TOKON10実行委員会公式ブログ

第49回SF大会TOKON10実行委員会の公式ブログです。
開催日程:2010年8月7日(土)〜8日(日)
<< ご参加ゲスト一覧 | TOP | 東京SF大全終了 そしてカーテンコールのご挨拶 >>
特別掲載:東京SF論「電脳金魚の大冒険」
0


                          宮野由梨香

     今、催されている芸能山城組の「第35回 ケチャまつり」(7月29日(木)〜8月1日(日))に行ってきた。場所は西新宿、三井ビル前の55HIROBAである。初日は雨模様だったが、風の音とケヤキのさやぐ音が絶妙な効果をあげていて、屋外ならではの音を味わうことができた。
     西新宿といえば、日本SF作家クラブ発祥の地である台湾料理店「山珍居」にも近い場所である。新宿副都心の高層ビルの谷間……ここで毎年、たとえば「AKIRA」の曲などが芸能山城組によって奏されていることを考えると、なかなか興味深いものがある。
     9か月前、はじめてTOKON10の案内にある「電脳金魚の大冒険」という文字を眼にした時、宮野が思い浮かべたのは『黄金鱗讃揚』だった。芸能山城組が1978年に発表したアルバムに収められていた曲である。アルバムのタイトルにもなってCD化もされている。
     この曲は、「東京SF」である。
     あえて、そう断言する。
     荘重な宗教音楽が、金魚売りの「声」に乗っ取られていくさまは、パロディというのには、あまりに刺激的だった。
     本稿では、土地の固有性と音を通して、「東京SF」を考えてみたいと思う。

                  ○

     坂を登りながら、後輩は言った。
    「東京の地形って、変ですよね?」
    宮野がまだ大学生だった時のことだ。
    もより駅から、大学にたどりつくには、けっこう急な坂を登らなくてはならなかった。登ったとたんに少し下り、また登る。
    「わけのわからない坂が多くて疲れます。……この坂、いったい何ですか? どうして、こんなにいきなりアップダウンするんですか? 京都には、こんな変な坂、ありませんよ」 
    彼女は京都出身だった。
    不注意な宮野は、この時はじめて、東京の地形の特殊性を意識した。
    「確かに、坂が多いわね。ここ地名からして、○○坂だし」
    「そうなんですよ。○○坂とか、○谷とか、○窪とか。東京って、そんなのばかりですよね。ここって関東平野じゃないんですか? 平野って、平らだから平野というんじゃないんですか?」
     この疑問を解いてくれたのが、中沢新一の『アースダイバー』(講談社・2005年)だった。
     縄文海進期には、東京は海がかなり奥まで入り込む、複雑なフィヨルド状の海岸地形をしていた。それによって、現在の東京の構造を解いていく。とてもSF的でエキサイティングだった。「おおお」と眼が洗われるような気持ちがしたものである。
     もちろん、これは神話の一種である。神話もまた、土地の固有性を語るための試みだ。
     ここは、ここであって、他のどんな場所とも交換不可能である。同じ面積の別の場所と取り換えることなど決してできない場所である。
    そういう思いを否定するのが「近代」であったことは言うまでもない。
     だが、「近代」が否定しようとしたのは「土地の固有性」そのものだったのだろうか?
     そこは、もう少し掘り下げて考えてみる必要がありそうである。

                  ○

     カリフォルニア出身のガードルート・スタインは、移住先のパリから帰郷した時、次のように言ったそうである。

    When you get there,there’s no there there.

    これについて、リービ英雄は次のように述べている。
     
     カリフォルニアの自然は、実にショッキングなものである。
     スプリンクラーを止めたらたちまち砂漠にもどる芝生の上を歩きながら、広々とした、雲一つないコバルト色の空におどろく。最初にその下を歩いた日には、その空にこの惑星のものとは思えないほど「異質」でショッキングな美しさを覚えてしまった。(中略)
    there にはthereがない、そこには「そこだ」という実感がない。カリフォルニアに1か月もいればスタインの名言の内容はよく分かるのだ。(中略)
     日本の知識人も、ヨーロッパの知識人も、二十世紀において文化のたどりついた空洞化という意味で「アメリカナイズ」を言うとき、それは実は「カリフォルニアナイズ」を意味しているのではないか。
                           (「『there』のないカリフォルニア」)


     その意味では、坂だらけ、歴史と伝説だらけの東京は、thereに満ちあふれている。
     単なる面積で切り売りされることを、土地そのものが拒むような場所である。
     一方、東京は、かなりの面積の土地を、「埋め立て」によって確保してきたという歴史を持つ。
     埋め立てられたばかりの土地には、thereがない。
     これは、東京を考える上で、非常に重要なことである。
     その東京で生きるわれわれにとっても。

                  ○

     東京はゴジラに襲われた。
     冒頭で船を襲うゴジラは、もちろん「水爆」の象徴である。
     だから、ゴジラは国会議事堂を襲う。日本は世界で唯一、「原爆投下」がなされた国だからだ。それは、世界史上というより、人類史上、大きな出来事であった。
     講談社『日本の歴史』全26巻の冒頭は、次のような言葉で始められている。

     人類社会の歴史を人間の一生にたとえてみるならば、いまや人類は間違いなく青年時代をこえ、壮年時代に入ったと言わざるをえない。
     それは、1945年8月6日、日本列島の広島に始まった。(中略)
     このアメリカによる原爆投下は、ごく短期的には「大日本帝国」の降伏、その敗戦をもたらす決定的な契機となったが、人類が自らを滅しうるだけの巨大な力を、自然の中から開発したという疑う余地のない厳粛な事実を、多大な犠牲を払って結果的に明確にしたという点で、人類の歴史に決定的な時期を画することになった。(中略)
     人類がたとえ多少の犠牲をはらっても、豊かさを求めてひたすら自然の開発を押し進め、前進することになんの疑いも持たなかった「青年時代」は、もはや完全に過去のものになった。広島・長崎への原爆投下によって、人類がはじめて体験した核兵器による被害の恐るべく驚くべき実態を、さらにさらに広く世界の人々に訴え、人類が自らの中に犹爿瓩陵廾をはっきりと抱くようになった「壮年時代」にふさわしく、注意深い慎重な歩みを進め、死滅の危険の元凶の一つである核兵器の廃絶を実現するための条件を広くつくり出すことは、われわれに課せられた使命といわなくてはならない。(中略)
     人類の直面する死滅にいたる危険はこのような兵器だけではない。(中略)
     自然の開発が、自然を破壊して人類社会の存立を危うくし、そこで得られた巨大な力、あるいは極微の世界が人類を死滅させる危険を持つにいたったのである。
          (『日本の歴史0巻』網野善彦『「日本」とは何か』講談社 ・2000年)


     映画『ゴジラ』は、このような時代の科学者の苦悩をみごとに描いていた。
     人類の歴史ということを考えた時、現在が未曽有の転換期にあたることは言うまでもない。これだけ変化の激しい時代が、乱世でなくて何だろうか?
     かつて、民族のサバイバルということを考えた時、多大な威力を発揮したもの。
     近代のシステムが前提とするような、ものの捉え方や感じ方や考え方。それを踏まえた社会システム。
    人類全体のサバイバルということを考えた時、果たしてそれらは有効なのか?
     もちろん、既に答えはでている。
     では、なぜ、我々はそれらをいまだに捨てられないのか?
     それは、「改良」可能なものなのか?

                 ○


     地球にとって、人類とは何なのだろう?
     どうして「近代化」ということは起きたのだろう?
     必然なんだろうか? 偶然なんだろうか?
     かつて、環境問題は「自然VS人間」という図式で語られることが多かった。
     現在は、そのように単純な捉え方をしないのが普通である。われわれが「自然」と認識してきたような、例えば日本における田んぼと里山に象徴されるような風景をつくり上げたのは、人間であることがわかってきたからだ。しかも、どうやら「里山」は荘園制度によって成立したものであるらしい。

     平安時代の大開発によって形成された荘園的世界は、それまでの不安定な集落とは異なり、今日の集落にもつながる安定した集落を出現させた。災害のみをもたらしてきた神=自然は、水などのめぐみをもたらす存在として村落の中心におかれ、慈愛に満ちた菩薩や仏の顔を前面に出すようになったのである。
    (飯沼賢司『環境歴史学とはなにか』(山川出版社・2004年)49頁)
     
     
     言うまでもなく、平安時代は仏教が日本に浸透していった時期でもある。
     この時期の仏教説話こそ、現在のSFと同質のものではないかと宮野は考えたことがある。このことについては、いずれ稿を改めて論じることにしよう。

                 ○

     ガムランの音は、赤ん坊をあやすガラガラの音とよく似ている。
     芸能山城組が奏でる「黄金の雨」という曲を聴いた時に、そう思った。
     赤ん坊が泣いたとする。
     乳は飲ませたばかり。オムツも濡れていない。暑くも寒くもない。
    「何で泣くのよ? 寝てくれないと、私も眠れないのよ また3時間後には『お腹すいた』って泣くんでしょ? それまで、せめておとなしくして、母を少しでも眠らせてよ」
     と言っても、言葉はまだ通じない。
     母は考える。
    「だいたい、この『泣く』って何なのよ? 泣くことによって呼吸器官を鍛えるんだとも習ったけど、そういう機能的な問題とも違う気がするのよね」
     妊娠中に「やはり直立歩行は間違っている」、出産時に「こうまで介助を必要とするなんて、もう種として終わっている」と思った母である。泣きやまない赤ん坊を見て「これらは、すべてセットかもしれない」と気がつく。
     人類はやはり群れを形成する動物なのだ、と思う。単独で育てていて、こんな状態で外敵に襲われたらひとたまりもない。よく通る泣き声は、敵だって聴きつける。敵ではなくて、仲間が来てくれると信じているからこそ、赤ん坊は泣く。
     その信頼の根拠は何か? 
     もしかして、無事、出産できたということにあるのかもしれない。出産が仲間の存在と、「社会」を前提とするのなら、育児環境もそれを前提にしていいはずだから。
     母は、泣いている子を抱き上げる。
    「仲間や保護者が、声の届く範囲にいることを確認したいのかな? ほら、抱っこしたよ。泣きやんでおくれ」
     それで、泣きやむこともあるが、泣きやまない時もある。
    「まだ、何かあるの? もしかして、存在の根本的不条理に向かって泣いているの? それは、母にはどうしようもないわよ。それとも未生怨? 今さら遅いから、あきらめるのよ。解決策は生きている限り無いんだから、気をまぎらして凌ぐしかないわね、ほら」 
     ガラガラを振ってやる。オルゴールつきメリーを回してやる。
     そして、子守唄を歌う。
    子守唄といっても様々ある。いろいろ試してみる。「ヒルダの子守唄」なんてのも歌ってみる(笑)。これも含めて、近代の作者つき子守唄は用途に適さないことがわかる。西洋のものでは、子守唄よりも、むしろ讃美歌の方がいい。パレストリーナも悪くない。
     しかし、いちばん寝付き率が高いのは、日本古謡であることが判明する。
    中でも「道端の黒地蔵」という、単純なメロディが山の手線構造でエンドレスに繰り返される伝承子守唄がよく効く。添い寝していると、いつのまにか、歌っている母も眠ってしまう。
     母は気がつく。
     どうやら、赤ん坊が眠るのには、ある種の「音」が必要なのだ。
     13世紀に神聖ローマ帝国のフリードリヒ2世が試みた「沈黙の育児」の結果、赤ん坊がすべて死んでしまったのは、言葉の有無以前に、音そのものが無かったせいかもしれない。
     そして、数年後、第2子出産のために、入院した母はつぶやく。
    「……子供を抱っこしていないと、こうも眠れないとは!」
     寝かしつけていた母は、こうしていつのまにか、寝かしつけられる側になっている…。

               ○
     
     土地は常に音を奏でる。
     土地の固有性と音は、切っても切れない関係にある。
     音は、その土地が今どういう状況にあるかを端的に示すものである。
     芸能山城組を率いる山城祥二(大橋力)は、「人類本来の音環境」について、次のように述べている。

     私たち人類にとって理想の音環境はありうるのだろうか。あるとすればそれはどのようなものなのだろうか――。(中略)地球の生命は原則的に、その種が誕生した棲み場所、つまり進化的適応を遂げ種固有の遺伝子が構成される揺籃となった生態系のもつ環境とちょうど鍵と鍵穴のようにぴったり合った活性を、遺伝子およびそれが設計した脳・神経系の中に、〈本来のプログラム〉としてもっている。(中略)このような種に固有の〈本来の環境〉にひびく固有の音の構造こそ、遺伝子に約束された理想の音環境の具体的な姿に他ならない。
         (大橋力『音と文明―音の環境学ことはじめ』(岩波書店・2003年)70頁)


     ガムランの奏でる音楽は、「人類本来の音環境」つまり人類発祥の地である熱帯雨林の音に非常に近いものだという。(同書63頁)
     その熱帯雨林の「人類本来の音環境」での生活は、狩猟・採集を基礎とするものであり、「農耕」というのは決して本来的なものではないと、山城は主張する。

     人類本来の環境である熱帯雨林に生きる森の民たちは、人類本来のライフスタイルにのっとって、その棲む森から必要な食べ物を直接狩猟し採集すればよい。(中略)
    ところが、森を捨ててこうした恵みがえられない環境の中に棲み場所を移した人間たちは、もともと森が自動的に与えてくれたはずの食糧を自分たちの手であらためて作り育てなくてはならなくなる。そこで、本来は必要がなかった農耕や牧畜という〈適応行動〉を余分に行い、森に棲んでいたときに食べていたものに近い効果をもつ食糧を作りだして生きることになる。
                          (同書86頁)


     そして、近現代文明について、それはむしろ農耕という本来的ではない行動から逃れ、より本来的である「狩猟・採集」に戻ろうとする行為として解釈できる、と指摘する。

     近現代文明の誇る科学技術とは、熱帯雨林を遠くはなれた人間たちが、遺伝子プログラムに導かれて本来の森の環境や生活との近似を計る適応行動の一体系に他ならないと信じられるのである。
     この実態は、現代型ホモ・サピエンスのDNAが、森の生活を本来のものと設定した状態のまま今なお微動だにしていないであろうことを強く想定させる。
                              (同書87頁)

     この考え方は「近代文明」がどうして世界中に拡散したのかについて、説得力のある見解を提示しているように思う。
     もしかしたら、近代が否定しようとしたのは「土地の固有性」そのものではなく、「土地の固有性」に強く結びつけられていた農耕ストレスだったのかもしれない。だから、農耕ストレスとは無縁な土地(日本においては埋め立て地とか、北海道とかが、それにあたる)に強く引き付けられるものを感じたという解釈も成り立つ。
     そして、もちろん、狩猟・採集こそ「土地の固有性」を前提とする行為である。
     その一方で、科学技術の成果が、それこそ人類滅亡の危機を招いていることも、やはり事実なのである。そこを、どう考えどう対処していくか。
     何せ、未曽有の過渡期であるから、状況は刻々と移り変わる
     有効な方策は、現象の裏側に動くシステムを見抜くことによってしか得られないだろう。
     SF的発想は、そのために是非とも必要だろう。
    (個人的見解だが、SF者には「農耕ストレス」への耐性が低い人が多い気がする)
     ジャパニメーションが、世界を席巻している理由というのも、これから「近代」の問題と結び付けて、しっかり考えなくてはならないテーマの一つである。
     東京という場所はその意味でも非常に重要であろうし、20年ぶりにこの地で日本SF大会が行われる意味は大きい。

                   ○

    おお 
    黒き黎明は黒く燃え
    おお
    溶けゆくものの主よ
    聖なる美麗を持って幻象の真相なるを描きあれるや
    (中略)
    おお 
    観よ
    天地に気は充満たり
    おお
    観よ
    見てらっしゃい 買ってらっしゃい
    黄金鱗魚(きんぎょ) 
    金魚ぇ金魚
    石焼き芋 
    竹や竿竹
    豆腐
    毎度お馴染の塵紙交換
    さて お立会い 取り出したるは蝦蟇のあぶら……
         (「黄金鱗讃揚」作詞…耶摩城竜、作曲…山城祥二)
               
               ○
     
     金魚の養殖は、アップダウンに富み、湧水の豊富な江戸の坂下の土地で盛んに行われたという。
     金魚は人工環境のもとでしか生きられない生物である。
     我々、人間も、人工環境でしか生きられない。
     それは、熱帯雨林の森の中でも同様である。仲間とともにあることは、すなわち「人工環境」の中にあるということなのだ。
    「農耕ストレス」のない「森の民たち」であっても、仲間が営む社会がなければ、子を産み育てることさえできないのだから。
     ……まあ、だからね。
    我々は「電脳金魚」なのだよ。
    日本SF大会は、年に一度のお祭りである。
    お祭りには、金魚掬いがつきものだ。
    掬いに、あるいは、掬われに来てね。
    狩猟・採集の欲望を満たしてね。
    もちろん、電脳金魚も、SF都市たる東京のいとしい一部なのである。









                    
    | 東京SF論 | 07:05 | - | - | - | - | ↑PAGE TOP