TOKON10実行委員会公式ブログ

第49回SF大会TOKON10実行委員会の公式ブログです。
開催日程:2010年8月7日(土)〜8日(日)
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東京SF大全32「宇宙船ビーグル号の冒険」
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     「東京」は、「東洋のガラパゴス」と呼ばれる地域(小笠原諸島)をも、同じ行政区分としてかかえる土地である。
     ダーウィンがガラパゴス諸島を訪れた船と同じ名を持つ宇宙船の物語…それは現在の狹豕瓩里かえる問題とつながっている。
     それについて、ゲストの木立嶺氏に論じて戴いた。


     

    (小説、A・E・ヴァン・ヴォーグト、1950年


    文明の冬期――ケント局面を迎えた
             宇宙船ビーグル号と東京



    「民主制は、時としてそう呼ばれるように、これまでは世論の民主制であったのが、いまや操作の民主制となってしまったからなのである。――(中略)――操作の民主制の大きな弱点とは、有権者団の管理に関することには非常に巧妙であるが、対外政策では根本的に無能力な指導者を選んでしまうという点にほかならない。」(エマニュエル・トッド著「デモクラシー以後」(P288〜289))

     
    「宇宙船ビーグル号の冒険」は、人類の建造した最大の宇宙探検船ビーグル号を舞台に、主人公の若き総合科学者エリオット・グローヴナーを始め、ビーグル号に搭乗する千名の科学者と軍人達が、銀河宇宙の様々な場所で遭遇する異星人の、それぞれ異なる攻撃に立ち向かう様を、船内の対立を絡めて展開していくストーリーである。
     原作は1939年と43年の二回に分けて発表され、長編としてまとまったのが1950年である。初稿から今年で実に七十一年が経過している古典SFである。
     作品構成は4部に分かれ、それぞれ滅亡した文明の遺産である実験動物のケアル、テレパシーの挨拶ひとつでビーグル号を混乱に陥れるリーム人、不老不死で寄生繁殖する緋色の完全生物イクストル、そしてM33銀河系全体を覆い、食糧を得るために何万という文明を壊滅させてきた超巨大ガス生命体アヌビスなど、実に個性豊かな面々が、ビーグル号の面々を相手に大活躍をする。
     また、舞台となるビーグル号の詳細な設定――船体形状は球形、床総面積二平方マイル、デッキ数三十、反加速度動力機関搭載、超光速航行可能、難攻不落の防御スクリーンを装備し、船内でも使用可能な原子放射線砲を四十一門搭載――も、十分に読み応えのあるものである。
     ところで、現代の東京とはるか未来の宇宙船の間には、どのような関係があるのだろうか。実は両者には、共通の特徴が存在する。一方の東京は言わずと知れた、高度の頭脳と科学技術の集積する世界的な大都市であり――作中に登場する周期学説という学問では「魂を失った」という形容が付く――他方のビーグル号は、同様に高度の頭脳と科学技術で武装し、東京と同様に「冬期」を迎えた銀河系文明の産物である。従って、ビーグル号船内で生じる問題は、東京が代表する現代文明の問題と見做して差し支えないのである。
     そこで、今回は本作を取り上げ、作中人物達の成功と失敗を考察することで、東京=現代文明が今後直面するであろう問題群にアプローチする際の手掛かりを探ってみたい。


      ■ 銀河系文明に現れた、破壊的要素の化身 ■
     
     東京を繰り返しゴジラが襲ったように、ビーグル号には種々様々な異星人が襲い来る。しかし、それらに立ち向かう人々の中に、常に船を危機に陥れてきた人物が存在する。
     主人公グローヴナーの敵、化学部長グレゴリー・ケント――彼こそは、冬期に差しかかった文明が直面する危険の、もっとも具体的な一例である。

    「――(略)――あの男には、好ききらいがある。すぐのぼせ上がるし、腹も立てる。失敗もやらかす、だが知らんふりする。総監督になりたくてなりたくてしかたがない。地球に帰ったとき、脚光を浴びるのは、最高責任者にきまっているというわけさ。――(中略)――あの男は――何というか――人間臭いんだよ」 
            (地質学部長マッカンのケント評(P260))

     部長としてビーグル号の化学部を率いるケントは、徹頭徹尾、政治的人間である。本作が基本的に宇宙船内の物語ということもあり、騒々しくも寒々しいケントの内面、あるいは性格の背景は一切描写されていない。せいぜい、上記に挙げたマッカンの表面的なケント評が存在するのみである。
     また、ビーグル号の組織構成は、船長のリース大佐を筆頭に軍人が運用部門を占めており、科学部門については総監督のもと、各部門の長を中心とする合議制を以て八百名に及ぶ科学者を統率する、民主主義体制が採用されている。
     以上の点を踏まえた上で、各編中のケントの行動を大ざっぱに見て行くと、以下のようになる。

    《ケアル編》
     ケントは助手をケアルに殺害されて逆上し、総監督モートンの命令を無視してケアルを射殺しようと図るが、不首尾に終わる。グローヴナーに対しては、格下と見做してそっけなく応対する。
    《リーム人編》
     次期総監督選挙が迫る中、現監督モートンの対抗馬として立候補していたケントは、自分を批判したグローヴナーに立腹し、部下を動員して総合科学部を接収する。
     その最中にリーム人の襲撃が発生し、混乱したケントは、化学部を率いてモートンやリース大佐ら船の指導部と争い、その結果負傷して入院し、選挙に出馬できず、総合科学部からも撤退する。その代わり、総監督代理に任命されたことで、限定的な政治的勝利を得る。
    《イクストル編》
     ケントは病室で出番なし。しかし、総監督のモートンが負傷して職務遂行不能に陥ったため、代理である彼が自動的に船の実権を握るという、最大の政治的勝利を得る。
    《アヌビス編》
     ケントはグローヴナーの排除にかかるが、ついに本気を出したグローヴナーと総合科学の技術力の前には、文字通り手も足も出ず、ついにその力を認めて改心する。

     以上を普通に読んでいけば、これはケントの敗北、すなわちハッピーエンドと解釈できる。しかし、本作を読み込んでいくと、ひとつの疑問が浮かび上がってくる。すなわち、グローヴナーはケントに対し、本当に最終的な勝利を収めたのだろうかという疑問である。


      ■ 浮かび上がる恒常的パターン ■

     本作には、総合科学に対する一種のアンチテーゼとして、考古学者苅田の専門である周期学説が登場する。これは文明の盛衰を扱う学問で、グローヴナーは「歴史的に問題に対処し、しかも特定の事態に適用できる実際技術」(P178)として高く評価している。
     一方、苅田本人は自分の専門について、冷静な見方を崩すことはない。

    「一般論から、個々の問題を解決しようということの困難性は、あなたにも十分おわかりだと思います。わたしのほうの周期学説は、事実上、この一般論でしかないのでね」(グローヴナーに対する苅田の返答(P107))

     そこでまず想起される疑問は、総合科学が一般論的な危険性をはらんでいる可能性はないのだろうか、という点である。
     この点を踏まえた上で、グローヴナーとケントの関わりを順に追っていくと、あるパターンが浮かび上がってくる。
     グローヴナーとケントの対立は、グローヴナーががケント支持者の前でケントを批判した時から本格的に始まっている。
     この翌日、総合科学部の部室は、ケント率いる化学部に占拠されてしまうのである。
    これは、歴史の浅い学問である総合科学には権威がなく、構成員がグローヴナーという三十一歳の若造ただ一人しかおらず、他の部との連携もないという、非常にスケープゴートにし易い相手であること、また、これを攻撃することによって、支持者の結束を高めると同時に、中立派や反ケント派に対するデモンストレーションを狙っていることは、容易に察せられる。
     ところが、グローヴナーはこうしたケントの計算を見抜くことができなかった。

    「自分は当然モートンに抗議する――これは向こうも予期しているらしい。どうやら、彼の抗議を逆に利用し、選挙に役立てようという腹らしいが、なぜ選挙運動に得になるのかさっぱりわからない。」(P95)

     この後、グローヴナーはリーム人事件の後始末の際に、重大なミスを犯している。ケントを総監督代理にするよう、総監督のモートンに進言したことだ。これは受け入れられたのだが、船内の融和を図る意味はあったものの、同時にケントを己の野望に近づける危険性を孕んでいた。
     しかもグローヴナーは、手遅れになるまでこのミスに気づかなかった。彼は対イクストル戦において、原子放射線砲を使った作戦を考案したのだが、この時、囮役の一人としてモートンが参加している。そして作戦が失敗してモートンが負傷し、総監督を退任したため、ケントが名実ともに船の実権を握るという最悪の結果を招いてしまったのである。
     計画立案の際、モートンがケントの野望を阻止する上でかけがえのない人物であることを、グローヴナーが考慮した形跡はない。
     さらに、アヌビスによって怪獣がビーグル号司令室に送り込まれた際、ケントは混乱の中でグローヴナーの頭部を狙って震動波銃を――出力全開で――発射するのだが、この時もグローヴナーは、相手の心理を把握し損ねている。

    「ケントにしてみれば、自分が臆病風に吹かれて逃げ出したから、殺してもかまわぬなどと思い込んでいるらしい。」(P249)

     グローヴナーを射殺しても申し開きができる状況を、ケントが常々待ち望んでいた可能性があることを、彼はまったく考慮しなかったのである。
     総監督代理の心理を過小評価しているために、グローヴナーは次のような失敗もしている。

    「ケントは、グローヴナーが考えていたよりは、ずっと頭に来ていたようである。腕で顔をかばうところだったが、もう手遅れだった。
    『つけ上がるな、この野郎!』大きな声を立てたかと思うと、ケントは平手で彼の頬をなぐりつけた。」(P275)

     このように見て行くと、グローヴナーは一度や二度ではなく、恒常的にケントの心理を把握し損ねている様子が伺える。一体この原因はどこにあるのだろうか。
     イクストルの侵入を受けた際、苅田は周期学説の観点から、この異星人が大都市期の産物と仮定した場合について述べている。

    「事実上対抗しがたい知能の持ち主といえるでしょう。全然手のほどこしようはないといってもよい。自分のペースで事を運ばせたら、しくじりなどということは絶対にやりますまい。負かすことができるとすれば、それは何か彼の手の下しかねるような事態があったときだけです。まあ、一番よい例が――(中略)――われわれ自身の時代の、高度に訓練された人間がそうでしょう」(P178)

     グローヴナーは総合科学者という、まさに高度の科学訓練を受けた大都市期の人間である。したがって、苅田の論理に従えば、ケントの心理を把握できないという彼の欠点は、個人的なミスによるものとは考えにくい。それよりは、総合科学に内在する欠点――人間を統計的存在と見做すがゆえに、特異な個性を扱う際には有効に機能しない――を暗示している可能性が高い。
     何といっても、グローヴナーは、ケントという存在をあるがままにしか見ていない。リーム人襲撃の直前、グローヴナーは苅田に相談を持ちかけているが、それはケントに対抗する際、自分の行動にミスはないかを確認するためのものであり、ケントの動機の背後を探るためではない。グローヴナーは彼を一人の個人ではなく、冬期文明における人間の悪しき類型としてのみ見ているのである。

    「われわれ現在の文明がもつ、破壊的要素の化身、それがケントなのさ」
          (グローヴナーの発言(P88))

     つまり彼は、一般論的な観点からケントを捉えているのである。


      ■ 制度的欠陥の補償機能としての総合科学 ■

     すでに言及したように、ビーグル号には、科学者の代表である総監督を選挙によって選出する制度が存在する。この選挙制は、探検船の帰還率を向上させる試みの一環である。

    「過去二百年のあいだに出発していった宇宙探検隊のなかで、実に五割までが未帰還に終わっているのだ。どうして帰って来なかったのか、その理由は帰って来た船に起こったことから判断する以外にない。隊員間の不和、激しい論争、隊の目的に関する意見の対立、少数派の乱立―判で押したようにこれである。」(P84〜85)

     上記の要因を緩和するという導入目的、また、グローヴナーの「民主主義に忠実なら、当然比例代表制でしかるべきだからな」(P89)という発言から考えて、ビーグル号の選挙制度は、小選挙区制のバリエーションを採用していると推測される。この制度は一般に、多数派で構成された政権が強力な実行力を備える一方、多様な少数意見が反映されにくいとされている。そのため、成熟した市民社会においては、この欠点を補償する機能が、選挙制度の枠組みの外で発達する傾向がある。
     ビーグル号を建造した銀河系文明は、その究極の解答として総合科学を開花させた。では、現代の東京文明でこれと同様の役割を担う学問は何か。
     東京が多数を擁する「高度な訓練を受けた大都市期の人間」――巨大企業のビジネスマンや高級官僚、学者、マスコミ人――は、民意を把握する際に、高度な統計処理を含む手法を多用する。コマーシャルベースにおいてはマーケティングであり、政治の世界では世論調査が主に該当する。それらは高度な発展を遂げた結果、今や良好な企業活動や政権運営に不可欠のツールとなっている。
     にもかかわらず、企業のリストラや倒産、政権の退陣といった失敗は、依然として東京文明を特徴付ける恒常的な現象であり続けている。これは、銀河系文明の探検船未帰還問題と不気味な相似形を成しており、さらに、統計処理を一般論化の過程と捉えるならば、ケントを扱う際のグローヴナーの失敗とも、同様の相似形を成しているのである。


      ■ 終わりなき危機 ■
     
    とはいうものの、総合科学はいったん作動を始めれば、デウス・ウキス・マキナのごとき圧倒的な力を発揮する。グローヴナーは結局はケントとの闘争に完全勝利し、対アヌビス戦においてビーグル号を勝利に導くのである。
     そこで、次のような疑問が浮かび上がる。すなわち、すべてが終わった後で、ケントは改心したのかという疑問である。

    「人間の将来はどうなるのかな、きみの考えでは? 万人が総合科学者になるということか?」
    「この船の上では、それは不可欠でしょう。人類全体としてはまだ実行可能の段階には来ていませんが――(略)」
       (中略)
    「するときみたち総合科学者は、周期学説的な歴史のパターンを打破するつもりなのだね? そうだろう、きみが考えてるのは?」
    「正直いって、ぼくは苅田さんにお目にかかるまでは、周期学説的な物の見方を、それほど重要視していなかった。――(中略)――だが全体としてのパターンは、事実によく適合しているようです」
          (マッカンとグローヴナーの対話( P298〜P299))

     先のような事情を踏まえ、かつ総合科学が周期学説の打破を目標のひとつにしていることを考慮すると、ケントが物語の最後で、ついに総合科学のセミナーに参加した時、グローヴナーはそれをケントの改心――周期学説に対する総合科学の勝利と受け取った可能性は高い。
     しかし、それは事実だろうか? ケントは総合科学の力を認め、リーム人のように生き方を変えたのだろうか。それとも、孔子言うところの「敵を知り、己を知れば百戦危うからずや」に戦術を変更したに過ぎない可能性はないのだろうか?
     仮に後者だった場合、ケントは自身の権力維持のためにも、部下に総合科学を学習させる愚を犯しはしないだろうが、残念なことに、ケント以外の化学部の人間がセミナーに参加している、あるいはしていないという記述は存在しないため、この点を裏付けることはできない。
     しかしながら、彼が総合科学を研究して己のものとし、なお自身の野望を維持し得る可能性は、確かに存在する。
     催眠工学を用いて、乗員を対アヌビス戦に動員することに成功した時、グローヴナーは以下のように胸をなで下ろしている。

    「ケントが、不承不承これに同意し、作戦遂行の要を認める姿を見て、グローヴナーは、ひそかに苦笑いした。催眠にかける時も、各個人の性格一般には何も影響がないよう、注意しておいたのである。」(P311)

     終わることのない夜であり、始めのない夜でもある銀河宇宙を突進するビーグル号。その内部で繰り広げられたドラマから、東京はいかなる教訓をくみ取ることができるだろうか。
     彼らが示しているのは、高度に科学的な手法を用いて、人間集団を賢明かつ注意深く操作すれば、表面上は危機を回避できるという事実である。
     しかし、本当に危機を克服するならば、そのようなアプローチだけでは不十分であり、個々の人間の、とりわけ「人間臭い」部分について、より深く慎重な考察が必要になるだろう。なぜなら根本的な原因が取り除かれるまでは、危機は常にそこに存在し続けているからである。
                                (木立嶺)

    *本文の引用はすべて、創元推理文庫版(1983年10月14日発行38版)に依っています。
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