな情景を作り出そうとする。いったいなぜそんな物好きなことをしなければならないのか?それならばいっそ実写で撮った方がいいのではないか、「アニメ」に対して常に突きつけられてきた疑問である。
     むろん荒唐無稽なストーリーやダイナミックなカメラワークを実写で再現するのは困難であり、ゼロから画面を作り上げるアニメだからこそ可能なドラマ表現があるのだ、とこれまでは説明されてきた。だがこれも最近は苦しい。最近は派手な特撮表現や特殊なカメラワークも、CGを使えばかなり容易に実現してしまう。
     アニメは窮地にあるのか。そうではない。近年のハリウッドのアクション大作を見ていれば誰でも気付くことがある。CGで描かれた物は皆ひどく軽い。本来そのものが持っているはずの重量感がどうしても出ない。それはCGが過渡期にあるせいであり、すぐに解決する、という意見もあるかもしれない。だが、これは意外に手ごわい問題ではないかと私は考える。おそらく現実の実写映像は、情報が多すぎるのだ。ある程度情報を整理したCG映像と突き合わせた時に、どうしてもうまく噛み合わない事態が発生する。
     もちろんCGも日々進歩していくことだろうが、実写映像もより高品質になっていく。永遠のいたちごっこだ。ここで「映像に含まれる情報を際限なく増やしていくことが本当に望ましいのか」という問題に突き当たる。映像がより高品質になり、多くの情報を含むようになるほど、フォローしなければならない要素は増え、取れる表現の手段は限られていく。
     もしこのチキンレースから降りて、あえて映像の持つ情報を下げる方向に向かったとするならば、そこには新しい表現の可能性が広がっているのではないだろうか。そのようなドラマツルギー(作劇法)のひとつとして、アニメを捉えなおしてみたい。
     確かにこの作品に登場する東京は、現実の東京をなぞる形で作り出されている。だが、ならば岡村監督らがロケハンで撮影したデジカメ映像とアニメ作品の背景美術は同じものなのか。そうではない。そこからは、たぶん実写写真を見た時に関心が向くさまざまな要素が排除されており、作品を成立させるために不可欠な要素が足されたり強調されたりしているはずである。
     ここで注意しなければならないのは、それらのすべてが岡村監督の意図のもとにあるというわけではないし、細部に分け入りすぎるとかえって物事を見失う。重要なのは、それら全体をゆるやかに覆う全体像である。そして、ここでは、ゲートと東京が一体のものとして結び合わされている。岡村監督らは「ゲートのある東京」をリアルに見せるために最善の方法を探った結果、もっともふさわしい表現手段を取っていったはずである。これが結果的に「ゲシュタルト心理学的」に統合された新しい映像表現とを生むこととなった。


    (C)BONES・岡村天斎/DTB製作委員会・MBS
     ヘルズゲート。この壁の内側では人間の現実は通用しない

    3.情報を「正確に」増やすには  岡村天斎
     さて、高槻氏の原稿を一読させていただき、思いついたことを少々ダラダラと書かせていただこうと思います。的外れかとも思いますが、まあ一興ということで。

     今回この「darker」という作品に関しては「マクロ」の視点、いわゆる「神の目線」を極力排除するようにしています。なぜそんなことに執着したのかと言えば、前述の「リアル感」描写の一環に他なりません。現実世界に生きている我々には、状況の概要を俯瞰して正確に知る術などありません。
     したがって全てを正確に把握している人物などいる訳もなく、たとえ説明してくれる人がいてもその情報は推察に過ぎず、合っているのか間違っているのかはその都度ある程度の確率でしか語れないのです。

     ほら、ちょっとSF論らしい量子論的な話になってきたでしょ。「Darker」世界においては、「観測」霊であるとか「EPR」であるとか「黒猫」とか、ちょっと量子論を齧った人間からすると聞き慣れた単語が散見されます。しかし、残念ながら私個人としては、大学生の時の化学の時間に講義を受けたシュレディンガーの波動方程式で挫折して以来、量子論に対する認識は「全く理解できないモノ」という所で固まってしまいました。

     「映像に含まれる情報を際限なく増やしていくことが本当に望ましいのか」という問題が提示されていますが、私は「まさにその通り、望ましいのだ」と言わざるを得ません。では、なぜ無限に映像の密度を増やしてゆく方向にみんなが進んでいかないのか。
     もちろん、面倒くさいからです!物理的作業量とコストの折り合いをつけずに作品を作るのは、プロとして恥ずべき行為なのです。

     情報量の多いものに触れることが人間にとっての快楽であることに疑う余地はありません。ただ、「映像の中に含まれる情報」をどこまで快感として知覚できるのか?というのも重要です。子供の頃の嗜好と大人になってからのそれとでは大きく乖離があるでしょう?それは知覚できる情報に違いがあるからです。
     料理に例えると分かりやすいかと思われます。子供の頃は旨味とか苦味とかを知覚できにくいため、より分かりやすい甘味の多いものを美味しいと感じるものです。経験を積むにつれてやがて旨味や苦味、酸っぱさを情報として美味しいと知覚するようになってゆく。それによって嗜好が変わってゆくわけです。
     でも、むやみやたらと味の情報を増やせば料理はおいしくなるかというと、そういう訳ではありませんね。間違った情報は増えると雑味となって料理の邪魔をし始めます。
     アニメーションという映像表現はそういう間違いの発生しやすい手段で作られています。何しろ人間が勘に頼って手で描いてるのですから。パースペクティブの狂い、遠近法の誤解、重力加速度への不理解、なにより立体認識の甘さ。
     たとえば動画の線を1本増やして2本にしたとします。その場合の作業量は単純に2倍になるわけではありません。二つの線の間の間隔と曲率をを常に一定に保たないとその物体はブヨブヨと曲がって見えるわけです。
     正確なパースを取ることや正確な動画を描く事で、われらの料理人は出し汁の中からアクを取り除くように「雑味」を取り除いているのです。そういう目に見えない努力という情報を知覚できるかどうかも重要ですね。
     ただ、そういった「狂い」を「味」というまた別の情報に昇華しやすいのもアニメーションの特性です。どこまでが「味」でどこからが「雑味」なのか、結局その判定は個人の嗜好に左右されます。

     「Darker」という作品において、現実の風景を多用したのには、このように映像の情報量を「正確に」増やすという目的もありました。都会の情景を描くという作業にはとてつもない知識と才能そして労力が必要です。数年前「Wolf's Rain」という作品を作った時は、現実の東京を舞台にという意見はその労力の膨大さを恐れて却下しました。しかし、技術の発達とともに、逆に現実を舞台にした方が労力を減らせる状況になったというわけです。

     この風潮は今後も続くのでしょうか?答えは、YESでもありNOとも言えます。日本のアニメーションの現場は常に低予算との戦いです。作業を効率化できる技術がそこに存在し一般化してゆけば、それを使わないわけがありません。
     しかし、みんなが同様の作品を作っていては飽きられます。そして、機械に頼らずに作られた映像には別の情報が上乗せされます。「ありがたみ」という情報です。CGで描けば簡単にできるのに(この認識も実は偏見に満ちており、CGも実際はオペレーターの手腕によって出来上がりはまったく違うのですが…)、わざわざ人の手で描いてるよ!という「ありがたみ」才能という名の「ありがたみ」…意外と侮れない情報量だと思います。
     ただ、本当に力のあるアニメーターが渾身の力を込めて超リアルに描いたカットが、CGを基にしていると思われたり…そんな残念なことも結構よくあることなのです。


    (C)BONES・岡村天斎/DTB製作委員会・MBS
     黒は、霧原未咲ら国家公安局にも追われている

    4.衝動と限界から見えること 高槻真樹
     予想外の答えであったといわなければなるまい。だが、そうであるからこそ往復書簡形式で論を進めていくことに意味があるというものだ。用意していた原稿は捨てて、素のままに話を進めていくことにしよう。
     私は前章で「映像に含まれる情報を際限なく増やしていくことが本当に望ましいのか」と問うた。当然同意してもらえるものと思い込んでいた。だが岡村監督の答えは「まさにその通り、望ましいのだ」というものだった。いま私は、己の思考の浅さを反省している。
     確かに100パーセントに近い形で情報量をコントロールすることが可能なアニメーションは可能性を秘めているかもしれない。だがそれだけではだめなのだ。人間は際限なく情報量を求めていく存在でもあるのだから。先鋭的な芸術家たちの反対を押し切る形で「モノクロ・サイレント→トーキー→カラー→ワイド→3Dと映像ハードウェアの高品位化は一貫して推し進められてきた。「それで一体何を撮るのか」という問いに答えるよりも早いスピードで。なぜなら人間の潜在的欲求がそれを求め続けたから。
     ところが、実際にその要求に基づいて作品を作る段になると、もうひとつの壁に突き当たる。ここで岡村監督が指摘しているとおり、「人間が捉えきれない情報をいくら盛っても意味がない」ということだ。ならばどうするべきか。人の眼が反応しやすい、快適と感じる動きをひとつひとつ試行錯誤で探り当てていくしかない。つまり、正解は「人間の眼の指向性を探り当てた上で、現在の技術で可能なベストの表現手段を見つけ出す」こと。もちろん岡村監督も言っているように「予算の範囲内で」というのも極めて重要だ。
     何にしても、ここで留意すべきは、人間の大脳的・視覚的性癖を意識することなしに適切な映像表現を行うことはあり得ないということだ。
     話をゲシュタルト心理学に戻す。最適の入門書にして最も信頼できる文献ともいわれるW・ケーラーの「ゲシタルト心理学入門」(東京大学出版会)という書物がある。ここでケーラーは、2章で述べたクリスチャン・エーレンフェルスの実験(※)について、当時の科学者の多くが理由を調べてみようともしなかったと語っている。
     「ひとつの知覚的事実として受け入れられたのではまったくなく、観察者の思考における誤りの所産であると思われた」(37ページ)
     つまり「ただの錯覚」だと片付けられてしまったわけだ。ケーラーはそのことを「単なる言いわけ」で「言いのがれ」だと強く批判している。確かに映画のフィルムによってスクリーンに再現される動きをみて、スクリーン上に本当に動きが発生していると思う者はいない。だがそれを「錯覚」として片付けるのはただの思考停止であろう。映画の教科書でも古いものはいまだに「人間の眼の錯覚」と書いているほどだ。
     実際は逆だろう。人間の眼が多数の静止画の集積として動きを理解しているのである。そのことを利用して、映画フィルムは成り立っていると解釈すべきなのだ。細分化された要素を寄せ集めることで人間を理解できるとした当時の主流な論説のままでは、映画フィルムが動いて見える理由は説明できない。ゲシュタルト心理学は「視覚要素はけっして独立な局所的事実ではなく、それらの過程がお互いに作用を及ぼしあうということ」(39ページ)を証明してみせた。すべては連動した一体なのである。
     私たちは人間としての自分自身をあまりにも知らない。もちろん常に知ろうとはしているが、ともすると「錯覚」などと片付けて意識上から零れ落ちてしまう。人間について知るためにはどうすべきか。客観的に見ることができるように、何らかの形である程度現実から引き離してやることが必要になる。ひとつには「絵の動き」に置き換えて抽象化すること、線と動きを整理し留意すべきポイントを絞ること。もうひとつには、ストーリーに荒唐無稽な要素を入れて現実から一歩引き剥がすこと。
     そう、「黒の契約者」だ。ここまで見てきたとおり、本作品を見ることは、同時に人間とは何かについて、さまざまな次元で考え、知ることでもある
     物語の舞台は、まさしく私たちが暮らす現実から引き写された「東京」である。しかしその中心にあるのは現実にはないはずの「ヘルズゲート」。不可思議な事象を前に、私たち人間はどう振舞うか。もちろん最初は驚くが、驚きは実は持続性がない。どんな事態でも日常に組み入れて慣れてしまうのもまた人間である。
     本作品では、この非常時に中止にもならず各地で同人誌即売会が相変わらず開催されていることが語られる。サブエピソードの主人公である探偵も、中華料理屋の親父も、アパートの大家も、直接ゲートに関わらない市井の人々は、ゲートについてほとんど考えようとはしない。見上げれば目の前にいつもあるにもかかわらず。理解不能な異質さを前にしても人々はなるべく日常を維持しようとするからだ。
     その一方で理解できないまま未知の技術を利用しようとするのも人間である。契約者たちも、CIAも、黒の所属する「組織」も、分からないなりに技術を手に入れて使える形で使えればいい、それで相手を出し抜けて優位に立てるなら、とある意味割り切っている。本作品のテーマ的原作「路傍のピクニック」の中でストルガツキー兄弟が指摘しているとおり、「顕微鏡の台座で釘を打つ」行為なのかもしれないが。もちろん、ミーナ・カンダスワミのように、そうした割り切りに耐えられず、どうしても自分でゲートを調べてみたいと思う者もいる。それもまた、人間である。
     ヘルズゲートは確かに異質な存在だ。岡村監督は、ゲートの正体について明かすつもりはないと明言している。だが、「黒の契約者」の世界はまったくの出鱈目でも不可知でもない。一回見ただけでは分からない答えも、巧妙に作品中に隠されていたりする。主人公であるにもかかわらず、契約者としての「対価」がはっきりしない黒。しかし岡村監督は言う。
     「最初から全部観直して下さい!答えが描かれています」
    (DARKER THAN BLACK 黒の契約者 OFFICIAL FANBOOK トーキョーエクスプロージョン調査報告/スクウェア・エニックス刊)
     基本的には未知で不可思議だが、少しずつ理解することはできる。最終的に完全に理解することは適わないとしても。だからこそどうしようもなく惹かれる。そのようなものとしてゲートも、「黒の契約者」という作品も、私たちの前に存在する。人間と私たちの住むこの世界がそうであるように。


    (C)BONES・岡村天斎/DTB製作委員会・MBS
     黒は戦闘中必ず仮面を被る

    ※ ケーラーの著書では、同様の実験をドイツの心理学者マックス・ウェルトハイマーが行ったものとして挙げている。エーレンフェルスもウェルトハイマーも初期のゲシュタルト心理学者。エーレンフェルスの実験が光点の動きを追ったものであるのに対してウェルトハイマーは光から生まれる影の動きを追ったもの、となっており、実験に若干の差異がある。いずれにしても導かれる結論は同じである。
    【参考文献】
    W・ケーラー「ゲシタルト心理学入門」(東京大学出版会)
    「DARKER THAN BLACK 黒の契約者 OFFICIAL FANBOOK トーキョーエクスプロージョン調査報告」(スクウェア・エニックス)
    『ゲシュタルト心理学の原理』クルト・コフカ 松岡正剛の千夜千冊・遊蕩篇
    (http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1273.html)
    番組公式HP www.d-black.net
    ◆ゲシュタルト心理学について助言をいただいた翻訳家の増田まもる氏に感謝します(高槻真樹)


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