TOKON10実行委員会公式ブログ

第49回SF大会TOKON10実行委員会の公式ブログです。
開催日程:2010年8月7日(土)〜8日(日)
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東京SF大全35『シャドウラン』
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    『シャドウラン』(ロールプレイングゲーム、ロブ・ボイルほか、1989年/第4版2005(日本語版2007)年)〜


     いまや人間の神経系を一種の受信アンテナに利用することが可能となった。精神を破壊するある種の情報パターンを、大衆雑誌小説に埋め込むことができる。それは純真無垢な疑いを知らぬ読者の脳を、完全に再プログラム化できるのだ。しかもこうした読者は、そのおぞましいアイデアやイメージを、生涯消し去ることができないままに、保持し続けるのである。(『邪眼(イーヴル・アイズ)』序文、ブルース・スターリング)

     周知の通り、初期サイバーパンクは「運動」だった。
     文字通りに革命的なアンソロジー『ミラーシェード』(ブルース・スターリング編)をことのはじめに。
     『ニューロマンサー』(ウィリアム・ギブスン)に『スキズマトリックス』(スターリング)、それに『ウェットウェア』(ルーディ・ラッカー)に『重力が衰えるとき』(ジョージ・アレック・エフィンジャー)、そして『ヒーザーン』(ジャック・ウォマック)。
     日本からは、「接続された女」に匹敵しうるキャパシティを誇る『邪眼(イーヴル・アイズ)』(柾悟郎)。
     サイバーパンクは悲しいまでに儚く、だが美しき黄金時代を築いた。

     それから……。

     スターリングが「80年代サイバーパンク終結宣言」を書いて、初期の「運動」に一応の死亡宣告を行ない、ぼくたちがようやく気がついたのと前後し、サイバーパンクは単なる「黄金時代」のエピゴーネンと化してしまった。
     断言したくはない。が、少なくとも、そう思われている気がする。

     そして、サイバーパンクとは、まさに東京SFそのものだった。
     『ニューロマンサー』の「千葉シティ」には、言うならば東京の夢が提示されていた。だが、10年後に書かれた『ヴィーナス・シティ』(柾悟郎)ではそれは横溢する幼児性に支配された美学なき「東京おたくランド」なるザンネンな代物に変貌してしまっていた(ただ、それでもなお、作品の全体からはサイバーパンクの熱が感じられた)。
     とすれば批判されるべきは凋落を辿る時代性だろう。『ヴィーナス・シティ』からさらに15年以上が過ぎ去ろうとしている今となっては、『クローム襲撃』を目にしても、コンピュータの容量が現代的に見てありえないと愚痴る意見の方が目立つケースすらあったりする(タメイキ)。

     でも、「エピゴーネン」だと思われているものは本当に「エピゴーネン」なんだろうか? 通説、あるいは時代の風潮において残骸と思われているものの中から、立ち上がってくる要因はないのだろうか。
     サイバーパンクの遺伝子を受け継いだ作品群は、サイバーパンクを、ただ単にエンターテインメントのガジェットとして消費しただけの駄作として終わってしまったのだろうか?



     ここに『シャドウラン』というロールプレイングゲームがある。RPGといっても電源は要らない。紙と鉛筆さえあれば遊ぶことができる、ある意味とてもサイバーパンクらしいチープかつリーズナブルなゲームだ。
     だけれどもこのRPG、初期サイバーパンクの革新性を、そのコンセプトにおいて熱く受け継いでいるゲームのひとつだと言っていい。

     「5128年ごとに歴史のサイクルが区切られ、2011年12月24日に世界は第六のフェイズに移行する」(高橋志臣による要約)古代のマヤに伝わる神話。その神話が現実となり、サイバーパンクな近未来と幸福な結婚を果たしたら……。
     これが『シャドウラン』のコンセプトだ。

     わかりやすさと利益を最重要視する大企業は、リベラリズムの徹底にひた走り、ネイティヴ・アメリカンや失業者たちの自治組織はテロ活動でわが身を燃やす。
     日本は韓国を唆して北朝鮮に宣戦布告させ、北朝鮮を占領した後、「日本帝国」なる景気のよい改名を果たした次第。
     その頃、少しずつミュータントが誕生するようになった。世界中のコドモの1%が畸形化して生まれてきた。その姿は――それこそ『指輪物語』に登場するような――ドワーフやオーク、エルフにトロールといった連中に酷似していたという。いつしか、彼らはメタヒューマンと呼ばれるようになった。
     そして、2011年12月24日。何百人もの新幹線の乗客が、富士山の頂にグレート・ドラゴン「龍冥(リョウミョウ)」の姿を目撃する。
     翌年、ついにグレート・ドラゴン「ダンケルザーン」がメディアのロングインタビューに答え、魔力の復活と畸形化をベースにした「第六世界」が到来したのだ。
     第六世界では、住人の1割以上がメタヒューマンへと変貌してしまっている。ネイティヴ・アメリカンの独立国家のように、エルフだけの独立国家ができたくらいだ。あげくの果てにドラゴン・ダンケルザーンは、大統領にまでなってしまう。
     もうお気づきかもしれない。ここでの「エルフ」というのは、徹底して人種や政治問題のメタファーなのだ。
     いや、メタファーといったら言葉足らず。『シャドウラン』の世界では、「エルフ」も実在する。だが、「エルフ」も「ドラゴン」も、人種のサラダボウルの一種という意味では、黒人や東洋人とまったく同じ位置づけなのだ。

     そして、この『シャドウラン』を語るうえで、ジャック・ウォマックの小説に出てくるドライデン・コーポレーションにも引けをとらない、十大巨大企業(メガコーポ)は無視できない。変容した第六世界で、カネと権力に魂を売った俸給奴隷(スレイヴ)たちは、あの手この手でインフラや娯楽を牛耳り、世界を牛耳ろうと画策している。
     おかげでテクノロジーはたいそう進化し、人々はSIN(いわゆる「国民背番号」)で管理され、コムリンクという装置を埋め込まれて、オンラインに常時接続されている。サイバーパンクならではのガジェットもたんまり盛り込まれている。
     『シャドウラン』を遊ぶプレイヤーは、こうした暗黒社会の底辺で生きる、デミヒューマンなどのキャラクターに成り代わることになる。
     彼らは安い賃金で、気ままにその日を暮らしつつ、大企業のエージェント(通称:「ミスター・ジョンソン」)から依頼を受けて、時には「殺し」をも含む「仕事(ビズ)」をこなして日銭を稼ぐ、というわけだ。「簡単な仕事」が、企業の論理と政治に絡むヤバいヤマで、地を這い泥水を啜る生活を余儀なくされていたカスどもが、やむなく世界の命運を握る……。それが、『シャドウラン』だ。
     
     面白いのは、『シャドウラン』を遊ぶ際、こうした情報に基づいて、誰かが「遊ばせてくれる」わけではない、ということ。語弊はあるかもしれないが、遊ぶために努力を要するからこそ、下手するとキワモノとも思われがちな独自の設定が生きてくる。
     『シャドウラン』は複数人のプレイヤーを想定したRPGだけれども、多くのRPGのように、誰か一人はゲームマスターと呼ばれる存在になり、とびっきりのシャドウラン風味の冒険を用意する。
     もちろん、既製品のシナリオというのもあるけれども、勝手にコンピュータが物語を上演してくれるわけではないので、シナリオをかみ砕いて自分なりに解釈しなければならない、という点は変わらない。それに、既製品もよいが、自分でシナリオをデザインする方がずっと楽しい。

     ゲームマスター以外の存在は、『シャドウラン』世界で生きるキャラクターを創造し、そのキャラクターを文字通り「演じる」。
     いちど物語に「参加」したのであれば、そこから先は第六世界の論理で考え、キャラクターの倫理で行動しなければ何も始まらないからだ。
     しかし一方で、キャラクターの思考や価値基準を理解するためには、プレイヤーは第六世界の論理と倫理を、いちど距離を取って認識する必要がある。なぜならば、私たちは現実世界に身を置いたまま、あくまで自発的に仮想空間を「想像」しようとする立場にあるからだ。
     ルールはそのための補佐に過ぎず、いわば私たちが作品世界を解釈するための、通訳の機能を果たすものだ。
     そして、RPGがSFが交わるいちばんのポイントは、まさしくこの想像/創造性にある。
     言うならば、『シャドウラン』はいわば、巨大な批評的ブラックボックスだ。
     ブラックボックスを動かす基本的なルールは、『シャドウラン』のルールブックに書いてある。けれども、肝心な部分は、手探りで見つけ出すしかない。
     社会学者Gary Alan Fineは“Shared Fantasy”で、こうしたRPGの物語構造を、「キャラクター自身としてのリアリティの自覚」と、「プレイヤーとしての自覚」をフレームとして切り分けた。こうしたフレームは絶えず入り交じるかと思えば、互いに違いの論理を翻訳し、説明する必要に駆られるのだ。

     『シャドウラン』のかような特性は、サイバーパンクのリアリティを復活させるものだ。
     『シャドウラン』世界では、ヤマテツ、ミツハマ、レンラク、シアワセといった日本の財閥を思わせる大企業が、インフラを牛耳り、テクノロジーの進歩の鍵を握っていると説明したが、彼らのおかげで、最新版『シャドウラン』のキャラクターは、常時、強化現実としてのARに接続することが可能になっている。
     一方で、望むのであれば、機械に頼らずとも電子マトリックスの結節(ノード)を駆け巡るテクノマンサーとして生きる道を選ぶことも許されている。
     プレイヤー×キャラクターという二項対立のほかに、外装されたテクノロジーの要素、そしてそれに対するさまざまな位相(文芸としてのサイバーパンク、テクノロジーとしてのサイバーパンク……etc)といったさまざまな位相での解釈を許容する懐の深さが、『シャドウラン』のプレイングが形成するフレームをいっそう豊かなものへ変える。

     ぼくたちの生きる時代はベタついている。
     近所のTSUTAYAに出かけるまでもなく、DMM.COMを漁れば格安で『ブレードランナー』なり『JM』なり『マトリックス』なりを観ることができるし、iPhoneのレンズを通せば、推理ゲームだろうとロメロ・ゾンビとの追っかけっこだろうと自由自在だ。Google Earthを駆使すれば、ウクライナだろうがアイルランドだろうが、知らない土地も(外貌なら)わかる。
     そういった環境を、『シャドウラン』は今一度想像の中に回収し、あり得べき形は何かと再検討させるわけだ。

     『シャドウラン』と並ぶサイバーパンクRPGの雄として、『サイバーパンク2.0.2.0』がある。これは、著名デザイナーとしては珍しい「黒人」のマイクル・ポンスミスが創造した、『ミラーシェード』の作家たちが築き上げた世界観を、そっくりそのまま構造化させた作品だ。
     「絵」としてのサイバーパンクを大事にしながら、そのダイナミズムを体感し、観念や言葉を架空世界の設定として解体−再構築させつつ、その初期衝動を可能な限り延命させること。それが、『サイバーパンク2.0.2.0』のコンセプトだったと、ぼくは思っている。
     『シャドウラン』は逆に、記号としてのサイバーパンクに新しい可能性を招き入れるため、あえてファンタジー文学の記号と織り交ぜて、作り物臭さを塗り替えながら、サイバーパンクそのものの読み直し(リ・リーディング)をはかること。そうした試みなのではなかろうか。

     だから、ぼくはこう思っている。
     「運動」として始まったサイバーパンクを、美学として定着させ、ひいては人々の生きる糧として洗練させていった一因は、ほかならぬ『シャドウラン』のようなRPGにあったんじゃないか。
     たとえば、『シャドウラン』での日本では、再び天皇制が施かれている。このことの意味が、テクスト解釈の次元だけではなく、一種のシミュレーションの形式として、いかなるものかを考えるのは無駄ではないはずだ。

     もともとその成立時において、SFファンダムや創造的アナクロニスム協会といったカウンター・カルチャーと、RPGのコミュニティは相性がよかった(あるいは起源を一にしていた)。
     ブルース・スターリングも、『アッチェレランド』でポスト・サイバーパンクの雄として知られるチャールズ・ストロスも、『ジェイクをさがして』で圧倒的な筆力とキャパシティを感じさせるチャイナ・ミエヴィルも、そして伊藤計劃も、もとはRPG畑の出身だ(*)。
     彼らが『シャドウラン』を直接遊んだかどうかはわからないけれども、間接的であれ、『シャドウラン』の遺伝子とシンクロしているのは間違いないだろう。
     『シャドウラン』はサイバーパンクが何なのかを、常にアクチュアルな地平で問い直す作品だ。岡田剛『ヴコドラク』のように、『シャドウラン』と共鳴する地平で書かれた作品もある。
     『シャドウラン』が提示するアクチュアルなシミュレーションは、現代において東京SFがどのような意義を持つのか考えるということと、まさしく同義なのではないかと思う。

     『シャドウラン』は本当に展開豊富なタイトルなので、実例を挙げたらきりがないのだけれども(個人的には、ブードゥー魔術とバイオテクノロジーの処理が気に入っている)、地政学的に興味深い設定は、コロラド州デンバーだ。ここはグレート・ドラゴンの統治のもとに、プエブロ企業評議会、(ネイティヴ・アメリカンの)スー国、カナダ・アメリカ合衆国、アメリカ連合の4カ国に共同統治されている条約都市だ。
     ここに、アラン・ロブ=グリエの『反復』の舞台となっているような、米英仏ソの四カ国に共同統治されている戦後のベルリンや、パラレルワールドの東京で、ソ連に占領された東日本とアメリカに占領された西日本のいずれにも属さない、「東京市国」での政治劇を描いた笠井潔「鸚鵡の罠」を繋げることもできるだろう。
     逆接的に聞こえるかもしれないが、こんな批評性豊かな題材を、一部のゲーマーだけに独占させておくのはもったいないと思わないか。
     何も終わってはいない。サイバーパンクの精神をもって、新たな表現を紡ぎ出すことはいくらでも可能なのだ。

    (岡和田晃)


    (*)たとえば『ハーモニー』など伊藤計劃の作品に至っては、サイバーパンク以前に「なんだか、作者が死んだからすごい(著者が自らの死をもって作品のヴィジョンを実践した)」と理解されている節すらあるのだが、そうした受容は哀しいものだ。彼は死をもって自らの作品を完結させたわけじゃない。むしろ反対だ。彼は、最後まで持って生まれた時間を芸術へ昇華させようとしていた。伊藤計劃が切り拓こうとしていた圏域については、おそらく、今一度(RPGが基体とする)シミュレーションの立場から、考察できる可能性がある。と、ここに書いておくのは、無駄ではないと思う。
     ちなみにこれは伊藤計劃という「固有名」を特権化せよという主張ではまったくない。伊藤計劃が実践したような、観念の操作だけではなく、観念を成立可能にする社会的要因や身体性についての意識を輻輳的に把捉する必要性が高まっているだろうという意味において言っている。
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