TOKON10実行委員会公式ブログ

第49回SF大会TOKON10実行委員会の公式ブログです。
開催日程:2010年8月7日(土)〜8日(日)
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東京SF大全36 『さくらインテリーズ』
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    (小説・戸梶圭太・2003年)

    (初出《ミステリマガジン》「さくらインテリーズ」2002年7月号、「志木乃が原プリゾナーズ」2002年10月号、11月号、「神南リベンジャーズ」2003年2月号〜4月号、「新宿サヴァイヴァーズ」2003年6月号、7月号
    →単行本『さくらインテリーズ』早川書房 2003年
    →ハヤカワ文庫JA『さくらインテリーズ』2008年)



     元中学校教師の高木は中学生の買春で、元図書館司書の鳥越はストーキングで、元考古学者の藤守は遺跡の捏造で、それぞれホームレスにまで落ちぶれて、新宿の片隅にある児童公園へと流れ着いた。世代も、学歴も、知的レベルもおおよそ似通っている彼らは、自分たちのことを「さくらインテリーズ」と呼んでいた……という舞台立てからはじまるこの物語。

     東京の裏面にあるホームレスの世界を主題にした小説なら多々あれど、一切の美化を加えず、いささかの共感も交えず、彼らのことを徹底的にどうしようもない激安人間として描き切ることが出来るのは、やはり戸梶圭太をおいてない。

     何せこのホームレスたち、自分のことをインテリと名乗っているあたりからもわかる通り、どうしようもない理由で転落したくせに、未だにプライドを捨て切れないでいる。だから、うっぷんのはけ口として、自分よりなお弱い人間を求める。つまり社会のヒエラルキーの最低辺に位置するホームレスのコミュニティの内部にさえ、さらなるヒエラルキーが存在する。“弱者がさらなる弱者を食い物にする”という図式それ自体は、戸梶の小説に一貫している。けれど、この図式が、ホームレスの行動様式の説明に使われるとき、抜きん出たリアリティを発揮していることもまた確か。

     同じ著者には『東京ライオット』という作品もあって、東京の下町を舞台にした話だという点から言って、むしろそちらを取り上げるべきだとお考えの向きもいるかもしれない。けれども、この『さくらインテリーズ』の何が面白いかと言うと、2002年から2003年のあいだ『ミステリマガジン』で連載していたこの小説が、まだ「格差社会」という言葉も広まっていなかった時期にあって、数年後の東京に色々とリンクする発想をしていた点である。その例をひとつ挙げると、この小説を読めば、一昨年の年末に話題になった「派遣村」の先駆を見ることが出来るはずだ。とは言っても、そこにあるのは、「貧乏人がお互いを助け合う世界」ではなくて、文字通りの意味で「貧乏人がお互いを食らい合う世界」なのだけれども。

     この『さくらインテリーズ』が、執筆時点から近未来の世界を描いた小説だとするならば、だいたい同じくらいの時期に『文藝春秋』で連載していた『CHEAP TRIBE ベイビー、日本の戦後は安かった』は、昭和史の裏面を描いた近過去小説という意味で、ちょうど対照的な作品だと言える(余談ながら「藤守」は名前だけなら『CHEAP TRIBE』にも登場する)。さらに言えば、“主人公(たち)が、宮城県の架空の土地「志木乃が原」で強制労働をさせられる境遇を脱出して上京する”という物語の筋立ての点からも、両作品はパラレルな関係にある。そして、このふたつの物語の中で、「東京」を代表する土地に見立てられているのが「新宿」だ。

     例えば、『CHEAP TRIBE』の主人公の沼田永吉は、とある犯罪を犯して収監され、里親に引き取られて宮城に帰る選択を迫られるのだけれど、彼は翻意して、東京に留まることを決意し、タクシーに飛び乗る。そのとき彼が咄嗟に運転手に告げる行き先が新宿なのだ。永吉は、新宿と言ったのはなぜだろう、と自問して、自分にもっとも馴染みのある大きな街だから、と結論づける。新宿こそ東京の中でもっとも東京らしい土地、イメージの中で東京の中心に位置する土地だという意識が、永吉の決断の背後に見え隠れする。

     『さくらインテリーズ』の場合、物語は、新宿の児童公園で暮らすホームレスたちが、農業を学んで人生の再出発という甘言にだまされて、志木乃が原の強制労働施設へと連れ去られ、紆余曲折あって数年後に帰ってきたら、東京はすっかり様変わりしていた、という一種の浦島譚のおもむきを呈している。『さくらインテリーズ』の描く近未来の新宿では、街頭防犯カメラ網によって、美観を損なうゴミのポイ捨てが厳しく取り締まられる一方で、ホームレスの死体は道にゴロゴロ転がっている。自立支援も生計を立てる手段も奪われたホームレスたちが生き残るには、それこそ路傍の死体の肉を食べるくらいしか道が残されていない。そんなものすごい世界が東京だと言われると首をかしげざるを得ないけれど、実は物語のはじめの方でさりげなく描写されている新宿駅のアナウンス(「――ここは、多くの人が利用する公共の場所です。ここでダンボールを敷いて寝起きをしたり、煮炊きをしたり、物品を販売したりすることは都の条例で禁止されています」)が、少しばかり過激なかたちで現実化しただけだと思えば、理屈は通る。

     要するに、物語の冒頭には、新宿の一角の児童公園に過ぎなかったホームレスのテリトリーが、物語の最後には、新宿全体へと拡大しているのだ。そして、この現象は、もともと社会の最低辺にあって見えない存在だったホームレスが、正真正銘人間ではなくなって、人肉食いのゾンビとなったのと軌を一にしている。なぜって、そもそもホームレスとは、公共の場所を不法に占拠する「場違いな存在」なのだ。ホームレスのテリトリーとは「いるべきでない場所」だ。ということは、ホームレスが人間で無くなれば無くなるほど、或る意味で、あらゆる場所がホームレスの場所になりうるわけである。こんな具合に、富裕層と貧困層の社会の二極化が極限まで進行して、人間と非人間の分化へと変容した世界としての東京を、この小説は提示する。けれども、いくらカリカチュアライズされているとはいえ、その元となる発想は、あくまでも現実の東京から汲み取られたもののはずだ。

     それは、端的に言えば、この世にはどうしようもない人間が存在するのだという、ただそのことに尽きる。ここで言う「どうしようもない」というのは、ぼくたちのような「富裕層側の人間」には、認識さえ出来ないほど異質な存在だということだ。戸梶圭太本人の言っていたことなのだけれど、じっさいに東京で、そして日本で起きている犯罪というのは、ぼくたちのような知的階級には想像もつかないほど、陰惨過ぎたり、馬鹿過ぎたり、下らな過ぎたりして、それをそのまま小説にしたところで、逆に「リアリティ」がなくて、読み物として成立しないのだという。「現実は小説よりも奇なり」。だとすれば、そんなにも異質な世界の住人について、美化したり、共感を込めたり、救済したりする物語というのは、かえってうさん臭さが鼻につく。ぼくたち知的階層のすることと言えば結局、何をどうあがこうと、「下層階級なんてこんなものだろう」という勝手なイメージをつくりあげて、それを安全な高みから楽しむ点で変わりないのだから。したがって、ホームレスをゾンビ扱いして大虐殺するこのお話、実は非常に「誠実な小説」だとさえ言える。

    (横道仁志)
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