2010.08.06 Friday
東京SF大全44『私はウサギ 千野姉妹のルナティックな毎日』
ひかわ玲子『私はウサギ 千野姉妹のルナティックな毎日』
(1995 中央公論社)
千野月見子、二十五歳。入社五年目のベテランOL。千野家の長女。
千野星見子、もうすぐ二十二歳。薬科大学の学生。千野家の次女。
千野陽見子、十七歳。高校三年の受験生。千野家の末娘。
彼女たちは、東京に暮らす、ごく普通の三姉妹。
……だったのだけれど、或る日突然、母親がマイホームを売り払い、書き置きの手紙を残して出奔してしまった。父はいない。彼女らが幼い頃に失踪した。だから三姉妹は、不安はあるものの、母親が用意してくれていた3LDKの賃貸マンションに引っ越して、自力で生活を営まないといけない。しかし時を同じくして、千野姉妹は、ふとしたきっかけから、自分たちに不思議な力が備わっていることに気づきはじめる。
たとえば長女の月見子の場合。
彼女は、ちょっぴり鬱屈した性格だ。職場だけでもたいへんなのに、母親がいなくなった今、千野家の家庭を切り盛りしていくのは彼女の役目なのだ。それで、嫌味な上司の小言に耐え、単調な仕事に疲れて、ようやく稼いだ給料は一家の生活費のため泡と消えていく。彼女にだって欲しいものはあるのに。こんなつまらない日常にあたら人生を食いつぶされているという不安が、彼女の心に影を落とす。
だけど、実を言えば、月見子の胸をいっそうかきむしる特大の棘がある。それは、彼女と同期に入社した女子社員、尾道沙耶子の存在だ。さえないデスク業務の月見子と違って、沙耶子はバリバリのキャリアウーマンを地で行く才女だ。しかも、美人で、交友関係も広く、芸能人との付き合いもあるという。あの嫌味な上司でも、沙耶子の前では蛇に睨まれた蛙も同然。あまつさえ、月見子がほのかに好意を抱いている男性がこの沙耶子に熱烈なアプローチを仕掛けていて、月見子の方には目もくれないという始末。そう、尾道沙耶子は、月見子に足りないもの、月見子が欲しいと願いながら手に入らないものをすべて持っている。だからこそ、沙耶子の姿は、月見子の心を揺さぶってやまない。
そんな折に、月見子は、わざわざ自分のことを避けて電話をかける沙耶子を見かけて、「聞いてやりたいもンだわね」と腹立ちまぎれにふと思う。すると、どうだろう。たちまちのうちに、秘密の会話が聞こえて来るではないか。まるで、月見子がウサギの長い耳を持っていて、それがアンテナとなって沙耶子の声を届けてくれるかのように。
この不思議な事件を体験した日の前夜、月見子は、ちょうどそんな夢を見ていた。夢の中で、月見子の身体はふわりと浮き上がり、天井を抜け、満月の空へと翔び上がる。彼女は、まるで風がよぎるような、あるいは木々のそよぐような音に取り巻かれている。この風は、東京に溢れる音という音の集合から織りなされている。だから、耳を傾ければ、風に織り込まれている人々の会話を、ひとつひとつすくい取ることだって出来る。でもどうしてこんなことが起きるのだろう? 月明かりに澄んだ夜空の下、月見子は、ぴょんと跳ねる自分の身体の動きで、アンテナのように動く長い耳のおかげで、自分がウサギになっていることを自覚する。そうか、ウサギだからこんなことが起きるのだ。でもなんで私がウサギなんだろう。
そのとき月見子は、雑木林に囲まれて月影に隈取られた公園の広場に、母の姿を見つける。まるで月見子のことに気づいているかのように月空を見上げる母親は、幸せそうに微笑んでいる。そして、そのまま空から降りてきた光の円盤に吸い込まれて消えてしまう。母は、昔失踪した父のあとを追っていったのだろうか? 月見子にはわからない。でも彼女は、夢の中でウサギになった自分を楽しんでいる。月見子は、夢の世界で自由だからだ。「お母さんは行かなければなりません」とだけ手紙に書き残して蒸発してしまった母親は、見ようによっては無責任と言えるかもしれない。けれども、自分の運命に素直であることを貫くその生き方は、或る意味では、月見子には出来ないからこそ憧れる、まさにそんな自由な生き方に他ならない。だからきっと、明るい満月の光の中で思うさまに跳ね回るウサギの姿は、月見子自身の願いを映し出している。夢だとばかり思っていた月見子の能力が、現実の世界で、尾道沙耶子の声を聴き取るために発揮されるのも、けして偶然ではないはずだ。
そして、次女の星見子も、姉と似たような体験をする。彼女の場合、趣味の天体観測で望遠鏡をのぞいているときに、それは起きた。レンズを通して見る星空がぐるぐると回転し始めて、星見子の視界は、星の渦の中に飲み込まれてしまう。そしてふたたび視界が開けたとき、彼女は、鳥のように大空から、ビルの立ち並ぶ東京の景色を見下ろしていた。やがて、彼女の視線は、自然とひとつのビルへクローズ・アップされていき、星見子は、ビルの事務室で残業している月見子と、彼女に話しかける沙耶子の姿を目撃する。月見子が、遠くの声を幻のウサギの耳で拾えるように、星見子は、天体望遠鏡で遠くの光景を見ることが出来るのだ。
もし、月見子が夢の中でウサギになった体験が、彼女の心のなにがしかを反映しているとすれば、星見子のまなざしが、鳥のようにあらゆるものを見通すのも、やはり星見子自身の内面に起因するのかもしれない。星見子が天体観測を愛する理由は、星の世界がさまざま知恵を教えてくれることにある。すなわち、地球は丸くて、この地面は動いている。すなわち、人間は、この大きな天体の上に生きているちっぽけな存在に過ぎない。すなわち、そんな地球でさえ、無限に広がる宇宙に比べれば、どこまでも小さな世界でしかない。だから、星の世界の尺度からすれば、人間の喜怒哀楽なんて大した問題ではない。
星見子は、ものごとを理屈で割り切って考えようとする。天体の光景は、彼女に安らぎを与えてくれる。人間の感情みたいに、理屈に合わない不純物の存在しない世界だからだ。そんな彼女の性格は、往々にして、他人にドライだという印象を与える。けれども、ドライだと言われて、星見子がどこか反発を覚えることもまた事実だ。母親がいなくなっても、父親がいなくても、「なんてことはないはずだ」と、彼女は理屈ではそう考える。千野姉妹は、自分の世話は自分で出来るように教育されている。当面の生活費に心配は無い。だから、問題は何ひとつない――はずだ。だけど、それでも、行方も教えてくれずに去ってしまった母親のことを、やっぱり心配せずにはいられない。
月見子が自分の能力に気づいたのは、尾道沙耶子の態度に反発を感じたときだった。それに対して、星見子が異常な視覚体験に直面したのは、失踪した母親から父親のことを連想して、父が「星見子」という名前の命名者だと思い出したときだった。星見子は、自分の名前を気に入っている。よくぞこんな名をつけてくれたと父に感謝する。そのことが、星見子が不思議な体験をするきっかけになったのだとすれば、彼女の見るものは、きっと、彼女自身がどうしても見て見ぬ振りの出来ない感情に、どこかで通じているのだ。
じっさい、星見子がふたたび望遠鏡を覗いたとき、彼女の見たものは、自分の姉の月見子と、尾道沙耶子、それに自分のボーイフレンドの八賀井伸也が、なぜか一緒にいる光景だった。彼は、優柔不断で要領の悪い性格をしていて、星見子とはまるで正反対のタイプの人間なのだけれど、それでも、高校時代、同じ天文部にいたときからのつき合いの、腐れ縁の彼氏だ。つまり、星見子の中にある“理屈に合わないもの”を、或る意味で体現しているのがこの伸也という人物だ。だから、星見子が自分自身の見るべきものを見つけようとして、レンズを覗いた先にこの彼がいたということが、ひるがえって、星見子の(あるいは月見子の)体験の本質を教えてくれている。すなわち、“自分自身の心の秘密”を解明するための旅路。そんな意味が、たぶん、千野姉妹の体験には秘められている。
そもそも「見る」とは、あるいは「聞く」とは、ぼくたちにとってどういう意味を持つ行為だと言えるだろうか。モノが存在するという客観的な事実を確認するだけの、ごく単純な作業? それとも、コギトと呼ばれる絶対者が目の前のモノの存在を無から創造するという、都合の良い奇蹟? いいや、そうじゃない。『見る』とは、自分が見ているモノに取り憑かれ、モノに染まる体験でもあるからだ。何かを『見る』人は、自分が見ているその何かと、共通の空間にいる自分自身を自覚する。それはつまり、自分の見ているその何かと、共通の素材から出来ている自分自身を自覚するということだ。物質を見る人の身体は、物質から組み立てられている。夢を見る人の身体は、夢から捏ね上げられている。だから、月を見る人は、月の世界に属する生き物となるし、星を見る人は、星の世界に属する生き物となる。
三女の陽見子が体験する出来事は、ちょうどそんな具合に、『見る』という行為が“自分が何者であるか”、“自分が今どこにいるのか”という問いに密接に関わるのだということを、申し分なく教えてくれている。というのも、けやきの木陰に坐って、木漏れ日の中、大好きなひなたぼっこを楽しんでいた陽見子は、いつの間にか、まさにそのけやきの木そのものになってしまっている自分に気づくのだから。太陽の光をからだ一杯に浴びながら、風にしなる枝の弾力を感じながら、梢にさざめく葉の音を聞きながら、根に伝わる冷たい土の感触を楽しみながら、陽見子は、自分が木であるという事実を心ゆくまで満喫する。これはたぶん夢なんだろうけれど、気持ちいいから許してしまおう。でも、どうせ“木”になるのなら、町中に生えているやつじゃなくて、広い野原の真ん中にぽつんと一本きりで立っている大木になってみたい。そう、たとえば北海道の写真で見たような、地平線まで続くラベンダー畑の中の一本道を、丘の上から見下ろしている、悠然とした大木に――そんなことを思いながら、陽見子は、遠い記憶の中の父親に語りかける。「お父さん……あたし、そんなふうな“木”になりたいなぁ……」。そして気がつくと、陽見子は、自分が思い描いた通りの北海道の野原の真ん中で、大木の幹から押し出されるようにして立っている自分自身の姿を発見することになる。
陽見子は、陽の光でつくられた存在である“木”を出入り口にして、想像した場所へと自由自在に行き来する能力に目覚めた。それはつまり、陽見子は、想像力によって想像の“木”を『見る』ことで、まさにその想像の場所に帰属する自分を自覚する、ということだ。「想像力」――「ファンタジー」――とは、もともとはギリシャ語の「光(ポース)」という言葉に由来する。何かを想像するということは、想像の光に満たされた空間において、その光に照らされた存在をありありと『見る』ことに他ならない――そう、ちょうど、月見子が、月明かりに満たされた公園に、あかあかと照らされた母の姿を見たように。だからこそ、陽見子の、ひいては三姉妹の身に起きた出来事は、「想像力」という言葉に込められた始元の思考の、見事な表現たりえている。千野姉妹の物語とは、まさしく、単なる現実をも単なる幻想をも超えた想像力の秘密をめぐる省察なのだ。
『見る』という言葉は、想像力という概念と表裏一体の意味で用いられる限り、単に感覚によって見たり、聞いたり、感じたりすることのすべてを内包している。つまりこの場合、あらゆる感覚の根本に、『見る』というはたらき、もしくは「光」というはたらきが隠れていると想定されているわけだ。このことは、想像力という概念がラテン世界に引き継がれたさい、「イマジネーション」、すなわち「イマーゴ(像)」を造形する能力と解釈されたことからも明らかだ。だけど、他の語句でもよさそうなものなのに、どうして『見る』とか「光」とかいった言葉がとくに用いられるのだろう? それは、ぼくたちが、『見る』とか「光」とかいった言葉の裏側に、「視線」、「まなざし」、「光線」、「日射し」などいった言い方で、見る者と見られるものを刺しつらぬく特別の絆を思い描くからだ。当たり前のことだけれど、ぼくたちは、まなざしを向けた先にあるものしか、見ることが出来ない。では「まなざし」とはそもそも何だろう? それは、見る者と見られるものとが、同じ時間の中で「ともに動いている」こと以外の何ものでもありえない。ぼくたちの両の目が、一致団結して目の前の対象を追いかけるとき、そんな「共通のリズム」が、ぼくたちと対象のあいだを往復しているとき、はじめて、色彩と奥行きと質感の横溢するこの視覚世界が、ぼくたちに向かって開かれることになる。そして、このことは視覚だけでなく、あらゆる感覚について言える。
さらに、まなざしの正体がリズムなのであれば、それは、本質的に“見る者”の側だけの問題ではなくて、“見られるもの”の側からも起因する運動だと言わなければならない。“モノにまなざしを向ける”という行為は、同時に“モノにまなざしを向けられる”という体験でもある。同じ意味で、“モノを見る”ことは、そのまま“モノに見られる”ことだと言っても良い。月見子は、尾道沙耶子の秘密の会話を盗み聞きした上で、この秘密にまつわる警告を、匿名の電話で告げ知らせる。だけど、それで月見子が一方的に沙耶子より優位に立つことにはならなかった。自分の聞いた電話の声が月見子のそれであることに、沙耶子が気づいてしまうからだ。しかしそれと同時に、月見子は、盗み聞きの事件以後、沙耶子に対する反感が薄れていく自分を感じている。沙耶子にも自分と同じように悩みや弱さがあることを理解しはじめたからだ。
あるいは星見子の場合、彼女は望遠鏡を通して、俳優志望である伸也が同性愛者のプロデューサーに襲われかけている場面を覗き見る。この場面を見る前までの星見子は、伸也の行動について不干渉の姿勢を貫いていた。他人の判断は、あくまでもその人自身が決定すべきであって、たとえ彼氏であろうと、伸也が芸能界の仕事を獲得するためにホモのプロデューサーとつき合う気なら、そのことに口出しする権利は自分にない。けして彼氏のことが気にならないわけではないものの、星見子は、理屈でそう考えていた。しかし、実際の現場を目撃したときには、理屈屋の彼女をして、理性で割り切れない感情が抑えられなくなるという経験が出来する。それが『見る』という出来事に秘められた力だ。ひとたび『見る』ことが実現してしまったなら、憎い相手だろうが、好きな相手だろうが、もはや「他人」ではなくなってしまうのだ。自己と他者と、遠くのものと近くのものと、夢と現実と、理性と感情と、想像力のはたらきは――『見る』というはたらきは――ありとあらゆる対立物のあいだに横たわる距離を飛び越えて、相互に交流を生み出す。そうして、自分と見知らぬ誰かを、あちらの場所とこちらの場所を、夢と現実を、魔法のごとく取り替えてしまう。だったら、今ぼくたちが問わなければならない問いはひとつしかない。すなわち、対立物を結び合わせるこの不思議な交感の絆それ自体は、そもそもいったいどこから、どうやって湧いて出て来たのだろうか、と。
ぼくたちは、モノにまなざしを向けることなくしては、モノを見ることが出来ない。ということは、ぼくたちは、モノをはっきりと見る前からすでに、これを的確にまなざしで射抜いているということになる。しかし、そんなことがどうしてありうるのだろう。それは、目の見えない人が、モノのかたちを直観したり、耳の聞こえない人が、詩の韻律を聴き取ったりするのにもひとしい不自然な所業だというのに。言い換えると、ぼくたちは、自分の力でモノにまなざしを向けているのではない。ぼくたちは、何かを『見る』能力を、自分自身の権利で所有しているのではない。ぼくたちが、何かを見るとき、眼前に開けている光景は、いつでも「与えられた」ものであって、その起源は不可知なのだ。それはちょうど、千野姉妹の超能力が、天から恵まれたものであるかのように、或る日突如として発揮されはじめたのと同じだ。こういう意味で、この『私はウサギ』という物語は、ファンタジーというジャンルに所属する作品ではあるものの、それはけして夢物語だとか絵空事だとかいったことを意味しない。仮にそんな具合にこの小説を読んでしまう人がいたら、その人は本当に大切なものを見過ごしてしまうことになる。なぜなら、もし小説の中で千野姉妹の身に起きる出来事が、荒唐無稽で根拠が無いというのなら、ぼくたちの所有する「想像力」もまた、少なくとも同じくらいには荒唐無稽で無根拠な能力であることに違いないのだから。だから、はじめの疑問に戻って、「どうしてぼくたちは何かを見ることが出来るのか」と問うならば、それに対する答えとしては、「運命」だから、「摂理」だからと説明するより他に仕方ない。
だが、千野姉妹の運命とは何だろう。それは、母親が去ってしまったという事実、父親がいないという現実に他ならない。ひるがえって、彼女たちが、現実を超えた出来事を体験するとき、そこには必ず失踪した母の面影が、思い出の中に残存する父の痕跡がかすかな光を投げかけている。姉妹たちは、それぞれが遭遇した個人的な事件の最中にも、本当はこの残光をこそ追い求めていた。だから、千野姉妹の体験の本質は、“ここにはいない人”への憧憬にある。そして、このことは、想像力の本質についてもひとしくあてはまる。小説家は、世界に足りないもの、世界に欠落しているものをつかまえて、それを作品に結実させる。だから、小説家が物語に描こうとするその何かとは、つねに「どこにも存在しないもの」だと言わねばならない。想像力と呼ばれる自然を超えた摂理だけが、このように「どこにも存在しないもの」を捉えることを可能にする。現実とまったく無関係な空想が、ファンタジーと呼ばれるに値しない理由もまた、この点に存する。ファンタジーは、世界の窮乏を埋め合わせて、世界を完成へと導くのでなければ、そもそも「ファンタジー」という言葉の原義にそぐわないのだから。
千野三姉妹は、母親が残した品の中に、奇妙な鉱物見本のような石があるのを発見する。透明で、水晶のように七色に輝く小さな石だ。ひょっとすると、母が残したこの石には何か秘密があるのではないだろうか。そう思った姉妹たちは、ためしに石の上に互いの手を重ね、自分たちの能力を合わせて使ってみることにする。三人の耳に、いろいろな音が飛び込んで来る。視界がぐるぐると回る。そうして浮遊感とともにからだが引き込まれる感覚があって――ふたたび開けた視界の中に、母はいた。『あら……あなたたち、来たの?』なんて、のんきな声をかけながら。ここはどこだろう。少なくとも東京ではない。どうやら開墾地のようだ。母は、粗末な服を来て、でも楽しそうに畑で農作業をしている。『お父さん、月見子たちが会いに来たわ』。すると視界が移動して、近くの池をのぞき込む。その水面に映るのは、今では写真でしか知ることの出来ない父の顔だった。
こうして、自分たちに欠けているものを追い求めて心の旅路をたどってきた千野姉妹は、最後に、まさしく父のいる場所において、父のまなざしを通して、父自身の顔を見ることで、その旅を終える。三姉妹がめぐり合わせたいろいろな不思議な出来事は、この光景を見るための先触れだった。今まで姉妹が見てきたさまざまな光景の奥底には、きっとどこかで、「父の見ているものを見ている」という部分があったのだ。「摂理providentia」という言葉は、語に忠実に解釈するなら、「あらかじめpro見る者videns」という意味になる。それは、ぼくたちがモノを『見る』ことを可能にしてくれるまなざしのことを指す。摂理が、自分の見ているものを分け与えてくれるおかげで、ぼくたちは、自分自身の場所から、自分が見なくてはならないものを見て、ひるがえって自分自身として存在することが出来る。父は、まさしく摂理として、家族を家族たらしめる絆として、いつでも千野姉妹とともにいた。だから、千野姉妹にとって、両親の不在は、もう欠落でも窮乏でもない。ふたりは、ここではないどこかにいるけれども、それは同時に、距離の如何に関わらず自分たちのすぐかたわらにいることを意味すると、確かに信じることが出来るからだ。本当のファンタジーは、こうやってぼくたちのまなざしを、現実へと送り返して、その見え方をほんの少しだけ新しくしてくれる。ありふれた日常こそが、本当の奇蹟なのだと教えてくれる。
自分たちのマンションへと戻ってきた三姉妹は、小石が空に向けて光を伸ばしているのを発見する。光の筋をたどって、小さな公園に行き着いた彼女たちが目撃したのは、上空にUFOが浮かんでいる光景だった。UFOは、しばらく千野姉妹の目の前をふわふわと漂った後、消えてしまう。あれは何なのだろう。父は宇宙人だったのだろうか。答えはわからない。だけど、ひとつだけわかることがある。真の不思議は、ぼくたちのすぐそばに、ほんの隣に隠れている。実証科学の証明の対象にはならなくても、固有の論理と法則をその内部に秘めながら。この意味で、ファンタジーとは、摂理の解明を自己の使命とする最高の学としてのテオロギアの正当な後継者に他ならない。そして、同じ意味で、ファンタジーとサイエンス・フィクションはけして矛盾も対立もしない。本当に大切なことはただひとつ、この世界の欠乏を驚きと喜びに変えるまなざしが人間に与えられているという、このかけがえのない恩寵の存在に尽きるのだから。
(横道仁志)
(1995 中央公論社)
千野月見子、二十五歳。入社五年目のベテランOL。千野家の長女。
千野星見子、もうすぐ二十二歳。薬科大学の学生。千野家の次女。
千野陽見子、十七歳。高校三年の受験生。千野家の末娘。
彼女たちは、東京に暮らす、ごく普通の三姉妹。
……だったのだけれど、或る日突然、母親がマイホームを売り払い、書き置きの手紙を残して出奔してしまった。父はいない。彼女らが幼い頃に失踪した。だから三姉妹は、不安はあるものの、母親が用意してくれていた3LDKの賃貸マンションに引っ越して、自力で生活を営まないといけない。しかし時を同じくして、千野姉妹は、ふとしたきっかけから、自分たちに不思議な力が備わっていることに気づきはじめる。
たとえば長女の月見子の場合。
彼女は、ちょっぴり鬱屈した性格だ。職場だけでもたいへんなのに、母親がいなくなった今、千野家の家庭を切り盛りしていくのは彼女の役目なのだ。それで、嫌味な上司の小言に耐え、単調な仕事に疲れて、ようやく稼いだ給料は一家の生活費のため泡と消えていく。彼女にだって欲しいものはあるのに。こんなつまらない日常にあたら人生を食いつぶされているという不安が、彼女の心に影を落とす。
だけど、実を言えば、月見子の胸をいっそうかきむしる特大の棘がある。それは、彼女と同期に入社した女子社員、尾道沙耶子の存在だ。さえないデスク業務の月見子と違って、沙耶子はバリバリのキャリアウーマンを地で行く才女だ。しかも、美人で、交友関係も広く、芸能人との付き合いもあるという。あの嫌味な上司でも、沙耶子の前では蛇に睨まれた蛙も同然。あまつさえ、月見子がほのかに好意を抱いている男性がこの沙耶子に熱烈なアプローチを仕掛けていて、月見子の方には目もくれないという始末。そう、尾道沙耶子は、月見子に足りないもの、月見子が欲しいと願いながら手に入らないものをすべて持っている。だからこそ、沙耶子の姿は、月見子の心を揺さぶってやまない。
そんな折に、月見子は、わざわざ自分のことを避けて電話をかける沙耶子を見かけて、「聞いてやりたいもンだわね」と腹立ちまぎれにふと思う。すると、どうだろう。たちまちのうちに、秘密の会話が聞こえて来るではないか。まるで、月見子がウサギの長い耳を持っていて、それがアンテナとなって沙耶子の声を届けてくれるかのように。
この不思議な事件を体験した日の前夜、月見子は、ちょうどそんな夢を見ていた。夢の中で、月見子の身体はふわりと浮き上がり、天井を抜け、満月の空へと翔び上がる。彼女は、まるで風がよぎるような、あるいは木々のそよぐような音に取り巻かれている。この風は、東京に溢れる音という音の集合から織りなされている。だから、耳を傾ければ、風に織り込まれている人々の会話を、ひとつひとつすくい取ることだって出来る。でもどうしてこんなことが起きるのだろう? 月明かりに澄んだ夜空の下、月見子は、ぴょんと跳ねる自分の身体の動きで、アンテナのように動く長い耳のおかげで、自分がウサギになっていることを自覚する。そうか、ウサギだからこんなことが起きるのだ。でもなんで私がウサギなんだろう。
そのとき月見子は、雑木林に囲まれて月影に隈取られた公園の広場に、母の姿を見つける。まるで月見子のことに気づいているかのように月空を見上げる母親は、幸せそうに微笑んでいる。そして、そのまま空から降りてきた光の円盤に吸い込まれて消えてしまう。母は、昔失踪した父のあとを追っていったのだろうか? 月見子にはわからない。でも彼女は、夢の中でウサギになった自分を楽しんでいる。月見子は、夢の世界で自由だからだ。「お母さんは行かなければなりません」とだけ手紙に書き残して蒸発してしまった母親は、見ようによっては無責任と言えるかもしれない。けれども、自分の運命に素直であることを貫くその生き方は、或る意味では、月見子には出来ないからこそ憧れる、まさにそんな自由な生き方に他ならない。だからきっと、明るい満月の光の中で思うさまに跳ね回るウサギの姿は、月見子自身の願いを映し出している。夢だとばかり思っていた月見子の能力が、現実の世界で、尾道沙耶子の声を聴き取るために発揮されるのも、けして偶然ではないはずだ。
そして、次女の星見子も、姉と似たような体験をする。彼女の場合、趣味の天体観測で望遠鏡をのぞいているときに、それは起きた。レンズを通して見る星空がぐるぐると回転し始めて、星見子の視界は、星の渦の中に飲み込まれてしまう。そしてふたたび視界が開けたとき、彼女は、鳥のように大空から、ビルの立ち並ぶ東京の景色を見下ろしていた。やがて、彼女の視線は、自然とひとつのビルへクローズ・アップされていき、星見子は、ビルの事務室で残業している月見子と、彼女に話しかける沙耶子の姿を目撃する。月見子が、遠くの声を幻のウサギの耳で拾えるように、星見子は、天体望遠鏡で遠くの光景を見ることが出来るのだ。
もし、月見子が夢の中でウサギになった体験が、彼女の心のなにがしかを反映しているとすれば、星見子のまなざしが、鳥のようにあらゆるものを見通すのも、やはり星見子自身の内面に起因するのかもしれない。星見子が天体観測を愛する理由は、星の世界がさまざま知恵を教えてくれることにある。すなわち、地球は丸くて、この地面は動いている。すなわち、人間は、この大きな天体の上に生きているちっぽけな存在に過ぎない。すなわち、そんな地球でさえ、無限に広がる宇宙に比べれば、どこまでも小さな世界でしかない。だから、星の世界の尺度からすれば、人間の喜怒哀楽なんて大した問題ではない。
星見子は、ものごとを理屈で割り切って考えようとする。天体の光景は、彼女に安らぎを与えてくれる。人間の感情みたいに、理屈に合わない不純物の存在しない世界だからだ。そんな彼女の性格は、往々にして、他人にドライだという印象を与える。けれども、ドライだと言われて、星見子がどこか反発を覚えることもまた事実だ。母親がいなくなっても、父親がいなくても、「なんてことはないはずだ」と、彼女は理屈ではそう考える。千野姉妹は、自分の世話は自分で出来るように教育されている。当面の生活費に心配は無い。だから、問題は何ひとつない――はずだ。だけど、それでも、行方も教えてくれずに去ってしまった母親のことを、やっぱり心配せずにはいられない。
月見子が自分の能力に気づいたのは、尾道沙耶子の態度に反発を感じたときだった。それに対して、星見子が異常な視覚体験に直面したのは、失踪した母親から父親のことを連想して、父が「星見子」という名前の命名者だと思い出したときだった。星見子は、自分の名前を気に入っている。よくぞこんな名をつけてくれたと父に感謝する。そのことが、星見子が不思議な体験をするきっかけになったのだとすれば、彼女の見るものは、きっと、彼女自身がどうしても見て見ぬ振りの出来ない感情に、どこかで通じているのだ。
じっさい、星見子がふたたび望遠鏡を覗いたとき、彼女の見たものは、自分の姉の月見子と、尾道沙耶子、それに自分のボーイフレンドの八賀井伸也が、なぜか一緒にいる光景だった。彼は、優柔不断で要領の悪い性格をしていて、星見子とはまるで正反対のタイプの人間なのだけれど、それでも、高校時代、同じ天文部にいたときからのつき合いの、腐れ縁の彼氏だ。つまり、星見子の中にある“理屈に合わないもの”を、或る意味で体現しているのがこの伸也という人物だ。だから、星見子が自分自身の見るべきものを見つけようとして、レンズを覗いた先にこの彼がいたということが、ひるがえって、星見子の(あるいは月見子の)体験の本質を教えてくれている。すなわち、“自分自身の心の秘密”を解明するための旅路。そんな意味が、たぶん、千野姉妹の体験には秘められている。
そもそも「見る」とは、あるいは「聞く」とは、ぼくたちにとってどういう意味を持つ行為だと言えるだろうか。モノが存在するという客観的な事実を確認するだけの、ごく単純な作業? それとも、コギトと呼ばれる絶対者が目の前のモノの存在を無から創造するという、都合の良い奇蹟? いいや、そうじゃない。『見る』とは、自分が見ているモノに取り憑かれ、モノに染まる体験でもあるからだ。何かを『見る』人は、自分が見ているその何かと、共通の空間にいる自分自身を自覚する。それはつまり、自分の見ているその何かと、共通の素材から出来ている自分自身を自覚するということだ。物質を見る人の身体は、物質から組み立てられている。夢を見る人の身体は、夢から捏ね上げられている。だから、月を見る人は、月の世界に属する生き物となるし、星を見る人は、星の世界に属する生き物となる。
三女の陽見子が体験する出来事は、ちょうどそんな具合に、『見る』という行為が“自分が何者であるか”、“自分が今どこにいるのか”という問いに密接に関わるのだということを、申し分なく教えてくれている。というのも、けやきの木陰に坐って、木漏れ日の中、大好きなひなたぼっこを楽しんでいた陽見子は、いつの間にか、まさにそのけやきの木そのものになってしまっている自分に気づくのだから。太陽の光をからだ一杯に浴びながら、風にしなる枝の弾力を感じながら、梢にさざめく葉の音を聞きながら、根に伝わる冷たい土の感触を楽しみながら、陽見子は、自分が木であるという事実を心ゆくまで満喫する。これはたぶん夢なんだろうけれど、気持ちいいから許してしまおう。でも、どうせ“木”になるのなら、町中に生えているやつじゃなくて、広い野原の真ん中にぽつんと一本きりで立っている大木になってみたい。そう、たとえば北海道の写真で見たような、地平線まで続くラベンダー畑の中の一本道を、丘の上から見下ろしている、悠然とした大木に――そんなことを思いながら、陽見子は、遠い記憶の中の父親に語りかける。「お父さん……あたし、そんなふうな“木”になりたいなぁ……」。そして気がつくと、陽見子は、自分が思い描いた通りの北海道の野原の真ん中で、大木の幹から押し出されるようにして立っている自分自身の姿を発見することになる。
陽見子は、陽の光でつくられた存在である“木”を出入り口にして、想像した場所へと自由自在に行き来する能力に目覚めた。それはつまり、陽見子は、想像力によって想像の“木”を『見る』ことで、まさにその想像の場所に帰属する自分を自覚する、ということだ。「想像力」――「ファンタジー」――とは、もともとはギリシャ語の「光(ポース)」という言葉に由来する。何かを想像するということは、想像の光に満たされた空間において、その光に照らされた存在をありありと『見る』ことに他ならない――そう、ちょうど、月見子が、月明かりに満たされた公園に、あかあかと照らされた母の姿を見たように。だからこそ、陽見子の、ひいては三姉妹の身に起きた出来事は、「想像力」という言葉に込められた始元の思考の、見事な表現たりえている。千野姉妹の物語とは、まさしく、単なる現実をも単なる幻想をも超えた想像力の秘密をめぐる省察なのだ。
『見る』という言葉は、想像力という概念と表裏一体の意味で用いられる限り、単に感覚によって見たり、聞いたり、感じたりすることのすべてを内包している。つまりこの場合、あらゆる感覚の根本に、『見る』というはたらき、もしくは「光」というはたらきが隠れていると想定されているわけだ。このことは、想像力という概念がラテン世界に引き継がれたさい、「イマジネーション」、すなわち「イマーゴ(像)」を造形する能力と解釈されたことからも明らかだ。だけど、他の語句でもよさそうなものなのに、どうして『見る』とか「光」とかいった言葉がとくに用いられるのだろう? それは、ぼくたちが、『見る』とか「光」とかいった言葉の裏側に、「視線」、「まなざし」、「光線」、「日射し」などいった言い方で、見る者と見られるものを刺しつらぬく特別の絆を思い描くからだ。当たり前のことだけれど、ぼくたちは、まなざしを向けた先にあるものしか、見ることが出来ない。では「まなざし」とはそもそも何だろう? それは、見る者と見られるものとが、同じ時間の中で「ともに動いている」こと以外の何ものでもありえない。ぼくたちの両の目が、一致団結して目の前の対象を追いかけるとき、そんな「共通のリズム」が、ぼくたちと対象のあいだを往復しているとき、はじめて、色彩と奥行きと質感の横溢するこの視覚世界が、ぼくたちに向かって開かれることになる。そして、このことは視覚だけでなく、あらゆる感覚について言える。
さらに、まなざしの正体がリズムなのであれば、それは、本質的に“見る者”の側だけの問題ではなくて、“見られるもの”の側からも起因する運動だと言わなければならない。“モノにまなざしを向ける”という行為は、同時に“モノにまなざしを向けられる”という体験でもある。同じ意味で、“モノを見る”ことは、そのまま“モノに見られる”ことだと言っても良い。月見子は、尾道沙耶子の秘密の会話を盗み聞きした上で、この秘密にまつわる警告を、匿名の電話で告げ知らせる。だけど、それで月見子が一方的に沙耶子より優位に立つことにはならなかった。自分の聞いた電話の声が月見子のそれであることに、沙耶子が気づいてしまうからだ。しかしそれと同時に、月見子は、盗み聞きの事件以後、沙耶子に対する反感が薄れていく自分を感じている。沙耶子にも自分と同じように悩みや弱さがあることを理解しはじめたからだ。
あるいは星見子の場合、彼女は望遠鏡を通して、俳優志望である伸也が同性愛者のプロデューサーに襲われかけている場面を覗き見る。この場面を見る前までの星見子は、伸也の行動について不干渉の姿勢を貫いていた。他人の判断は、あくまでもその人自身が決定すべきであって、たとえ彼氏であろうと、伸也が芸能界の仕事を獲得するためにホモのプロデューサーとつき合う気なら、そのことに口出しする権利は自分にない。けして彼氏のことが気にならないわけではないものの、星見子は、理屈でそう考えていた。しかし、実際の現場を目撃したときには、理屈屋の彼女をして、理性で割り切れない感情が抑えられなくなるという経験が出来する。それが『見る』という出来事に秘められた力だ。ひとたび『見る』ことが実現してしまったなら、憎い相手だろうが、好きな相手だろうが、もはや「他人」ではなくなってしまうのだ。自己と他者と、遠くのものと近くのものと、夢と現実と、理性と感情と、想像力のはたらきは――『見る』というはたらきは――ありとあらゆる対立物のあいだに横たわる距離を飛び越えて、相互に交流を生み出す。そうして、自分と見知らぬ誰かを、あちらの場所とこちらの場所を、夢と現実を、魔法のごとく取り替えてしまう。だったら、今ぼくたちが問わなければならない問いはひとつしかない。すなわち、対立物を結び合わせるこの不思議な交感の絆それ自体は、そもそもいったいどこから、どうやって湧いて出て来たのだろうか、と。
ぼくたちは、モノにまなざしを向けることなくしては、モノを見ることが出来ない。ということは、ぼくたちは、モノをはっきりと見る前からすでに、これを的確にまなざしで射抜いているということになる。しかし、そんなことがどうしてありうるのだろう。それは、目の見えない人が、モノのかたちを直観したり、耳の聞こえない人が、詩の韻律を聴き取ったりするのにもひとしい不自然な所業だというのに。言い換えると、ぼくたちは、自分の力でモノにまなざしを向けているのではない。ぼくたちは、何かを『見る』能力を、自分自身の権利で所有しているのではない。ぼくたちが、何かを見るとき、眼前に開けている光景は、いつでも「与えられた」ものであって、その起源は不可知なのだ。それはちょうど、千野姉妹の超能力が、天から恵まれたものであるかのように、或る日突如として発揮されはじめたのと同じだ。こういう意味で、この『私はウサギ』という物語は、ファンタジーというジャンルに所属する作品ではあるものの、それはけして夢物語だとか絵空事だとかいったことを意味しない。仮にそんな具合にこの小説を読んでしまう人がいたら、その人は本当に大切なものを見過ごしてしまうことになる。なぜなら、もし小説の中で千野姉妹の身に起きる出来事が、荒唐無稽で根拠が無いというのなら、ぼくたちの所有する「想像力」もまた、少なくとも同じくらいには荒唐無稽で無根拠な能力であることに違いないのだから。だから、はじめの疑問に戻って、「どうしてぼくたちは何かを見ることが出来るのか」と問うならば、それに対する答えとしては、「運命」だから、「摂理」だからと説明するより他に仕方ない。
だが、千野姉妹の運命とは何だろう。それは、母親が去ってしまったという事実、父親がいないという現実に他ならない。ひるがえって、彼女たちが、現実を超えた出来事を体験するとき、そこには必ず失踪した母の面影が、思い出の中に残存する父の痕跡がかすかな光を投げかけている。姉妹たちは、それぞれが遭遇した個人的な事件の最中にも、本当はこの残光をこそ追い求めていた。だから、千野姉妹の体験の本質は、“ここにはいない人”への憧憬にある。そして、このことは、想像力の本質についてもひとしくあてはまる。小説家は、世界に足りないもの、世界に欠落しているものをつかまえて、それを作品に結実させる。だから、小説家が物語に描こうとするその何かとは、つねに「どこにも存在しないもの」だと言わねばならない。想像力と呼ばれる自然を超えた摂理だけが、このように「どこにも存在しないもの」を捉えることを可能にする。現実とまったく無関係な空想が、ファンタジーと呼ばれるに値しない理由もまた、この点に存する。ファンタジーは、世界の窮乏を埋め合わせて、世界を完成へと導くのでなければ、そもそも「ファンタジー」という言葉の原義にそぐわないのだから。
千野三姉妹は、母親が残した品の中に、奇妙な鉱物見本のような石があるのを発見する。透明で、水晶のように七色に輝く小さな石だ。ひょっとすると、母が残したこの石には何か秘密があるのではないだろうか。そう思った姉妹たちは、ためしに石の上に互いの手を重ね、自分たちの能力を合わせて使ってみることにする。三人の耳に、いろいろな音が飛び込んで来る。視界がぐるぐると回る。そうして浮遊感とともにからだが引き込まれる感覚があって――ふたたび開けた視界の中に、母はいた。『あら……あなたたち、来たの?』なんて、のんきな声をかけながら。ここはどこだろう。少なくとも東京ではない。どうやら開墾地のようだ。母は、粗末な服を来て、でも楽しそうに畑で農作業をしている。『お父さん、月見子たちが会いに来たわ』。すると視界が移動して、近くの池をのぞき込む。その水面に映るのは、今では写真でしか知ることの出来ない父の顔だった。
こうして、自分たちに欠けているものを追い求めて心の旅路をたどってきた千野姉妹は、最後に、まさしく父のいる場所において、父のまなざしを通して、父自身の顔を見ることで、その旅を終える。三姉妹がめぐり合わせたいろいろな不思議な出来事は、この光景を見るための先触れだった。今まで姉妹が見てきたさまざまな光景の奥底には、きっとどこかで、「父の見ているものを見ている」という部分があったのだ。「摂理providentia」という言葉は、語に忠実に解釈するなら、「あらかじめpro見る者videns」という意味になる。それは、ぼくたちがモノを『見る』ことを可能にしてくれるまなざしのことを指す。摂理が、自分の見ているものを分け与えてくれるおかげで、ぼくたちは、自分自身の場所から、自分が見なくてはならないものを見て、ひるがえって自分自身として存在することが出来る。父は、まさしく摂理として、家族を家族たらしめる絆として、いつでも千野姉妹とともにいた。だから、千野姉妹にとって、両親の不在は、もう欠落でも窮乏でもない。ふたりは、ここではないどこかにいるけれども、それは同時に、距離の如何に関わらず自分たちのすぐかたわらにいることを意味すると、確かに信じることが出来るからだ。本当のファンタジーは、こうやってぼくたちのまなざしを、現実へと送り返して、その見え方をほんの少しだけ新しくしてくれる。ありふれた日常こそが、本当の奇蹟なのだと教えてくれる。
自分たちのマンションへと戻ってきた三姉妹は、小石が空に向けて光を伸ばしているのを発見する。光の筋をたどって、小さな公園に行き着いた彼女たちが目撃したのは、上空にUFOが浮かんでいる光景だった。UFOは、しばらく千野姉妹の目の前をふわふわと漂った後、消えてしまう。あれは何なのだろう。父は宇宙人だったのだろうか。答えはわからない。だけど、ひとつだけわかることがある。真の不思議は、ぼくたちのすぐそばに、ほんの隣に隠れている。実証科学の証明の対象にはならなくても、固有の論理と法則をその内部に秘めながら。この意味で、ファンタジーとは、摂理の解明を自己の使命とする最高の学としてのテオロギアの正当な後継者に他ならない。そして、同じ意味で、ファンタジーとサイエンス・フィクションはけして矛盾も対立もしない。本当に大切なことはただひとつ、この世界の欠乏を驚きと喜びに変えるまなざしが人間に与えられているという、このかけがえのない恩寵の存在に尽きるのだから。
(横道仁志)