TOKON10実行委員会公式ブログ
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第49回SF大会TOKON10実行委員会の公式ブログです。<br />
開催日程:2010年8月7日(土)〜8日(日)
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東京SFビブリオ 追補篇
皆さまこんにちは、第5回日本SF評論賞優秀賞をいただきました、岡和田晃でございます。
第49回日本SF大会TOKON10が終了してから、はや2箇月あまり。皆さまはいかがお過ごしでしょうか。
いまだTOKON10の熱気が冷めやらない方も多いのではないかと拝察いたします。...
第49回日本SF大会TOKON10が終了してから、はや2箇月あまり。皆さまはいかがお過ごしでしょうか。
いまだTOKON10の熱気が冷めやらない方も多いのではないかと拝察いたします。
TOKON10に向けて私たち日本SF評論賞チームは、この「TOKON10公式ブログ」、〈SFマガジン〉2010年9月号所収の「東京SF大全」、そしてTOKON10スーヴェニアブックに収録された「東京SF大全」と「東京SFビブリオ100」を通じて、多数の東京SFをご紹介して参りました。
しかしながら、紙幅の都合などで紹介しきれなかった東京SFもまた数多く存在しております。TOKON10のアフターサポートの意味もこめ、ここで「東京SFビブリオ 追補篇」をご提供いたします。
この「東京SFビブリオ 追補篇」は、日本SF評論賞受賞者たちが作成いたしました。もともとは「東京SFビブリオ100」の選定にあたって作成された予備リストであり、2010年7月以降に発表された作品群までは、(一部を除き)フォローしきれておりません。
「東京が登場する必然性の高いSF」ということで選びましたが、ここでの「東京SF」の解釈は、あえて幅を広くとっております。
そしてご注意いただきたいのですが、あくまでもこのリストは一つの相(かたち)に過ぎません。「東京SF大全」(TOKON10公式ブログ版、SFマガジン版、スーヴェニアブック版)と「東京SFビブリオ100」に収録された作品と重複するものは外してありますので、独立したリストではなく、すでに発表された「東京SF大全」や「東京SFビブリオ」を補完するものとしてご活用いただけましたら幸いに存じます。いささかばらつきがあるように思われるかもしれませんが、「東京SFビブリオ100」を作成する際の熱気を感じ取っていただければとの思いから、バランスを取ることよりもブレーンストーミング的な情報収集を心がけました。
なお言い訳めいて恐縮ですが、調査・執筆にかけられた期間が限られていたため、見落としている作品が多々存在すると思います。むろん偏りも多いことでしょう。小説を中心に選定したため、小説以外のジャンルについては氷山の一角たりえることさえもできていないものと自覚しております。それゆえこのリストを決定版と主張するつもりはまったくありません。あくまでも一例にすぎず、今後さらに新しいリストが生まれるための叩き台としてご活用いただければ幸いです。
ウェブで閲覧する際のレイアウト的な便宜を考え、この「東京SFビブリオ追補篇」においては「ジャンルごと、作者名の50音順」に分けています。テーマ分けなど色々考えましたが、ばらつきがでるので、結果としては最もシンプルな作者名と作品名の表記に、あえて留めました。入手難易度は記しておりませんが、絶版が続く作品でもオンライン古書店などを当たれば比較的安価に手に入るものも多く存在いたしますので、ご興味のある方はぜひ、探究の旅に出られてみてはいかがでしょうか。きっと得られるものがあることと思います。
最後になりましたが、本サポート記事を含めた東京SFビブリオの選定にあたっては、編集に携わった方々をはじめ、荒巻義雄氏、井上雅彦氏、大野典宏氏、笠井潔氏、タタツシンイチ氏、宮風耕治氏、森下一仁氏、八杉将司氏、山岸真氏(五十音順)らに情報提供のご協力をいただきました。ありがとうございます。
また、TOKON10におけるSF評論賞チームの活動にご協力をご支援いただいた皆さま、そして私たちの書いたものをお読みいただいた皆さまに、この場を借りて、重ねてお礼を申し上げます。
評論賞チームとしましては、ブログ「21世紀、SF評論」(http://sfhyoron.seesaa.net/?1286650176)、第50回日本SF大会ドンブラコンL(http://www.sf50.jp/index.php?id=1)における「静岡SF大全」企画など、今後も活動を継続していく所存です。暖かく見守っていただけましたら幸いです。
TOKON10が閉会しても、東京SFは終わりません。東京SF、ひいてはSFシーン全体の発展を祈念しつつ、ご挨拶を終えさせていただきます。
(TOKON10スーヴェニアブック編集協力 岡和田晃)
【東京SFビブリオ 追補篇】
●小説
青木淳悟『四十日と四十夜のメルヘン』
浅暮三文『カニスの血を嗣ぐ』
浅暮三文『針』
朝松健『黒衣伝説』
阿刀田高『赤い人形』
阿部和重『アメリカの夜』
阿部和重『インディヴィジュアル・プロジェクション』
新井素子『いつか猫になる日まで』
新井素子『…絶句』
荒巻義雄『黄金の不死鳥』
有川浩『海の底』
有川浩『塩の街』
飯野文彦『アナル・トーク』
飯野文彦『愛児のために』
石川英輔『大江戸シリーズ』
石原藤夫『ハイウェイ惑星』
石原藤夫『ブーメランの円筒宇宙』
井沢元彦『小説「日本」人民共和国』
井上雅彦『カフェ・ド・メトロ』
井上雅彦『四角い魔術師』
岩本隆雄『ミドリノツキ』
薄井ゆうじ『星の感触』
冲方丁『天地明察』
大江健三郎『さようなら、わたしの本よ!』
大江健三郎『臈たしアナベル・リイ、総毛立ちつ身まかりつ』
大塚英志ほか『摩陀羅 天使篇』
大原まり子『処女少女マンガ家の念力』
大原まり子『薄幸の町で』
大原まり子『有楽町のカフェーで』
小川一水『天冥の標2 救世群』
岡田利規『わたしたちに許された特別な時間の終わり』
奥泉光『グランド・ミステリー』
小野不由美『東京異聞』
恩田陸『ねじの回転』
川端裕人『算数宇宙の冒険』
川原礫『アクセル・ワールド』
川又千秋『幻詩狩り』
かんべむさし『夢の銀座』
菊池秀行『妖神グルメ』
貴志祐介『新世界より』
北國浩二『リバース』
倉田英之『R.O.D』
恋川春町『金々先生栄華夢』
小酒井不木『少年科学探偵』
小中千昭『ザ・ディフェンダー』
小林泰三『玩具修理者』
小松左京『時の顔』
小森健太朗『大相撲殺人事件』
Salmonson、Jessica Amanda 『Tomoe Gozen Saga』
西條奈加『金春屋ゴメス』
斎藤慶(t.o.L)『バギー・イン・ザ・ドールハウス』
桜坂洋『スラムオンライン』
桜庭一樹『推定少女』
笹本祐一『ARIEL』
笹本祐一『妖精作戦』
佐藤正午『Y』
佐藤正午『5』
佐藤哲也『妻の帝国』
篠田節子『ゴサインタン』
篠田節子『斎藤家の核弾頭』
篠田節子『夏の災厄』
篠田節子『仮想儀礼』
式貴士『東城線見聞録』
清水博子『街の座標』
笙野頼子『下落合の向こう』
新城カズマ『さよなら、ジンジャー・エンジェル』
スウィフト、ジョナサン『ガリバー旅行記』
鈴木いづみ『東京巡礼歌』
高橋源一郎『ジョン・レノン対火星人』
タタツシンイチ『大魔神カノン サワモリの試練』
田中光二『警視庁国際特捜隊 ザ・ダークシティ新宿』
田中文雄『浅草霊歌』
田中文雄『時の落ち葉』
田中啓文『蝿の王』
チャペック、カレル『山椒魚戦争』
月村了衛『機龍警察』
筒井康隆『腹立半分日記』
都築響一『夜露死苦現代詩』
とみなが貴和『EDGE』
とみなが貴和『夏休みは命がけ!』
中井紀夫『漂着神都市』
中村文則『銃』
夏目漱石『夢十夜』
夏目漱石『吾輩は猫である』
難波弘之『郷愁(ノスタルジア)』
仁木稔『スピードグラファー』
西谷史『東京SHADOW』
野阿梓『伯林星列』
萩原朔太郎『猫町』
畠中恵『しゃばけ』
早見裕司『昔恋しい』
半村良『石の血脈』
半村良『産霊山秘録』
火浦功『ハードボイルドで行こう』
火浦功『ファイナル・セーラー・クエスト』
平井和正『超革命的中学生集団』
弘也英明『厭犬伝』
広瀬正『異聞風来山人』
広瀬正『エロス』
広瀬正『鏡の国のアリス』
広瀬正『ツィス』
広瀬正『立体交差』
広瀬正『遊覧バスは何を見た』
広津柳浪『女子参政蜃中楼』
藤本泉『東京ゲリラ戦線』
古井由吉『野川』
古川日出男『サウンドトラック』
ポーロ、マルコ『東方見聞録』
星新一『気まぐれ指数』
星野智幸『ロンリー・ハーツ・キラー』
柾悟郎『ヴィーナス・シティ』
松浦寿輝『花腐し』
松浦寿輝『半島』
松尾由美『九月の恋と出会うまで』
眉村卓『名残の雪』
三島由紀夫『仮面の告白』
光瀬龍『あいつらの悲歌』
光瀬龍『暁はただ銀色』
光瀬龍『寛永無明剣』
光瀬龍『多聞寺討伐』
光瀬龍「帝都上空に敵一機」
光瀬龍『復讐の道標』
宮部みゆき『クロスファイア』
村上春樹『1Q84』
村上春樹『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』
村上龍『超電導ナイトクラブ』
森真沙子『東京怪奇地図』
森真沙子『猫ヲ探ス』
矢作俊彦『ららら科學の子』
山田太一『異人たちとの夏』
山田正紀『女囮捜査官』
山田正紀『神獣聖戦』
山田正紀『スーパーカンサー』
山田正紀『ふしぎの国の犯罪者たち』
山田正紀『魔空の迷宮』
山田正紀『未来獣ヴァイブ』
山田正紀『弥勒戦争』
山中峰太郎『亜細亜の曙』
山野浩一『虹の彼女』
山本弘『MM9』
山本弘『シュレーディンガーのチョコパフェ』
ヨーヴィル、ジャック『シルバーネイル』
横田順彌『押川春浪回想譚』
横田順彌『秘話 ある愛の詩 ふぁん太爺さんほら吹き夜話より』
横田順彌『星影の伝説』
横田創『裸のカフェ』
吉増剛増『黄金詩篇』
龍胆寺雄『放浪時代・アパアトの女たちと僕と』
●アニメーション
庵野秀明ほか『新世紀エヴァンゲリオン』
出渕裕ほか『ラーゼフォン』
逢瀬祭ほか『フタコイ オルタナティブ』
押井守ほか『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』
押井守ほか『ケルベロス・サーガ』
CLAMPほか『カードキャプターさくら』
GONZOほか『月面兎兵器ミーナ』
長井龍雪ほか『アイドルマスター XENOGLOSSIA』
中島かずきほか『大江戸ロケット』
ターナー、マイケルほか『ウィッチブレイド』
富野由悠季ほか『聖戦士ダンバイン』
広尾明ほか『七つの海のティコ』
細田守ほか『時をかける少女』
宮崎駿ほか『耳をすませば』
湯山邦彦ほか『幻夢戦記レダ』
●ゲーム
麻野一哉ほか『アナタヲユルサナイ』
門倉直人ほか『黄昏の天使』
ガイギャックス、ゲイリーほか『アドバンスト・ダンジョンズ&ドラゴンズ』
小林正親ほか『大江戸RPG アヤカシ』
スタフォード、グレッグほか『ルーンクエスト』
鈴木一也ほか『偽典 女神転生』
鈴木一也ほか『女神転生2』
健部伸明ほか『トーキョーN◎VA』
名越稔洋ほか『龍が如く』
プラマス、クリスほか『ウォーハンマーRPG』
ポンスミス、マイクルほか『サイバーパンク2.0.2.0』
●コミック
秋本治『こちら葛飾区亀有公園前派出所』
江川達也『東京大学物語』
大島弓子『バナナブレッドのプディング』
大島弓子『綿の国星』
小野敏洋『バーコードファイター』
小畑健ほか『デスノート』
くぼたまこと『天体戦士サンレッド』
COCO『今日の早川さん』
Sakai、Stan『USAGI YOJINBO』
三五千波『ソウルレスポップ』
清水玲子『秘密』
空知英秋『銀魂』
手塚治虫ほか『トキワ荘物語』
永井豪『デビルマン』
なかのともひこ『少年ビックリマンクラブ』
中村光『荒川アンダー・ザ・ブリッジ』
中村光『聖☆おにいさん』
広江礼威『BLACK LAGOON』
仲村佳樹『東京クレイジーパラダイス』
藤子・A・不二雄『怪物くん』
藤子・F・不二雄『ひとりぼっちの宇宙戦争』
望月三起也『ジャパッシュ』
柳沼行『ふたつのスピカ』
山下たつひこ『がきデカ』
横山光輝ほか『鉄人28号』
吉崎観音『ケロロ軍曹』
リー、スタンほか『X-MEN』
リー、スタンほか『ファンタスティック・フォー』
ルルー、ロジェ『ヨーコ・ツノ』
和田慎二『超少女明日香』
●実写映画
アンダーソン、ポール・W・Sほか『バイオハザード4』
ヴェンダース、ヴィムほか『東京画』
ヴェンダース、ヴィムほか『夢の果てまでも』
長谷川和彦ほか『太陽を盗んだ男』
山崎貴ほか『ALWAYS 続・三丁目の夕日』
佐藤肇ほか『悪魔くん』(実写版)
●ノンフィクション・写真集・評論・戯曲など
赤瀬川源平『東京ミキサー計画』
磯田光一『思想としての東京』
内山英明『東京エデン』
内山英明『東京デーモン』
大森望『狂乱西葛西日記』
鏡明『二十世紀から出てきたところだけれども、なんだか似たような気分』
ストロス、チャールズ『日出る国にて——日本見聞録』
巽孝之『日本変流文学』
チハルチシヴィリ、グリゴーリィ『自殺の文学史』
東京大学スラブ文学研究室『チハルチシヴィリ読本』
バルト、ロラン『神話作用』
星新一『祖父・小金井良精の記』
前田愛『都市空間の中の文学』
光瀬龍『ロン先生の虫眼鏡』
平田オリザ『東京ノート』
夢野久作『街頭から見た新東京の裏面』
夢野久作『東京人の堕落時代』
米原康正『Tokyo Girls』
ラッカー、ルーディ『一九九〇年日本の旅』
◆特薦作品(映像を中心に)
情報提供でご協力いただいた方々のうち数名の方から、「東京SF」にふさわしいアニメーションや実写映画(特撮映画)についての熱のこもったご推薦をいただきました。ありがとうございます。この場をお借りして、それらをご紹介させていただきます(発表年順、タイトル/制作/監督・特撮監督)。
《ウルトラマンシリーズ》
『ウルトラマン』 TBS・円谷プロ 円谷一ら・高野宏一ら
『帰ってきたウルトラマン』 TBS・円谷プロ 本多猪四郎ら・高野宏一ら
『ウルトラマンエース』 TBS・円谷プロ 筧正典ら・高野宏一ら
『ウルトラマンタロウ』 TBS・円谷プロ 山際永三ら・高野宏一ら
『ウルトラマンレオ』 TBS・円谷プロ 真船禎ら・矢島信男ら
『ウルトラマン80』 TBS・円谷プロ 湯浅憲明ら・川北紘一ら
『ウルトラマンガイア』 円谷プロ・毎日放送 村石宏實ら・佐川和夫ら
『ウルトラマンマックス』 円谷プロ・CBC・電通 金子修介ら・鈴木健二ら
《怪獣特撮映画》
『透明人間(1954年東宝映画)』 東宝 小田基義
『宇宙人東京に現わる』 大映 島耕二
『大怪獣バラン』 東宝 本多猪四郎
『ガス人間第一号』 東宝 本多猪四郎
『世界大戦争(1961年)』 東宝 松林宗恵
『キングコング対ゴジラ』 東宝 本多猪四郎
『大怪獣ガメラ』 大映 湯浅憲明
『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』 東宝 本多猪四郎・円谷英二
『キングコングの逆襲』 東宝 本多猪四郎・円谷英二
『大巨獣ガッパ』 日活 野口晴康
『怪獣総進撃』 東宝 本多猪四郎・有川貞昌
『ガメラ対宇宙怪獣バイラス』 大映 湯浅憲明
『地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン』 東宝 福田純
『宇宙怪獣ガメラ』 大映 湯浅憲明
『ゴジラ(84年版)』 東宝 橋本幸治・中野昭慶
『ゴジラvsビオランテ』 東宝 大森一樹・川北紘一
『ゴジラvsキングギドラ』 東宝 大森一樹・川北紘一
『ゴジラvsモスラ』 東宝 大河原孝夫・川北紘一
『ゴジラvsデストロイア』 東宝 大河原孝夫・川北紘一
『ガメラ2 レギオン襲来』 大映・日本テレビ・博報堂 金子修介
『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』 大映・徳間書店・日本テレビ・博報堂 金子修介
『ゴジラ2000 ミレニアム』 東宝 大河原孝夫
『ゴジラ×メガギラス G消滅作戦』 東宝 手塚昌明
『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃(小笠原)』 東宝 金子修介・神谷誠
『ゴジラ×メカゴジラ(2002年)』 東宝 手塚昌明
『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』 東宝 手塚昌明
『ゴジラ FINAL WARS』 東宝 北村龍平
《戦隊シリーズ・仮面ライダーなど》
『秘密戦隊ゴレンジャー』 NETテレビ(現:テレビ朝日)・東映 竹本弘一ら・矢島信男
『大戦隊ゴーグルファイブ』 テレビ朝日・東映 東条昭平ら・矢島信男
『仮面ライダーBlack』 毎日放送・東映 小西通雄ら・矢島信男
『未来戦隊タイムレンジャー』 テレビ朝日・東映 諸田敏ら・佛田洋
《デジモンシリーズ》
『デジモンアドベンチャー』 東映 代表監督:細田守
『デジモン』テレビ一作目 フジテレビ・読売広告社・ 東映 代表監督:角銅博之など
『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム』 東映 代表監督:細田守
『デジモンアドベンチャー02 ディアボロモンの逆襲』 東映 代表監督:今村隆寛
『デジモンテイマーズ』 フジテレビ・読売広告社・東映 代表監督:貝澤幸男など
『デジモンテイマーズ 暴走デジモン特急』 東映 代表監督:中村哲治
]]>
東京SFビブリオ 追補篇
2010-10-15T22:27:28+09:00
tokon10
JUGEM
tokon10
-
http://blog.tokon10.net/?eid=1070146
星雲賞決定!
今年の星雲賞が決定しました。
受賞様の皆様、おめでとうございます!
日本長編部門
〈グイン・サーガ〉 シリーズ 栗本薫
日本短編部門
「自生の夢」 飛浩隆
海外長編部門
『最後の星戦』 ジョン・スコルジー 内田昌之訳
海外短編部門
「暗黒整数...
受賞様の皆様、おめでとうございます!
日本長編部門
〈グイン・サーガ〉 シリーズ 栗本薫
日本短編部門
「自生の夢」 飛浩隆
海外長編部門
『最後の星戦』 ジョン・スコルジー 内田昌之訳
海外短編部門
「暗黒整数」 グレッグ・イーガン 山岸真訳
メディア部門
『サマーウォーズ』 細田守(監督)
コミック部門
『PLUTO』浦沢直樹×手塚治虫 長崎尚志プロデュース
監修/手塚眞 協力/手塚プロダクション
アート部門
加藤直之
ノンフィクション部門
『日本SF精神史』 長山靖生
自由部門
実物大ガンダム
]]>
連絡事項
2010-08-08T13:15:55+09:00
tokon10
JUGEM
tokon10
-
http://blog.tokon10.net/?eid=1069682
東京SF大全44『私はウサギ 千野姉妹のルナティックな毎日』
ひかわ玲子『私はウサギ 千野姉妹のルナティックな毎日』
(1995 中央公論社)
千野月見子、二十五歳。入社五年目のベテランOL。千野家の長女。
千野星見子、もうすぐ二十二歳。薬科大学の学生。千野家の次女。
千野陽見子、十七歳。高校三年の受験生。千...
(1995 中央公論社)
千野月見子、二十五歳。入社五年目のベテランOL。千野家の長女。
千野星見子、もうすぐ二十二歳。薬科大学の学生。千野家の次女。
千野陽見子、十七歳。高校三年の受験生。千野家の末娘。
彼女たちは、東京に暮らす、ごく普通の三姉妹。
……だったのだけれど、或る日突然、母親がマイホームを売り払い、書き置きの手紙を残して出奔してしまった。父はいない。彼女らが幼い頃に失踪した。だから三姉妹は、不安はあるものの、母親が用意してくれていた3LDKの賃貸マンションに引っ越して、自力で生活を営まないといけない。しかし時を同じくして、千野姉妹は、ふとしたきっかけから、自分たちに不思議な力が備わっていることに気づきはじめる。
たとえば長女の月見子の場合。
彼女は、ちょっぴり鬱屈した性格だ。職場だけでもたいへんなのに、母親がいなくなった今、千野家の家庭を切り盛りしていくのは彼女の役目なのだ。それで、嫌味な上司の小言に耐え、単調な仕事に疲れて、ようやく稼いだ給料は一家の生活費のため泡と消えていく。彼女にだって欲しいものはあるのに。こんなつまらない日常にあたら人生を食いつぶされているという不安が、彼女の心に影を落とす。
だけど、実を言えば、月見子の胸をいっそうかきむしる特大の棘がある。それは、彼女と同期に入社した女子社員、尾道沙耶子の存在だ。さえないデスク業務の月見子と違って、沙耶子はバリバリのキャリアウーマンを地で行く才女だ。しかも、美人で、交友関係も広く、芸能人との付き合いもあるという。あの嫌味な上司でも、沙耶子の前では蛇に睨まれた蛙も同然。あまつさえ、月見子がほのかに好意を抱いている男性がこの沙耶子に熱烈なアプローチを仕掛けていて、月見子の方には目もくれないという始末。そう、尾道沙耶子は、月見子に足りないもの、月見子が欲しいと願いながら手に入らないものをすべて持っている。だからこそ、沙耶子の姿は、月見子の心を揺さぶってやまない。
そんな折に、月見子は、わざわざ自分のことを避けて電話をかける沙耶子を見かけて、「聞いてやりたいもンだわね」と腹立ちまぎれにふと思う。すると、どうだろう。たちまちのうちに、秘密の会話が聞こえて来るではないか。まるで、月見子がウサギの長い耳を持っていて、それがアンテナとなって沙耶子の声を届けてくれるかのように。
この不思議な事件を体験した日の前夜、月見子は、ちょうどそんな夢を見ていた。夢の中で、月見子の身体はふわりと浮き上がり、天井を抜け、満月の空へと翔び上がる。彼女は、まるで風がよぎるような、あるいは木々のそよぐような音に取り巻かれている。この風は、東京に溢れる音という音の集合から織りなされている。だから、耳を傾ければ、風に織り込まれている人々の会話を、ひとつひとつすくい取ることだって出来る。でもどうしてこんなことが起きるのだろう? 月明かりに澄んだ夜空の下、月見子は、ぴょんと跳ねる自分の身体の動きで、アンテナのように動く長い耳のおかげで、自分がウサギになっていることを自覚する。そうか、ウサギだからこんなことが起きるのだ。でもなんで私がウサギなんだろう。
そのとき月見子は、雑木林に囲まれて月影に隈取られた公園の広場に、母の姿を見つける。まるで月見子のことに気づいているかのように月空を見上げる母親は、幸せそうに微笑んでいる。そして、そのまま空から降りてきた光の円盤に吸い込まれて消えてしまう。母は、昔失踪した父のあとを追っていったのだろうか? 月見子にはわからない。でも彼女は、夢の中でウサギになった自分を楽しんでいる。月見子は、夢の世界で自由だからだ。「お母さんは行かなければなりません」とだけ手紙に書き残して蒸発してしまった母親は、見ようによっては無責任と言えるかもしれない。けれども、自分の運命に素直であることを貫くその生き方は、或る意味では、月見子には出来ないからこそ憧れる、まさにそんな自由な生き方に他ならない。だからきっと、明るい満月の光の中で思うさまに跳ね回るウサギの姿は、月見子自身の願いを映し出している。夢だとばかり思っていた月見子の能力が、現実の世界で、尾道沙耶子の声を聴き取るために発揮されるのも、けして偶然ではないはずだ。
そして、次女の星見子も、姉と似たような体験をする。彼女の場合、趣味の天体観測で望遠鏡をのぞいているときに、それは起きた。レンズを通して見る星空がぐるぐると回転し始めて、星見子の視界は、星の渦の中に飲み込まれてしまう。そしてふたたび視界が開けたとき、彼女は、鳥のように大空から、ビルの立ち並ぶ東京の景色を見下ろしていた。やがて、彼女の視線は、自然とひとつのビルへクローズ・アップされていき、星見子は、ビルの事務室で残業している月見子と、彼女に話しかける沙耶子の姿を目撃する。月見子が、遠くの声を幻のウサギの耳で拾えるように、星見子は、天体望遠鏡で遠くの光景を見ることが出来るのだ。
もし、月見子が夢の中でウサギになった体験が、彼女の心のなにがしかを反映しているとすれば、星見子のまなざしが、鳥のようにあらゆるものを見通すのも、やはり星見子自身の内面に起因するのかもしれない。星見子が天体観測を愛する理由は、星の世界がさまざま知恵を教えてくれることにある。すなわち、地球は丸くて、この地面は動いている。すなわち、人間は、この大きな天体の上に生きているちっぽけな存在に過ぎない。すなわち、そんな地球でさえ、無限に広がる宇宙に比べれば、どこまでも小さな世界でしかない。だから、星の世界の尺度からすれば、人間の喜怒哀楽なんて大した問題ではない。
星見子は、ものごとを理屈で割り切って考えようとする。天体の光景は、彼女に安らぎを与えてくれる。人間の感情みたいに、理屈に合わない不純物の存在しない世界だからだ。そんな彼女の性格は、往々にして、他人にドライだという印象を与える。けれども、ドライだと言われて、星見子がどこか反発を覚えることもまた事実だ。母親がいなくなっても、父親がいなくても、「なんてことはないはずだ」と、彼女は理屈ではそう考える。千野姉妹は、自分の世話は自分で出来るように教育されている。当面の生活費に心配は無い。だから、問題は何ひとつない――はずだ。だけど、それでも、行方も教えてくれずに去ってしまった母親のことを、やっぱり心配せずにはいられない。
月見子が自分の能力に気づいたのは、尾道沙耶子の態度に反発を感じたときだった。それに対して、星見子が異常な視覚体験に直面したのは、失踪した母親から父親のことを連想して、父が「星見子」という名前の命名者だと思い出したときだった。星見子は、自分の名前を気に入っている。よくぞこんな名をつけてくれたと父に感謝する。そのことが、星見子が不思議な体験をするきっかけになったのだとすれば、彼女の見るものは、きっと、彼女自身がどうしても見て見ぬ振りの出来ない感情に、どこかで通じているのだ。
じっさい、星見子がふたたび望遠鏡を覗いたとき、彼女の見たものは、自分の姉の月見子と、尾道沙耶子、それに自分のボーイフレンドの八賀井伸也が、なぜか一緒にいる光景だった。彼は、優柔不断で要領の悪い性格をしていて、星見子とはまるで正反対のタイプの人間なのだけれど、それでも、高校時代、同じ天文部にいたときからのつき合いの、腐れ縁の彼氏だ。つまり、星見子の中にある“理屈に合わないもの”を、或る意味で体現しているのがこの伸也という人物だ。だから、星見子が自分自身の見るべきものを見つけようとして、レンズを覗いた先にこの彼がいたということが、ひるがえって、星見子の(あるいは月見子の)体験の本質を教えてくれている。すなわち、“自分自身の心の秘密”を解明するための旅路。そんな意味が、たぶん、千野姉妹の体験には秘められている。
そもそも「見る」とは、あるいは「聞く」とは、ぼくたちにとってどういう意味を持つ行為だと言えるだろうか。モノが存在するという客観的な事実を確認するだけの、ごく単純な作業? それとも、コギトと呼ばれる絶対者が目の前のモノの存在を無から創造するという、都合の良い奇蹟? いいや、そうじゃない。『見る』とは、自分が見ているモノに取り憑かれ、モノに染まる体験でもあるからだ。何かを『見る』人は、自分が見ているその何かと、共通の空間にいる自分自身を自覚する。それはつまり、自分の見ているその何かと、共通の素材から出来ている自分自身を自覚するということだ。物質を見る人の身体は、物質から組み立てられている。夢を見る人の身体は、夢から捏ね上げられている。だから、月を見る人は、月の世界に属する生き物となるし、星を見る人は、星の世界に属する生き物となる。
三女の陽見子が体験する出来事は、ちょうどそんな具合に、『見る』という行為が“自分が何者であるか”、“自分が今どこにいるのか”という問いに密接に関わるのだということを、申し分なく教えてくれている。というのも、けやきの木陰に坐って、木漏れ日の中、大好きなひなたぼっこを楽しんでいた陽見子は、いつの間にか、まさにそのけやきの木そのものになってしまっている自分に気づくのだから。太陽の光をからだ一杯に浴びながら、風にしなる枝の弾力を感じながら、梢にさざめく葉の音を聞きながら、根に伝わる冷たい土の感触を楽しみながら、陽見子は、自分が木であるという事実を心ゆくまで満喫する。これはたぶん夢なんだろうけれど、気持ちいいから許してしまおう。でも、どうせ“木”になるのなら、町中に生えているやつじゃなくて、広い野原の真ん中にぽつんと一本きりで立っている大木になってみたい。そう、たとえば北海道の写真で見たような、地平線まで続くラベンダー畑の中の一本道を、丘の上から見下ろしている、悠然とした大木に――そんなことを思いながら、陽見子は、遠い記憶の中の父親に語りかける。「お父さん……あたし、そんなふうな“木”になりたいなぁ……」。そして気がつくと、陽見子は、自分が思い描いた通りの北海道の野原の真ん中で、大木の幹から押し出されるようにして立っている自分自身の姿を発見することになる。
陽見子は、陽の光でつくられた存在である“木”を出入り口にして、想像した場所へと自由自在に行き来する能力に目覚めた。それはつまり、陽見子は、想像力によって想像の“木”を『見る』ことで、まさにその想像の場所に帰属する自分を自覚する、ということだ。「想像力」――「ファンタジー」――とは、もともとはギリシャ語の「光(ポース)」という言葉に由来する。何かを想像するということは、想像の光に満たされた空間において、その光に照らされた存在をありありと『見る』ことに他ならない――そう、ちょうど、月見子が、月明かりに満たされた公園に、あかあかと照らされた母の姿を見たように。だからこそ、陽見子の、ひいては三姉妹の身に起きた出来事は、「想像力」という言葉に込められた始元の思考の、見事な表現たりえている。千野姉妹の物語とは、まさしく、単なる現実をも単なる幻想をも超えた想像力の秘密をめぐる省察なのだ。
『見る』という言葉は、想像力という概念と表裏一体の意味で用いられる限り、単に感覚によって見たり、聞いたり、感じたりすることのすべてを内包している。つまりこの場合、あらゆる感覚の根本に、『見る』というはたらき、もしくは「光」というはたらきが隠れていると想定されているわけだ。このことは、想像力という概念がラテン世界に引き継がれたさい、「イマジネーション」、すなわち「イマーゴ(像)」を造形する能力と解釈されたことからも明らかだ。だけど、他の語句でもよさそうなものなのに、どうして『見る』とか「光」とかいった言葉がとくに用いられるのだろう? それは、ぼくたちが、『見る』とか「光」とかいった言葉の裏側に、「視線」、「まなざし」、「光線」、「日射し」などいった言い方で、見る者と見られるものを刺しつらぬく特別の絆を思い描くからだ。当たり前のことだけれど、ぼくたちは、まなざしを向けた先にあるものしか、見ることが出来ない。では「まなざし」とはそもそも何だろう? それは、見る者と見られるものとが、同じ時間の中で「ともに動いている」こと以外の何ものでもありえない。ぼくたちの両の目が、一致団結して目の前の対象を追いかけるとき、そんな「共通のリズム」が、ぼくたちと対象のあいだを往復しているとき、はじめて、色彩と奥行きと質感の横溢するこの視覚世界が、ぼくたちに向かって開かれることになる。そして、このことは視覚だけでなく、あらゆる感覚について言える。
さらに、まなざしの正体がリズムなのであれば、それは、本質的に“見る者”の側だけの問題ではなくて、“見られるもの”の側からも起因する運動だと言わなければならない。“モノにまなざしを向ける”という行為は、同時に“モノにまなざしを向けられる”という体験でもある。同じ意味で、“モノを見る”ことは、そのまま“モノに見られる”ことだと言っても良い。月見子は、尾道沙耶子の秘密の会話を盗み聞きした上で、この秘密にまつわる警告を、匿名の電話で告げ知らせる。だけど、それで月見子が一方的に沙耶子より優位に立つことにはならなかった。自分の聞いた電話の声が月見子のそれであることに、沙耶子が気づいてしまうからだ。しかしそれと同時に、月見子は、盗み聞きの事件以後、沙耶子に対する反感が薄れていく自分を感じている。沙耶子にも自分と同じように悩みや弱さがあることを理解しはじめたからだ。
あるいは星見子の場合、彼女は望遠鏡を通して、俳優志望である伸也が同性愛者のプロデューサーに襲われかけている場面を覗き見る。この場面を見る前までの星見子は、伸也の行動について不干渉の姿勢を貫いていた。他人の判断は、あくまでもその人自身が決定すべきであって、たとえ彼氏であろうと、伸也が芸能界の仕事を獲得するためにホモのプロデューサーとつき合う気なら、そのことに口出しする権利は自分にない。けして彼氏のことが気にならないわけではないものの、星見子は、理屈でそう考えていた。しかし、実際の現場を目撃したときには、理屈屋の彼女をして、理性で割り切れない感情が抑えられなくなるという経験が出来する。それが『見る』という出来事に秘められた力だ。ひとたび『見る』ことが実現してしまったなら、憎い相手だろうが、好きな相手だろうが、もはや「他人」ではなくなってしまうのだ。自己と他者と、遠くのものと近くのものと、夢と現実と、理性と感情と、想像力のはたらきは――『見る』というはたらきは――ありとあらゆる対立物のあいだに横たわる距離を飛び越えて、相互に交流を生み出す。そうして、自分と見知らぬ誰かを、あちらの場所とこちらの場所を、夢と現実を、魔法のごとく取り替えてしまう。だったら、今ぼくたちが問わなければならない問いはひとつしかない。すなわち、対立物を結び合わせるこの不思議な交感の絆それ自体は、そもそもいったいどこから、どうやって湧いて出て来たのだろうか、と。
ぼくたちは、モノにまなざしを向けることなくしては、モノを見ることが出来ない。ということは、ぼくたちは、モノをはっきりと見る前からすでに、これを的確にまなざしで射抜いているということになる。しかし、そんなことがどうしてありうるのだろう。それは、目の見えない人が、モノのかたちを直観したり、耳の聞こえない人が、詩の韻律を聴き取ったりするのにもひとしい不自然な所業だというのに。言い換えると、ぼくたちは、自分の力でモノにまなざしを向けているのではない。ぼくたちは、何かを『見る』能力を、自分自身の権利で所有しているのではない。ぼくたちが、何かを見るとき、眼前に開けている光景は、いつでも「与えられた」ものであって、その起源は不可知なのだ。それはちょうど、千野姉妹の超能力が、天から恵まれたものであるかのように、或る日突如として発揮されはじめたのと同じだ。こういう意味で、この『私はウサギ』という物語は、ファンタジーというジャンルに所属する作品ではあるものの、それはけして夢物語だとか絵空事だとかいったことを意味しない。仮にそんな具合にこの小説を読んでしまう人がいたら、その人は本当に大切なものを見過ごしてしまうことになる。なぜなら、もし小説の中で千野姉妹の身に起きる出来事が、荒唐無稽で根拠が無いというのなら、ぼくたちの所有する「想像力」もまた、少なくとも同じくらいには荒唐無稽で無根拠な能力であることに違いないのだから。だから、はじめの疑問に戻って、「どうしてぼくたちは何かを見ることが出来るのか」と問うならば、それに対する答えとしては、「運命」だから、「摂理」だからと説明するより他に仕方ない。
だが、千野姉妹の運命とは何だろう。それは、母親が去ってしまったという事実、父親がいないという現実に他ならない。ひるがえって、彼女たちが、現実を超えた出来事を体験するとき、そこには必ず失踪した母の面影が、思い出の中に残存する父の痕跡がかすかな光を投げかけている。姉妹たちは、それぞれが遭遇した個人的な事件の最中にも、本当はこの残光をこそ追い求めていた。だから、千野姉妹の体験の本質は、“ここにはいない人”への憧憬にある。そして、このことは、想像力の本質についてもひとしくあてはまる。小説家は、世界に足りないもの、世界に欠落しているものをつかまえて、それを作品に結実させる。だから、小説家が物語に描こうとするその何かとは、つねに「どこにも存在しないもの」だと言わねばならない。想像力と呼ばれる自然を超えた摂理だけが、このように「どこにも存在しないもの」を捉えることを可能にする。現実とまったく無関係な空想が、ファンタジーと呼ばれるに値しない理由もまた、この点に存する。ファンタジーは、世界の窮乏を埋め合わせて、世界を完成へと導くのでなければ、そもそも「ファンタジー」という言葉の原義にそぐわないのだから。
千野三姉妹は、母親が残した品の中に、奇妙な鉱物見本のような石があるのを発見する。透明で、水晶のように七色に輝く小さな石だ。ひょっとすると、母が残したこの石には何か秘密があるのではないだろうか。そう思った姉妹たちは、ためしに石の上に互いの手を重ね、自分たちの能力を合わせて使ってみることにする。三人の耳に、いろいろな音が飛び込んで来る。視界がぐるぐると回る。そうして浮遊感とともにからだが引き込まれる感覚があって――ふたたび開けた視界の中に、母はいた。『あら……あなたたち、来たの?』なんて、のんきな声をかけながら。ここはどこだろう。少なくとも東京ではない。どうやら開墾地のようだ。母は、粗末な服を来て、でも楽しそうに畑で農作業をしている。『お父さん、月見子たちが会いに来たわ』。すると視界が移動して、近くの池をのぞき込む。その水面に映るのは、今では写真でしか知ることの出来ない父の顔だった。
こうして、自分たちに欠けているものを追い求めて心の旅路をたどってきた千野姉妹は、最後に、まさしく父のいる場所において、父のまなざしを通して、父自身の顔を見ることで、その旅を終える。三姉妹がめぐり合わせたいろいろな不思議な出来事は、この光景を見るための先触れだった。今まで姉妹が見てきたさまざまな光景の奥底には、きっとどこかで、「父の見ているものを見ている」という部分があったのだ。「摂理providentia」という言葉は、語に忠実に解釈するなら、「あらかじめpro見る者videns」という意味になる。それは、ぼくたちがモノを『見る』ことを可能にしてくれるまなざしのことを指す。摂理が、自分の見ているものを分け与えてくれるおかげで、ぼくたちは、自分自身の場所から、自分が見なくてはならないものを見て、ひるがえって自分自身として存在することが出来る。父は、まさしく摂理として、家族を家族たらしめる絆として、いつでも千野姉妹とともにいた。だから、千野姉妹にとって、両親の不在は、もう欠落でも窮乏でもない。ふたりは、ここではないどこかにいるけれども、それは同時に、距離の如何に関わらず自分たちのすぐかたわらにいることを意味すると、確かに信じることが出来るからだ。本当のファンタジーは、こうやってぼくたちのまなざしを、現実へと送り返して、その見え方をほんの少しだけ新しくしてくれる。ありふれた日常こそが、本当の奇蹟なのだと教えてくれる。
自分たちのマンションへと戻ってきた三姉妹は、小石が空に向けて光を伸ばしているのを発見する。光の筋をたどって、小さな公園に行き着いた彼女たちが目撃したのは、上空にUFOが浮かんでいる光景だった。UFOは、しばらく千野姉妹の目の前をふわふわと漂った後、消えてしまう。あれは何なのだろう。父は宇宙人だったのだろうか。答えはわからない。だけど、ひとつだけわかることがある。真の不思議は、ぼくたちのすぐそばに、ほんの隣に隠れている。実証科学の証明の対象にはならなくても、固有の論理と法則をその内部に秘めながら。この意味で、ファンタジーとは、摂理の解明を自己の使命とする最高の学としてのテオロギアの正当な後継者に他ならない。そして、同じ意味で、ファンタジーとサイエンス・フィクションはけして矛盾も対立もしない。本当に大切なことはただひとつ、この世界の欠乏を驚きと喜びに変えるまなざしが人間に与えられているという、このかけがえのない恩寵の存在に尽きるのだから。
(横道仁志)
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2010-08-06T16:01:26+09:00
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東京SF大全43『マーダーアイアン 絶対鋼鉄』
タタツシンイチ『マーダーアイアン 絶対鋼鉄』(2006 徳間書店 第七回日本SF新人賞受賞作)
「それで、次は何をやるつもりなんです?」六月の始めのことである。SF評論家が裏で悪巧みをしている掲示板で、ぼくはそんな質問を受けた。そして、ひどくうろたえ...
「それで、次は何をやるつもりなんです?」六月の始めのことである。SF評論家が裏で悪巧みをしている掲示板で、ぼくはそんな質問を受けた。そして、ひどくうろたえてしまった。「ええそうですね。(もうSFMの原稿を上げたばっかりでこっちは何も書くことがないよ)それは様々で。(カーテンコール…… カーテンコール…… もう俺はでがらしだよ……)じつにいろいろ、考えている最中なのです……(なにも考えがないよ、どうするんだよ)」言い逃れの口実を考えていた。何を訊かれているのかは、よくわかっていた。かれこれ九ヶ月近く、ぽつぽつと続けてきた「東京SF大全」も、ようやく終わりを迎えるところだった。
「でさー、何扱っていいかわかんないんだよ。もう、色々とネタ切れになってきたし、不用意に目の肥えた人たちに浅い原稿を見せてバカにされるのも嫌だし…… え? 未来? 希望? 何言ってんの? あ、確かそういうテーマ、あったね。若い〈ロスジェネ世代〉的な閉塞感の中に、いかにして希望を取り戻すか、というテーマね。確かにそういうテーマをもって書いてきたつもりだけどね。うん。そう。未来とか変化に向けた期待が極端に落ちている状態だと、変革された社会を描くSFに訴求力はなくなってしまうんだよ。SF大会も、SFセミナーも、若い人がいない。ライトノベルとかに面白いSFはいっぱいあるのに…… だからSFを復興させるためには未来への希望を復活させないといけない、世界が変革できて変わっていくというリアリティこそがまず大事で…… え? 冬の時代は結果的によかった? そんなこと言ってると、クズSF論争の人に殺されるよ? なになに? SFの冬の時代と言われていたものは、後の日本社会の陥る状況をかなり先駆的に掴んでいたのだから、その冬の時代を突破しようとした作品は、現代社会の冬的状況を突破するような心理的リアリティを与えるかもしれない? 例えばなんのこと言っているの? 片理誠さんの『終末の海』? 世界が終わってしまって、寒い海で資源がなく彷徨って、救いの気配もなく、自殺を選ぶ人も多いが、それでもなんとか生き延びようとする話? 確かに、それは、SFの状況と現代社会の両方にマッチングしているなぁ。うん。なに? SF新人賞と小松左京賞関連の作家は絶対もうすぐムーブメント起こしてすごいことになるから、その手の新しい作家を扱うことで、未来に繋げ? で、何を扱うんだよ? 『鉄男』で始まったから、鉄で始まって鉄で終わると、ウロボロスでカタルシス? 何を言っているんだ? で結局何を扱えって?」
そしてぼくの手許には、赤い本がある。『共産党宣言』ではない。『マーダーアイアン 絶対鋼鉄』と書いてある、タタツシンイチ著の、第七回日本SF新人賞受賞作が……
○
基本的な世界設定は、バブルが弾けなかったまま進んだ日本の未来社会。そこは「歪な経済大国」である。そこは「世界最多の休日日数」を誇っているという……。高度消費社会における記号的な資本の増大のカリカチュアのような「無限バブル」がこの世界には起こっており、東京はバビロン都市と化している。BubbleのBabylonであると、わざわざbabbってみる必要もなかろう。
せっかくバブリングの雰囲気になってきたので、本作の文体について少し。基本的には引用過多で、縦書き横書き、英語と日本語、広告の文章や名刺(おお、安部公房の『壁』だ!)が直接登場する。それどころか、作中に対する2ちゃんねるのリアクションじみた掲示板の書き込みまで登場する。このガチャガチャしたパロディックに猥雑な文体の中に、「鉄による殺戮」の際には、リズミカルで剣戟小説のような重みのある文体が混じる。この文体の魅力は、途方もない。この作家の最も優れた資質の一つであろう。ここまで「ガチャガチャした」祝祭的な文体は現代日本では稀有である。
それが、ハロウィンの祝祭と、殺戮の祝祭性と相互作用を起こしている。本作は、圧倒的な力を持つ、ハリウッド映画的なアメリカのスーパーヒーローたちと日本が戦うという基本構造を持っている。実際の戦闘以上に、その戦闘をスペクタクルに見せ、映像商品かする最強のHEROたち。それに立ち向かうのは、諜報や科学技術がいろいろと貧弱だと思われている日本である。
そして日本の「鉄」のロボット、「タケル01」が立ち向かう。ここで、僕が日本SF鉄の系譜について一説垂れるのは蛇足以外の何でもない。一応確認しておくと、小松左京が『日本アパッチ族』(64)で鉄を食べさせたときから、SFと鉄との縁は深いことになっている。それはテクノロジーと一体化することの隠喩であると同時に、規範から外れることを意味する。国会でアパッチ族の真似をしてふざけるシーンを見ると、SFマニアとはアパッチ族の子孫そのものなのではないかとすら思われてくる。そして、言うまでもなく『鉄腕アトム』『鉄人28号』などのヒーローが挙げられる。SF活劇を志向し、故石ノ森章太郎に対する献辞を捧げている本作は、どちらかというとそちらの「鉄」の系譜だ。とにかく、強くて助けてくれるヒーロー、テクノロジーと強さの象徴としての「鉄」だ。
しかし、この「タケル01」は、アトムのようにかわいくない。マジで怖い。調子こいているアメリカのヒーローどもを、淡々とぶちのめす。そう、まるで国粋主義的な傾向を持つ2ちゃんねらーが、アメリカなどを叩いてやっつけたいと思って炎上や祭りに殺到し、そのエネルギーが形となって本当にアメリカをぶちのめし、そして最大の祝祭とカーニバルが起こっているかのようである。カーニバルの猥雑さの中で、地位は逆転するとバフチンは言う。本当はネオリベラリズムなどで現実にはアメリカに蹂躙されまくっている(と格差系の人たちが主張している)日本であるが、その立場が祝祭性の中で逆転する。日本の神話的なものと結びついているらしき「鉄」の勝利に、全くナショナリストのつもりのなかった僕も、思わず喝采を挙げている。アメリカがぶちのめされたら爽快、という、基本的なカタルシスのパターンがここにはある。
一般論として、どうも日本の不況や格差の原因や若者の非正規雇用の原因は、アメリカ型の新自由主義政策にある。と言われている。諸説があるので真偽は分からないが、一応はこの説を採ることにする。例えば、現在フリーターとかで鬱屈している若い読者がこれを読んだらどう思うのだろうか。アメリカをぶちのめして爽快、日本の技術力は世界一ィィィィッとなり、万々歳だろうか。そういう快楽は確かにある。詩人のヴァレリーは、ヨーロッパ精神とは「技術」だと言った。従って、それはすぐに模倣されて世界中に広まる。するとそこもヨーロッパになる。するとヨーロッパ精神の危機が訪れる。そのヨーロッパ精神の危機を克服するためには、常にイノベーションを続けるのだ。常に技術の最先端に立ち続けることが重要なのだ。一時期までの日本は、ヨーロッパ以上にヨーロッパ精神に忠実であろうとしていた。技術の優位性こそが軍事力と結びつき、経済と、そして民族あるいは国家の誇りをもたらすものとして重要なのだ。
とはいえ、やはり科学技術開発を評価する報告を見ると、今でもやはりアメリカが強い。軍事も経済も強い。こういう圧倒的な現実に打ちひしがれ、現在の若者は期待水準も希望水準も低いらしいのだ。つまり、未来や世界に何かいいことがあると全く思っていないのだ。だが、本作はそんな中に、カーニバルの幻視の中に、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という気持ちよさを取り戻させてくれる。そして、日本人が(個々の人間はいろいろだっただろうが)「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という自己愛と自尊心を肥大化させていた時代が、たったの30年前であることを本作は思い出させてくれる。(エズラ・ヴォーゲルによる同名の著作が1979年)
敗戦が1945年。その「焼跡」を小松左京は『日本アパッチ族』で描いた。そしてその「焼跡」を原動力にして、たった30年で高度成長が訪れた。そして80年代のバブルの躁じみた狂騒の後、20〜30年。たった30年で、こんなにも景色や状況が変わるものなのだろうか。だとすれば、「焼跡」で必死に30年間頑張って高度成長が訪れたのだから、現在でも頑張れば今のような不況が続くはずはないのではないかと思ってしまう。もちろん、欲求五段階説や、精神的充足などの別種の問題が存在していることも承知の上でだ。今は、何かを始める地点として、1945年よりはマシなのではないだろうか。
しかし、作中の無限バブルが続いている日本と、我々のいる現実の、如何に遠いことか! 読み終わった後に、寂寞感とともに、そんなことも思うのも事実なのである。カーニバルの後というのは、大概にしてそのようなものなのかもしれない。しかし、だからこそ無限バブルが凄いのだ。祭りの終わりの疲労や寂しさのない、永久に続くバブル……
(藤田直哉)
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東京SF大全
2010-08-02T05:00:53+09:00
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東京SF大全42「太陽の帝国」
「太陽の帝国」
(小説・樺山三英・〈SFマガジン〉2010年9月号所収、早川書房)
2009年の11月にTOKONブログの更新がスタートしてから、瞬く間に9ヶ月あまりの月日が過ぎ去った。
当初は雀の涙ほどだったアクセス数も、3月末の「メガテンの記憶」(鈴木一也)から...
「太陽の帝国」
(小説・樺山三英・〈SFマガジン〉2010年9月号所収、早川書房)
2009年の11月にTOKONブログの更新がスタートしてから、瞬く間に9ヶ月あまりの月日が過ぎ去った。
当初は雀の涙ほどだったアクセス数も、3月末の「メガテンの記憶」(鈴木一也)から4月頭の「大阪SF大全」シリーズに至る流れで一気に増大し、いつの間にやらTOKON10公式ブログで連載してきた「東京SF大全」はウェブの枠をはみ出して、〈SFマガジン〉2010年9月号の「特集・東京SF化計画」という形を取り、ついに商業媒体にまで進出を遂げることとなった。さらに、TOKON10で配布されるスーヴェニアブックにおいては、ウェブや雑誌とは別の「東京SF大全」(約2000字の論考×9名)に、日本SF評論賞受賞者たちの選定による「東京SFビブリオ100」が掲載されることとなっている。
月並みな表現で申し訳ないが、これはまさにSF的な事態だと思われまいか。少なくとも、9ヶ月前にはここまで盛り上がるなどと、誰も予測してはいなかったはずだ。
ここで筆者は「東京SF大全」に取り上げるべき作品選定から執筆・作業分担に至るまでの諸々の苦労話を、思いきって開陳したい衝動に駆られている。
だが、ここはひとまず「SFマガジン」2010年9月号の小谷真理の顰みに倣い、「TOKON10、がんばってます」との言明に留めておくとしよう。
しかしながら、ひとつ気がついたことがある。
事態はもはや、私たちのコントロールの枠を外れてしまっているようなのだ。
「SFとは、個人理性の産物が個人理性の制御を離れて自走することを意識した文学の一分野である」と語ったのは柴野拓美だったが、こうした柴野の評言の正当性を、「特集」の枠を外れながらも、静かに、しかし確固たる存在感を放つ一つの短篇小説を眼にして、再確認させられる事件が起こったのである。
同じ〈SFマガジン〉2010年9月号に掲載された、ひとつの小説が、そのことを証しだした。その作品の表題には「太陽の帝国」と記されている。
『太陽の帝国』。
言わずと知れたJ・G・バラードの代表作。ブッカー賞候補、スピルバーグ監督による映画化と、錚々たる伝説を残したバラードの自伝的小説のタイトル。そして、〈SFマガジン〉最新号に掲載されたその名を冠した短編。
「それで、次は何をやるつもりなんです?」
かようないささか当惑させられる問いかけから始まり、本作を含めた一連の短篇連作全体が「《ユートピア的想像力》をテーマにした、古今の作品の二次的創作」であるという事情をいきなり開陳してみせるこの短篇は、のっけからその作品の成立自体が、末期癌による死もいまだ記憶に新しいJ・G・バラードの長篇からの本歌取りとなっていることを、多少の衒いとともに告白してみせる。
「それで、次は何をやるつもりなんです?」
この問いかけが発された場は、語り手の記述を信用するのであれば、SFセミナーという30年の伝統を有したサーコン系のイベント、すなわち理論と言語を手がかりにSFの可能性を模索することを旨とした催し物における、合宿企画の会場においてなされたものだという。
そもそもSFセミナーというイベントは、「東京SF大全」が模索してきたような理論と思弁を中心に据えることでSFの可能性を探る試みを一貫して持続させてきた催しである。
そして、おそらく「太陽の帝国」のモデルとなっているであろうSFセミナー2010は、20年ぶりの東京でのSF大会の前夜祭的な雰囲気が色濃いものであった。実際にSFセミナー2010では、「太陽の帝国」の作者と一緒にその小説について語るというパネルも存在したというから、「太陽の帝国」がSFセミナーへの応答であると読むのは間違いではあるまい。
しかし「太陽の帝国」の記述は、SFセミナーの会場における応答から、バラードという固有名を介することで、海を越えた上海へと一気に飛躍する。そしてこのテクストは、上海という「外部」から、東京を逆照射することで、それ自体が優れた東京SFでありながら、来る東京でのSF大会に向けての批評ともなっている。
語り手によればバラードとは、「上海の死に立ち会った一人」であるという。「終わる世界、滅びゆく人々の姿」に取り憑かれた作家と、その似姿たる『太陽の帝国』の主人公、ジム少年の足跡を追いながら、語り手はバラードとジムの類似性と差異、そして(日本軍の)収容所を通じ、「思春期を迎え、大人の精神の基礎を学んだ」バラードの、矛盾した記憶の性質と脅迫観念について説明する。そこから記述は、多分に虚構的な「バラードの初期の短篇」の描写へと、緩やかな移行を遂げていく。
「太陽の帝国」内の「バラードの初期の短篇」は、それ自体が枠物語の一部に過ぎないのか、それとも間接話法を通じたバラードへの忸怩たる妄念の表出なのかが、意図的に混同した形で描かれている。それゆえ語りの内部で言及される「バラードの初期の短篇」も、その梗概は「バラードらしさ」の典型をなぞるように見せかけながらも、その実、過剰なまでの情緒を身にまとうことを余儀なくされている。
ただし、ここでの「バラードの初期の短篇」はまったくの虚構であろうと、後の段落ですぐさまそうした事実が仄めかされることで、テクストの入れ子構造はさらなる混濁を見せ始める。
語り手が「バラードの初期の短篇」について「メールで問い合わせ」をしたという「セミナーで同席した、バラードの翻訳者の人」が誰であるのかは知る由もないが、「東京SF大全」内で公開されたバラード「終着の浜辺」論(増田まもる)を参照すれば、この「バラードの初期の短篇」の虚構性が際立って見えるのは間違いない。
死せる大天使の坐像に入口を守護された巨大ブロック群のことを考えながら、トラーヴェンは忍耐強く彼らが話しかけてくるのを待った。その間も、遠くの岸辺では波が砕け、炎上する爆撃機が夢の中を墜落していくのだった。
「終着の浜辺」を論じた増田まもるは、同作品の末尾を上記のように訳出している。この引用文に顕著なように、バラード作品において、テクストの運動性は夢や記憶の内部に取り込まれ、無時間的なものとして再構成される。そのためバラードの作品において、作中人物はいわば物質としての「死者」が体現する無機質性にこそ突き動かされることとなる。
これは現代に特有な事例なのか。そうかもしれないし、またそうでないとも言える。
「太陽の帝国」内では、記憶の集合体としての歴史性、そして「大躍進2.0」と呼ばれる、グローバル市場を背景とした文化帝国主義と、それに関連したシミュラクルの問題が語られる。ここからバラード本人の『太陽の帝国』に立ち返れば、ブライアン・オールディスの「リトル・ボーイ再び」のように、人間の実存が剥き出しとなった「例外状態」(アガンベン)をショーとしてスペクタクル化した状況があるとすると、バラードの作品はそうしたスペクタクルを希求する強迫観念そのものに焦点を当てているように見える。
だが、スペクタクルを基体とした「下り坂カーレースに見立てたジョン・フィッツジェラルド・ケネディ暗殺事件」のような作品においてさえ、ショーアップの模様は無機質的に描かれる。そこには、消費社会が喧伝する、祝祭的空間への素朴な称揚は見られない。
吉見俊哉は『都市のドラマトゥルギー』で、近代の「博覧会」に代表される祝祭的空間の成立に、いわば「異界」を見出したが、バラードはさらにその内奥に分け入り、祝祭によって称えられる「死者」の実相を取り出そうと試みたと言えるだろう。
だからバラードの描き出す祝祭は徹頭徹尾、静的なものだ。いやこうした静的な無機質性に、バラードは(おそらくアラン・ロブ=グリエとも共鳴するだろう)強烈な官能性の「まなざし」を差し向ける。だからこそ、バラードの描く「死者」はある種の審美性を帯びた形で、読み手に迫ってくることになる。
そして「太陽の帝国」と題された短編は、こうした「博覧会」としての「異界」における、「死者」とのエロティックな交信を、バラードを読む「ぼく」の立場から再確認したものとして結論づけることができる。
「太陽の帝国」がその末尾に連なる「《ユートピア的想像力》をテーマにした、古今の作品の二次的創作」シリーズは、今まで連綿と〈SFマガジン〉誌上で書き連ねられてきた。「一九八四年」(ジョージ・オーウェル)、「愛の新世界」(シャルル・フーリエ)、「ガリヴァー旅行記」(ジョナサン・スウィフト)、「小惑星物語」(パウル・シェーアバルト)、「無何有郷だより」(ウィリアム・モリス)、「すばらしい新世界」(オルダス・ハクスリー)、「世界最終戦論」(石原莞爾)、「収容所群島」(アレクサンドル・ソルジェニーツィン)と、ダルコ・スーヴィンが『SFの変容』で記したようなSFの源流としてのユートピア文学の系譜をたどり直し、さらにその先へと突き進んでいく。
しかしながら、やがて戦争と虐殺、収容所の問題が現前してくるにつれ、SFの根源への沈潜を続けるうちに、意識的な抑制をもってテクストの内に埋没させられていた「ぼく」の位相は変転を続け、ついには「太陽の帝国」をもって、剥き出しのまま表出させられることになる。
アガンベンの『アウシュヴィッツの残りもの』にも記されている通り、二〇世紀以降、「例外状態」の有様を最も鮮明に突きつけてくるのが収容所という形象だ。佐藤哲也は収容所文学の傑作である『妻の帝国』において、そうした現在を「東京郊外というわたしの個人的な現実に、強制収容所という20世紀的な現実を重ね合わせ」(「Anima Solaris」の著者インタビュー)たものとして描き出したが、そうした流れで言えば「太陽の帝国」は、ここで佐藤の言う「わたしの個人的な現実」を、いわば再帰的にバラードという固有名を経由することで、文学とSFをめぐる想像的な伝統、そして大文字の歴史性が交錯する地点に出会わせようとした試みだと言うことができる。
そして、奇しくもそのバラード観は、「太陽の帝国」内に登場する「SFセミナーの合宿」のちょうど前年に行なわれた「SFセミナー2009 〈合宿企画〉「スペキュレイティヴ・ジャパン」バラード追悼と読書会」(〈科学魔界〉52号、TOKON10にて頒布予定)で語られた内容とささやかな照応を見せているように思われる。SFセミナー2009において、『太陽の帝国』がいかように語られたのかを見てみよう。
永田弘太郎:私が思うのは、バラードを読んでいて、『太陽の帝国』を読んだ時に、何を書いているのかがわかっちゃったということ。結局、あの人は収容所のなかの話をずっと書いているんですね。(中略)強制収容所のなかは時間がない世界。永遠の時間を持った世界が彼らの前に現れる。あと、自分たちが自由にあるためにはどうすればよいかが語られる。それには狂気にならなければならない。強制収容所の世界では、狂うことが自由になる方法だという。それに、死の力を借りることで自由になることができる。バラードというのは、そういうところで、そういうものを通して、自分たちが置かれている強制収容所から出ようとしているところがある。強制収容所のイメージが現代社会にイコールとなっていくのが、バラードがだんだんやってきたことだ。(後略)
来場者:バラードは収容所から抜け出そうとしたというか、未だに抜け出せていないんじゃないですか?
増田まもる:外へ出ようとはしてはいない。
藤田直哉:ユートピアなんですよね?
増田まもる:そう、ユートピアなんだよ。
永田弘太郎:ユートピアであってはいけないんだけど、ユートピアになってしまうところが、小説を生む原因になったんじゃないの? どちらかに決定してしまっていたら、小説は書かなかったと思うのね。
増田まもる:あるいは、『太陽の帝国』でトラウマみたいなものにケリがついてしまったら、もう書かなかったと思う。ケリがついていない。むしろもっと加速しなければならないという何かを得たのだと思う。(後略)
(理解を促すため、本引用では一部を省略し、発言者名を明確にした)
ユートピアとしての収容所。故郷としての敵国。名を与えられていない「来場者」の発言の重みが響き渡る(発言の記録・編集に関わった作業者として言えることは、不可思議なことに、テープ起こしをしていると、この台詞だけが誰の言葉でもあり、また誰の言葉でもないように聞こえ、判別が不可能だったことだ)。
「太陽の帝国」の語り手の認識は、ここでの討議の地平と不思議な照応を果たし、バラードという固有名を通じて、生と死の端境をさまよい、虜囚として暮らした時代を最も幸福な日々、恐れながら「どうしようもなく惹きつけられる」ものとして説明する。
増田まもると柳下毅一郎は、「時間の墓標 J・G・バラード追悼」(http://speculativejapan.net/?p=102)において、『太陽の帝国』執筆時の上海を、「おそらくは世界で最も頽廃した土地」であり、「野垂れ死にを余儀なくされる人」と「ものすごく華やかなナイトクラブで遊び惚ける特権階級」という2つの全く異なる世界が、放埒と死と病を媒介として重ね合わされていた世界だったという意味のことを語った。こうした多重性が明らかになると、「異界」をめぐる「まなざし」は否応なく混交を強いられることになる。
「太陽の帝国」の記述は、上海のスノビズムがある意味において加速度的に進行した状況を背景に置くことで、バラードの読み直し(リ・リーディング)を通じ、やがては「死者」としての「ぼく」の召喚へと行き着くことになる。
しかしながら、「バラードが描いた朱鷺色の砂漠(ヴァーミリオン・サンズ)」に比べ、「ぼく」が心に描いた「砂漠」は、単なる「きめの荒い黄色い砂地」に過ぎない。そして、その「ぼく」を成立させた、シミュラクルの原型たる「上海」を遡って語り手が幻視したのは、「ぼく」そのものが抹殺された現在が到来していた可能性である。「太陽の帝国」に至る連作を追いかけてきた読者であれば、ここでの「ぼく」の消滅の可能性が、すなわち、大文字の「歴史」そのものの崩壊の可能性でもあると理解することができる。
「太陽の帝国」では、「八月に船堀で行われるSF大会の実行委員」でもある「批評家の友人」が漏らす、「東京SF大会と銘打って、東京にちなんだものにする予定」であったはずの「今年二〇一〇年の大会」が、中国に、そして上海に飲み込まれてしまった模様が語られるが、ここを短絡化し、中華思想の現代的表出への恐怖と読んではならない。むしろ、「ぼく」が消滅するひとつの未来として、心の原風景すらすでにシミュラクルと化してしまっている私たちの生それ自体が、すでにまったくの虚構となっている事実の、SF的な表現だと読まなければならないだろう。
筆者は「太陽の帝国」が掲載されたものと同じ号の〈SFマガジン〉において、『都市のドラマトゥルギー』についての短評を介し、「「東京SF」にも変容の時が訪れようとしている」と書いたが、ここでの「変容」の兆しを「太陽の帝国」内の記述に読み込むことは、牽強付会に過ぎるだろうか。
だが、バラードの『太陽の帝国』が型どおりの私小説とはまったく異なるように、「太陽の帝国」を書き手である樺山三英の私小説と読むことは、テクストの奸計にはまってしまうことを意味する(これはレトリックではなく、素朴な私小説的としての読みは、語られる「父」の在り方をはじめ、テクスト内の仕掛けによってことごとく裏切られることになる)。現に、「太陽の帝国」における「ぼく」が「樺山三英」であるとは、どこにも明記されていないではないか。
つまり、この「ぼく」は、取り替え可能な、すべての「ぼく」と等価なのだ。
だから、思い切って断言してしまおう。「太陽の帝国」は未来に向けて読まれるべきテクストだ。
それゆえに、
「それで、次は何をやるつもりなんです?」
この問いかけは、私たち皆に投げかけられたものなのだ。
いよいよ目前に迫った東京でのSF大会。そこで、私たちは「何をやるつもり」なのか?
(岡和田晃)
10.11.26追記:本稿はカーテンコールの挨拶文、他のカーテンコールの原稿とは独立して書かれたカーテンコール用の原稿です。
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東京SF大全
2010-08-01T23:55:43+09:00
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東京SF大全41『TOKON8』
SF都市の宴
初めてSF大会に参加したのは二〇歳になった直後の夏、一九八二年のことだった。TOKON8である。SFはの時代が爆発的に拡大しつつあったころで、ハヤカワSF文庫、創元SF文庫、サンリオSF文庫はもとより、集英社のワールドSFの刊行も...
初めてSF大会に参加したのは二〇歳になった直後の夏、一九八二年のことだった。TOKON8である。SFは<拡散と浸透>の時代が爆発的に拡大しつつあったころで、ハヤカワSF文庫、創元SF文庫、サンリオSF文庫はもとより、集英社のワールドSFの刊行も始まっていた。後に大ヒットする『超時空要塞マクロス』のデモフィルムが最初に放映されたのもTOKON8だった。
一般に千葉県は首都圏と思われがちだが、私(と朱鷺田祐介)の出身地は、四年前に創刊されたサンリオSF文庫の第一陣が、二件しかない本屋の一つ店頭にそっくり置かれたまま(一九八八年まで)になっているような辺境だったから、TOKON8の会場に足を踏み入れた瞬間に解ったことは、ここはSFの都市国家なのだという事実だった。
SF大会とは、単なるコンベンションではなく、SF都市の宴だったのである。
以来、私にとっては東京での生活そのものがSFと化していた。SF大会が一個の都市国家の宴である以上、年一度のお祭りとして終焉するはずもなく、日常を蚕食するようにして拡大することは必然的な結果であったからだ。TOKON8は、翌年にはTOKON大阪大会、翌々年にはTOKON蝦夷大会と擬態を繰り返して成長する怪物のように思われた。
<拡散と浸透>の時代と言われながらも、当時はSFと主流小説との境界は比較的はっきりとしていた。TOKON8の直前くらいに出版された『SFセミナー』(集英社文庫)で、小松左京さんは、現代SFを「科学文明・宇宙時代の人類を、そこで生きる一個の生身の人間の側から文学の方法で描く試み」と定義した。当時は、私の小松さんの言葉が正しいと信じていたが、二十八年後の今日、SFは当時の姿から大きく変容している以上、小松さんの定義だけでは、主流文学との境界線が消失した現代SFの全てを論じることは容易ではなくなってきているようだ。
現代SFの新しい定義が必要とされていることは確かだった。それは新しい文学理論の確立と同義でもあるだろう。
しかしSF都市の宴に引き込まれて右往左往していた二〇歳の私には、二十一世紀のSFは<抽出と凝固>の時代を迎えたなどと主張してSF評論に関わるようになろうとは、全くのところ思いもよらぬことだったのである。
(礒部剛喜)
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東京SF大全
2010-08-01T23:54:16+09:00
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東京SF大全40『デュラララ!!』
成田良悟著『デュラララ!!』はアスキー・メディアワークスの電撃文庫レーベルより2003年に第1巻が発行され、2010年までに8巻が刊行され継続中の物語だ。
この物語は、池袋における、生ける都市伝説・首無しライダー(女)を軸に、一風変わった一般市民に見える怪人...
成田良悟著『デュラララ!!』はアスキー・メディアワークスの電撃文庫レーベルより2003年に第1巻が発行され、2010年までに8巻が刊行され継続中の物語だ。
この物語は、池袋における、生ける都市伝説・首無しライダー(女)を軸に、一風変わった一般市民に見える怪人たちの、何組かの三角関係が回転し、絡み合い、噛み合う様を、スピード感ある群像劇として描いている。
軸になる首無しライダーは、切り取られ持ち去られた自分の首を探す放浪者だ。
主要な三角関係の第一は、池袋の高校に通う男女三人組で、お互いに好意を抱いているのだが、実はそれぞれが池袋の闇の世界における集団と関わりがある。一方にダラーズと名乗る目的不明・構成員不明・リーダー不明・旗幟不鮮明のグループが暗躍する。ダラーズが正体不明、色で言えば「保護色」の集団とすれば、旗幟鮮明なカラーギャングは抗争、非合法商取引という目的方法ともに明確な集団で常にどこかと対立する。そこに姿なき『切り裂き魔』集団がいかなる理由があってか、抗争に介在してくる。組織はそれぞれの敵からの攻撃によって自動的に抗争を始める。第一の三角関係の高校生たちは友情を守ろうとするが、組織は自身の意思で彼らを抗争に巻き込む。
主要な三角関係の第二は、裏稼業に生きる情報屋と闇医者と喧嘩屋の青年たちである。愛多憎生(可愛さ余って憎さ百倍)の末に犬猿の仲である。
彼ら七人を中心に怪人たちが毎回登場しては、暴力の嵐が吹き荒れるのが、このシリーズの特徴である。
彼ら怪人の特徴は、自他の界面が定まっていない、時に人間としてのタガが外れているところにある。狂言回しとなる首無しライダーなど、人の形の中身が漏れ出してくるなどの象徴性を抱えているし、ほぼ主人公の高校生・竜ケ崎帝人は歳相応にガラスのようにもろくも繊細な感受性と透明な正義感を抱えながら、闇社会における力と関わりを持つ。この内面のこわれやすさと、外界との境界の剣呑さがこの作品の特徴であり、それは、都市と個人とのインターフェイスの問題を表していると、私は考える。
繁華街・悪所という観点で見ると、新宿と池袋は似ている。違う所は、新宿は「ここから先、郊外が始まる」街であるのに対し、池袋は「ここから内、都会が始まる」街だ。つまり、新宿が田園への出口なのに対し、池袋は都会への入り口だ。
例えれば、池袋は都会の渚。田舎から流れてきたコアセルベートは生物として環境とのインターフェイスを確立するために、殻を被ったり、刺を持ったり、時にははじけて外部を呑込んだりして、確固たる生物としての独自性を獲得していく。
壊れやすく軟らかくもろい内部を抱えて、過酷な環境で生きていく界面や表象を獲得する。しばしば、その過剰適応が常識のタガの外れた怪物に彼ら青少年を変身させる。
暴力に支配された街。現実の池袋はともかく、本作中の池袋はそういう街だ。それはしかたない。なぜなら、ライトノベルの読者に性的充足は禁止されているから。エロスの常識的健全成長を外的規範にすれば、読み手の欲望はバイオレンスのエスカレーションを求める。この作品では性愛は禁忌。ゆえに徹底的に壊す。純愛と暴力。その歪みこそがこの作品の味わいであり、そして規範に拠って立つ都市・東京の歪みをも浮かび上がらせる。
(鼎元亨)
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東京SF大全
2010-08-01T23:35:58+09:00
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東京SF大全39「とらんぷ譚」
「とらんぷ譚」(小説・中井英夫・連載1970〜1978・一冊本初刊行1980)
(書誌情報は複雑なため省略。現在は創元文庫版「中井英夫全集3とらんぷ譚」と講談社文庫の「幻想博物館」「悪魔の骨牌」「人外境通信」「真珠母の匣」4分冊が入手可)
伝説のミステリ作家にして...
(書誌情報は複雑なため省略。現在は創元文庫版「中井英夫全集3とらんぷ譚」と講談社文庫の「幻想博物館」「悪魔の骨牌」「人外境通信」「真珠母の匣」4分冊が入手可)
伝説のミステリ作家にしてカルト的人気を誇る幻想文学作家。中井英夫作品と東京は切っても切れない。田端に生まれ育った中井はまさしく東京の申し子で、多くの作品に何らかの形で東京が登場する。かの代表作「虚無への供物」では、目黒不動をはじめとする「五色不動」などの地名が印象的に用いられていた。「虚無への供物」が文字通りの「東京ミステリ」だとしたら、もう一方の代表作であるこちらは間違いなく「東京SF」と言っていい。
本全体を一組のトランプに見立て、全54本の短編から成る壮大な連作長編。しかもその物語は13本ずつ大きく4つのストーリー(スペード、クラブ、ハート、ダイヤ)に分かれ、さらにジョーカーにあたる短編2本が最後に付け加えられている。4つのストーリーはそれぞれ独立して楽しむこともできるが、あちこちにちりばめられた小道具でゆるやかに結びつき、全体として1本の長編小説として読むことも出来るという凝りに凝った構成に、初見時は驚愕した。個人的には「虚無への供物」よりもむしろこちらが好みで、日本SFの歴代作品投票では必ず長編部門の一冊として加えるようにしている。
今回、全体に気を配りながら慎重に読み返してみたが、4つのストーリーの構成がかなり意識的に違えられていることに気付いた。
第1部「幻想博物館」は、精神病院「流薔園」を舞台に、患者たちの物語がひとつずつ紹介されていくという設定で、各短編の独立色は強い。だが読み進むにつれて、個々の話が影響し合い、ひとつの物語に溶け合っていく。物語の舞台は、慎重に「どこともしれぬ場所」に設定されているが、よくよく読んでみるとあちこちに「世田谷」や「茅ヶ崎」などの地名が顔をのぞかせる。最後には我慢できなくなったようで、かなり重要な場面で「T**自然動物園」なる場所が登場する。これはどうみても「多摩動物公園」のことだろう。
東京から逃れることはとても無理だ、そう思い定めたのだろうか。第2部「悪夢の骨牌」では、非常に印象的な形で東京の各地が次々と登場する。「緑の唇」では、瑠璃夫人の回想が、ほとんど香具師の口上のように過剰なものとなっていき、戦後間もない池袋から浅草に至る街並みがまるで魔界のごとくに描かれる。序盤の「アケロンの流れの涯てに」では、地下鉄工事のトンネルに入りこんで、築地の三原橋近くに出ると、そこは昭和9年だった…という展開。タイムトラベルやエスパーが次々と登場し、最後は圧倒的な「時間嵐」の描写と共に幕を閉じる。幻想的な演出を施されているものの、本書の4エピソードの中では飛びぬけてSF色が強い。ストーリー的にもはっきりとつながっており、まとまった1本の長編と言ってもいいだろう。
続く第三部「人外境通信」は、ストーリーの結びつきがもっとも弱く、小道具を手がかりにイメージの尻取りのような形でつながっていく。第4部「真珠母の匣」にいたっては、ストーリーはほぼつながっているものの、幻想的要素がほとんどなく、困惑させられる。一見、それぞれに弱点がある。ここで終われば腰砕けだろう。だが、最後の2篇のジョーカーに至り、すべての物語が有機的につながり合ってひとつの物語になっていること、4つの物語が精巧な企みによって影響し合っていることに気付かされる。すべては計算づくなのだ。
全体を通して一本の物語と考えたときに、「とらんぷ譚」は妄想の物語であることが分かる。タイムマシンや宇宙人、超能力などのSF用語も頻繁に登場するが、その多くは妄想と区別がつかない形で描かれている。そしてそれは閉じた妄想にとどまらず、外側の世界に大きな影響を与えていく。なぜか。「とらんぷ譚」は日本の十五年戦争を巡る物語でもあるからだ。国家とそれに取り入る詐欺師たちによって仕立て上げられた「大東亜共栄圏」および「満州帝国」という見下げた妄想に付き合わされる不条理。対抗するためには、自身も強い妄想を抱くしかない。中井がそうした強い決意と共に戦時を生き延びてきたことは、戦中日記「彼方より」を読むとよく分かる。
妄想は個人の脳内にとどまるものではなく、常に外側の世界を侵食し、自らの領域を広げようとする。SF用語が頻出するからではなく、こうした物語全体を貫く思想に、強固なSF的想像力を感じさせられる。逃避ではなく対抗手段としての妄想。「とらんぷ譚」は妄想と妄想がぶつかり合い、闘いを繰り広げる物語なのである。
(高槻真樹)
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東京SF大全
2010-08-01T20:28:32+09:00
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東京SF大全38『東天の獅子』
『東天の獅子』(夢枕獏)
『キマイラ』シリーズ、『魔獣狩り』シリーズなどのベストセラー作品を連発し、その印税で豪邸を建てるなど、夢枕獏は早くから「勝ち組」街道を驀進し続けてきた。さらには代表作と言ってよい『陰陽師』シリーズが映画化されるという僥倖に...
『キマイラ』シリーズ、『魔獣狩り』シリーズなどのベストセラー作品を連発し、その印税で豪邸を建てるなど、夢枕獏は早くから「勝ち組」街道を驀進し続けてきた。さらには代表作と言ってよい『陰陽師』シリーズが映画化されるという僥倖にも恵まれ、「SF作家」にして「国民作家」というウルトラSF級のお伽噺を自ら演じてみせ、世の多くのSF作家の嫉妬を一身に浴びもする。そしてまた、高額納税者の作家ランキングでは、有名ミステリ作家と肩を並べて、ベスト10入りを果たすことに成功する。現在も複数の連載作品を抱えて多忙な執筆生活を送る彼にとって、「SF不況」という言葉など存在しないかのようだ。「日本SF新人賞」「小松左京賞」の休止という峻厳な現実を、涼しい顔をしてやり過ごすそんな夢枕獏が、目の上のたんこぶのごとく苛立ちを覚えてやまないのは、いまや俳優大和田伸也の親族ただ一人であるらしい。「大和田獏ってウザいんだよね」
「大和田獏」と「夢枕獏」。なるほど似ていると言えば似ているし、違うと言えば違うし、栃木県が茨城県にやるせなくも抱いてしまう敵意に似たものなのかもしれないが、当事者同士にしかわからぬ鏡像への、微かな、だが拭いきれぬ憎悪を、小説家らしく昇華せんと、小気味良い復讐劇よろしく、夢枕は大和田への複雑な想いを、一人称を用いた長編作品に仕立て上げようと奮闘しているという。作品のタイトルは、ずばり、『バクとボク』。
なかなかおしゃれなタイトルである。と同時にこのタイトルには、作家夢枕獏の存在条件そのものが簡潔に語られているようで、きわめて興味深い。『バク(大和田獏)とボク(夢枕獏)』というタイトルに示された鏡像とのライバル関係の原型は、作家としての夢枕と作家になる以前の素の夢枕の関係そのものにあるのではなかろうか。「米山峰夫」という本名を持つ一人の青年が、「夢枕獏」という虚構の存在へと向けて自らを組織し、鍛え上げていくという、古典的な(あるいはベタな)ドラマに、自意識の懐疑という知的な回路が存在することを忘却したかのように、全身で没入できたという事実のうちに、夢枕獏の栄光がある。
ここで注目すべきなのは、米山青年によって仮構された「夢枕獏」というペンネームである。一人の無名の青年が選びとったこのユニークな名に一種の熱病の兆候が鮮やかに示されているように思われる。二葉亭四迷、夏目漱石、森鴎外、あるいは三島由紀夫や光瀬龍、栗本薫など、ペンネームを用いる作家は数多くいる。だが、彼らの名と夢枕の名は決定的に違う。漱石や三島は、筆名というもう一つの名によって、自身のアイデンティティを曖昧化し、そうすることで現実や世界を穿つ文学的言葉の実践という戦略を手に入れる。けれども彼らは人間の仮面だけは手放さない。そのような等身大幻想を、「夢枕獏」という名は、軽々と凌駕してしまう。そもそもこの名は人間の名前ではない。その名において、自分が伝説的存在であることを宣言している。「夜郎自大」という言葉が口の端に登る以前に、反時代的な熱病の輝きに対して郷愁にも似た疼きを覚えずにはいられない。
「夢枕は、懐かしくも、良い漢(おとこ)だなあ」
とうとうやってしまった。
「漢」と書いて「お・と・こ」と読ませる荒技を。
やっちゃったよ。
それにしてもなんであろうか。「漢」という文字の妖しい艶やかさは。「男」という文字がごく日常的な此岸の地平に属しているとすれば、一方「漢」という文字は彼岸のような究極の高みから、魂の側へと傾斜しやすい人間を誘惑する。男がもう一人の男のただ事ではないふるまいを垣間見た時に走り抜ける官能にも似た戦慄が、周囲の空気を高貴な倒錯の香りで染め上げる。それは排他的な貴族の空間のようでもある。魂を賭けるに足る徴をそれにふさわしく感受するという遭遇の瞬間。例えばそれは、嘉納治五郎が、同郷の女性の前で「猫の三寸返り」という技を披露してみせる志田四郎少年(後の西郷四郎=姿三四郎のモデル)の姿を、偶然目撃してしまった場面が代表として挙げられる。四郎の尋常ではない身の動きに真の「武道家」の気配を察知した治五郎は、三日後、四郎のいる道場を訪れ、四郎との稽古を渇望し、そのチャンスを手に入れる。
治五郎と四郎の勝負は、白熱を押し殺しつつも、底流には緊張感があふれる微妙なものとなる。四郎という実力者と組んでみて初めてわかる四郎の柄の大きさを治五郎は直接肌で感じ取る。「たとえ、闘ったとて、この志田四郎の実力をきっちり受け止めることができるだけの器量の持ち主でなければ、わからぬ部分であった。/今、この道場で、それがわかっているものが、何人いるか。/道場主である井上敬太郎は、むろん、わかっているだろう。/あとは、横山作次郎と、そして自分くらいではないかと治五郎は思った」魅惑的と言えば魅惑的な、エリート臭さが鼻につくと言えば鼻につく、そのような平凡人とは一線を画す、神々しい貴族の世界が現出している。夢枕獏の『東天の獅子』は、貴族の世界の快楽を体験したいという反時代的な欲望に貫かれている。このような欲望の実現は平成現代では、とうてい許されるものではない。『東天の獅子』が「東京SF」たる所以である。
夢枕は「まえがき」で次のように書く。「柔道の創始者、嘉納治五郎。/姿三四郎のモデル、西郷四郎。/講道館四天王のひとり、横山作次郎。/柔道王国久留米の中村半助。/大東流合気柔術創始者武田惣角。/仲段蔵、佐村正明、西郷頼母近悳、好地円太郎、照島太郎、松村宗棍、大竹森吉等々――きらびやかでなんという凄いメンツがこの時期の日本に生じたのか」「きらびやかでなんという凄いメンツ」と呼ばれる存在は、センス・オブ・ワンダーをかきたてずにはいられない。幕末から明治にかけての熱い面々が、司馬遼太郎の詩心を鼓舞したように、「天才」「異常人」といったこの世のものではない存在に触れて初めて、夢枕獏の言葉は動き出す。『東天の獅子』の「まえがき」には「物語の力について」というサブタイトルがつけられている。「物語とは物の怪のことだ」と中上健次が言ったと記憶しているが、夢枕が憑かれているのは「物の怪」であり、「物の怪」の肖像を描き出すことが夢枕の創作上の唯一の動機である。「闇が闇として残っていた時代」の「一種の天才」とされる陰陽師・安倍晴明は、究極的には「晴明」という名が象徴するように、権力の側の人間であるが(彼は朝廷に仕える従四位下の身分である)、異界へと越境できる夢枕作品の主役にふさわしい存在である。
嘉納治五郎もまた、「柔道」を通して彼なりの「異界」を創出した人物であるように思える。治五郎が東京大学に入学した明治10年、「日本は、近代に向けて凄い勢いで走りだしていた」東京の風景は激変していた。「仏国の巴里のごとき街道に、英国の倫敦のごとき街並」が、銀座一帯に造り上げられ、西洋もどきの風景が日本を浸食していた。周囲のそのような風景に、治五郎は強い違和感を抱く。「日本は、日本でありながら、日本という国をどこかへ置き去りにしてしまうのではないかと思いました」そうとは知らずに、治五郎は、近代日本の勃興期において、反近代を幻視した一群の幻視者の系譜に、我が身を置いている。治五郎よりは年下だが、日本の近代に背を向け、異界の物語に埋没した泉鏡花、失われてゆく江戸情緒に執着した永井荷風。そして日本の前近代にユートピアを幻視した小泉八雲。とりわけ八雲は、治五郎が熊本市の第五高等学校校長の時に英語教師として赴任し、治五郎とは縁が深い。
西欧との出会いによって覚醒した日本の「知」が取りうる原型的な2つのものに「自然主義小説」と「民俗学」が挙げられる。治五郎が築き上げた「柔道」は、彼なりの「民俗学」であった。地方の農村を歩きまわり、民間伝承の説話を採取し、日本人の原像を見出そうとした柳田國男のように、治五郎は明治維新後打ち捨てられ、顧みられなくなった「柔術」や「古武道」を採取して回る。「柔術など、今の時世には流行らぬよ」とあざけられながら。治五郎が通常の「民俗学者」と異なるのは、過去の柔術や古武道を標本として保存することを目指したのではなく、それらを冷静に分析し、総合させることで、まったく新しい柔道というスタイルを確立させたところにある。この一点で、治五郎は民俗学者のイメージから身を引き離し、SF作家の相貌を身に纏うことになる。彼は、いうなれば、コラージュの技術者なのである。「死に体」ともいる過去の遺物を採取し総合し、新しい命を作りだそうとするその姿は、メアリー・シェリーが描いたフランケンシュタイン博士のようである。
治五郎が幸福だったのは、「富国強兵」という時代のリズムと同調できたことであった。西欧列強の強大さを見せつけられ、おのが非力を克服しなければならなかった近代日本に同調するかのように、治五郎は自分の「小さく、痩せた身体」を恥じ、そのコンプレックスを柔道によって克服しようとした。夢枕獏は「明治という時代であるからこそ、このような人物が輩出された」と書くが、『坂の上の雲』(司馬遼太郎)の時代の欲望を忠実に体現してみせたのが、嘉納治五郎であった。彼は近代日本のナショナリズムを幸福に生きた。あるいは、ナショナリズムという熱病を幸福に病んだ、と言った方が正解かもしれない。それは麻薬の快楽にほとんど似ている。
木村政彦という「“鬼”と呼ばれた柔道家」がいる。彼は「講道館柔道史における異能人の血の系譜上に生れた人間」である。木村は言う。「強さというのは、一種の麻薬です。そのためには、自分らは狂ったようになってしまうんです。何でもできるし、どんなに辛い練習であろうと、それに耐えられてしまうんです」ここには垂直に燃え立つ焔を、生の環境としてしまった者の痛ましいまでの甘美な快楽が露呈されている。そしてこの燃え上がる焔の熱さは、明治の熱さであり、高度経済成長時代の熱さであり、そして太平洋戦争下の総力戦体制の熱さでもあろう。
まどろみと安らぎの「水」ではなく、屹立し闘争する「火」。荒ぶる「焔」を模倣することに疑いを持たぬ、そんなはた迷惑で魅力的な男たちが『東天の獅子』には犇めきあっている。夢枕は熱い。ことによると、この夏の異常な猛暑は、夢枕獏がTOKON10にメイン・ゲストとして参加することへの前祝いかなにかではなかろうか?連日、新聞・ニュースの話題を掻っ攫うほどに、気象天候を夢枕化してしまう夢枕獏は罪深いほどに熱い漢だなあ。TOKON10が開催される8月7日8日の東京都江戸川区は、埼玉県熊谷市を青ざめさせるほどに暑くなることは確実であるから、覚悟して参加されたし!
(石和義之)
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東京SF大全
2010-08-01T18:38:10+09:00
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東京SF大全37「塵埃は語る」(『少年科学探偵』より)
カーテンコール?(児童文学・小酒井不木・1926年) (『小酒井不木探偵小説選』(論創社「論創ミステリ叢書8」) (引用は本書によった)(〈子供の科学〉・1926年 → 『小酒井不木全集 第13巻 探偵小説短篇集』(改造社)・1930年 → 『少年科...
(児童文学・小酒井不木・1926年) (『小酒井不木探偵小説選』(論創社「論創ミステリ叢書8」) (引用は本書によった)(〈子供の科学〉・1926年 → 『小酒井不木全集 第13巻 探偵小説短篇集』(改造社)・1930年 → 『少年科学探偵集』(平凡社「少年冒険小説全集」)・1930年 → 『少年科学探偵』(春陽堂少年文庫)・1932年 → 『紅色ダイヤ』(世界社)・1946年 →『少年少女世界の名作文学 第48巻』(小学館)・1967年 → 『小酒井不木探偵小説選』(論創社「論創ミステリ叢書8」)・2004年) 誰しも「原点」がある。 あなたにとっての原点は何だろう? 私、宮野にとっては、この「塵埃は語る」である。小酒井不木による『少年科学探偵』シリーズの中の一篇だ。1961年生まれにしては、ずいぶん渋い、とか言われそうだが、もちろんそれなりの理由がある。 小酒井不木(1890年〜1929年)は日本における推理小説の草分け的存在である。江戸川乱歩にも大きな影響を与えた。この『少年科学探偵』シリーズは特に評価が高い。小学館の『少年少女世界の名作文学 第48巻』にも収められていて、宮野の世代でも手に取る機会の多い作品である。 主人公、12歳の塚原俊夫くんは、麹町に住んでいる。天才少年である彼は、科学知識と持ち前の推理力を駆使して難事件を鮮やかに解決し続ける。俊夫くんに探偵になることを勧めたのは、赤坂の叔父さんだ。 別に麹町でなくとも、赤坂でなくとも話は成り立つ気もするが、作中には東京の具体的地名がいちいち示される。 なぜだろうか? 小酒井不木は、この作品を発表する4年前、雑誌〈新青年〉1922年2月増刊号に載せたエッセイで次のように書いていた。 ある探偵小説の中に「紐育は世界中で最も安全な隠れ場所である」と書いてあった。倫敦にいると、スチーブンソンの書いた『新アラビア物語』の中の話も無理でないと思った。これに反して東京あたりではどうも奇怪な、大きな犯罪が事実ありそうにも思えぬし、また東京を背景として小説を書いてもさほど面白くなかろうと思う。 (「科学的研究と探偵小説」) さほど面白くなかろう……それでも、東京を舞台に作品を書いた。いや、だからこそ書いたのだ。そして、面白くするために工夫を凝らした。 更には、東京の地名が印象に残るようなストーリーを組み立てることを考えた。多分「塵埃は語る」は、そのひとつなのだ。 誘拐事件に巻き込まれた俊夫くんは、目隠しをされたまま自動車で連れ回され軟禁される。軟禁場所では汽車の通る音を聞き、また、雨戸の節穴から寺の屋根と門を見る。 (注意! この先、論の展開のためにやむを得ないネタバレあります。) 再び目隠しをされ、連れ回された後に解放された俊夫くんは、一味の隠れ家を見事につきとめる。彼は隙をみて軟禁場所から塵埃(ほこり)を持ち帰っており、それを顕微鏡にかけて言うのだ。「塵埃(ほこり)の中に、小麦の粉とカルシウムと粘土の粉とがまじっているのです。ですから製粉工場とセメント会社が近くにあって、しかも、鉄道が通っているところです」 それに、刑事がこう応じる。「それなら、日暮里です」 「では、日暮里のお寺を捜せばよい」 かくして、一件落着。 先のエッセイで、ハドソン河畔にポーの小説を、ベーカー街にシャーロック・ホームズを、巴里の街にルコック探偵を思い浮かべる「この上ない楽しさ」を述べた小酒井不木である。その楽しさが東京でも実現できないかと考えたのだろう。 その試みは成功した。私事で恐縮だが、地方出身の宮野が初めて意識した東京の地名は「日暮里」だった。この作品とともに、記憶に焼きついた。いまだに電車に乗って日暮里のあたりを通り過ぎる時は、「ここは、俊夫くんが軟禁されたところね♪」と思ってしまう。 また、この作品は宮野を「SF評論」に目覚めさせるきっかけにもなった。 「これは嘘だ。顕微鏡だけで、小麦の粉とカルシウムと粘土の粉とわかるわけがない」 本をのぞきこんだ宮野の父が、無粋なツッコミを入れてきたからである。 「近くに製粉工場とセメント会社があるから、それによって推測するということなら話はわかる。その逆は無理だ。しかも、この量で、この時代の顕微鏡で?」 それがいかにあり得ないことであるかを、父は小学生の宮野に説いた。その内容はほとんど忘れてしまった。多分、小学生の理解のレベルを超えていたのだろう。宮野が理解できたのは、この話が分析化学を専門とする科学者の父の逆鱗に触れたということだけだった。 「科学探偵だって? これのどこが『科学』なんだ? 全くのデタラメじゃないか」 父の決めつけに「なんか違う」と思いながらも、反論できなかった。そのための言葉を持たなかったのだ。 その10年後、大学生となった宮野は、学園祭で、あるSF作家の講演を聴いた。彼は、SFというジャンルの成立について語った。「疑似科学こそ、SFの生命」 と述べた安部公房の有名な言葉もこの時初めて知った。「仮説によって日常性から飛翔するのがSFであり、科学はその仮説を形象化するための素材にすぎない」 と聞いて、眼から鱗が落ちた。 「そうか! 『塵埃は語る』はSFだったんだ! 微量物質での場所の特定という仮説を形象化した作品なんだ!!」 作品の価値をこのような形で主張できるということに、宮野は深い感動を覚えた。 その後に、小酒井不木が日本SFの始祖のひとりとされる人物であることを知った。 そんなわけで、 「塵埃は語る」は宮野の原点である。「東京SF」の原点であると同時に、「SF評論」の原点でもあり、執筆活動の原点へと宮野を導いた作品ともなった。 これがなかったら、多分、宮野は今、ここにはいない。 (宮野由梨香) ) (日暮里駅)
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東京SF大全
2010-08-01T00:55:00+09:00
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東京SF大全終了 そしてカーテンコールのご挨拶
さて、第四十九回日本SF大会、TOKON10の開催も間近に迫ってきた。思えばこの「東京SF大全」も、去年の11月から半年以上にわたって続いている。長いマラソンだった。初めは「一の日会」にちなんで、毎月1の付く日だけ、それも600字程度のガイドを連載していく予...
僕の心配は杞憂だった。SF評論賞受賞者の皆さんや、寄稿してくださった皆さんがた、原稿料も出ない、せいぜい藤田が頭を下げるぐらいしかしない無償の原稿だというのに、枚数は大量にオーバーする、書く日が足りないと言って日にちを追加する、特別企画をどんどん提案する、外部の書き手の方々を積極的に巻き込んでいく、あれも書きたい、あれを書かせろ、と、作品や作家、そして枠の奪い合いになる始末。SFへの愛と、何かを書きたいという気持ちが、本当に執筆者一同から溢れていた。
その後、この企画が好評だったのか、熱気が何か役に立ったのか分からないが、『SFマガジン 東京SF化計画特集』の企画も動くことになったのだが、このときがまた大変だった。マガジン誌上なので枠が限られている。枚数を増やせ、数を増やせ、これを入れろ、あれを何故入れないんだと、連日の怒りの激論で、僕はほとんど毎日ずっとパソコンに張り付いて、調整に明け暮れた。それも、刊行されてみるといい思い出であるが、その時は本当に連絡掲示板を開きたくなかった。
結局、僕は、「東京SF大全」と、SF聖地巡礼、スーヴェニアブックとが合わさったぐちゃぐちゃの状態で、東京を歩き回りながら、東京SF作品を読んで、評論賞チームと毎日激論をしていたわけだ。これも、『ビューティフル・ドリーマー』みたいなもので、お祭りのようだが、だんだんと疲れてくるのも事実。友引町もだんだんと廃墟になってきて、これはこれでスコーンと抜けて気持ちいいのだが、これ以上続けると東京も廃墟になってしまうのではないかという危惧が囁かれるようになった。「東京SF大全」は、岡和田晃氏作成のリストによると残り360作もあるようである。だが、僕らはもうここで止まることにした。
とは言え、以降も、ロバート・フリップを見習い、「スモール・モバイル・インテリジェント・ユニット」的に、なんらかの活動は柔軟に続けていくことだろうと思われる。
なので「東京SF大全」としては、これが最後の投稿になる。「カーテンコール」と称して、全員が再び登場し、大会当日までにもう一本、「東京SF大全」をお送りすることにした。
最後になりますが、「東京SF大全」を執筆してくださった皆様、企画をしてくださり、書く場所を与えてくださったり原稿を読んでいただいて暖かく見守ってくださった小谷真理・巽孝之両氏、「東京SF大全」をやっているからという言い訳でなんとなく会議をサボっている僕を生暖かく見逃してくれていたTOKON10実行委員会の皆様、細かい原稿とゲラのチェックに根気強く付き合ってくださった『SFマガジン』編集部の方々、そして山岸真氏やタタツシンイチ氏・井上雅彦氏など、「東京SF作品」をわざわざ大量に調べて教えてくださった多くの方々に、そしてまだ世間的には知名度の高くない僕らの原稿にお付き合いいただいた皆様に、深くお礼を申しあげます。
祭りの本番はまだこれからですが、お祭り本番への滑走路である「東京SF大全」はこれにておしまい。さよならの挨拶に、カーテンコールをお届けいたします。では、会場でお会いしましょう!
(藤田直哉)
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東京SF大全
2010-08-01T00:42:59+09:00
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特別掲載:東京SF論「電脳金魚の大冒険」
宮野由梨香
今、催されている芸能山城組の「第35回 ケチャまつり」(7月29日(木)〜8月1日(日))に行ってきた。場所は西新宿、三井ビル前の55HIROBAである。初日は雨模様だったが、風の音とケヤキのさ...
宮野由梨香
今、催されている芸能山城組の「第35回 ケチャまつり」(7月29日(木)〜8月1日(日))に行ってきた。場所は西新宿、三井ビル前の55HIROBAである。初日は雨模様だったが、風の音とケヤキのさやぐ音が絶妙な効果をあげていて、屋外ならではの音を味わうことができた。
西新宿といえば、日本SF作家クラブ発祥の地である台湾料理店「山珍居」にも近い場所である。新宿副都心の高層ビルの谷間……ここで毎年、たとえば「AKIRA」の曲などが芸能山城組によって奏されていることを考えると、なかなか興味深いものがある。
9か月前、はじめてTOKON10の案内にある「電脳金魚の大冒険」という文字を眼にした時、宮野が思い浮かべたのは『黄金鱗讃揚』だった。芸能山城組が1978年に発表したアルバムに収められていた曲である。アルバムのタイトルにもなってCD化もされている。
この曲は、「東京SF」である。
あえて、そう断言する。
荘重な宗教音楽が、金魚売りの「声」に乗っ取られていくさまは、パロディというのには、あまりに刺激的だった。
本稿では、土地の固有性と音を通して、「東京SF」を考えてみたいと思う。
○
坂を登りながら、後輩は言った。
「東京の地形って、変ですよね?」
宮野がまだ大学生だった時のことだ。
もより駅から、大学にたどりつくには、けっこう急な坂を登らなくてはならなかった。登ったとたんに少し下り、また登る。
「わけのわからない坂が多くて疲れます。……この坂、いったい何ですか? どうして、こんなにいきなりアップダウンするんですか? 京都には、こんな変な坂、ありませんよ」
彼女は京都出身だった。
不注意な宮野は、この時はじめて、東京の地形の特殊性を意識した。
「確かに、坂が多いわね。ここ地名からして、○○坂だし」
「そうなんですよ。○○坂とか、○谷とか、○窪とか。東京って、そんなのばかりですよね。ここって関東平野じゃないんですか? 平野って、平らだから平野というんじゃないんですか?」
この疑問を解いてくれたのが、中沢新一の『アースダイバー』(講談社・2005年)だった。
縄文海進期には、東京は海がかなり奥まで入り込む、複雑なフィヨルド状の海岸地形をしていた。それによって、現在の東京の構造を解いていく。とてもSF的でエキサイティングだった。「おおお」と眼が洗われるような気持ちがしたものである。
もちろん、これは神話の一種である。神話もまた、土地の固有性を語るための試みだ。
ここは、ここであって、他のどんな場所とも交換不可能である。同じ面積の別の場所と取り換えることなど決してできない場所である。
そういう思いを否定するのが「近代」であったことは言うまでもない。
だが、「近代」が否定しようとしたのは「土地の固有性」そのものだったのだろうか?
そこは、もう少し掘り下げて考えてみる必要がありそうである。
○
カリフォルニア出身のガードルート・スタインは、移住先のパリから帰郷した時、次のように言ったそうである。
When you get there,there’s no there there.
これについて、リービ英雄は次のように述べている。
カリフォルニアの自然は、実にショッキングなものである。
スプリンクラーを止めたらたちまち砂漠にもどる芝生の上を歩きながら、広々とした、雲一つないコバルト色の空におどろく。最初にその下を歩いた日には、その空にこの惑星のものとは思えないほど「異質」でショッキングな美しさを覚えてしまった。(中略)
there にはthereがない、そこには「そこだ」という実感がない。カリフォルニアに1か月もいればスタインの名言の内容はよく分かるのだ。(中略)
日本の知識人も、ヨーロッパの知識人も、二十世紀において文化のたどりついた空洞化という意味で「アメリカナイズ」を言うとき、それは実は「カリフォルニアナイズ」を意味しているのではないか。
(「『there』のないカリフォルニア」)
その意味では、坂だらけ、歴史と伝説だらけの東京は、thereに満ちあふれている。
単なる面積で切り売りされることを、土地そのものが拒むような場所である。
一方、東京は、かなりの面積の土地を、「埋め立て」によって確保してきたという歴史を持つ。
埋め立てられたばかりの土地には、thereがない。
これは、東京を考える上で、非常に重要なことである。
その東京で生きるわれわれにとっても。
○
東京はゴジラに襲われた。
冒頭で船を襲うゴジラは、もちろん「水爆」の象徴である。
だから、ゴジラは国会議事堂を襲う。日本は世界で唯一、「原爆投下」がなされた国だからだ。それは、世界史上というより、人類史上、大きな出来事であった。
講談社『日本の歴史』全26巻の冒頭は、次のような言葉で始められている。
人類社会の歴史を人間の一生にたとえてみるならば、いまや人類は間違いなく青年時代をこえ、壮年時代に入ったと言わざるをえない。
それは、1945年8月6日、日本列島の広島に始まった。(中略)
このアメリカによる原爆投下は、ごく短期的には「大日本帝国」の降伏、その敗戦をもたらす決定的な契機となったが、人類が自らを滅しうるだけの巨大な力を、自然の中から開発したという疑う余地のない厳粛な事実を、多大な犠牲を払って結果的に明確にしたという点で、人類の歴史に決定的な時期を画することになった。(中略)
人類がたとえ多少の犠牲をはらっても、豊かさを求めてひたすら自然の開発を押し進め、前進することになんの疑いも持たなかった「青年時代」は、もはや完全に過去のものになった。広島・長崎への原爆投下によって、人類がはじめて体験した核兵器による被害の恐るべく驚くべき実態を、さらにさらに広く世界の人々に訴え、人類が自らの中に?死?の要因をはっきりと抱くようになった「壮年時代」にふさわしく、注意深い慎重な歩みを進め、死滅の危険の元凶の一つである核兵器の廃絶を実現するための条件を広くつくり出すことは、われわれに課せられた使命といわなくてはならない。(中略)
人類の直面する死滅にいたる危険はこのような兵器だけではない。(中略)
自然の開発が、自然を破壊して人類社会の存立を危うくし、そこで得られた巨大な力、あるいは極微の世界が人類を死滅させる危険を持つにいたったのである。
(『日本の歴史0巻』網野善彦『「日本」とは何か』講談社 ・2000年)
映画『ゴジラ』は、このような時代の科学者の苦悩をみごとに描いていた。
人類の歴史ということを考えた時、現在が未曽有の転換期にあたることは言うまでもない。これだけ変化の激しい時代が、乱世でなくて何だろうか?
かつて、民族のサバイバルということを考えた時、多大な威力を発揮したもの。
近代のシステムが前提とするような、ものの捉え方や感じ方や考え方。それを踏まえた社会システム。
人類全体のサバイバルということを考えた時、果たしてそれらは有効なのか?
もちろん、既に答えはでている。
では、なぜ、我々はそれらをいまだに捨てられないのか?
それは、「改良」可能なものなのか?
○
地球にとって、人類とは何なのだろう?
どうして「近代化」ということは起きたのだろう?
必然なんだろうか? 偶然なんだろうか?
かつて、環境問題は「自然VS人間」という図式で語られることが多かった。
現在は、そのように単純な捉え方をしないのが普通である。われわれが「自然」と認識してきたような、例えば日本における田んぼと里山に象徴されるような風景をつくり上げたのは、人間であることがわかってきたからだ。しかも、どうやら「里山」は荘園制度によって成立したものであるらしい。
平安時代の大開発によって形成された荘園的世界は、それまでの不安定な集落とは異なり、今日の集落にもつながる安定した集落を出現させた。災害のみをもたらしてきた神=自然は、水などのめぐみをもたらす存在として村落の中心におかれ、慈愛に満ちた菩薩や仏の顔を前面に出すようになったのである。
(飯沼賢司『環境歴史学とはなにか』(山川出版社・2004年)49頁)
言うまでもなく、平安時代は仏教が日本に浸透していった時期でもある。
この時期の仏教説話こそ、現在のSFと同質のものではないかと宮野は考えたことがある。このことについては、いずれ稿を改めて論じることにしよう。
○
ガムランの音は、赤ん坊をあやすガラガラの音とよく似ている。
芸能山城組が奏でる「黄金の雨」という曲を聴いた時に、そう思った。
赤ん坊が泣いたとする。
乳は飲ませたばかり。オムツも濡れていない。暑くも寒くもない。
「何で泣くのよ? 寝てくれないと、私も眠れないのよ また3時間後には『お腹すいた』って泣くんでしょ? それまで、せめておとなしくして、母を少しでも眠らせてよ」
と言っても、言葉はまだ通じない。
母は考える。
「だいたい、この『泣く』って何なのよ? 泣くことによって呼吸器官を鍛えるんだとも習ったけど、そういう機能的な問題とも違う気がするのよね」
妊娠中に「やはり直立歩行は間違っている」、出産時に「こうまで介助を必要とするなんて、もう種として終わっている」と思った母である。泣きやまない赤ん坊を見て「これらは、すべてセットかもしれない」と気がつく。
人類はやはり群れを形成する動物なのだ、と思う。単独で育てていて、こんな状態で外敵に襲われたらひとたまりもない。よく通る泣き声は、敵だって聴きつける。敵ではなくて、仲間が来てくれると信じているからこそ、赤ん坊は泣く。
その信頼の根拠は何か?
もしかして、無事、出産できたということにあるのかもしれない。出産が仲間の存在と、「社会」を前提とするのなら、育児環境もそれを前提にしていいはずだから。
母は、泣いている子を抱き上げる。
「仲間や保護者が、声の届く範囲にいることを確認したいのかな? ほら、抱っこしたよ。泣きやんでおくれ」
それで、泣きやむこともあるが、泣きやまない時もある。
「まだ、何かあるの? もしかして、存在の根本的不条理に向かって泣いているの? それは、母にはどうしようもないわよ。それとも未生怨? 今さら遅いから、あきらめるのよ。解決策は生きている限り無いんだから、気をまぎらして凌ぐしかないわね、ほら」
ガラガラを振ってやる。オルゴールつきメリーを回してやる。
そして、子守唄を歌う。
子守唄といっても様々ある。いろいろ試してみる。「ヒルダの子守唄」なんてのも歌ってみる(笑)。これも含めて、近代の作者つき子守唄は用途に適さないことがわかる。西洋のものでは、子守唄よりも、むしろ讃美歌の方がいい。パレストリーナも悪くない。
しかし、いちばん寝付き率が高いのは、日本古謡であることが判明する。
中でも「道端の黒地蔵」という、単純なメロディが山の手線構造でエンドレスに繰り返される伝承子守唄がよく効く。添い寝していると、いつのまにか、歌っている母も眠ってしまう。
母は気がつく。
どうやら、赤ん坊が眠るのには、ある種の「音」が必要なのだ。
13世紀に神聖ローマ帝国のフリードリヒ2世が試みた「沈黙の育児」の結果、赤ん坊がすべて死んでしまったのは、言葉の有無以前に、音そのものが無かったせいかもしれない。
そして、数年後、第2子出産のために、入院した母はつぶやく。
「……子供を抱っこしていないと、こうも眠れないとは!」
寝かしつけていた母は、こうしていつのまにか、寝かしつけられる側になっている…。
○
土地は常に音を奏でる。
土地の固有性と音は、切っても切れない関係にある。
音は、その土地が今どういう状況にあるかを端的に示すものである。
芸能山城組を率いる山城祥二(大橋力)は、「人類本来の音環境」について、次のように述べている。
私たち人類にとって理想の音環境はありうるのだろうか。あるとすればそれはどのようなものなのだろうか――。(中略)地球の生命は原則的に、その種が誕生した棲み場所、つまり進化的適応を遂げ種固有の遺伝子が構成される揺籃となった生態系のもつ環境とちょうど鍵と鍵穴のようにぴったり合った活性を、遺伝子およびそれが設計した脳・神経系の中に、〈本来のプログラム〉としてもっている。(中略)このような種に固有の〈本来の環境〉にひびく固有の音の構造こそ、遺伝子に約束された理想の音環境の具体的な姿に他ならない。
(大橋力『音と文明―音の環境学ことはじめ』(岩波書店・2003年)70頁)
ガムランの奏でる音楽は、「人類本来の音環境」つまり人類発祥の地である熱帯雨林の音に非常に近いものだという。(同書63頁)
その熱帯雨林の「人類本来の音環境」での生活は、狩猟・採集を基礎とするものであり、「農耕」というのは決して本来的なものではないと、山城は主張する。
人類本来の環境である熱帯雨林に生きる森の民たちは、人類本来のライフスタイルにのっとって、その棲む森から必要な食べ物を直接狩猟し採集すればよい。(中略)
ところが、森を捨ててこうした恵みがえられない環境の中に棲み場所を移した人間たちは、もともと森が自動的に与えてくれたはずの食糧を自分たちの手であらためて作り育てなくてはならなくなる。そこで、本来は必要がなかった農耕や牧畜という〈適応行動〉を余分に行い、森に棲んでいたときに食べていたものに近い効果をもつ食糧を作りだして生きることになる。
(同書86頁)
そして、近現代文明について、それはむしろ農耕という本来的ではない行動から逃れ、より本来的である「狩猟・採集」に戻ろうとする行為として解釈できる、と指摘する。
近現代文明の誇る科学技術とは、熱帯雨林を遠くはなれた人間たちが、遺伝子プログラムに導かれて本来の森の環境や生活との近似を計る適応行動の一体系に他ならないと信じられるのである。
この実態は、現代型ホモ・サピエンスのDNAが、森の生活を本来のものと設定した状態のまま今なお微動だにしていないであろうことを強く想定させる。
(同書87頁)
この考え方は「近代文明」がどうして世界中に拡散したのかについて、説得力のある見解を提示しているように思う。
もしかしたら、近代が否定しようとしたのは「土地の固有性」そのものではなく、「土地の固有性」に強く結びつけられていた農耕ストレスだったのかもしれない。だから、農耕ストレスとは無縁な土地(日本においては埋め立て地とか、北海道とかが、それにあたる)に強く引き付けられるものを感じたという解釈も成り立つ。
そして、もちろん、狩猟・採集こそ「土地の固有性」を前提とする行為である。
その一方で、科学技術の成果が、それこそ人類滅亡の危機を招いていることも、やはり事実なのである。そこを、どう考えどう対処していくか。
何せ、未曽有の過渡期であるから、状況は刻々と移り変わる
有効な方策は、現象の裏側に動くシステムを見抜くことによってしか得られないだろう。
SF的発想は、そのために是非とも必要だろう。
(個人的見解だが、SF者には「農耕ストレス」への耐性が低い人が多い気がする)
ジャパニメーションが、世界を席巻している理由というのも、これから「近代」の問題と結び付けて、しっかり考えなくてはならないテーマの一つである。
東京という場所はその意味でも非常に重要であろうし、20年ぶりにこの地で日本SF大会が行われる意味は大きい。
○
おお
黒き黎明は黒く燃え
おお
溶けゆくものの主よ
聖なる美麗を持って幻象の真相なるを描きあれるや
(中略)
おお
観よ
天地に気は充満たり
おお
観よ
見てらっしゃい 買ってらっしゃい
黄金鱗魚(きんぎょ)
金魚ぇ金魚
石焼き芋
竹や竿竹
豆腐
毎度お馴染の塵紙交換
さて お立会い 取り出したるは蝦蟇のあぶら……
(「黄金鱗讃揚」作詞…耶摩城竜、作曲…山城祥二)
○
金魚の養殖は、アップダウンに富み、湧水の豊富な江戸の坂下の土地で盛んに行われたという。
金魚は人工環境のもとでしか生きられない生物である。
我々、人間も、人工環境でしか生きられない。
それは、熱帯雨林の森の中でも同様である。仲間とともにあることは、すなわち「人工環境」の中にあるということなのだ。
「農耕ストレス」のない「森の民たち」であっても、仲間が営む社会がなければ、子を産み育てることさえできないのだから。
……まあ、だからね。
我々は「電脳金魚」なのだよ。
日本SF大会は、年に一度のお祭りである。
お祭りには、金魚掬いがつきものだ。
掬いに、あるいは、掬われに来てね。
狩猟・採集の欲望を満たしてね。
もちろん、電脳金魚も、SF都市たる東京のいとしい一部なのである。
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東京SF論
2010-07-31T07:05:52+09:00
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ご参加ゲスト一覧
ご参加予定のゲスト一覧です。随時更新します。
(8/3現在。敬称略、アイウエオ順)
※ご都合に変更のある場合もあります。ご了承ください。
青山智樹 / 赤井孝美 / 赤尾秀子 / 秋の『』 / アサウラ / 浅尾典彦 / 浅暮三文 / 朝比奈祥和 / 東浩紀 / 阿部毅 ...
(8/3現在。敬称略、アイウエオ順)
※ご都合に変更のある場合もあります。ご了承ください。
青山智樹 / 赤井孝美 / 赤尾秀子 / 秋の『』 / アサウラ / 浅尾典彦 / 浅暮三文 / 朝比奈祥和 / 東浩紀 / 阿部毅 / 英保未紀 / 天野邊 / 天野ミチヒロ /
新井素子 / 新井リュウジ / 荒巻義雄 / 安斎昌幸 / 飯田尚史 / 井口健二 /
池田憲章 / 石川喬司 / 一色登希彦 / 石黒昇 / 石飛卓美 / 石和義之 /
伊豆平成 / 礒部剛喜 / 板橋克己 / 一本木蛮 / 伊藤靖 / 伊野隆之 / 井上幸一 / 井上剛 / 井上知 / 井上雅彦 / 伊平崇耶 / 今岡清 / 岩本晃市郎 /
インガ・ペルセフォネー / 上田早夕里 / 上山道郎 / 牛島悦哉 / 牛場潤一 /
内田昌之 / 内田美奈子 / 内野理香 / 内山靖二郎 / 冲方丁 / 江藤巌 / 榎本秋 / 円城塔 / 遠藤雅伸 / 大口与枝 / 大倉貴之 / 大高寛之 / 大野典宏 /
大野万紀 / 大場惑 / 大林憲司 / 大宮信光 / 大森望 / 大森田不可止 /
岡野栄之 / 岡部いさく / 岡本賢一 / 小川隆 / 岡和田晃 / 荻野慎太郎 /
荻野目悠樹 / おりぃぶぅ / Oジロー / 開田あや / 葛西伸哉 / 梶尾真治 /
梶田秀司 / 樫原辰郎 / 柏崎玲央奈 / 加藤直之 / 門倉純一 / 金田淳子 /
金田益美 / 狩野あざみ / 加納一朗 / 樺山三英 / 神村靖宏 / 川北紘一 /
河崎実 / 川又千秋 / 菊川幸夫 / 菊池誠 / 北原尚彦 / 日下三蔵 / 熊倉晃生 / 久美沙織 / 倉阪鬼一郎 / 小池照男 / 高齋正 / 河野達也 / 小飼弾 / 五代ゆう / 木立嶺 / 小谷真理 / 小西優里/図書の家 / 小浜徹也 / 小林淳二 /
小林大介 / 小宮山民人 / こやま基夫 / 近藤信宏 / 斉藤英一朗 / 齋藤恵美子 / 齋籐誠 / 酒井昭伸 / サカイノビー / 堺三保 / 寒河江弘 / 坂倉基 / 佐川俊彦 / 笹川吉晴 / 佐々木淳子 / 笹本祐一 / 佐藤嗣麻子 / 佐藤竜雄 / 佐藤正明 /
佐藤優 / 里見哲朗 / 佐原晃 / 澤和孝 / 夏笳 / 塩澤快浩 / 鹿野司 / 重馬敬 / 篠崎砂美 / 篠崎雄一郎 / 柴田孔明 / 柴野幸子 / 芝村裕吏 / 島田邦弘 /
嶋田洋一 / 縞田理理 / 清水直樹 / 全弘植 / 白石朗 / 白岡真紀 / 新城カズマ / 新上博巳 / 新戸雅章 / 新藤歩 / 水鏡子 / 杉山潔 / 鈴木順 / 鈴木貴昭 / 鈴木とりこ / 瀬名秀明 / 添野知生 / 高千穂遙 / 高槻真樹 / 高野史緒 /
高橋良平 / 宝野アリカ / 田口清隆 / 竹井春生 / 竹内博 / 竹岡啓 /
タタツシンイチ / 太刀川京 / 立原透耶 / 巽孝之 / 田中桂 / 田中公平 / 谷甲州 / ダニー・ジョン・ジュールズ / 環望 / 辻真先 / 都築由浩 / 出山知宏 /
寺島令子 / 寺田克也 / 天神英貴 / 東野司 / 朱鷺田祐介 / 徳川広和 / 飛浩隆 / 富永浩史 / 豊田有恒 / とり・みき / 鳥居周平 / 内藤みか / 永久保陽子 /
中里友香 / 長澤唯史 / 中嶋康年 / 永瀬唯 / 中津宗一郎 / 中西豪 / 中林圭 / 中村融 / 中村浩美 / 永山薫 / 長山靖生 / 七月鏡一 / 浪花愛 / 難波弘之 / 仁木稔 / 西村一 / 二宮茂幸 / 野上武志 / 野尻抱介 / 野田篤司 / 萩尾望都 / 長谷川裕一 / 波多野鷹 / 波津博明 / 葉月博規 / 早川修(HAYAKAWAZ) /
早川優 / 林譲治 / 林久之 / 林芳隆 / 早見裕司 / 腹巻猫 / 破李拳竜 /
ピアニート公爵 / 氷川竜介 / ひかわ玲子 / 日暮 雅通 / 聖咲奇 / 檜山完 /
福田和代 / 藤井直子 / 藤岡真 / 藤崎慎吾 / 藤崎寛之 / 藤田直哉 / 藤田雅矢 / 藤本由香里 / 不破了三 / ペトル・ホリー / 片理誠 / 星敬 / 細田聡史 /
牧眞司 / 牧紀子 / 牧村光夫 / 増田まもる / 松浦晋也 / 松山洋 / 眉村卓 /
水由章 / 三橋順子 / 皆川ゆか / 三村美衣 / 宮風耕治 / 夢〜眠 / 室住信子 / 望月卓 / 本林良太 / 桃井はるこ / 森奈津子 / 森岡浩之 / 森川嘉一郎 /
森下一仁 / 森瀬繚 / 八代嘉美 / 八杉将司 /
ヤナ・アシマリナ / 柳原望 / 山内則康 / 山岸真 / 山口優 / 山崎貴 / 山崎つきよ / 山崎幹夫 / ヤマダトモコ / 大和眞也 / 山野浩一 / 山之口洋 / 山本直樹 / 山本弘 / 夢枕獏 / YOUCHAN / 横道仁志 / 横山信義 / 吉浦康裕 / 吉崎航 / 吉見隆 / 米澤英子 / 梁清散 / 渡辺真帆 / 渡部真人
(以上、290名)
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更新情報
2010-07-31T04:25:33+09:00
tokon10
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tokon10
-
http://blog.tokon10.net/?eid=1067933
もうすぐですね
参加者のみなさま
2010TOKON10実行委員長のマダムロボです。
早いものでもう七月も終わり、月初めに日記を更新しなきゃ、と思っているうちにもう一週間前になってしまいました。ぐぁはっ(喀血
実行委員会では直前のバタバタに追いまくられています。
そして形もびし...
2010TOKON10実行委員長のマダムロボです。
早いものでもう七月も終わり、月初めに日記を更新しなきゃ、と思っているうちにもう一週間前になってしまいました。ぐぁはっ(喀血
実行委員会では直前のバタバタに追いまくられています。
そして形もびしっと決まってまいりましたよ。え?今頃って言わないでね、だいたいそういうもんではないですか?w
ここへ来て新しいゲストも増えました。なんと200人ものゲストですよ、参加者5人につき1人のゲストということになります。なんと!豪華な。
スタッフは六日から会場近くに泊まり込みです。私も家族を捨てて三泊四日のお泊まりですよ。
来週の今頃はもう大会なんですね、この二年間のすべてがたった二日間で終わってしまうなんて、終わらないでずっと続けばいいのに… なんて言っていると「お前はラムかっ!?」とおしかりがきそうです。「みんな、ビューティフルドリーマーになるのよ!」
実行委員会スタッフ一同、忘れられない大会にするために残り一週間を全力で駆け抜けていきます!
では来週の土日に船堀でお会いしましょう。
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日記
2010-07-31T03:51:46+09:00
madamrobot
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madamrobot
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http://blog.tokon10.net/?eid=1067247
御礼
参加者のS様より、実行委員会にスイカをお贈りいただきました。ありがとうございました。
何よりもそのお気持ちがありがたいです。スタッフ一同喜んでおります。
猛暑の中ですが、間近に迫った大会に向けて実行委員会スタッフは準備作業に邁進しております。
会場で...
何よりもそのお気持ちがありがたいです。スタッフ一同喜んでおります。
猛暑の中ですが、間近に迫った大会に向けて実行委員会スタッフは準備作業に邁進しております。
会場で皆様にお目にかかれるのを楽しみにしております。
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日記
2010-07-28T13:18:02+09:00
trinity
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trinity
-
http://blog.tokon10.net/?eid=1065711
東京SF大全36 『さくらインテリーズ』
(小説・戸梶圭太・2003年)
(初出《ミステリマガジン》「さくらインテリーズ」2002年7月号、「志木乃が原プリゾナーズ」2002年10月号、11月号、「神南リベンジャーズ」2003年2月号〜4月号、「新宿サヴァイヴァーズ」2003年6月号、7月号...
(小説・戸梶圭太・2003年)
(初出《ミステリマガジン》「さくらインテリーズ」2002年7月号、「志木乃が原プリゾナーズ」2002年10月号、11月号、「神南リベンジャーズ」2003年2月号〜4月号、「新宿サヴァイヴァーズ」2003年6月号、7月号
→単行本『さくらインテリーズ』早川書房 2003年
→ハヤカワ文庫JA『さくらインテリーズ』2008年)
元中学校教師の高木は中学生の買春で、元図書館司書の鳥越はストーキングで、元考古学者の藤守は遺跡の捏造で、それぞれホームレスにまで落ちぶれて、新宿の片隅にある児童公園へと流れ着いた。世代も、学歴も、知的レベルもおおよそ似通っている彼らは、自分たちのことを「さくらインテリーズ」と呼んでいた……という舞台立てからはじまるこの物語。
東京の裏面にあるホームレスの世界を主題にした小説なら多々あれど、一切の美化を加えず、いささかの共感も交えず、彼らのことを徹底的にどうしようもない激安人間として描き切ることが出来るのは、やはり戸梶圭太をおいてない。
何せこのホームレスたち、自分のことをインテリと名乗っているあたりからもわかる通り、どうしようもない理由で転落したくせに、未だにプライドを捨て切れないでいる。だから、うっぷんのはけ口として、自分よりなお弱い人間を求める。つまり社会のヒエラルキーの最低辺に位置するホームレスのコミュニティの内部にさえ、さらなるヒエラルキーが存在する。“弱者がさらなる弱者を食い物にする”という図式それ自体は、戸梶の小説に一貫している。けれど、この図式が、ホームレスの行動様式の説明に使われるとき、抜きん出たリアリティを発揮していることもまた確か。
同じ著者には『東京ライオット』という作品もあって、東京の下町を舞台にした話だという点から言って、むしろそちらを取り上げるべきだとお考えの向きもいるかもしれない。けれども、この『さくらインテリーズ』の何が面白いかと言うと、2002年から2003年のあいだ『ミステリマガジン』で連載していたこの小説が、まだ「格差社会」という言葉も広まっていなかった時期にあって、数年後の東京に色々とリンクする発想をしていた点である。その例をひとつ挙げると、この小説を読めば、一昨年の年末に話題になった「派遣村」の先駆を見ることが出来るはずだ。とは言っても、そこにあるのは、「貧乏人がお互いを助け合う世界」ではなくて、文字通りの意味で「貧乏人がお互いを食らい合う世界」なのだけれども。
この『さくらインテリーズ』が、執筆時点から近未来の世界を描いた小説だとするならば、だいたい同じくらいの時期に『文藝春秋』で連載していた『CHEAP TRIBE ベイビー、日本の戦後は安かった』は、昭和史の裏面を描いた近過去小説という意味で、ちょうど対照的な作品だと言える(余談ながら「藤守」は名前だけなら『CHEAP TRIBE』にも登場する)。さらに言えば、“主人公(たち)が、宮城県の架空の土地「志木乃が原」で強制労働をさせられる境遇を脱出して上京する”という物語の筋立ての点からも、両作品はパラレルな関係にある。そして、このふたつの物語の中で、「東京」を代表する土地に見立てられているのが「新宿」だ。
例えば、『CHEAP TRIBE』の主人公の沼田永吉は、とある犯罪を犯して収監され、里親に引き取られて宮城に帰る選択を迫られるのだけれど、彼は翻意して、東京に留まることを決意し、タクシーに飛び乗る。そのとき彼が咄嗟に運転手に告げる行き先が新宿なのだ。永吉は、新宿と言ったのはなぜだろう、と自問して、自分にもっとも馴染みのある大きな街だから、と結論づける。新宿こそ東京の中でもっとも東京らしい土地、イメージの中で東京の中心に位置する土地だという意識が、永吉の決断の背後に見え隠れする。
『さくらインテリーズ』の場合、物語は、新宿の児童公園で暮らすホームレスたちが、農業を学んで人生の再出発という甘言にだまされて、志木乃が原の強制労働施設へと連れ去られ、紆余曲折あって数年後に帰ってきたら、東京はすっかり様変わりしていた、という一種の浦島譚のおもむきを呈している。『さくらインテリーズ』の描く近未来の新宿では、街頭防犯カメラ網によって、美観を損なうゴミのポイ捨てが厳しく取り締まられる一方で、ホームレスの死体は道にゴロゴロ転がっている。自立支援も生計を立てる手段も奪われたホームレスたちが生き残るには、それこそ路傍の死体の肉を食べるくらいしか道が残されていない。そんなものすごい世界が東京だと言われると首をかしげざるを得ないけれど、実は物語のはじめの方でさりげなく描写されている新宿駅のアナウンス(「――ここは、多くの人が利用する公共の場所です。ここでダンボールを敷いて寝起きをしたり、煮炊きをしたり、物品を販売したりすることは都の条例で禁止されています」 )が、少しばかり過激なかたちで現実化しただけだと思えば、理屈は通る。
要するに、物語の冒頭には、新宿の一角の児童公園に過ぎなかったホームレスのテリトリーが、物語の最後には、新宿全体へと拡大しているのだ。そして、この現象は、もともと社会の最低辺にあって見えない存在だったホームレスが、正真正銘人間ではなくなって、人肉食いのゾンビとなったのと軌を一にしている。なぜって、そもそもホームレスとは、公共の場所を不法に占拠する「場違いな存在」なのだ。ホームレスのテリトリーとは「いるべきでない場所」だ。ということは、ホームレスが人間で無くなれば無くなるほど、或る意味で、あらゆる場所がホームレスの場所になりうるわけである。こんな具合に、富裕層と貧困層の社会の二極化が極限まで進行して、人間と非人間の分化へと変容した世界としての東京を、この小説は提示する。けれども、いくらカリカチュアライズされているとはいえ、その元となる発想は、あくまでも現実の東京から汲み取られたもののはずだ。
それは、端的に言えば、この世にはどうしようもない人間が存在するのだという、ただそのことに尽きる。ここで言う「どうしようもない」というのは、ぼくたちのような「富裕層側の人間」には、認識さえ出来ないほど異質な存在だということだ。戸梶圭太本人の言っていたことなのだけれど、じっさいに東京で、そして日本で起きている犯罪というのは、ぼくたちのような知的階級には想像もつかないほど、陰惨過ぎたり、馬鹿過ぎたり、下らな過ぎたりして、それをそのまま小説にしたところで、逆に「リアリティ」がなくて、読み物として成立しないのだという。「現実は小説よりも奇なり」。だとすれば、そんなにも異質な世界の住人について、美化したり、共感を込めたり、救済したりする物語というのは、かえってうさん臭さが鼻につく。ぼくたち知的階層のすることと言えば結局、何をどうあがこうと、「下層階級なんてこんなものだろう」という勝手なイメージをつくりあげて、それを安全な高みから楽しむ点で変わりないのだから。したがって、ホームレスをゾンビ扱いして大虐殺するこのお話、実は非常に「誠実な小説」だとさえ言える。
(横道仁志)
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東京SF大全
2010-07-21T23:50:22+09:00
tokon10
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tokon10
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http://blog.tokon10.net/?eid=1062939
東京SF大全35『シャドウラン』
『シャドウラン』(ロールプレイングゲーム、ロブ・ボイルほか、1989年/第4版2005(日本語版2007)年)〜
いまや人間の神経系を一種の受信アンテナに利用することが可能となった。精神を破壊するある種の情報パターンを、大衆雑誌小説に埋め込むことができる。そ...
『シャドウラン』(ロールプレイングゲーム、ロブ・ボイルほか、1989年/第4版2005(日本語版2007)年)〜
いまや人間の神経系を一種の受信アンテナに利用することが可能となった。精神を破壊するある種の情報パターンを、大衆雑誌小説に埋め込むことができる。それは純真無垢な疑いを知らぬ読者の脳を、完全に再プログラム化できるのだ。しかもこうした読者は、そのおぞましいアイデアやイメージを、生涯消し去ることができないままに、保持し続けるのである。(『邪眼(イーヴル・アイズ)』序文、ブルース・スターリング)
周知の通り、初期サイバーパンクは「運動」だった。
文字通りに革命的なアンソロジー『ミラーシェード』(ブルース・スターリング編)をことのはじめに。
『ニューロマンサー』(ウィリアム・ギブスン)に『スキズマトリックス』(スターリング)、それに『ウェットウェア』(ルーディ・ラッカー)に『重力が衰えるとき』(ジョージ・アレック・エフィンジャー)、そして『ヒーザーン』(ジャック・ウォマック)。
日本からは、「接続された女」に匹敵しうるキャパシティを誇る『邪眼(イーヴル・アイズ)』(柾悟郎)。
サイバーパンクは悲しいまでに儚く、だが美しき黄金時代を築いた。
それから……。
スターリングが「80年代サイバーパンク終結宣言」を書いて、初期の「運動」に一応の死亡宣告を行ない、ぼくたちがようやく気がついたのと前後し、サイバーパンクは単なる「黄金時代」のエピゴーネンと化してしまった。
断言したくはない。が、少なくとも、そう思われている気がする。
そして、サイバーパンクとは、まさに東京SFそのものだった。
『ニューロマンサー』の「千葉シティ」には、言うならば東京の夢が提示されていた。だが、10年後に書かれた『ヴィーナス・シティ』(柾悟郎)ではそれは横溢する幼児性に支配された美学なき「東京おたくランド」なるザンネンな代物に変貌してしまっていた(ただ、それでもなお、作品の全体からはサイバーパンクの熱が感じられた)。
とすれば批判されるべきは凋落を辿る時代性だろう。『ヴィーナス・シティ』からさらに15年以上が過ぎ去ろうとしている今となっては、『クローム襲撃』を目にしても、コンピュータの容量が現代的に見てありえないと愚痴る意見の方が目立つケースすらあったりする(タメイキ)。
でも、「エピゴーネン」だと思われているものは本当に「エピゴーネン」なんだろうか? 通説、あるいは時代の風潮において残骸と思われているものの中から、立ち上がってくる要因はないのだろうか。
サイバーパンクの遺伝子を受け継いだ作品群は、サイバーパンクを、ただ単にエンターテインメントのガジェットとして消費しただけの駄作として終わってしまったのだろうか?
◆
ここに『シャドウラン』というロールプレイングゲームがある。RPGといっても電源は要らない。紙と鉛筆さえあれば遊ぶことができる、ある意味とてもサイバーパンクらしいチープかつリーズナブルなゲームだ。
だけれどもこのRPG、初期サイバーパンクの革新性を、そのコンセプトにおいて熱く受け継いでいるゲームのひとつだと言っていい。
「5128年ごとに歴史のサイクルが区切られ、2011年12月24日に世界は第六のフェイズに移行する」(高橋志臣による要約)古代のマヤに伝わる神話。その神話が現実となり、サイバーパンクな近未来と幸福な結婚を果たしたら……。
これが『シャドウラン』のコンセプトだ。
わかりやすさと利益を最重要視する大企業は、リベラリズムの徹底にひた走り、ネイティヴ・アメリカンや失業者たちの自治組織はテロ活動でわが身を燃やす。
日本は韓国を唆して北朝鮮に宣戦布告させ、北朝鮮を占領した後、「日本帝国」なる景気のよい改名を果たした次第。
その頃、少しずつミュータントが誕生するようになった。世界中のコドモの1%が畸形化して生まれてきた。その姿は――それこそ『指輪物語』に登場するような――ドワーフやオーク、エルフにトロールといった連中に酷似していたという。いつしか、彼らはメタヒューマンと呼ばれるようになった。
そして、2011年12月24日。何百人もの新幹線の乗客が、富士山の頂にグレート・ドラゴン「龍冥(リョウミョウ)」の姿を目撃する。
翌年、ついにグレート・ドラゴン「ダンケルザーン」がメディアのロングインタビューに答え、魔力の復活と畸形化をベースにした「第六世界」が到来したのだ。
第六世界では、住人の1割以上がメタヒューマンへと変貌してしまっている。ネイティヴ・アメリカンの独立国家のように、エルフだけの独立国家ができたくらいだ。あげくの果てにドラゴン・ダンケルザーンは、大統領にまでなってしまう。
もうお気づきかもしれない。ここでの「エルフ」というのは、徹底して人種や政治問題のメタファーなのだ。
いや、メタファーといったら言葉足らず。『シャドウラン』の世界では、「エルフ」も実在する。だが、「エルフ」も「ドラゴン」も、人種のサラダボウルの一種という意味では、黒人や東洋人とまったく同じ位置づけなのだ。
そして、この『シャドウラン』を語るうえで、ジャック・ウォマックの小説に出てくるドライデン・コーポレーションにも引けをとらない、十大巨大企業(メガコーポ)は無視できない。変容した第六世界で、カネと権力に魂を売った俸給奴隷(スレイヴ)たちは、あの手この手でインフラや娯楽を牛耳り、世界を牛耳ろうと画策している。
おかげでテクノロジーはたいそう進化し、人々はSIN(いわゆる「国民背番号」)で管理され、コムリンクという装置を埋め込まれて、オンラインに常時接続されている。サイバーパンクならではのガジェットもたんまり盛り込まれている。
『シャドウラン』を遊ぶプレイヤーは、こうした暗黒社会の底辺で生きる、デミヒューマンなどのキャラクターに成り代わることになる。
彼らは安い賃金で、気ままにその日を暮らしつつ、大企業のエージェント(通称:「ミスター・ジョンソン」)から依頼を受けて、時には「殺し」をも含む「仕事(ビズ)」をこなして日銭を稼ぐ、というわけだ。「簡単な仕事」が、企業の論理と政治に絡むヤバいヤマで、地を這い泥水を啜る生活を余儀なくされていたカスどもが、やむなく世界の命運を握る……。それが、『シャドウラン』だ。
面白いのは、『シャドウラン』を遊ぶ際、こうした情報に基づいて、誰かが「遊ばせてくれる」わけではない、ということ。語弊はあるかもしれないが、遊ぶために努力を要するからこそ、下手するとキワモノとも思われがちな独自の設定が生きてくる。
『シャドウラン』は複数人のプレイヤーを想定したRPGだけれども、多くのRPGのように、誰か一人はゲームマスターと呼ばれる存在になり、とびっきりのシャドウラン風味の冒険を用意する。
もちろん、既製品のシナリオというのもあるけれども、勝手にコンピュータが物語を上演してくれるわけではないので、シナリオをかみ砕いて自分なりに解釈しなければならない、という点は変わらない。それに、既製品もよいが、自分でシナリオをデザインする方がずっと楽しい。
ゲームマスター以外の存在は、『シャドウラン』世界で生きるキャラクターを創造し、そのキャラクターを文字通り「演じる」。
いちど物語に「参加」したのであれば、そこから先は第六世界の論理で考え、キャラクターの倫理で行動しなければ何も始まらないからだ。
しかし一方で、キャラクターの思考や価値基準を理解するためには、プレイヤーは第六世界の論理と倫理を、いちど距離を取って認識する必要がある。なぜならば、私たちは現実世界に身を置いたまま、あくまで自発的に仮想空間を「想像」しようとする立場にあるからだ。
ルールはそのための補佐に過ぎず、いわば私たちが作品世界を解釈するための、通訳の機能を果たすものだ。
そして、RPGがSFが交わるいちばんのポイントは、まさしくこの想像/創造性にある。
言うならば、『シャドウラン』はいわば、巨大な批評的ブラックボックスだ。
ブラックボックスを動かす基本的なルールは、『シャドウラン』のルールブックに書いてある。けれども、肝心な部分は、手探りで見つけ出すしかない。
社会学者Gary Alan Fineは“Shared Fantasy”で、こうしたRPGの物語構造を、「キャラクター自身としてのリアリティの自覚」と、「プレイヤーとしての自覚」をフレームとして切り分けた。こうしたフレームは絶えず入り交じるかと思えば、互いに違いの論理を翻訳し、説明する必要に駆られるのだ。
『シャドウラン』のかような特性は、サイバーパンクのリアリティを復活させるものだ。
『シャドウラン』世界では、ヤマテツ、ミツハマ、レンラク、シアワセといった日本の財閥を思わせる大企業が、インフラを牛耳り、テクノロジーの進歩の鍵を握っていると説明したが、彼らのおかげで、最新版『シャドウラン』のキャラクターは、常時、強化現実としてのARに接続することが可能になっている。
一方で、望むのであれば、機械に頼らずとも電子マトリックスの結節(ノード)を駆け巡るテクノマンサーとして生きる道を選ぶことも許されている。
プレイヤー×キャラクターという二項対立のほかに、外装されたテクノロジーの要素、そしてそれに対するさまざまな位相(文芸としてのサイバーパンク、テクノロジーとしてのサイバーパンク……etc)といったさまざまな位相での解釈を許容する懐の深さが、『シャドウラン』のプレイングが形成するフレームをいっそう豊かなものへ変える。
ぼくたちの生きる時代はベタついている。
近所のTSUTAYAに出かけるまでもなく、DMM.COMを漁れば格安で『ブレードランナー』なり『JM』なり『マトリックス』なりを観ることができるし、iPhoneのレンズを通せば、推理ゲームだろうとロメロ・ゾンビとの追っかけっこだろうと自由自在だ。Google Earthを駆使すれば、ウクライナだろうがアイルランドだろうが、知らない土地も(外貌なら)わかる。
そういった環境を、『シャドウラン』は今一度想像の中に回収し、あり得べき形は何かと再検討させるわけだ。
『シャドウラン』と並ぶサイバーパンクRPGの雄として、『サイバーパンク2.0.2.0』がある。これは、著名デザイナーとしては珍しい「黒人」のマイクル・ポンスミスが創造した、『ミラーシェード』の作家たちが築き上げた世界観を、そっくりそのまま構造化させた作品だ。
「絵」としてのサイバーパンクを大事にしながら、そのダイナミズムを体感し、観念や言葉を架空世界の設定として解体−再構築させつつ、その初期衝動を可能な限り延命させること。それが、『サイバーパンク2.0.2.0』のコンセプトだったと、ぼくは思っている。
『シャドウラン』は逆に、記号としてのサイバーパンクに新しい可能性を招き入れるため、あえてファンタジー文学の記号と織り交ぜて、作り物臭さを塗り替えながら、サイバーパンクそのものの読み直し(リ・リーディング)をはかること。そうした試みなのではなかろうか。
だから、ぼくはこう思っている。
「運動」として始まったサイバーパンクを、美学として定着させ、ひいては人々の生きる糧として洗練させていった一因は、ほかならぬ『シャドウラン』のようなRPGにあったんじゃないか。
たとえば、『シャドウラン』での日本では、再び天皇制が施かれている。このことの意味が、テクスト解釈の次元だけではなく、一種のシミュレーションの形式として、いかなるものかを考えるのは無駄ではないはずだ。
もともとその成立時において、SFファンダムや創造的アナクロニスム協会といったカウンター・カルチャーと、RPGのコミュニティは相性がよかった(あるいは起源を一にしていた)。
ブルース・スターリングも、『アッチェレランド』でポスト・サイバーパンクの雄として知られるチャールズ・ストロスも、『ジェイクをさがして』で圧倒的な筆力とキャパシティを感じさせるチャイナ・ミエヴィルも、そして伊藤計劃も、もとはRPG畑の出身だ(*)。
彼らが『シャドウラン』を直接遊んだかどうかはわからないけれども、間接的であれ、『シャドウラン』の遺伝子とシンクロしているのは間違いないだろう。
『シャドウラン』はサイバーパンクが何なのかを、常にアクチュアルな地平で問い直す作品だ。岡田剛『ヴコドラク』のように、『シャドウラン』と共鳴する地平で書かれた作品もある。
『シャドウラン』が提示するアクチュアルなシミュレーションは、現代において東京SFがどのような意義を持つのか考えるということと、まさしく同義なのではないかと思う。
『シャドウラン』は本当に展開豊富なタイトルなので、実例を挙げたらきりがないのだけれども(個人的には、ブードゥー魔術とバイオテクノロジーの処理が気に入っている)、地政学的に興味深い設定は、コロラド州デンバーだ。ここはグレート・ドラゴンの統治のもとに、プエブロ企業評議会、(ネイティヴ・アメリカンの)スー国、カナダ・アメリカ合衆国、アメリカ連合の4カ国に共同統治されている条約都市だ。
ここに、アラン・ロブ=グリエの『反復』の舞台となっているような、米英仏ソの四カ国に共同統治されている戦後のベルリンや、パラレルワールドの東京で、ソ連に占領された東日本とアメリカに占領された西日本のいずれにも属さない、「東京市国」での政治劇を描いた笠井潔「鸚鵡の罠」を繋げることもできるだろう。
逆接的に聞こえるかもしれないが、こんな批評性豊かな題材を、一部のゲーマーだけに独占させておくのはもったいないと思わないか。
何も終わってはいない。サイバーパンクの精神をもって、新たな表現を紡ぎ出すことはいくらでも可能なのだ。
(岡和田晃)
(*)たとえば『ハーモニー』など伊藤計劃の作品に至っては、サイバーパンク以前に「なんだか、作者が死んだからすごい(著者が自らの死をもって作品のヴィジョンを実践した)」と理解されている節すらあるのだが、そうした受容は哀しいものだ。彼は死をもって自らの作品を完結させたわけじゃない。むしろ反対だ。彼は、最後まで持って生まれた時間を芸術へ昇華させようとしていた。伊藤計劃が切り拓こうとしていた圏域については、おそらく、今一度(RPGが基体とする)シミュレーションの立場から、考察できる可能性がある。と、ここに書いておくのは、無駄ではないと思う。
ちなみにこれは伊藤計劃という「固有名」を特権化せよという主張ではまったくない。伊藤計劃が実践したような、観念の操作だけではなく、観念を成立可能にする社会的要因や身体性についての意識を輻輳的に把捉する必要性が高まっているだろうという意味において言っている。
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東京SF大全
2010-07-11T17:25:24+09:00
tokon10
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tokon10
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http://blog.tokon10.net/?eid=1059004
東京SF大全34『百億の昼と千億の夜』
(小説・光瀬龍・1967年)
日本SFに巨大な足跡を残した光瀬龍は、1999年7月7日に亡くなった。代表作『百億の昼と千億の夜』は、歴代日本SFベストを問うアンケートで、常に上位を保ち続けている傑作である。
今回のゲストは、光瀬...
(小説・光瀬龍・1967年)
日本SFに巨大な足跡を残した光瀬龍は、1999年7月7日に亡くなった。代表作『百億の昼と千億の夜』は、歴代日本SFベストを問うアンケートで、常に上位を保ち続けている傑作である。
今回のゲストは、光瀬龍氏の奥さま(飯塚千歳さま)にお願いし、次のようなコメントを戴いた。
1999年7月7日、光瀬龍が旅立って、11年の歳月が過ぎ去った。
今年は「東京SF大会」と言うことで、コメントをと、さて、私はSFのファンでもなし、全く素人なので、皆様の期待なさるような事は書けないと思うので、光瀬龍としてSF作家になる前の大学時代にどんな考え方をしていたのか、ちらりと、おみせしてみましょう。
昭和31年、彼が文学部の哲学科の頃、私宛の手紙の中
「実は僕は科学小説が大好きなのです。別にそれが論理的であるとか、科学的だとか、そんな事が好きなわけではなく、何十年も何百年も先の世界の事、しかも遙か遠い処の星の世界や、そこに棲む生物達のいとも奇妙な形や生活、時にはそれが恐ろしく高等や複雑であったり、又、人間の眼には見えない組み立て方になっていたり、読み終って茫然としてしまう程、不思議なんです。丁度、僕の眼の前に吾々が一生涯、いや、何世代かかっても到達出来ない程、遠い距離にある天体の風景、荒涼とした沙の平原と、ぼんやりと明るい空、その地表に、わずかに棲みついて、ゆらりゆらりと、動き回っている不思議な生物、そんな妖しい、しかし、画の様な風景が浮んで来るのですよ。読み終って僕は心底、其処え行ってみたいなー、と思うのです。そんな夢幻的な遙かな想いがしばし僕を、あの昔の探検家達の様に瞑想的に、亦、憂うつにさせるのです。(長いので後略)」
もう一通の手紙は、大学の卒論の事
「卒業論文をそろそろ組み立てています。題名は「大乗に於ける般若波羅密多」要するに「諸行無常とは何か」ということです。それで、上野の博物館に毎週通っています。(長い手紙の中の一部です)」
彼の手紙には、芝居や映画を観た感想等、あと夢をみた話等、書いたものが沢山あります。詩やエッセイも当時色々書いてました。それは又、別の機会にでもお見せしましょう。
(彼の手紙の原文は、すべて、カタカナです)
(飯塚千歳)
(「JA1000」として、2010年4月に出たハヤカワ文庫新装版)
(本文の引用の後に示した頁数は、この版のものである)
(初出〈SFマガジン〉・1965年12月号〜1966年8月号 → 日本SFシリーズ(早川書房)・1967年1月 → ハヤカワ文庫・1973年4月 → 角川文庫・1980年10月 → ハヤカワ文庫新装版・1993年7月 → 角川文庫復刊改版・1996年12月 → ハヤカワ文庫新装版・2010年4月)
紀元前5世紀、悉達多太子は阿修羅王と出会い、そして別れた。
「太子。いつの日にか、また逢うこともあろう。波羅門僧どもがそろそろ心配しているであろう。行かれよ」
太子はこの美しい少女に何かひとこと、別れの言葉をのべたいと思ったが、うまい言葉が見つからなかった。阿修羅王が言うようになぜか、遠いいつの日か、ふたたび相逢うことがあるような、それも必ずあるような気がした。(187頁) 。
3905年に目覚めた彼はその予感どおり阿修羅王と出会う。その場所は「TOKYO」 (290頁) である。廃墟にそびえる塔の基盤には、その地名が彫りつけられていた。
物語が過去から未来に転ずる場所は「TOKYO」 でなくてはならない。
執筆時、光瀬龍はそこにいたから。
つまり、過去と未来との接点はそこにあったから。
今、阿修羅王は「機会を待ってこの地にひそんで」(320頁) いる。……培養タンクの中で眠りにつきながら。
イエスは培養タンクが再び使われることがないように破壊する。タンクのある場所は、海岸である。「もとは、ここは山だったのか、それとも島だったのか」(320頁) とのイエスのセリフは、萩尾望都のマンガ版では「山か、沖の小島に偽装されてたんだろう」(秋田文庫版・238頁) となっている。
沖の小島? 地形やサイズの描写からして、これはものすごく?江ノ島?っぽい。『ロン先生の虫眼鏡』にも江ノ島は出てくるし、『明日への追跡』などの舞台にもなっている。
光瀬龍は七里ヶ浜に別荘を持っていた。彼にとっては特別な場所で、そこも「TOKYO」 と認識されていたのだろう。
江の島は「近代博物学発祥の地」である。1877(明治10)年、エドワード・S・モースがここに日本で最初の臨海実験所を設けた。光瀬龍は東京教育大学理学部動物学科と文学部哲学科を卒業している。東京教育大学と言えば、丘浅次郎が教鞭をとっていた大学(当時は「高等師範学校」)である。進化論の紹介者として名高い丘浅次郎はホヤの研究が専門だった。その息子の丘英通が、光瀬龍の卒論指導にあたっている。もしかしたら、青春の思い出にも深く結びついている土地なのかもしれない。
光瀬龍にとって、魂の還る場所は常に海だ。
『百億の昼と千億の夜』(新装版)のラストも、『喪われた都市の記録』のラストも、『ロン先生の虫眼鏡』のラストも、それを伺わせるものである。
東京へ来たら、ちょっと足を延ばして江ノ島まで行ってみよう。光瀬龍の墓は、そこからほど近い山の中にある。
彼が遺したものに思いをはせながら、江ノ島と向き合い「あの中に阿修羅王が…」と考える。
足元に波が来る。
おもわず、口をついて出る、あの冒頭部。
あなたは気がつく。
彼が還るべき海は、「寄せてはかえし/寄せてはかえし…」 とつぶやくあなたの中にある。
(宮野由梨香)
(七里ヶ浜における、ありし日の光瀬龍)
【付記】
『百億の昼と千億の夜』に関して、光瀬龍が次のように語ったことがあった。ちょうど萩尾望都によるマンガ化の連載が始まろうとしていた時期にである。
光瀬 実は、あれ(『百億の昼と千億の夜』宮野註)は、自分自身の気持ちとしては前編なんですよ。あれで終りじゃない。
石上 いずれ、お書きになるということですか。
光瀬 と、思ってはいるんですが……。
(〈奇想天外〉一九七七年八月号「対談 光瀬龍VS石上三登志」一三〇頁)
この発言から二十二年後の一九九九年七月七日に、光瀬龍は「食道ガン」のため七十一歳でその生涯を閉じた。「いずれ書こうと思っている」という趣旨の発言があったにもかかわらず、彼は結局『百億の昼と千億の夜』の「後篇」を書かなかった。だから、残念ながら、我々はそれを読むことができない。……『百億の昼と千億の夜』の「後篇」に関しては、そのような把握が一般的なものであろう。
だが、実はそうではないと、私は考えている。光瀬龍は生前に「後篇」を書き上げ、しかもそれを出版していた。『異本 西遊記』(ハルキ・ノベルス・(株)角川春樹事務所) が、それである。
光瀬龍はそのつもりでこの作品を書き上げながらも、「これは『百億の昼と千億の夜』の「後篇」だ」とは言わなかった。「「阿修羅王」とは何か」ということが判っている読者には、この作品が『百億の昼と千億の夜』の「続編」であると明確に認めることができるからである。彼はそういう読者だけに向けて「続篇」を書いたのだ。
『異本西遊記』は、王宮のバルコニーで自らの国と人民を憂える王の姿を描き出すことから始まる。
弥勒王はこの頃憂鬱だった。
(弥勒というと、読者はあの京都の太秦、広隆寺の国宝弥勒菩薩半跏像を思い出すかもしれないが、ここに登場する弥勒は、人相も人柄もあれよりずっといいかげんで、五日間も顔を洗わなかったり、三日に一ぺんは二日酔いで頭が持ち上らなかったり、そうかと思うと、大臣からの報告の書類をトイレでしゃがみながら読んでいて下へ落したり、まあ、そんな大王だった)
弥勒王は自分の国が気に入っていたし、それ以上に、人民どもが好きだった。
弥勒王は都のにぎわいに耳を傾けた。
だが、弥勒王はこの頃憂鬱だった。
(『異本 西遊記』九頁)
主人公の「蘭花」をサマルカンドへ遣いに出す王の名前は「弥勒」 なのである。
どうして王にこんな名前をつけたのだろうか?
「西遊記」にも、そのもととなった「大唐西域記」にも、このような名前の王は登場しない。この作品のために、わざわざ名付けたのだ。しかも、( )内の記述によって、読者に「広隆寺の国宝弥勒菩薩半跏像」を思い出させようとしている。そして、その上で「人相も人柄もあれよりずっといいかげん」と、その落差を強調する。
ここで「弥勒」という文字を目にして『百億の昼と千億の夜』を思い出す読者は少なくないだろう。だが、描き出されるイメージの違いに、『百億の昼と千億の夜』と『異本西遊記』を結びつけて考えようとすることをやめてしまう。
しかし、それこそが「光瀬龍」の施した「罠」であり「謎掛け」なのである。
そのうちに、また( )がでてくる。沙悟浄が蘭花に言うセリフの後だ。
「大王さま。かわいそう。何千年待ったって、百科事典、手に入らないかもしれないわよ。でも、あの人、待つの馴れているから」
(読者はここでもう一度、あの京都の太秦広隆寺の国宝弥勒菩薩半跏像を思い出してください。軽くほほづえを突いてもの想いに沈んでいる比類ない優美な姿は、あれは実は考えているのではなくて、待っているのだ。何を待っているのかというと、五十六億七千万年ののちにやって来るというこの世の終りだ。その時、ようやく待ちに待った彼の出番が回ってくる。彼の仕事は救済(レスキュー)である。宇宙の始まり、つまりビック・バンが四十七億年前だったとすると、弥勒王はあと九億年余も待たなければならない。御苦労さまとしか言いようがない)
(『異本 西遊記』二十七頁)
「罠」にはまって、最初の部分をうっかり読み過ごしてしまった読者も、さすがにここに来て気づくことになる。
どうやら「弥勒」というのは、単なる思い付きでつけられた「王の名前」ではないらしい。光瀬龍は何らかの意図をもって王の名を「弥勒」にし、しつこく( )内の説明を加えることで、我々に『百億の昼と千億の夜』を想起させようとしているようだ。
その証拠に、「弥勒王国の都」は「兜率天」である。(十四頁)
また、すぐに「梵天王」が登場する(三十七頁)。
「オリハルコン」も出て来る(八〇頁)。悟空が持つ「如意棒」の材質が「オリハルコン」なのだ。そして、ここでも、失われた大陸アトランティスに関する長めの説明がつく。
そして、「阿修羅王」が登場する(一〇八頁)。
阿修羅王が悟空と出会い、求めに応じて一行の危機を救うのである。
だが、その阿修羅王の相(すがた)は三面六臂の興福寺の「阿修羅像」そのままで、しかも「物識り仙人」と紹介されている。
「これは『百億の昼と千億の夜』の「関連作品」 なんだろうか? それにしては、思い出させては、そのイメージを否定することを繰り返している。自作パロディの、単なる「お遊び」なんだろうか?」と思いながら、読者は『異本 西遊記』を読み進む。
そして、こう感じている自分に気がつく。
「この本を読んでいると、何だか過去に読んだ光瀬作品がやたらと頭に甦ってくるような気がするなぁ。なぜだろう? 本文の向こう側から、いろいろな光瀬作品が立ち上がってくるみたいだ」
最初は、「同じ作者であることから来る必然」あるいは「これもお遊びか」と読み過ごしている。しかし、文体の統一性やストーリーの流れを乱してまで、過去の「光瀬作品」を読者に思い出させようとしているのではないかという「疑惑」が、読むほどに「確信」に変わっていく。
どうやら、光瀬龍は、『異本西遊記』の中に、自らの作品中の「登場人物」や「地名」や「概念」や「文体」や「情景」や「語句」や「要素」を意図的にに入れ込んでいるようなのだ。しかも、入れ込みつつ「外して」いる。その最大のものとして、『百億の昼と千億の夜』があるらしい。
「どうしてこんなことをしているのだろうか」と頭の隅で考えながら読み進むうちに、この作品の「奇妙さ」がそれだけではないことがわかってくる。
基本的に、軽い調子の読みやすい文体である。なのに、読むと異常にエネルギーを消耗するのだ。向かい風の中を歩いているような抵抗感がある。それなのに、それをもたらしているものが何であるかが判然としない。息苦しくなるような切迫感を伴った、異様な「清冽さ」と「禍々(まがまが)しさ」のアマルガム……としか言いようのないものが、文章の奥から吹き上げてくる。
いったいこれは何なのだろうか?
この作品が書かれた時の作者の状況を確認しておこう。
光瀬龍の死因の「ガン」について、眉村卓は次のように書いている。
一九九七年十二月、某社の年末の会食で、ぼくは光瀬さんと隣り合わせになった。
あれこれと話をするうちに、ぼくは、六月に妻が末期のガンと判明したことや、それ以来の日々について喋ってしまったのだ。
すると光瀬さんは、自分も三年前からガンなのだと語り、健康食品の名前などを挙げていろいろ教示してくれたのである。
(〈SFマガジン〉一九九九年十一月号 二二四頁)
一九九七年の三年前というと、一九九四年である。
死を迎える五年前に「ガン」と判明していたということになる。
となれば、一九九七年一月に連載を開始した『異本西遊記』を自らの最後の作品として光瀬龍が意識していた可能性は、かなり高いのではないだろうか。
「評伝 光瀬龍が見た空」(立川ゆかり)の中に、『異本西遊記』の執筆の状況に関する記述がある。
光瀬に病魔が忍び寄ったのは一九九五年頃のことだった。光瀬は不治の病に倒れてしまう。最初の入院は一ヵ月ほどで済んだものの、手術は体に大きなダメージを与えた。
(〈北の文学〉第53号 立川ゆかり 「評伝 光瀬龍が見た空」一七九頁)
この「体に大きなダメージを与えた」手術とは一九九六年五月に行なわれたものであったらしい。
「赤旗」の日曜版に「異本西遊記」を掲載していたころも入院中であった。しかし、入院生活の間も執筆の手を休むことはなかった。病院の応接間に、原稿用紙とペンを持ち込んで執筆を続けたという。
(〈北の文学〉第53号 立川ゆかり 「評伝 光瀬龍が見た空」一七九頁)
なかなかすさまじい執筆状況である。
『異本西遊記』は自らを「ガン」と知る作家が、入院中も病室で書き続けた作品なのである。
その作品に、特別に何らかの「意味」がこめられていた、ないしは、こもってしまったとしても不思議ではない。いや、むしろ、その可能性が高いと考えて然るべきではないだろうか。
『異本西遊記』の本文の向こう側から立ち上がってくる「光瀬作品」には、例えば次のようなものがある。
梵天王の城は「アヨドーヤ」にある(三七頁)。これは『宇宙叙事詩』等にでてくる地名である 。『宇宙叙事詩』所収の「アヨドーヤ物語」には「北から来た吟遊詩人、サダ・ナブリン・カカ」 が登場するが、『異本 西遊記』において蘭花にプロポーズしたサマルカンドの王の名前は「サダ・ナブリンカカ」である。八七頁「たそがれの楼蘭」の章題も、そのまま『宇宙叙事詩』中に同じ章題がある。この章の冒頭の風景描写は『東キャナル文書』の中の「火星人(マーシャン)の(・)道(ロード)」の冒頭が踏まえられている。たそがれの描写はそのまま『たそがれに還る』も想起させる構造になっている。小説作品だけではない。六〇頁の戦後の逸話は『闇市の蜃気楼』を、一一六頁からの「ツングースカ隕石」に関する記述 からは『失われた文明の記憶』といったノンフィクション的作品を連想させる。沙悟浄と兄をめぐるいきさつは『平家物語』っぽい。二十頁に「香炉峰の雪」が「すだれを巻き上げる」に関連して唐突に出て来るところは、光瀬龍が原作を書いたマンガ『枕草子』を思い起こさせる。
「セクハラがらみの酒の無理強い」(一九五頁)は、『征東都督府』で、勝海舟が樋口一葉にしてみせたことである。『征東都督府』といえば、沙悟浄は蘭花を「お姉さん」と呼んで慕うが、この二人の関係は、「かもめ」と「笙子」の関係に似ている。また、弥勒王が蘭花たち一行を見送りながら思い浮かべた詩句 は、そのまま『征東都督府』において土方歳三が勝海舟との勝負に赴く際に耳にしたものだ。
そもそも、与えられた目的のために、遠く旅立つという設定は、『年代記シリーズ』等で繰り返し描かれてきた ものである。
若く美しい女性が仲間を獲得して旅に出るというパターンは『宇宙航路』を思わせる。
文体など、全体のトーンは「ジュヴナイル」である。
こういった過去の光瀬作品の入れ込みが「ストーリーの流れ」を乱してまでなされていることが、よくわかる例をひとつ、示しておこう。
『異本西遊記』の中に、河童と田(タ)鼈(ガメ)の戦争場面がある。
そこで、いきなり次のような説明が始まる。
年配の読者はタガメという虫はよく御存知だと思う。―中略―体長は時に七センチメートルに達し、全身茶褐色で、前肢はハサミのようになっていて鋭い爪がある。―中略―セミやヨコバイ、カメムシなどのなかまで、口がするどくとがった管になっていて、これで魚やカエルの体液を吸う。ねらわれたキンギョもドジョウも、逃げることは不可能だった。
(『異本西遊記』一八七頁)
こうして、約一頁を費やしてタガメに関する生物学的説明が続く。
我々は思い出す。『ロン先生の虫眼鏡』の中に次のような箇所があったことを。
タガメというのはご存知の方もいようが体長七センチに近い大形の水棲昆虫だ。半翅目というグループに属し、セミやウンカ、カメムシなどと類縁の種類だが、この半翅目に共通する特長は口器がするどい吻になっていて(セミの口を思い出してください)それを植物や動物の体に突き刺して栄養を吸収するのだ。
(『ロン先生の虫眼鏡』(早川書房単行本版)一七七頁)
『ロン先生の虫眼鏡』を連想させる箇所は一四六頁にもある。「ケラ」についての説明である。二一八頁では「ヒルムシロ」という植物について、物語の本筋とは無関係の筆者の少年時代のエピソードが語られている。
これらは、どう考えてみても、作者が意図的に過去の自分の作品を読者に想起させることを目指して仕組んだことであろう。
『異本西遊記』は、「なんらかの形で過去の光瀬作品のすべてに言及しており、構造的には解体しつつ構築するという、文字どおり脱構築的手法で書かれた自己言及作品」 だったのだ。
かつ、このような箇所もある。伽羅於慶(カラオケ)に誘われた沙悟浄が、猪八戒に言うのだ。
「いいけどさ。八戒がいつもうなっている、?別れても嫌いな人?とか?命やらない?とか、あんなのいやだよ。わたい、おやじギャルじゃないんだからね」
(『異本西遊記』一六五頁)
「プリクラ」も二六三頁にでてくる。
光瀬龍は、流行語を作品中にあまり書き入れないタイプの書き手だった。「流行(はやり)ものはすたりもの」ということを承知していたからであろう。その彼がわざわざこのように書いたということに、作中に「自分の作品」だけではなく「自分が活躍した時代」を封印しておこうとする意図を感じ取ることができる。
『 異本西遊記』が発表時あまり高く評価されなかったのは、このあたりの真意を読み取ることのできる読者が少なく、「巨匠の筆のすさび」として受け止められてしまったからでもあるのだろう。
また、『異本西遊記』中に「? 東に帰る」という章題があるが、これは小学生の頃に光瀬が愛読したという小説の題名 をそのまま使用している。自らの原点をこのような形で示しているのだ。「文学的原点」という意味では、宮澤賢治や井上靖の要素も入っている。
さて、以上に述べたことから、私は次のような結論にたどりついた。
「『異本西遊記』は『百億の昼と千億の夜』の「後篇」である」 と。
『百億の昼と千億の夜』は、作家「光瀬龍」の誕生の軌跡を封印した「私小説」としての側面を持ち、本人もそれについて非常に自覚的であった。(拙稿「阿修羅王は、なぜ少女か……光瀬龍『百億の昼と千億の夜』の構造」(〈SFマガジン〉二〇〇八年五月号所収)参照。)その『百億の昼と千億の夜』が「前篇」なら、「後篇」の内容は「光瀬龍」の作家としての活動について語った「私小説」になるのではないか?
また、光瀬龍は、自らの死が間近いことを知っていた。
死期が迫った時、「作家」である人間が考えることは何だろう? プロの小説家として活躍を続けた「光瀬龍」である。自らの肉体の「死」が、決して作家の「死」ではなく、まして作品の「死」ではないと信じたかったのではないか。
また、『百億の昼と千億の夜』で描かれた「敵」は「シ」と呼ばれる存在であった。『異本 西遊記』は、作家自身に刻々と迫り来る「シ」と対峙しながら書かれたものなのだ。
その意味でも、この作品は『百億の昼と千億の夜』の「後篇」なのである。
『異本 西遊記』は、現在、絶版となっている、
この作品の意義が正しく評価される日が来ることを、宮野は、今、心から望んでやまない。
【付記の付記】
この「付記」は拙論『「阿修羅王」とは何か』(400字×130枚・未発表)の一部抜粋です。まとまりが悪くて申し訳ありません。この部分だけでは、説得力がないかとも思いますが、あまりにも不遇な『異本西遊記』にご興味を持っていただくきっかけにでもなればと存じまして、あえて載せました。
(宮野由梨香)
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東京SF大全
2010-07-07T07:07:07+09:00
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東京SF大全33『日本沈没』
小松左京『日本沈没』(1973年 光文社カッパ・ノベルス 後に小学館文庫)
小松左京で東京SFと言えば『首都消失』を真っ先にあげなければいけないが、『日本沈没』もなかなかに東京SFしている。『日本沈没』は冒頭から、東京駅の駅舎に皹が入っているのを発見...
小松左京で東京SFと言えば『首都消失』を真っ先にあげなければいけないが、『日本沈没』もなかなかに東京SFしている。『日本沈没』は冒頭から、東京駅の駅舎に皹が入っているのを発見して始まるし、「東京」という章まで存在している。この『日本沈没』を「東京SF」として見る事で、小松左京の抱いた「東京観」と、小松左京自身について、立体的に浮かび上がるのではないかと考えている。
『日本沈没』をエンターテイメントとして読んだ場合、圧倒的に浮いている箇所がある。第五章、9の最後に、物語の主要人物ではない名前もない人物の内面の叫びが、ほとんど唐突とも言える形で入り込んでいる。その初老の老人の叫びは、それが「物語」の筋とは関係ないが、関係ないが故に、作品全体の主調低音を浮き彫りにさせる。
日本は沈みかけて非常事態であり、東京都は関東大震災や第二次世界大戦の空襲後を思わせる状況である。初老の老人は、配給制度が復活したことを受けて妻と会話する。妻は、終戦後の焼け跡のことを語る。そして男には恐怖がフラッシュバックする。「食べること」しか考えなかった日々の記憶――飢えと、飢えに叫ぶ子供の声――そのような悪夢から逃れるために、男は必死に働いた。長くなるが、本文を引用する。
「せっかく苦労に苦労を重ね、辛抱を続け、「やりたかったこと」もすべて犠牲にして、安酒に執着をまぎらわしながら、汗水たらして会社づとめを続け……若かった妻と、六畳一間のアパートから出発し、待ち続けて公団2DKへ……子供たちが生まれ、育ち、学校へ行き、借家へ、そしてやっと元金をためて、身を切られるような思いで高い土地を買い(中略)この生活を築き上げるために、三十年近く重ねてきた、思い出すだけで脂汗のにじむ苦労、犠牲にしなければならなかった青春期の夢や希望、否、青春のたのしみそのものを、暮夜、ふと思い出すと、どうにもたえかねて、一人冷たい酒で、そのぎちぎち音をたてるほどこりかたまった疲労とつらい想い出をまぎらし、ときほぐすほかなかった。生意気ざかりの子供に、その贅沢な物の使い方を説教し、ついでについ「戦争中は……」といいかけると、「関係ない」などと軽蔑したようにいわれて、カッとなって全身の筋肉が強張るのを無理におさえて、強張った笑いを浮かべ、殴り飛ばすのを我慢したために、いっそうみじめな、卑屈な気分になって、それをときほぐすために酒を飲み――」
この、戦中世代の、飢えや廃墟の記憶と、それから必死に働いたことと、必死に働いて築いた平和や豊かさを無自覚に享受している若い世代への怒りというのは、かなり広範に理解されうる感情なのではないかと思われる。日本はその進歩・発展があまりにも急速だったので顕著なのだが、社会が豊かで良くなって行くときに、自分より下の世代や子供たちに抱いてしまう「嫉妬」や「怒り」という普遍的な感情がここには描かれている。
その嫉妬や怒り、豊かさへの違和感というものは、「東京」の章で、主人公の「感じ方」のまで影響を及ぼしている。主人公の深海潜水艇の操縦者である小野寺は、銀座のバーの華やかな空間や、有閑階級の若者のパーティの中で、違和感を抱きながら、場にうちとけることができない。煌びやかな高層ビルを見ながら、小野寺はこのような感慨を抱く。
「この街は、上へ上へとのびている。――地上を行く人々は、しだいに日もささない谷底や地下に取り残され、じめじめした物かげで、何かがくさってゆく。――古いもの、取り残されたもの、押し流されてたまってゆくもの、捨てられたもの、落ち込んで二度と這い上がれないもの……なま暖かい腐敗熱と、悪臭のガスを発散しながら、静かに無機質への崩壊過程をたどりつつあるものの上にはえる、青白い、奇形のいのち……」
この文章は両義的であると同時に、この作品の「日本を沈没させる衝動」を見事に表している。都市の煌びやかな進歩の陰で、古いものや取り残されたものがたまっていく。それは、このシーンの前後が銀座の煌びやかな描写であることから、因習的な日本的なものや、先ほどの老人の抱いているような「廃墟」からの恨みの心情と対応しているだろう。そのような敗戦によるルサンチマンとは無縁の、戯れる人々を、違和感を持って主人公は眺めている。そしてこの引用の後半、「なま暖かい腐敗熱と、悪臭のガス」というのは、文字通り地下のマグマのことであると同時に、「進歩」によって忘れ去られたある精神的なものを示していないだろうか。この文章では、明らかにその両者が重なるように描かれている。不必要なまでに描かれる銀座や、別荘でのパーティのシーンは、そのような「焼跡」を忘れた日本に対する「忘れ去られた」ものの怒りや嫉妬が、日本を沈めるのだという解釈に誘う。
最初に引用した老人の、作品のエンターテイメント作品としてのバランスを欠いた独白にはまだ続きがある。
「でもいいのだ。あのつらさ、あの苦しさ、人の心が一筋の芋をめぐって豺狼のごとくいがみあうあの地獄を味わわさないために、自分が――自分たちの世代が、多くのものを犠牲にし、苦しいことを我慢し続けてきたのは、結局よかったのだ。子供たちに、あの地獄が、まるで想像できなければ、理解もできないのは、おれたちががんばってきた「成果」なのだ。おれの子供は、絶対にあんな目にあわせたくない、と思い続けたことが、今、達成されたではないか」
そう思って、憂さを晴らすために軍歌を歌えば、若手の「かっこいい」サラリーマンに軽蔑の目で見られると書いてある。ここにある葛藤は極めて重要である。下の世代のために自分を犠牲にして働いて社会を豊かにしたのに、それを享受して感謝しない子供たち。それどころか、馬鹿にする若い世代。それらに対する怒りは当然であろう。しかし、そもそも彼がそんな風に自分を犠牲にして働かなければいけなかった理由は、戦争と敗戦による「飢え」の経験である。敗戦と廃墟というトラウマが、彼を駆動させたのだ。そしてそのトラウマを共有しない若い世代が、そのような反復強迫的な、進歩や労働への意識を持たないのは当然であろう。かくしてトラウマを負った世代の、そこから自由な世代への怒りと嫉妬は、「彼らにもトラウマを負わせる」という形になる。それが、日本が沈没するということである。焼跡を忘れ、感謝をしない、豊かさを享受している連中に、その足元が崩れて、「焼跡」的状況をトラウマとして打ち込むこと。そのような欲動が、この作品を駆動させている。
だがもちろん、トラウマを受けたことに対して、トラウマを与え返すことは、虐待の連鎖や、いじめられていたものがいじめる側に回るという、悪循環しか生まない。確かに、戦中世代への若者の敬意のなさや、遊戯的に楽をして生きている(ように見える)彼らに対して、焼跡的なものを突きつけることは、多いに意味のあることだろう。しかし、これではトラウマの連鎖と再生産にしかならないのではないだろうか――その自覚は、先の老人の発言に当然含まれている。しかし、そう分かってもなお、溢れる怒りのどうしようもなさが、この発言には見受けられる。
2010年5月6日に『東洋経済オンライン』に掲載されたインタビューの発言も、その上に理解するべきであろう。(http://www.toyokeizai.net/life/column/detail/AC/19f72c857f49de4f74355591ecbd730a/)
「今の日本の若い人には、もっと生々しい歴史を学んでほしいと思っています。
僕は小・中学生のときに戦争を経験しました。いちばん怖かったのは、食べるものがないという飢餓体験です。終戦になった中学3年生の食べ盛りのころは、1日わずか5勺(90ミリリットル)の外米と、虫食い大豆や虫食いトウモロコシ、ドングリの粉ぐらいしか食べられませんでした。消化の悪い炒り豆を食べては水を飲んだので、しょっちゅう腹を下し、毎日フラフラでした。
そんな飢餓体験が、僕の処女長編小説『日本アパッチ族』の基になっています。「アパッチ族」と呼ばれるくず鉄泥棒が、鉄を食う「食鉄族」となって、鉄でできている物を片端から食いまくり、日本人の生活を脅かしていくという荒唐無稽なストーリーです。
執筆当時、極貧生活で、唯一の娯楽だったラジオさえも質に入れなければならなかった妻を喜ばせるために、夢中で書いたものです。
日本は幸か不幸か地震の多い国です。1995年1月には、阪神大震災で6000人を超える人が亡くなりました。若い人はこうしたつらくとも生々しい歴史から学ぶという訓練を、自ら進んでやってみてほしい。」
この意見には、戦争経験という「悲劇」を宿命として背負った作家の発言として賛同する部分があるのだが、危険な部分もあるように思う。「いまの日本がユートピア」であり、例えば若者やフリーターは甘えているという言説と、この心情は親和性が高そうに思うからだ。それは心情である以上、現実や論理の問題ではなく、人々に抱かれてしまう。さらに、『日本沈没』では、日本のために、長時間労働し、日本人救出のために命を落とす者たちが肯定的に描かれているが、これは一歩間違えば、ナショナリズムを利用して過労死させるまで人を使い捨てにしている現代のブラック企業を肯定するロジックとして使われかねない。というよりは、小松が崇高で美しいものとして描いた自己犠牲の理念が、ブラック企業などに悪用されているのではないだろうか。小松は「日本人」のために、自己犠牲的に労働する人々を描いたが、現在は労働は「日本人」のためという枠を超えて、グローバル資本主義やグローバル経済のネットワークの中で自己犠牲的労働が必要とされている。
確かに、「ブラック企業」だとか「労働基準法」であるとか、あるいは「鬱病」という名称やカテゴリを作って行く事自体が「甘え」だという指摘も頷けなくはない。昔はそんなものは気にしないで働いたんだ、社会のために、発展のために、と言われれば、それはそうなのだろうと思う。しかし、心理的、精神的に社会がよくなっていくことを願うのならば、下の世代に、自分たちが経験した「辛さ」を経験させることが、良いことなのかどうか。トラウマを与え続ける連鎖よりも、尊敬と愛情を勝ち取るようなコミュニケーションこそが重要なのではないかと思われる。若い人間も、高度成長に尽力した世代に人たちを馬鹿にしたり嘲笑ってはいけない。理解し、敬意と感謝を抱くべきだ。そうして初めて、トラウマの連鎖でも嫉妬でもない世代間の交流の可能性が生まれるだろう。
『日本沈没』は、「進歩」の影に潜む世代間の「不調和」を描いている。その不調和のマグマ的エネルギーが日本を沈めていくというこの物語から、学ぶべきところはたくさんある。1970年に「人類の進歩と調和」を謳った大阪万博が開催され、そこに小松もテーマ館サブ・プロデューサーとして参加していたことと、この作品が1964年〜1973年にかけて書かれていたことからも、示唆を受けるべき事柄は大量にある。今尚学ぶべきところが多くある名作である。
(藤田直哉)
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東京SF大全
2010-07-01T22:08:22+09:00
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東京SF大全32「宇宙船ビーグル号の冒険」
「東京」は、「東洋のガラパゴス」と呼ばれる地域(小笠原諸島)をも、同じ行政区分としてかかえる土地である。
ダーウィンがガラパゴス諸島を訪れた船と同じ名を持つ宇宙船の物語…それは現在の?東京?のかかえる問題とつながっている。
それについて、ゲストの木...
ダーウィンがガラパゴス諸島を訪れた船と同じ名を持つ宇宙船の物語…それは現在の?東京?のかかえる問題とつながっている。
それについて、ゲストの木立嶺氏に論じて戴いた。
(小説、A・E・ヴァン・ヴォーグト、1950年 )
文明の冬期――ケント局面を迎えた
宇宙船ビーグル号と東京
「民主制は、時としてそう呼ばれるように、これまでは世論の民主制であったのが、いまや操作の民主制となってしまったからなのである。――(中略)――操作の民主制の大きな弱点とは、有権者団の管理に関することには非常に巧妙であるが、対外政策では根本的に無能力な指導者を選んでしまうという点にほかならない。」(エマニュエル・トッド著「デモクラシー以後」(P288〜289))
「宇宙船ビーグル号の冒険」は、人類の建造した最大の宇宙探検船ビーグル号を舞台に、主人公の若き総合科学者エリオット・グローヴナーを始め、ビーグル号に搭乗する千名の科学者と軍人達が、銀河宇宙の様々な場所で遭遇する異星人の、それぞれ異なる攻撃に立ち向かう様を、船内の対立を絡めて展開していくストーリーである。
原作は1939年と43年の二回に分けて発表され、長編としてまとまったのが1950年である。初稿から今年で実に七十一年が経過している古典SFである。
作品構成は4部に分かれ、それぞれ滅亡した文明の遺産である実験動物のケアル、テレパシーの挨拶ひとつでビーグル号を混乱に陥れるリーム人、不老不死で寄生繁殖する緋色の完全生物イクストル、そしてM33銀河系全体を覆い、食糧を得るために何万という文明を壊滅させてきた超巨大ガス生命体アヌビスなど、実に個性豊かな面々が、ビーグル号の面々を相手に大活躍をする。
また、舞台となるビーグル号の詳細な設定――船体形状は球形、床総面積二平方マイル、デッキ数三十、反加速度動力機関搭載、超光速航行可能、難攻不落の防御スクリーンを装備し、船内でも使用可能な原子放射線砲を四十一門搭載――も、十分に読み応えのあるものである。
ところで、現代の東京とはるか未来の宇宙船の間には、どのような関係があるのだろうか。実は両者には、共通の特徴が存在する。一方の東京は言わずと知れた、高度の頭脳と科学技術の集積する世界的な大都市であり――作中に登場する周期学説という学問では「魂を失った」という形容が付く――他方のビーグル号は、同様に高度の頭脳と科学技術で武装し、東京と同様に「冬期」を迎えた銀河系文明の産物である。従って、ビーグル号船内で生じる問題は、東京が代表する現代文明の問題と見做して差し支えないのである。
そこで、今回は本作を取り上げ、作中人物達の成功と失敗を考察することで、東京=現代文明が今後直面するであろう問題群にアプローチする際の手掛かりを探ってみたい。
■ 銀河系文明に現れた、破壊的要素の化身 ■
東京を繰り返しゴジラが襲ったように、ビーグル号には種々様々な異星人が襲い来る。しかし、それらに立ち向かう人々の中に、常に船を危機に陥れてきた人物が存在する。
主人公グローヴナーの敵、化学部長グレゴリー・ケント――彼こそは、冬期に差しかかった文明が直面する危険の、もっとも具体的な一例である。
「――(略)――あの男には、好ききらいがある。すぐのぼせ上がるし、腹も立てる。失敗もやらかす、だが知らんふりする。総監督になりたくてなりたくてしかたがない。地球に帰ったとき、脚光を浴びるのは、最高責任者にきまっているというわけさ。――(中略)――あの男は――何というか――人間臭いんだよ」
(地質学部長マッカンのケント評(P260))
部長としてビーグル号の化学部を率いるケントは、徹頭徹尾、政治的人間である。本作が基本的に宇宙船内の物語ということもあり、騒々しくも寒々しいケントの内面、あるいは性格の背景は一切描写されていない。せいぜい、上記に挙げたマッカンの表面的なケント評が存在するのみである。
また、ビーグル号の組織構成は、船長のリース大佐を筆頭に軍人が運用部門を占めており、科学部門については総監督のもと、各部門の長を中心とする合議制を以て八百名に及ぶ科学者を統率する、民主主義体制が採用されている。
以上の点を踏まえた上で、各編中のケントの行動を大ざっぱに見て行くと、以下のようになる。
《ケアル編》
ケントは助手をケアルに殺害されて逆上し、総監督モートンの命令を無視してケアルを射殺しようと図るが、不首尾に終わる。グローヴナーに対しては、格下と見做してそっけなく応対する。
《リーム人編》
次期総監督選挙が迫る中、現監督モートンの対抗馬として立候補していたケントは、自分を批判したグローヴナーに立腹し、部下を動員して総合科学部を接収する。
その最中にリーム人の襲撃が発生し、混乱したケントは、化学部を率いてモートンやリース大佐ら船の指導部と争い、その結果負傷して入院し、選挙に出馬できず、総合科学部からも撤退する。その代わり、総監督代理に任命されたことで、限定的な政治的勝利を得る。
《イクストル編》
ケントは病室で出番なし。しかし、総監督のモートンが負傷して職務遂行不能に陥ったため、代理である彼が自動的に船の実権を握るという、最大の政治的勝利を得る。
《アヌビス編》
ケントはグローヴナーの排除にかかるが、ついに本気を出したグローヴナーと総合科学の技術力の前には、文字通り手も足も出ず、ついにその力を認めて改心する。
以上を普通に読んでいけば、これはケントの敗北、すなわちハッピーエンドと解釈できる。しかし、本作を読み込んでいくと、ひとつの疑問が浮かび上がってくる。すなわち、グローヴナーはケントに対し、本当に最終的な勝利を収めたのだろうかという疑問である。
■ 浮かび上がる恒常的パターン ■
本作には、総合科学に対する一種のアンチテーゼとして、考古学者苅田の専門である周期学説が登場する。これは文明の盛衰を扱う学問で、グローヴナーは「歴史的に問題に対処し、しかも特定の事態に適用できる実際技術」(P178)として高く評価している。
一方、苅田本人は自分の専門について、冷静な見方を崩すことはない。
「一般論から、個々の問題を解決しようということの困難性は、あなたにも十分おわかりだと思います。わたしのほうの周期学説は、事実上、この一般論でしかないのでね」(グローヴナーに対する苅田の返答(P107))
そこでまず想起される疑問は、総合科学が一般論的な危険性をはらんでいる可能性はないのだろうか、という点である。
この点を踏まえた上で、グローヴナーとケントの関わりを順に追っていくと、あるパターンが浮かび上がってくる。
グローヴナーとケントの対立は、グローヴナーががケント支持者の前でケントを批判した時から本格的に始まっている。
この翌日、総合科学部の部室は、ケント率いる化学部に占拠されてしまうのである。
これは、歴史の浅い学問である総合科学には権威がなく、構成員がグローヴナーという三十一歳の若造ただ一人しかおらず、他の部との連携もないという、非常にスケープゴートにし易い相手であること、また、これを攻撃することによって、支持者の結束を高めると同時に、中立派や反ケント派に対するデモンストレーションを狙っていることは、容易に察せられる。
ところが、グローヴナーはこうしたケントの計算を見抜くことができなかった。
「自分は当然モートンに抗議する――これは向こうも予期しているらしい。どうやら、彼の抗議を逆に利用し、選挙に役立てようという腹らしいが、なぜ選挙運動に得になるのかさっぱりわからない。」(P95)
この後、グローヴナーはリーム人事件の後始末の際に、重大なミスを犯している。ケントを総監督代理にするよう、総監督のモートンに進言したことだ。これは受け入れられたのだが、船内の融和を図る意味はあったものの、同時にケントを己の野望に近づける危険性を孕んでいた。
しかもグローヴナーは、手遅れになるまでこのミスに気づかなかった。彼は対イクストル戦において、原子放射線砲を使った作戦を考案したのだが、この時、囮役の一人としてモートンが参加している。そして作戦が失敗してモートンが負傷し、総監督を退任したため、ケントが名実ともに船の実権を握るという最悪の結果を招いてしまったのである。
計画立案の際、モートンがケントの野望を阻止する上でかけがえのない人物であることを、グローヴナーが考慮した形跡はない。
さらに、アヌビスによって怪獣がビーグル号司令室に送り込まれた際、ケントは混乱の中でグローヴナーの頭部を狙って震動波銃を――出力全開で――発射するのだが、この時もグローヴナーは、相手の心理を把握し損ねている。
「ケントにしてみれば、自分が臆病風に吹かれて逃げ出したから、殺してもかまわぬなどと思い込んでいるらしい。」(P249)
グローヴナーを射殺しても申し開きができる状況を、ケントが常々待ち望んでいた可能性があることを、彼はまったく考慮しなかったのである。
総監督代理の心理を過小評価しているために、グローヴナーは次のような失敗もしている。
「ケントは、グローヴナーが考えていたよりは、ずっと頭に来ていたようである。腕で顔をかばうところだったが、もう手遅れだった。
『つけ上がるな、この野郎!』大きな声を立てたかと思うと、ケントは平手で彼の頬をなぐりつけた。」(P275)
このように見て行くと、グローヴナーは一度や二度ではなく、恒常的にケントの心理を把握し損ねている様子が伺える。一体この原因はどこにあるのだろうか。
イクストルの侵入を受けた際、苅田は周期学説の観点から、この異星人が大都市期の産物と仮定した場合について述べている。
「事実上対抗しがたい知能の持ち主といえるでしょう。全然手のほどこしようはないといってもよい。自分のペースで事を運ばせたら、しくじりなどということは絶対にやりますまい。負かすことができるとすれば、それは何か彼の手の下しかねるような事態があったときだけです。まあ、一番よい例が――(中略)――われわれ自身の時代の、高度に訓練された人間がそうでしょう」(P178)
グローヴナーは総合科学者という、まさに高度の科学訓練を受けた大都市期の人間である。したがって、苅田の論理に従えば、ケントの心理を把握できないという彼の欠点は、個人的なミスによるものとは考えにくい。それよりは、総合科学に内在する欠点――人間を統計的存在と見做すがゆえに、特異な個性を扱う際には有効に機能しない――を暗示している可能性が高い。
何といっても、グローヴナーは、ケントという存在をあるがままにしか見ていない。リーム人襲撃の直前、グローヴナーは苅田に相談を持ちかけているが、それはケントに対抗する際、自分の行動にミスはないかを確認するためのものであり、ケントの動機の背後を探るためではない。グローヴナーは彼を一人の個人ではなく、冬期文明における人間の悪しき類型としてのみ見ているのである。
「われわれ現在の文明がもつ、破壊的要素の化身、それがケントなのさ」
(グローヴナーの発言(P88))
つまり彼は、一般論的な観点からケントを捉えているのである。
■ 制度的欠陥の補償機能としての総合科学 ■
すでに言及したように、ビーグル号には、科学者の代表である総監督を選挙によって選出する制度が存在する。この選挙制は、探検船の帰還率を向上させる試みの一環である。
「過去二百年のあいだに出発していった宇宙探検隊のなかで、実に五割までが未帰還に終わっているのだ。どうして帰って来なかったのか、その理由は帰って来た船に起こったことから判断する以外にない。隊員間の不和、激しい論争、隊の目的に関する意見の対立、少数派の乱立―判で押したようにこれである。」(P84〜85)
上記の要因を緩和するという導入目的、また、グローヴナーの「民主主義に忠実なら、当然比例代表制でしかるべきだからな」(P89)という発言から考えて、ビーグル号の選挙制度は、小選挙区制のバリエーションを採用していると推測される。この制度は一般に、多数派で構成された政権が強力な実行力を備える一方、多様な少数意見が反映されにくいとされている。そのため、成熟した市民社会においては、この欠点を補償する機能が、選挙制度の枠組みの外で発達する傾向がある。
ビーグル号を建造した銀河系文明は、その究極の解答として総合科学を開花させた。では、現代の東京文明でこれと同様の役割を担う学問は何か。
東京が多数を擁する「高度な訓練を受けた大都市期の人間」――巨大企業のビジネスマンや高級官僚、学者、マスコミ人――は、民意を把握する際に、高度な統計処理を含む手法を多用する。コマーシャルベースにおいてはマーケティングであり、政治の世界では世論調査が主に該当する。それらは高度な発展を遂げた結果、今や良好な企業活動や政権運営に不可欠のツールとなっている。
にもかかわらず、企業のリストラや倒産、政権の退陣といった失敗は、依然として東京文明を特徴付ける恒常的な現象であり続けている。これは、銀河系文明の探検船未帰還問題と不気味な相似形を成しており、さらに、統計処理を一般論化の過程と捉えるならば、ケントを扱う際のグローヴナーの失敗とも、同様の相似形を成しているのである。
■ 終わりなき危機 ■
とはいうものの、総合科学はいったん作動を始めれば、デウス・ウキス・マキナのごとき圧倒的な力を発揮する。グローヴナーは結局はケントとの闘争に完全勝利し、対アヌビス戦においてビーグル号を勝利に導くのである。
そこで、次のような疑問が浮かび上がる。すなわち、すべてが終わった後で、ケントは改心したのかという疑問である。
「人間の将来はどうなるのかな、きみの考えでは? 万人が総合科学者になるということか?」
「この船の上では、それは不可欠でしょう。人類全体としてはまだ実行可能の段階には来ていませんが――(略)」
(中略)
「するときみたち総合科学者は、周期学説的な歴史のパターンを打破するつもりなのだね? そうだろう、きみが考えてるのは?」
「正直いって、ぼくは苅田さんにお目にかかるまでは、周期学説的な物の見方を、それほど重要視していなかった。――(中略)――だが全体としてのパターンは、事実によく適合しているようです」
(マッカンとグローヴナーの対話( P298〜P299))
先のような事情を踏まえ、かつ総合科学が周期学説の打破を目標のひとつにしていることを考慮すると、ケントが物語の最後で、ついに総合科学のセミナーに参加した時、グローヴナーはそれをケントの改心――周期学説に対する総合科学の勝利と受け取った可能性は高い。
しかし、それは事実だろうか? ケントは総合科学の力を認め、リーム人のように生き方を変えたのだろうか。それとも、孔子言うところの「敵を知り、己を知れば百戦危うからずや」に戦術を変更したに過ぎない可能性はないのだろうか?
仮に後者だった場合、ケントは自身の権力維持のためにも、部下に総合科学を学習させる愚を犯しはしないだろうが、残念なことに、ケント以外の化学部の人間がセミナーに参加している、あるいはしていないという記述は存在しないため、この点を裏付けることはできない。
しかしながら、彼が総合科学を研究して己のものとし、なお自身の野望を維持し得る可能性は、確かに存在する。
催眠工学を用いて、乗員を対アヌビス戦に動員することに成功した時、グローヴナーは以下のように胸をなで下ろしている。
「ケントが、不承不承これに同意し、作戦遂行の要を認める姿を見て、グローヴナーは、ひそかに苦笑いした。催眠にかける時も、各個人の性格一般には何も影響がないよう、注意しておいたのである。」(P311)
終わることのない夜であり、始めのない夜でもある銀河宇宙を突進するビーグル号。その内部で繰り広げられたドラマから、東京はいかなる教訓をくみ取ることができるだろうか。
彼らが示しているのは、高度に科学的な手法を用いて、人間集団を賢明かつ注意深く操作すれば、表面上は危機を回避できるという事実である。
しかし、本当に危機を克服するならば、そのようなアプローチだけでは不十分であり、個々の人間の、とりわけ「人間臭い」部分について、より深く慎重な考察が必要になるだろう。なぜなら根本的な原因が取り除かれるまでは、危機は常にそこに存在し続けているからである。
(木立嶺)
*本文の引用はすべて、創元推理文庫版(1983年10月14日発行38版)に依っています。
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東京SF大全
2010-06-21T00:00:00+09:00
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東京SF大全31「虹の天象儀」
(小説・瀬名秀明、2001年)
(祥伝社文庫・2001年11月刊)
織田作が愛した「自由軒」のカレーとともに。最初から混ぜられたカレーに生卵を落とし、ソースをかけて食べる
「ただし、ひとつだけ光速を超えられるものがある。それは物語だ、とSFは語ってきた...
(小説・瀬名秀明、2001年)
(祥伝社文庫・2001年11月刊)
織田作が愛した「自由軒」のカレーとともに。最初から混ぜられたカレーに生卵を落とし、ソースをかけて食べる
「ただし、ひとつだけ光速を超えられるものがある。それは物語だ、とSFは語ってきた」
最相葉月との往復書簡エッセイ『未来への周遊券』(ミシマ社)にて、瀬名はそう言った。
物語なら超えられる。空間も、そして時間も。瀬名の積年の哲学を、わずか一六五ページの中篇に結晶化させた。奇跡のような作品である。その言葉だけ取り出して聞くと、叙情的で繊細なファンタジーの印象を受けるかもしれない。だがその物語を水面下で支えるのは、認知科学やロボット学などの、瀬名がこれまで積み上げてきた科学的思考である。受け継がれ、広まっていく「物語」というデータの強靭さに注目し、思弁を重ねることでタイムトラベルの可能性にまで到達した思索の深さには驚かされる。
ハードSFでもファンタジーでもない独自の世界構築。あれはできない、これはできないという減算の発想法ではなく、あれはできる、これもできるという加算の発想によってのみたどり着ける世界だ。それが瀬名作品の魅力だろう。それを絵空事と切り捨てるのはたやすいが、物語というソフトウェアの内部では矛盾なく成立している。メタフィクション的視点を前衛文学ではなく科学の立場から採用した斬新さは注目に値するだろう。
かつて、東京・渋谷駅前で44年間稼動し続けた五島プラネタリウムの物語である。そのプラネタリウムで最後の投影を務めた技師が、過去へ旅する。東京大空襲直前の時期、そして敗戦後間もない時期へ。肉体ではなく、意識だけが時空を超え、他人の肉体を借りる形で過去を体験する。
いかにもファンタジー的な展開に思えるが、きちんと説明はつけられる。ロジャー・ペンローズの量子重力論とか、その手の話ではない。どちらかというと認知科学と哲学が溶け合う領域を足がかりに、ある仮説が語られる。誰にでも理解できる平易な理論でありながら奥行きはとても深い。そこがすばらしい。
技師が時空を超えて旅する目的は、東京大空襲を止めるためではないし、大切な誰かを守るためでもない。ある人間に会うためだ。織田作之助。「夫婦善哉」や「わが町」など、大阪を舞台に情感豊かな作品を書いた。だが地元大阪でも思い出す人は既に少ない。「夫婦善哉」に登場する「自由軒」のカレーが今も変わらず親しまれている程度だ。「自由軒」は「織田作のカレー」の店として今も誇らしげに看板を掲げるが、実際に「夫婦善哉」を読んだことのある人がどれほどいるだろう。
だが技師にはどうしても気になる作家だった。「わが町」の重要な場面でプラネタリウムが登場するからだ。主人公・他あやんは、フィリピンのベンゲット道路建設のため海を渡ったが、志半ばで強制送還される。フィリピンの星空の下に戻ることを夢見続けるがそれはかなわず、大阪電気科学館のプラネタリウムを見ながら息を引き取る。
本書がもうひとつ興味深いのは、徹頭徹尾東京を舞台にした東京SFでありながら、その中に大阪の物語が巧妙にはめこまれていることだ。織田作は大阪に帰りたいと願いながら東京で客死した。その見果てぬ望郷の念を癒すために技師はひとつの行動を取る。なぜ織田作なのか。なぜプラネタリウムなのか。最後の最後で、意識と時間を巡る物語と、織田作とプラネタリウムを巡る物語がひとつになる。
冒頭の瀬名の言葉を受けて、最相はある親子の物語を語った。科学の好きな息子が得意気に語る。今見えている星は現在そこにはなく、十年前、百年前の姿なんだよと。父親は返した。「なるほど、見る場合はそうかもしれないな。しかし、考える場合はどうだ。今地球のことを考えている。つぎに遠い星のことを考える。これにはなんら時間を要しない。人間の思考は光より速いということになるぞ」(『未来への周遊券』より)
息子はこの父の言葉を忘れなかった。後に作家となり、星新一と名乗った。星が、そして瀬名が書いた「思考」を巡る物語は、これからも時間と空間を越えていくはずだ。(高槻真樹)
五島プラネタリウムの跡地。今も再開発が続く
※付記1 この物語はもともと、実際にプラネタリウムを使ってスライド投影方式で上演されるドラマの原作として書かれた。番組は各地で巡回上映が続けられており、現在、熊本博物館にて8月末日まで見ることができる。
http://webkoukai-server.kumamoto-kmm.ed.jp/web/planetalium/bangumi.htm
※付記2 「物語は光速を超えられる」という言葉について、瀬名は「山田正紀さんの長篇『エイダ』の中に登場する言葉に刺激された」と語っている
※付記3 この物語の主役といえる五島プラネタリウムのカールツァイス?型投影機は、今秋竣工予定の新しい渋谷区記念館に飾ろうという募金運動が行われている。こちらのHPから募金を申し込むことができる
http://www.f-space.jp/bokin/
提供:渋谷区五島プラネタリウム天文資料
この物語の主人公・カールツァイス?型プラネタリウムの、五島プラネタリウムにおけるありし日の姿。
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東京SF大全
2010-06-11T02:13:59+09:00
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WISCON行ってきました
参加者のみなさま、こんにちは。
実行委員長のマダムロボです。
もう残すところ2ヶ月ですよ、2ヶ月。
あーーーーーー、もう間に合うのでしょうか?
歴代の実行委員長ってこんなやきもきしてたのねー。
最近じゃ「痩せたねぇ。実行委員長ってそんなに激務なの?」と...
実行委員長のマダムロボです。
もう残すところ2ヶ月ですよ、2ヶ月。
あーーーーーー、もう間に合うのでしょうか?
歴代の実行委員長ってこんなやきもきしてたのねー。
最近じゃ「痩せたねぇ。実行委員長ってそんなに激務なの?」とか聞かれちゃうし・・・
大会が終わってリバウンドが怖い今日この頃です。
さて先月も書きましたが、5月末に行われたアメリカのフェミニストたちのSF大会WISCONに参加してまいりました。
ウィスコンというのは性別を隠して活動していたジェームズ・ティプトリー、jrを記念して開催されているローカルコンで、ジェンダー的に優れたSF作品に対してジェームズ・ティプトリー、JR賞という賞を出しています。
あ、みなさまご存知と思いますが、ジェームズ・ティプトリー、JRは名前は男ですが女性なんですよ。戦時中は軍人として、また戦後はCIAエージェントとしても活動していた人です。男名前で作家活動を始めた時には誰もが男と信じて疑わなかった、後に女とわかった時にはティプトリーショックと呼ばれたくらいなんです。
そんな彼女にちなんで始められたのがウィスコンなんです。
そのティプトリー賞になんとよしながふみさんの「大奥」が選ばれたんですよ。
代理に授賞式に出席するのは大会顧問の小谷真理さん、またウィスコンの大会関係者と日本のジェンダーSF研究会は深いつながりがあるんです。
ということで、やっぱそこは行くでしょ!と行ってまいりました。
さて会場へ行ってびっくり!ディーラーズルームに来ている本屋には「大奥」の翻訳版"Ooku"が並んでいます。ちょうど3巻が出たばかりらしく、あっという間に売り切れていました。
そして日本人と見ると「大奥」のことを聞いてきますよ。
向こうのバリバリフェミさんたちにもそうとうな衝撃を与えたようなんです。
またウィスコンの開催されているマディソンという町にはフェミニスト用の本屋があるんですが、そこにもよしながふみさんの「愛すべき娘たち」の英訳も出てましたよ。
さて授賞式は最終日の夜、夕方からのデザートサロンに続いて行われます。
審査員たちの講評に続き、受賞者のスピーチ、賞品の授与、そして受賞者をお祝いする合唱です。
小谷さんの英訳・代読によるよしながふみさんからの受賞の言葉に会場中がシーンとなっていました。そして全員での合唱によって「 ヨシナガ、ヨシナガ、マンガカ、マンガカ」の声が響き渡ったのでした!
なのですが、実は私コスプレしてまして、振り袖をお引きずりで着て髪を日本髪風にしていたのです、そのため周りのアメリカ人から「あ、上様だ、上様、上様」と呼ばれていました。
授賞式の前に審査員たちによる講評の部屋があるのですが、その時私は「他にも日本の小説は英訳されているのに、マンガの大奥が選ばれたのはシンボリックな気がする。なぜなら今、日本の一番人気輸出物はマンガだから」と言った時に審査員から「他にあるならぜひ教えて、ティプトリー賞の候補には一般の人も推薦できるのよ」と言われました。
ぜひティプトリー賞を取らせたい作品が英訳されたら推薦しましょうね!
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日記
2010-06-10T02:59:42+09:00
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東京SF大全29・30 『白暗淵』『終着の浜辺』
6月6日は?恐怖の日?である。新約聖書の一節に「獸の數字は人の數字にして、その數字は六百六十六なり。」[ヨハネの默示録13:16〜18]とあることにちなむ。
東京に?恐怖の日?が訪れたこともあった。
今回は、ゲストのお二人、東條慎生氏と増田まもる氏に、その?恐...
東京に?恐怖の日?が訪れたこともあった。
今回は、ゲストのお二人、東條慎生氏と増田まもる氏に、その?恐怖の日?とSFについて語っていただいた。
東京SF大全29『白暗淵』(しろわだ)
(小説・古井由吉・2007年)
(講談社・2007年12月刊)
古井由吉と東京、というならばまだしも、古井由吉とSFという取り合わせは意外に思う方も多いだろう。まさか古井がSFを書いていたのか、という訳ではもちろんない。古井由吉で「東京SF論」を書けないか、という話を聞いたときにはそれは無理だろうと思ったのだけれど、よく考えてみれば日常のなかに不穏を見いだし、堅固な現実と思われたものがじつは凍った水面のように薄いものなのではないか、という戦きを味わわせるという点においてはディック的な幻想文学の要素があることは確かだ。東京SF論として成立しているかどうかは読者の方の判断を待ちたいけれど、とりあえず迂遠ながらも古井とSFと東京をつなげてみたいと思う。六十年ちょっと前のことからはじめよう。
1945年3月から数次に渡って行われたアメリカ軍による大規模な爆撃は、東京市街地の50%を焼失させるほどの甚大な被害を与えた。特に3月10日は最大規模のものとして知られ、死傷者10万人を超え、被災家屋は26万戸を数える。それに次ぐ規模のものとしては5月25日の山の手大空襲があり、死者7000人以上、家屋22万戸という被害を受けた。
古井由吉は今の品川区旗の台(当時の荏原郡平塚)で1936年に生まれ、山の手の大空襲を8歳の身で体験したことになる。当時8歳の少年にとって目の前で家が燃え、「近所隈なく焼けている」という状況はどれほどのもかにわかには想像できない。いまの私たちから考えると、一夜にして市街地の半分が焼失した、などというのはまさにSFのなかの出来事にしか思えないだろう。>
しかし、それは確かに60年前に起こったことだ。古井はこの東京大空襲を体験したことが強い原体験としてある小説家で、最近の連作形式の小説にはひとつくらいそのことを題材にしたものがある。2007年の『白暗淵(しろわだ)』では冒頭の「朝の男」に、焼き払われた瓦礫の中で通りがかった男に想像をめぐらすという展開があり、最新刊『やすらい花』では「涼風」や「瓦礫の中で」がやはり空襲体験を書き込んだものとして数えられる。しかも、ただ戦災を語るのではなく、そうした死に満ち満ちた状況のなかで、行きずりの女と交わるというような、死と性の密接な絡まり、あるいは、死に近づくほどに性が昂進していく様子が描かれるのが古井作品の特徴だと言える。つまり「人生=死」と「色気=性」なわけだ。
そのあたりのことはインタビューをまとめた近刊『人生の色気』でこう語っている。
「僕は作品でエロティックなことをずっと追ってきました。その一つの動機として、空襲の中での性的経験があるんですよ。爆撃機が去って、周囲は焼き払われて、たいていの人は泣き崩れている時、どうしたものか、焼け跡で交わっている男女がいます。子供の眼だけれども、もう、見えてしまう。家人が疎開した後のお屋敷の庭の片隅とか。不要になった防空壕の片隅とか……」
こうした戦争の極限状況とエロティックなものの絡まりは初期の代表作「円陣を組む女たち」にも見ることができる。母と姉に連れられて空襲から逃れるとき、空からの爆音を聞きながら、少年はいつしか見知らぬ女の顔が自分のまわりに「円く集まっている」のを見、このような叫びを聞く。
「直撃を受けたら、この子を中に入れて、皆一緒に死にましょう」
女たちはその言葉を繰り返し、「つぎつぎに声が答えて嗚咽に変わってゆき、円陣全体が私を中にしてうっとりと揺れ動きはじめた」という文章で小説は終わる。少年の記憶のため、性的なニュアンスはぼんやりとしたものにならざるをえないけれども、この末尾の叙述は明らかにエロティックなものを含んでおり、近年に至るまでの一貫した軸を見てとることができる。
戦争についてはさらに二つに分けることができ、ひとつは空襲の体験に象徴される戦争、そしてもうひとつは戦後戦われた経済の戦争が、古井作品の大きなバックグラウンドとしてある。東京を流れる多摩川水系の河川をタイトルに持つ長篇小説『野川』では、この空襲と経済の繋がりが特に強調された作品で、経済戦争を戦った男の死が空襲での死と対を成すように描かれていたところが印象に残るものだった。
『白暗淵』でもこの関心は引き継がれていて、毎日新聞のインタビューに答えて、古井はこう語っている。
「一夜のうちに焼き払われる空襲なら、ささやかでも物語にはなる。戦後の経済成長による変化は日常のうちに起こったために出来事としてつかまえられない。ところが、前後では戦災と同じほどの断絶が起こった。その変わりようを切れ切れに拾っていければと」
もうひとつ、古井が日経新聞に連載した、「東京の声と音」という副題を持つエッセイ集『ひととせの』の序文でこう書いている。
「自分の耳は、じつはとうの昔に、奥のほうで聾されたままになっているのではないか、とひそかに疑う者なのだ。ひとつは空襲の最中の、音の恐怖による。耳からの恐怖は、目からの恐怖よりも、防ぎようがない。またその後遺症として、それ以前の音や声の記憶を、とかく遮断する。
もうひとつは、これは長年かけてのことだが、戦後経済成長の、喧騒による。奔走の喧騒は、折々耳についた声や音を、記憶に留めることを阻みがちである」
ここでも、敗戦の崩壊と復興の繁栄とを同じ戦争として並べて見る視点があることが分かる。そして、戦後の経済戦争による疲労は戦災のように派手に目に見えるものとは異なる。ある時突然死んでしまった男のことを、まるで暗い穴を覗きこむように恐る恐る残された者たちが語り合う、というのは古井作品に多々見られる状況だ。そこには「彼」を死においやったものが、「われわれ」のうちにも既に養われていることが言わずとも共有されているような空気が立ちこめる。
そうした物語にならないような事々のうちから、古井はなんとか言葉を紡ぎ出そうとする。だからこそ、日常の微細なくずれに危機や不穏さを見いだしていくような古井独特の緊迫感に満ちた文体が必要となってくる。危機は日常にこそ伏在している、という古井の認識こそが、大空襲と経済戦争という東京を戦場としたふたつの戦争のその後を描き出す方法だったといえるだろう。
さて、ここで空襲とSFといえばまず読者の方の脳裏に浮かんだだろう作品、カート・ヴォネガットの『スローターハウス5』を考えてみたい。これこそ、「一夜のうちに焼き払われる空襲」を描いた「ささやか」な「物語」だからだ。『スローターハウス5』で扱われる空襲は、東京大空襲と並んで第二次世界大戦での無差別爆撃の代表的な事例、死者十数万を数える未曾有の被害をもたらしたアメリカ、イギリス連合軍によるドイツ、ドレスデン爆撃だ。アメリカ軍兵士だったヴォネガットは捕虜として連れられたドレスデンで、味方からのこの爆撃を受け、焦土と化したドレスデンを目の当たりにした。東京大空襲のほぼ一月前、1945年2月13日から翌日にかけてのことだった。
あまりにも衝撃的でドラマチックな出来事だとはいえる。しかし、あまりにも理不尽で劇的な出来事は同時にその者から言葉を奪う。『スローターハウス5』は戦後25年を閲して作中の言葉を借りれば4,5千枚の反故を出しながらようやくのことで完成を見た。そしてこの作品は徹底して物語を「けいれん的」に解体する物語として形作られている。ある種のトラウマとして刻印された出来事はその徹底した理不尽さによって意味を解体され、「大量殺戮を語る理性的な言葉など何ひとつないからなのだ」、とヴォネガットが語るように、意味のある物語として語ることを阻害する。
そこで採用されたのが主人公ビリー・ピルグリムの「けいれん的時間旅行者」という設定と、トラルファマドール星人という荒唐無稽なヴォネガット的ガジェットだ。トラルファマドール星人は、過去から未来までの時間を一望の下に見ることができ、彼らにとってはある時点で人が死ぬとしても、それ以外の時間では生きているため、死が大きな意味を持たない、という設定が与えられている。「けいれん的時間旅行者」というのも、そのようなトラルファマドール星人の視界をビリーに擬似的に体験させる目的があるといえるだろう。
そうして描かれるのは、未来も過去も現在も全ては決定論的に決まっていて、これから起こる出来事はまったく変えることはできない、という極端なペシミズム的世界観だ。あらゆる悲惨、さまざまな死、そして自らの死すら「そういうものだ」と当然のこととして受け入れるような、究極の諦念。反戦平和主義の人々を怒り心頭にさせそうな話だけれど、
しかし、このようにして死そのものを無意味なものとしなければならないような認識、悲惨を悲惨と受け取ることすら阻害する悲惨を強いるのが、ドレスデン爆撃だった。「そういうものだ」という頻出する言葉は、そうしたものをひっくるめた大いなるアイロニーとして、『スローターハウス5』の全体のトーンを形作っている。ここに、アイロニカルに絶望を描きながらも希望とユーモアを込めるヴォネガットの真骨頂がある。
ヴォネガットと古井は年齢的にはだいたい一世代は違う。それが両者の見るもの、小説の手法の違いをもたらしている、といえるかどうかは分からない。ヴォネガットは都市の廃墟のなかから壊れた物語を語ろうとし、古井は物語にならないところから言葉を紡ぎ出そうとする。二人とも歴史的な規模の空襲によって都市の焼亡を目の当たりにした経験を持っているけれども、その描き出そうとする手法はアメリカと日本、というお互いの立場の違いのようにまるで異なっている。ただいえるのは、空襲、戦争という体験は、焼け落ちた都市のように現実や意味や言葉が崩れ落ちる失語的状況を強いるものだということだ。両者とも、方法は違ってもその失語的状況から、言葉にならない言葉、物語にならない物語を、なんとか語ろうと試みている。
古井由吉はアメリカを主な相手としたその二つの戦争において、東京が戦場と化した体験を持つ最後の世代に当たる。80年代生まれの私にとっては空襲も、そして高度成長も過去の話になってしまうのだけれど、彼らにとっては東京の焼失は忘れられない大きな衝撃として今も燻っている。
ドレスデンと東京のつながりについて、いくつか補足しておきたい。東京大空襲以前の本土爆撃を指揮していたヘイウッド・ハンセルは高々度からの昼間軍需工場精密爆撃にこだわっていたのだけれど、思うように成果が出ないこと、上層部からの新型焼夷弾活用指示に反発したことなどで司令官により更迭され、戦略爆撃の専門家カーチス・ルメイが新たに指揮を執った。後のベトナム戦争で「ベトナムを石器時代に戻してやる」と発言したことや、キューブリック監督の映画『博士の異常な愛情』のタージドソン将軍のモデルと言われるルメイは、ドレスデン爆撃の成功を見て後、それまでの方針であった精密爆撃から焼夷弾による都市攻撃に切り替えた。日本の戦闘機の到達できない利点はあるもののジェット気流という難敵がある高々度爆撃から、命中率の高い低高度爆撃に切り替えたこと、迎撃するための搭乗員や火器類一切を降ろして爆弾の積載量を数倍に増やすなどの方針変更は自軍の損害を増大させることが予想されたのだけれど、結果的にこれは「大成功」となり、米軍人に「軍事史上、敵が一回でこうむった最大の災厄」と言わしめた。
皮肉にも、そのカーチス・ルメイは戦後に航空自衛隊の育成ににあたったことを理由に日本国から勲一等旭日大綬章を授与されている。これは真珠湾攻撃などを指揮した旧日本海軍の源田實らの推薦によるもので、その前に源田自身がアメリカから勲功章を受けたことへの返礼と目されている。戦中から戦後にかけての日米関係の変遷を象徴するエピソードだろう。あまりにも空襲被害者を逆撫でするエピソードだけれど、近年空襲被害者も訴訟を起こした。この東京大空襲訴訟は被告が日本政府となっていることもあり、賛否両論あるのだけれど、サンフランシスコ講和条約での賠償請求権放棄により、アメリカへの賠償請求ができなくなったことと、軍人・軍属と民間人とで戦後補償において差別的待遇がなされていることなどが問題とされている。昨年12月の地裁判決では当初予想されていたように棄却され、問題提起は心情的には理解できるが、賠償の法的な根拠はなく立法で解決すべきというものだった。
最後に、古井の戦後観がよく現れた一文を『白暗淵』の一篇「無音のおとずれ」から引いて終わりたい。
「廃墟からの復興に、なりふり構わず、後先もろくに見ず、ただ我身惜しさからと折りにつけ自嘲させられたにせよ、つまりは無私のごとくに、ここでも「挺身」して来た男が、敗国の奇跡と呼ばれた繁栄を見て、それが戦前の繁栄をはるかに超えてようやく頂点を回りかける頃、自身の内に、敗北感をひきずって廃墟の塵埃の中をよろよろと歩いていた、殺戮の員外であった者の、「女子供」の、影がいまだに残存していたのを見出し、これまでに世界の陰惨な素面を覗くたびに、とうに時効のはずの、勝者に恵まれた員外の安堵に引きこもり、そこに依存してきたことに気がつくと、周囲の繁華が敵の来襲も招かぬ、あらわな仮象に見えてくる」
(東條慎生)
東京SF大全30 『終着の浜辺』
(小説 J・G・バラード 1964年)
(The Terminal Beach (New Worlds 1964年3月号に掲載)→伊藤典夫訳『世界SF全集32 -世界のSF 現代編』(早川書房1969年)に収録→伊藤哲訳『時間の墓標』(東京創元社1970年/2006年『終着の浜辺』に改題)に収録)
東條慎生さまが寄稿してくださった、すばらしい古井由吉論・ヴォネガット論を受けて、おなじ戦争体験からまったく異なる小説世界をつくりあげたJ・G・バラードをとりあげてみたいと思う。『終着の浜辺』は短編ではあるが、ある意味でバラードの全長編のエッセンスともいうべき作品なので、その一語一語を丹念に吟味することによって、バラードの世界観がくっきりと浮かび上がる。なお、諸般の事情により、引用はすべて拙訳とする。
まず、タイトルを吟味しておこう。バラードは「終着」ということばが好きで、いろいろな作品で使っているが、「浜辺」といえば、1962年のニューウェーブ宣言『内宇宙への道はどちらだ』における「健忘症の男が浜辺に横たわり、錆びた自転車の車輪を見つめて、両者の関係性の絶対的な本質をつきとめようとする」という一節があまりにも有名であろう。『終着の浜辺』は、まさに「真のSF小説の第一号」なのである。
のちに濃縮小説とよばれることになる『終着の浜辺』は、冒頭から非常に密度の高い描写ではじまる。
「夜、トラーヴェンが廃墟と化した掩蔽壕の床で眠っていると、滑走路の端で暖機運転している巨大な飛行機の爆音のように、礁湖の岸辺に寄せては砕ける波の音が聞こえてきた。日本本土に対するこの大規模夜間空襲の記憶が、この島での最初の数か月間、周囲の空を炎上して墜落していく無数の爆撃機のイメージで満たしたのだった。」
そしてこれは、小説の末尾ときれいに呼応している。
「死せる大天使の坐像に入口を守護された巨大ブロック群のことを考えながら、トラーヴェンは忍耐強く彼らが話しかけてくるのを待った。その間も、遠くの岸辺では波が砕け、炎上する爆撃機が夢の中を墜落していくのだった。」
このことからもわかるように、アメリカの核実験場エニウェトク島と紹介されているこの島では、時間はほとんど経過しない。本書の主人公トラーヴェンは、ひとりこの島にやってきて、なにかを待ちうけながら、巨大な迷路のような実験場をさまよいつづけるだけである。その無時間性は、核実験の高熱によって地面に永遠に刻みつけられたわだちの跡や、熱核反応時間のほんの数マイクロ秒に溶融した砂の層といった美しい描写によってさらに強調される。
これにつづく第三次世界大戦前夜[プレサード]といったことばから、これを終末論的にとらえるむきもあるが、冒頭の引用で明らかなように、この作品の文体には絶望や虚無といった情緒的な表現はかけらもない。掩蔽壕、ブロック群、そして爆心地といった核実験場の無機的な風景が、いっさいの感情をまじえることなく静物画のように描写されていくのみである。それでは、主人公はなんのためにこの島にやってきたのだろう?
「とりわけひとつの問いが彼の興味をひきつけた。「この最小限のコンクリート都市に住みたいというのは、どんな種類の人間だろう?」」
もちろん、ここが核実験場であるからには、その答えはただひとつ、「熱核反応を待ち受ける人間」であろう。作中に登場する唯一の日付が8月5日と6日であることからも、それは明らかである。また、ときおり主人公の前に姿を現す死んだ妻と息子の幻影も、動機のひとつのようだ。とりわけ、デーヴィッドという名前のダウン症のこどもは、バラード作品にたびたび登場しており、バラードの個人的体験と深い関係があることをうかがわせる。
しかし、もっとも重要なのは、主人公よりも前にこの島にやってきた日本人医師の死体である。なにが重要かといえば、その死体にはドクター・ヤスダという名前があたえられ、あろうことか主人公に話しかけてくるからである。なぜか主人公もドクター・ヤスダの甥と姪が大阪空襲で死んだことを知っており、ふたりは運命の受容について哲学的な会話をかわす。死を覚悟してひとりエニウェトク島へ来たドクター・ヤスダは、いわばトラーヴェンの分身であるが、同時に、ある種のガイドのような役割を果たしていることがわかる。『楽園への疾走』で主人公を性的に惹きつけてやまないドクター・バーバラや『ミレニアム・ピープル』で主人公を破滅へと誘うドクター・グールドなど、その後のバラードの長編で主人公を陰に日向に牽引していく人物の描写は、ひどく人間離れしていてしばしば死者を思わせるのだが、その祖形はエニウェトク島の死せる医師、ドクター・ヤスダだったのである。
それにしても、いったいトラーヴェンはなにを待っているのだろうか? それを終末、あるいは死であると考える人が多い。しかし、水素爆弾の永遠の正午が刻印されたこの島は「存在論的なエデンの園」であり、熱核反応による融合は「時間と空間からの解放」なのである。その具体的なイメージを、やがてバラードは1979年の『夢幻会社』の末尾で鮮やかに描き出すことになる。
「そのときは、樹木や花、埃や石、そして無機物界のあらゆるものと融合し、喜びにひたりながらこの宇宙を形づくる光の海のなかに溶けこんでいこう。……生物と無生物、生けるものと死せるものとの最後の結婚式をとりおこなうのを目撃したのだ。」 (増田まもる)
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東京SF大全28 『風野又三郎』
(童話・1924年頃の草稿(生前未発表)・宮澤賢治)
今日は「気象記念日」である。1875年(明治8年)6月1日に現在の?気象庁?にあたる?東京気象台?が創設された。日本における近代的な意味での気象計測の始まりである。
?東京気象台?は、1887年(明...
(童話・1924年頃の草稿(生前未発表)・宮澤賢治)
今日は「気象記念日」である。1875年(明治8年)6月1日に現在の?気象庁?にあたる?東京気象台?が創設された。日本における近代的な意味での気象計測の始まりである。
?東京気象台?は、1887年(明治20年)1月に?中央気象台?と改称された。
だから、この作品の主人公、風野又三郎は言う。
「東京には日本の中央気象台がある」と。
(ちくま文庫『宮澤賢治全集・第5巻』)
(生前未発表の草稿 → 十字屋『宮澤賢治全集・第5巻』1940年(「風の又三郎・異稿」として提示)→筑摩書房『宮澤賢治全集・第6巻』(第一次)1956年(「風の又三郎・初稿」として提示。後記に初題が「風野又三郎」との説明あり)→筑摩書房『宮澤賢治全集・第6巻』(第二次)1967年(扱いは「第一次」に同じ)→『校本宮澤賢治全集・第8巻』1973年(この版から、タイトル「風野又三郎」となる)→筑摩書房『新修宮澤賢治全集・第9巻』1979年→ちくま文庫『宮沢賢治全集・第5巻』1986年→『[新]校本宮澤賢治全集・第9巻』1995年)
?風の又三郎?ではない。かの有名な童話『風の又三郎』以前に宮澤賢治が書いた科学童話『風野又三郎』である。そこに登場する又三郎少年は「転校生」ではない。本物の「風」なんである!
「東京には日本の中央気象台がある」
と、風野又三郎は言う。
「東京は僕たちの仲間なら誰でもみんな通りたがるんだ」
と、風野又三郎は子どもたちに向かって話す。
「気象台の上をかけるときは僕たちはみんな急ぎたがるんだ。どうしたって風力計がくるくるくるくる廻ってゐて僕たちのレコードはちゃんと下の機械に出て新聞にも載るんだらう。誰だっていいレコードを作りたいからそれはどうしても急ぐんだよ」
レコードとはいっても音盤のことではない。「記録」のことだ。「中央」とは権威ある記録をする場所。ここ以外のところで、いくら速く吹いても、それは「ない」ことになってしまう。だから、彼らはこのように?東京?を意識する。
しかし、「速く吹く」ことに、いったい何の意味があるのだろう?
それを記録することに何の意味があるのだろう?
それは、「近代」の問題とつながってくる。
宮澤賢治の童話『注文の多い料理店』のラストの一文はこうだった。
しかし、さつき一ぺん紙くづのやうになつた二人の顔だけは、東京に帰つても、お湯にはいつても、もうもとのとほりになほりませんでした。
(東京光源社杜陵出版部『注文の多い料理店』(1924年)63べージ)
「食べること」は考えても「食べられること」は思ってもみない東京の「若い紳士」二人を田舎の住人である山猫が恐ろしい目に遭わせる。
賢治が東京に対してきわめてアンビヴァレントな思いをかかえていたことは、言うまでもない。
又三郎は子どもたちにこうも言っていた。
「旅行の方が東京よりは偉いんだよ。―中略―赤道から北極まで大循環さへやるんだ。東京よりいくらいいか知れない」
そして彼は風の立場からいろいろな気象現象を説明してみせた。まさに科学啓蒙のための学習童話である。後年『風の又三郎』を完成させる際に、こういった部分は削除されてしまった。
現在の目から読むと、そここそが非常に面白い。
もともと科学とは、風の声を聴くためのものだった。気象の観測やデータ収集は、その手段である。測定器は風の言葉を人間に翻訳するための道具だ。それは、風に対する人間の優位を誇るものではない。人間と風との間にある隔てを取り払うのが科学なのだ。そのことが、よくわかる。
初めて科学と出会った時の日本人の驚きが、明治期から昭和初期にさかんに書かれた科学啓蒙書には詰まっている。世界認識の変換を迫る科学用語のロマンチシズム……そこには、多分、我々が選ばなかった未来がある。
一切の判断停止を拒絶するあくなき好奇心でもって世界の全体像を推測しようとする試みが「科学」である。その意味では、科学とはSFの一種なのだ。そうなっていないとしたら、多分、その方が特殊なあり方だ。
科学の素養があるからこそ、宮澤賢治は風の声を聴き、「風と婚する」と宣言した。そのことは、彼が残した童話や?詩?(心象スケッチ)の重要モチーフとなって、たびたび語られている。
生前未発表の草稿『風野又三郎』を、宮澤賢治と同時代を生きた人々は読むことができなかった。その作品を、今、我々はさまざまな『宮澤賢治全集』で簡単に読むことができる。
(宮野由梨香)
(「気象庁」の建物は「東京管区気象台」でもある。「中央気象台」は1956年あ(昭和31年)7月に、気象庁となった。2001年(平成13年)1月の中央省庁等の再編に伴い「気象庁」は国土交通省の外局となっている。)
(「気象庁」の一階には「気象科学館」があり、気象に関する様々な資料が置かれている。)
(「気象科学館」の入り口を入ってすぐ右に、「中央気象台」の門標や写真が展示されている。)
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2010-06-01T06:01:01+09:00
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特別掲載・東京SF論 『DARKER THAN BLACK 黒の契約者』
(C)BONES・岡村天斎/DTB製作委員会・MBS
主人公・黒(ヘイ)=手前=たち「組織」のメンバー
0.作品の沿革 高槻 真樹
「DARKER THAN BLACK 黒の契約者」は、2007年4月から9月まで放映されたテレビアニメである。その長く独特なタイトルから想像できる...
(C)BONES・岡村天斎/DTB製作委員会・MBS
主人公・黒(ヘイ)=手前=たち「組織」のメンバー
0.作品の沿革 高槻 真樹
「DARKER THAN BLACK 黒の契約者」は、2007年4月から9月まで放映されたテレビアニメである。その長く独特なタイトルから想像できるとおり、非常に特異な世界観を持っており、ファンの間で話題を呼んだ。何らかの形で原作付き作品が当たり前である昨今において、オリジナルSFドラマは、やはり貴重である。
舞台は現代の東京。正体不明の「ヘルズゲート」なる空間が出現し、夜空からは星が消えた。それと同時に「契約者」なる奇妙な異能力者たちが出現、世界中で暗躍するようになる。「契約者」たちは、テレポートや電撃など様々な超能力を使うことができるが、能力を使うたびに「対価」を支払わなければならない。その対価とは極めて不条理なもので、「指の骨を折る」ことから「小石を並べる」ことまで、実にさまざま。ゲートからもたらされる未知の技術を巡って、契約者たちの争奪戦がやむことなく繰り広げられている。
SFファンならすぐに気付くだろう。この作品の発想の源泉は、映画「ストーカー」の原作として有名なストルガツキー兄弟の長編「路傍のピクニック」(ハヤカワ文庫SF版の邦題は映画に合わせ「ストーカー」)にある。
だがその一方で、本作品のもうひとつの売りは、入念なロケハンに基づいた現実の東京の光景が作品の中に取り入れられていること。まさしく正真正銘の「東京SF」なのである。
今回の「東京SF論」では、本作品の監督である岡村天斎氏をお招きした。監督と交互に論を交えながら、「黒の契約者」の魅力に多面的に迫っていくことにしたい。
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多くのシーンは実際の東京にロケハンして描かれた
1.「技術」に背中を押されて 岡村天斎
超能力という言葉の持つ「非日常」の匂いを際立たせるために、それ以外の情報をできる限り「日常」の匂いのする「リアル」感で埋める必要がありました。「リアル」感を求める為には、超能力には制限があり、舞台は実在の場所が望ましい。
そんな理由から「Darker than BLACK 黒の契約者」の舞台には「東京」が選ばれます。 東京はインテリジェンスに関する意識が低いとされ、たくさんの外国人の入り乱れる情報戦争の舞台には最適だったわけです。
前作「地球SOS」での舞台が、戦後夢見た二十一世紀のアメリカという半分空想の世界であったため、現実の東京を舞台にすえるというのは自分的には自然な流れでした。
現実の場所を舞台にするという手法は最近とみに多くなっていますが、その理由のひとつにデジカメの普及があります。フィルム時代は1ショット百円…そんな貧乏観念が足かせとなり、そうそう気軽に写真を撮るという行為に踏み切れなかったのです。
ロケハンに行ってもついついケチってあとあと必要になる角度を撮っていないとか…そんなことが良くありました。それが一回のロケハンで一人頭三千枚とか平気で撮れる様になったのですから…
さらに舞台となる場所の選定方法も変化してきます。企画が始まった当初は、自分の土地勘のあるところに実際に車やバイクで乗りつけ、行ってみたら予想と違ってた…なんて事も良くありました。逆に、道に迷って清洲橋に出てしまい、そのロケーションが良くて写真を撮って帰ったこともあります。
そんな苦労を重ねているうちに我々はGoogleEarthの存在に気付きます。こんなに簡単に航空写真が手に入る!ビル街なのか住宅地なのか河の護岸はとうなっているのか、地図だけではわからない情報が瞬時に手に入る!現地に行く前にロケーションの選択ができるというのは画期的なことだったのです。
そしてとうとうStreetViewの登場に至っては、もう現地に行かなくても事足りるのか!?と思うほどです。ああ、カメラ位置があと一メートル低かったらそのままレイアウトに使えるのに…と思うことも何度もありました。
しかし、それは続編である「流星の双子」の舞台をロシアの極東の都市ウラジオストクに設定した時、自らの首を絞めることになります。ウラジオストクには勿論StreetViewなどないのです。東京とウラジオストクとのインテリジェンス意識の違いにこんな所で気づかされるとは思いませんでした。
ほんの数年の間に技術というものが進歩していくさまを目の当たりにし、これはもうSFだなと思わずにはいられない程でした。ほんの数年前の作品では、登場人物に携帯電話を持たせることさえ迷っていたのに、今では携帯電話の機能だけでストーリーが進んでゆく作品すらあるほどです。現実の技術が作品の内容に影響を与える。そんな事があるのだという一例を、少しですが紹介させていただきました。ちなみに、「Darker」の主人公である黒(ヘイ)は携帯電話を持っていません。
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主人公・黒(ヘイ)は、ワイヤーと電撃を駆使して戦う
2.ゲシュタルトな現実 高槻真樹
以上、ここまでの岡村天斎監督の証言から、「黒の契約者」についてひとつの構造が見えてくる。この物語はフィクションではあるが、実在する東京という舞台の上に乗せられているということだ。果たしてそれは何を意味するのか。
それはアニメの存在意義を再検証する試みであり、私たちの知覚について新たな問いかけをなすものであるといえる。現実に出自を持つリアルな東京、しかしながら、そこでは現実の世界にあるはずもない、「ゲート」という強烈な虚構がどっかりと腰を据えている。
この作品は、ミクロとマクロの領域で虚構と現実が複雑に絡み合っている。個々の登場人物のレベルでは、細部まで考え抜かれた綿密な生活描写に満たされているが、その現実感をいちいち動揺させるのが、契約者たちの能力であり、不条理な「対価の支払い」シーンである。ミクロでもマクロでも虚構と現実は鋭く対立し合う。現実が感じられる時は虚構については忘れているし、虚構が浮かび上がる時、現実の存在感は消えうせている。心理学の入門書に必ず載っている「ルビンの壷」のように、「地」と「図」がぐるぐると入れ替わる。
ルビンの壷
向き合った人の横顔と壷のどちらにも解釈できる図形は面白いが、ここで忘れがちなのは「横顔」と「壷」の両方を同時に知覚することはできないということである。人間の知覚は部分と全体のせめぎ合いのうちにあり、どちらか一方だけでは理解できない。こうした人間の心理の特徴に着目し、科学的に解き明かしていった「ゲシュタルト心理学」という学派がある。
実在する「東京」とゲートのある「虚構世界」を一体化させた「黒の契約者」は、こうした部分と全体の相互干渉を意識させずにはおかないという意味において、優れて「ゲシュタルト心理学」的なアニメであるといえる。
もともと最初期の心理学では、人間の五感を細分化していき、「知覚の点」の集積として理解しようとした。だがそれでは、三角形を見ても「三本の線」としてしか理解できない。交差する三本の線で囲まれた領域としての「三角形」を全体として認識するのもまた人間の特徴である。
アメリカの心理学者であったクリスチャン・エーレンフェルスは、暗室で交互に点灯する光点を被験者に見せる実験を行っている。点滅が0.2秒以上のときは、二つの光点が交互に点滅しているように見える。だが、0.2秒以下の場合は、ひとつの光点が左右に移動しているように見えるようになる。これが全体をひとまとまりのものとして知覚させる「ゲシュタルト質」というものである。これはいわば、不連続な画像をひとまとまりの動きとして認識してしまうアニメーションの原理を説明するものでもある。つまり、ゲシュタルト質のおかげで、我々はアニメを見ることができるわけだ。
アニメーションは、本来、現実から遠く離れた虚構を描きだすことに長けた表現形式である。人も動物も果ては無生物さえもぐねぐねと変形し、怪物は闊歩し、動物は言葉を話す。本来、そういうものがアニメーションであるとされた。
ところが日本の「アニメ」は、わざわざ現実をなぞり、実写と見まがうほどのリアルな情景を作り出そうとする。いったいなぜそんな物好きなことをしなければならないのか?それならばいっそ実写で撮った方がいいのではないか、「アニメ」に対して常に突きつけられてきた疑問である。
むろん荒唐無稽なストーリーやダイナミックなカメラワークを実写で再現するのは困難であり、ゼロから画面を作り上げるアニメだからこそ可能なドラマ表現があるのだ、とこれまでは説明されてきた。だがこれも最近は苦しい。最近は派手な特撮表現や特殊なカメラワークも、CGを使えばかなり容易に実現してしまう。
アニメは窮地にあるのか。そうではない。近年のハリウッドのアクション大作を見ていれば誰でも気付くことがある。CGで描かれた物は皆ひどく軽い。本来そのものが持っているはずの重量感がどうしても出ない。それはCGが過渡期にあるせいであり、すぐに解決する、という意見もあるかもしれない。だが、これは意外に手ごわい問題ではないかと私は考える。おそらく現実の実写映像は、情報が多すぎるのだ。ある程度情報を整理したCG映像と突き合わせた時に、どうしてもうまく噛み合わない事態が発生する。
もちろんCGも日々進歩していくことだろうが、実写映像もより高品質になっていく。永遠のいたちごっこだ。ここで「映像に含まれる情報を際限なく増やしていくことが本当に望ましいのか」という問題に突き当たる。映像がより高品質になり、多くの情報を含むようになるほど、フォローしなければならない要素は増え、取れる表現の手段は限られていく。
もしこのチキンレースから降りて、あえて映像の持つ情報を下げる方向に向かったとするならば、そこには新しい表現の可能性が広がっているのではないだろうか。そのようなドラマツルギー(作劇法)のひとつとして、アニメを捉えなおしてみたい。
確かにこの作品に登場する東京は、現実の東京をなぞる形で作り出されている。だが、ならば岡村監督らがロケハンで撮影したデジカメ映像とアニメ作品の背景美術は同じものなのか。そうではない。そこからは、たぶん実写写真を見た時に関心が向くさまざまな要素が排除されており、作品を成立させるために不可欠な要素が足されたり強調されたりしているはずである。
ここで注意しなければならないのは、それらのすべてが岡村監督の意図のもとにあるというわけではないし、細部に分け入りすぎるとかえって物事を見失う。重要なのは、それら全体をゆるやかに覆う全体像である。そして、ここでは、ゲートと東京が一体のものとして結び合わされている。岡村監督らは「ゲートのある東京」をリアルに見せるために最善の方法を探った結果、もっともふさわしい表現手段を取っていったはずである。これが結果的に「ゲシュタルト心理学的」に統合された新しい映像表現とを生むこととなった。
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ヘルズゲート。この壁の内側では人間の現実は通用しない
3.情報を「正確に」増やすには 岡村天斎
さて、高槻氏の原稿を一読させていただき、思いついたことを少々ダラダラと書かせていただこうと思います。的外れかとも思いますが、まあ一興ということで。
今回この「darker」という作品に関しては「マクロ」の視点、いわゆる「神の目線」を極力排除するようにしています。なぜそんなことに執着したのかと言えば、前述の「リアル感」描写の一環に他なりません。現実世界に生きている我々には、状況の概要を俯瞰して正確に知る術などありません。
したがって全てを正確に把握している人物などいる訳もなく、たとえ説明してくれる人がいてもその情報は推察に過ぎず、合っているのか間違っているのかはその都度ある程度の確率でしか語れないのです。
ほら、ちょっとSF論らしい量子論的な話になってきたでしょ。「Darker」世界においては、「観測」霊であるとか「EPR」であるとか「黒猫」とか、ちょっと量子論を齧った人間からすると聞き慣れた単語が散見されます。しかし、残念ながら私個人としては、大学生の時の化学の時間に講義を受けたシュレディンガーの波動方程式で挫折して以来、量子論に対する認識は「全く理解できないモノ」という所で固まってしまいました。
「映像に含まれる情報を際限なく増やしていくことが本当に望ましいのか」という問題が提示されていますが、私は「まさにその通り、望ましいのだ」と言わざるを得ません。では、なぜ無限に映像の密度を増やしてゆく方向にみんなが進んでいかないのか。
もちろん、面倒くさいからです!物理的作業量とコストの折り合いをつけずに作品を作るのは、プロとして恥ずべき行為なのです。
情報量の多いものに触れることが人間にとっての快楽であることに疑う余地はありません。ただ、「映像の中に含まれる情報」をどこまで快感として知覚できるのか?というのも重要です。子供の頃の嗜好と大人になってからのそれとでは大きく乖離があるでしょう?それは知覚できる情報に違いがあるからです。
料理に例えると分かりやすいかと思われます。子供の頃は旨味とか苦味とかを知覚できにくいため、より分かりやすい甘味の多いものを美味しいと感じるものです。経験を積むにつれてやがて旨味や苦味、酸っぱさを情報として美味しいと知覚するようになってゆく。それによって嗜好が変わってゆくわけです。
でも、むやみやたらと味の情報を増やせば料理はおいしくなるかというと、そういう訳ではありませんね。間違った情報は増えると雑味となって料理の邪魔をし始めます。
アニメーションという映像表現はそういう間違いの発生しやすい手段で作られています。何しろ人間が勘に頼って手で描いてるのですから。パースペクティブの狂い、遠近法の誤解、重力加速度への不理解、なにより立体認識の甘さ。
たとえば動画の線を1本増やして2本にしたとします。その場合の作業量は単純に2倍になるわけではありません。二つの線の間の間隔と曲率をを常に一定に保たないとその物体はブヨブヨと曲がって見えるわけです。
正確なパースを取ることや正確な動画を描く事で、われらの料理人は出し汁の中からアクを取り除くように「雑味」を取り除いているのです。そういう目に見えない努力という情報を知覚できるかどうかも重要ですね。
ただ、そういった「狂い」を「味」というまた別の情報に昇華しやすいのもアニメーションの特性です。どこまでが「味」でどこからが「雑味」なのか、結局その判定は個人の嗜好に左右されます。
「Darker」という作品において、現実の風景を多用したのには、このように映像の情報量を「正確に」増やすという目的もありました。都会の情景を描くという作業にはとてつもない知識と才能そして労力が必要です。数年前「Wolf's Rain」という作品を作った時は、現実の東京を舞台にという意見はその労力の膨大さを恐れて却下しました。しかし、技術の発達とともに、逆に現実を舞台にした方が労力を減らせる状況になったというわけです。
この風潮は今後も続くのでしょうか?答えは、YESでもありNOとも言えます。日本のアニメーションの現場は常に低予算との戦いです。作業を効率化できる技術がそこに存在し一般化してゆけば、それを使わないわけがありません。
しかし、みんなが同様の作品を作っていては飽きられます。そして、機械に頼らずに作られた映像には別の情報が上乗せされます。「ありがたみ」という情報です。CGで描けば簡単にできるのに(この認識も実は偏見に満ちており、CGも実際はオペレーターの手腕によって出来上がりはまったく違うのですが…)、わざわざ人の手で描いてるよ!という「ありがたみ」才能という名の「ありがたみ」…意外と侮れない情報量だと思います。
ただ、本当に力のあるアニメーターが渾身の力を込めて超リアルに描いたカットが、CGを基にしていると思われたり…そんな残念なことも結構よくあることなのです。
(C)BONES・岡村天斎/DTB製作委員会・MBS
黒は、霧原未咲ら国家公安局にも追われている
4.衝動と限界から見えること 高槻真樹
予想外の答えであったといわなければなるまい。だが、そうであるからこそ往復書簡形式で論を進めていくことに意味があるというものだ。用意していた原稿は捨てて、素のままに話を進めていくことにしよう。
私は前章で「映像に含まれる情報を際限なく増やしていくことが本当に望ましいのか」と問うた。当然同意してもらえるものと思い込んでいた。だが岡村監督の答えは「まさにその通り、望ましいのだ」というものだった。いま私は、己の思考の浅さを反省している。
確かに100パーセントに近い形で情報量をコントロールすることが可能なアニメーションは可能性を秘めているかもしれない。だがそれだけではだめなのだ。人間は際限なく情報量を求めていく存在でもあるのだから。先鋭的な芸術家たちの反対を押し切る形で「モノクロ・サイレント→トーキー→カラー→ワイド→3Dと映像ハードウェアの高品位化は一貫して推し進められてきた。「それで一体何を撮るのか」という問いに答えるよりも早いスピードで。なぜなら人間の潜在的欲求がそれを求め続けたから。
ところが、実際にその要求に基づいて作品を作る段になると、もうひとつの壁に突き当たる。ここで岡村監督が指摘しているとおり、「人間が捉えきれない情報をいくら盛っても意味がない」ということだ。ならばどうするべきか。人の眼が反応しやすい、快適と感じる動きをひとつひとつ試行錯誤で探り当てていくしかない。つまり、正解は「人間の眼の指向性を探り当てた上で、現在の技術で可能なベストの表現手段を見つけ出す」こと。もちろん岡村監督も言っているように「予算の範囲内で」というのも極めて重要だ。
何にしても、ここで留意すべきは、人間の大脳的・視覚的性癖を意識することなしに適切な映像表現を行うことはあり得ないということだ。
話をゲシュタルト心理学に戻す。最適の入門書にして最も信頼できる文献ともいわれるW・ケーラーの「ゲシタルト心理学入門」(東京大学出版会)という書物がある。ここでケーラーは、2章で述べたクリスチャン・エーレンフェルスの実験(※)について、当時の科学者の多くが理由を調べてみようともしなかったと語っている。
「ひとつの知覚的事実として受け入れられたのではまったくなく、観察者の思考における誤りの所産であると思われた」(37ページ)
つまり「ただの錯覚」だと片付けられてしまったわけだ。ケーラーはそのことを「単なる言いわけ」で「言いのがれ」だと強く批判している。確かに映画のフィルムによってスクリーンに再現される動きをみて、スクリーン上に本当に動きが発生していると思う者はいない。だがそれを「錯覚」として片付けるのはただの思考停止であろう。映画の教科書でも古いものはいまだに「人間の眼の錯覚」と書いているほどだ。
実際は逆だろう。人間の眼が多数の静止画の集積として動きを理解しているのである。そのことを利用して、映画フィルムは成り立っていると解釈すべきなのだ。細分化された要素を寄せ集めることで人間を理解できるとした当時の主流な論説のままでは、映画フィルムが動いて見える理由は説明できない。ゲシュタルト心理学は「視覚要素はけっして独立な局所的事実ではなく、それらの過程がお互いに作用を及ぼしあうということ」(39ページ)を証明してみせた。すべては連動した一体なのである。
私たちは人間としての自分自身をあまりにも知らない。もちろん常に知ろうとはしているが、ともすると「錯覚」などと片付けて意識上から零れ落ちてしまう。人間について知るためにはどうすべきか。客観的に見ることができるように、何らかの形である程度現実から引き離してやることが必要になる。ひとつには「絵の動き」に置き換えて抽象化すること、線と動きを整理し留意すべきポイントを絞ること。もうひとつには、ストーリーに荒唐無稽な要素を入れて現実から一歩引き剥がすこと。
そう、「黒の契約者」だ。ここまで見てきたとおり、本作品を見ることは、同時に人間とは何かについて、さまざまな次元で考え、知ることでもある
物語の舞台は、まさしく私たちが暮らす現実から引き写された「東京」である。しかしその中心にあるのは現実にはないはずの「ヘルズゲート」。不可思議な事象を前に、私たち人間はどう振舞うか。もちろん最初は驚くが、驚きは実は持続性がない。どんな事態でも日常に組み入れて慣れてしまうのもまた人間である。
本作品では、この非常時に中止にもならず各地で同人誌即売会が相変わらず開催されていることが語られる。サブエピソードの主人公である探偵も、中華料理屋の親父も、アパートの大家も、直接ゲートに関わらない市井の人々は、ゲートについてほとんど考えようとはしない。見上げれば目の前にいつもあるにもかかわらず。理解不能な異質さを前にしても人々はなるべく日常を維持しようとするからだ。
その一方で理解できないまま未知の技術を利用しようとするのも人間である。契約者たちも、CIAも、黒の所属する「組織」も、分からないなりに技術を手に入れて使える形で使えればいい、それで相手を出し抜けて優位に立てるなら、とある意味割り切っている。本作品のテーマ的原作「路傍のピクニック」の中でストルガツキー兄弟が指摘しているとおり、「顕微鏡の台座で釘を打つ」行為なのかもしれないが。もちろん、ミーナ・カンダスワミのように、そうした割り切りに耐えられず、どうしても自分でゲートを調べてみたいと思う者もいる。それもまた、人間である。
ヘルズゲートは確かに異質な存在だ。岡村監督は、ゲートの正体について明かすつもりはないと明言している。だが、「黒の契約者」の世界はまったくの出鱈目でも不可知でもない。一回見ただけでは分からない答えも、巧妙に作品中に隠されていたりする。主人公であるにもかかわらず、契約者としての「対価」がはっきりしない黒。しかし岡村監督は言う。
「最初から全部観直して下さい!答えが描かれています」
(DARKER THAN BLACK 黒の契約者 OFFICIAL FANBOOK トーキョーエクスプロージョン調査報告/スクウェア・エニックス刊)
基本的には未知で不可思議だが、少しずつ理解することはできる。最終的に完全に理解することは適わないとしても。だからこそどうしようもなく惹かれる。そのようなものとしてゲートも、「黒の契約者」という作品も、私たちの前に存在する。人間と私たちの住むこの世界がそうであるように。
(C)BONES・岡村天斎/DTB製作委員会・MBS
黒は戦闘中必ず仮面を被る
※ ケーラーの著書では、同様の実験をドイツの心理学者マックス・ウェルトハイマーが行ったものとして挙げている。エーレンフェルスもウェルトハイマーも初期のゲシュタルト心理学者。エーレンフェルスの実験が光点の動きを追ったものであるのに対してウェルトハイマーは光から生まれる影の動きを追ったもの、となっており、実験に若干の差異がある。いずれにしても導かれる結論は同じである。
【参考文献】
W・ケーラー「ゲシタルト心理学入門」(東京大学出版会)
「DARKER THAN BLACK 黒の契約者 OFFICIAL FANBOOK トーキョーエクスプロージョン調査報告」(スクウェア・エニックス)
『ゲシュタルト心理学の原理』クルト・コフカ 松岡正剛の千夜千冊・遊蕩篇
(http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1273.html)
番組公式HP www.d-black.net
◆ゲシュタルト心理学について助言をいただいた翻訳家の増田まもる氏に感謝します(高槻真樹)
(C)BONES・岡村天斎/DTB製作委員会・MBS
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(C)BONES・岡村天斎/DTB製作委員会・MBS
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「黒の契約者」の2年後の世界を描く「流星の双子」のBlu-ray&DVDシリーズも好評発売中。
偶数巻には空白の2年を描く完全新作「黒の契約者 外伝」を収録。
発売:アニプレックス
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東京SF論
2010-05-31T03:38:41+09:00
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東京SF大全27 『上弦の月を喰べる獅子』
(小説・夢枕獏・1989年)
(初出〈SFマガジン〉1986年2月号〜6月号、1987年11月号〜1988年7月号、1988年12月号〜1989年6月号
→単行本『上弦の月を喰べる獅子』(早川書房)1989年
→ハヤカワ文庫『上弦の月を喰べる獅子(上...
(小説・夢枕獏・1989年)
(初出〈SFマガジン〉1986年2月号〜6月号、1987年11月号〜1988年7月号、1988年12月号〜1989年6月号
→単行本『上弦の月を喰べる獅子』(早川書房)1989年
→ハヤカワ文庫『上弦の月を喰べる獅子(上)(下)』1995年)
☾ ☾ ☾ ☾ ☾ ☾ ☾ ☾ ☾ ☾ ☾ ☾ ☾ ☾ ☾ ☾ ☾
この作品は二人が論じる。
二人によって論じられるべき作品であると、判断されるからである。
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宮沢賢治の詩集『春と修羅』の表題作に目を通すと、その詩行が、まるで波打つようなかたちに並べられていることに気づく。見ようによっては、DNAの分子構造を描いた二重螺旋の図に見えなくもない。一行の詩句を一対の塩基に見立ててみるわけだ。そうすれば、宮沢賢治の詩が、あたかも顕微鏡を通して覗かれた原形質の生物のように見えて来る。自己自身の設計図を露出させている生物。「自己自身の記述」が即そのまま「自己自身のいのち」であるような一体の生物だ。この螺旋図のレイアウトは、そのまま文庫本版『上弦の月を喰べる獅子』の目次に採用されている。そうすると、この『上弦の月を喰べる獅子』(以下『上弦の月』と略記)という小説を、『春と修羅』の遺伝子を受け継いだ次代の生命と考えてみたくなって来る。このアナロジーの可否はともかくとして、大切なのは、螺旋の「かたち」が宮沢賢治の詩から夢枕獏の小説へと受け継がれているという点だ。「かたち」が反復されるとき、そこには螺旋の「力」が生起している。死を超えて生を生み出すいのちの力が。
そもそも「かたち」は、いつでも二重性の中にある。まったく新しい未知の存在、完全に固有の存在の中にかたちを見いだすことは出来ない。過去と現在が対を成す刹那の瞬間に、かたちは現前する。『上弦の月』の主人公のひとり、螺旋蒐集家「三島草平」は、事故により脳の一部に螺旋状に石片が食い込む損傷を負い、それ以来、眼前の光景のそこかしこに螺旋の動きを見るようになった。彼が損傷した脳の一部位というのは、海馬と呼ばれる短期記憶の持続形成を司る器官だ。つまり、草平は、記憶を司る器官に螺旋を刻印されたから、あらゆるものに螺旋を見ずにはいられない。彼が現に見ているもののかたちは、彼が過去に負った決定的な傷をかたどっている。
しかも、この三島草平という人物自身もまた、ひとつの造型、ひとつのかたちに他ならない。しかし何をかたどっているというのだろう? もちろん、宮沢賢治その人だ。螺旋蒐集家とは、小説家夢枕獏のまなざしが宮沢賢治の詩の中に見いだしたものを、かたちに表した存在以外の何者でもない。
宮沢賢治に『無声慟哭』という題の詩がある。まさに死に赴こうとしている妹を目の前にして、かけるべき言葉を口に出せないでいる「わたくし」の心をつづった詩だ。
「わたくしは修羅をあるいてゐる」
「わたくしのふたつのこころをみつめてゐる」
この言葉の意味は、もちろんそれを読む人に向かって開かれている。だが夢枕獏は、宮沢賢治と三島草平を一個の照応関係に置くことで、この詩句の潜勢力に一定の方向性を与えた。草平は、或る日突然恋人を失って、死に取り憑かれてしまった人間として描かれている。つまり、『上弦の月』という小説の中で、宮沢賢治の「修羅」というモチーフは、三島草平の「失われた恋人」というモチーフに重ねられて、鏡映しにされている。そこから、宮沢賢治は「近親相姦」という「修羅」を抱えてふたつに引き裂かれていたのだという解釈が誕生して、ひとつの物語として実を結ぶ。
小説家のたどるこのような精神の動きこそが「螺旋」だ。宮沢賢治の詩があり、この詩から引き出された解釈があり、この解釈から生まれた物語があり、この物語の内部に「宮沢賢治」が生まれ変わって、新たな生をたどり直す。もちろん、『上弦の月』で描かれている宮沢賢治は、『春と修羅』の作者である宮沢賢治からすれば、ひとつの「結果」だと言える。けれども、この結果は、そもそも夢枕獏という作家の視線が『春と修羅』に見いだした宮沢賢治像を言葉にしたものに他ならない。こう言って良ければ、読者は、夢枕獏の言葉のおかげではじめて、近親相姦という解釈を可能とする「原因」がそもそも『春と修羅』の中に潜在していたと気づけたのだとも言える。この意味で、原因は、結果があってはじめて原因たりえる。原因が結果を生むと同時に、結果が原因を生む。この因果の交流の中に「かたち」は閃き出る(「いかにもたしかにともりつづける/因果交流電燈の/ひとつの青い照明です」)。
しかし、言い換えるとこれは、「かたち」とは因と果というふたつの極のあいだに木霊する透明な幽霊のようなものだということでもある。夢枕獏は、宮沢賢治の詩にひとつの「かたち」を直観して、そこから「三島草平」と「宮沢賢治」というふたりの人物を創造した。だが、夢枕獏が直観した「かたち」それ自体を理解したくても、あくまでもこのふたりの人物のあいだにみなぎる緊張を通して、透かし見るしかない。ちょうど作中でも説明されている通り、「机」を鉄や木といった素材に分解してしまったところで机の本質は理解できない、机の本質には実体が無いというのと同じで、「かたち」は、かたち同士を結ぶ関係性の隙間を浮遊している(「あらゆる透明な幽霊の複合体」)。この透明な幽霊を敢えて物語の中で受肉させた存在が、「アシュヴィン」という人物だ。
「三島草平」と「宮沢賢治」が合一して生まれた人物であるアシュヴィンは、蘇迷楼という世界=迷宮=螺旋を旅して、その先端を目指す。それはそのまま、「かたち」のたどる変身物語だと言って良い。原初の生命が複製を繰り返しながら形態の進化を続け、現在のぼくたちにまで至ったのと同じく、「かたち」は螺旋を描きながら繁茂していくものだから。蘇迷楼の中で、アシュヴィンが出会う様々な人々、彼が目撃する様々な出来事、彼自身の体験。それらすべてが、アシュヴィン自身の変身であり、「かたち」の生成の舞踏だ。
しかし、生命の反復が、その反復の瞬間に死をはらんでいるのと同じく、かたちの生成もまた、その起源に無を秘めている。なぜなら、言語とは「かたち」を言い表そうとして生まれるものだが、「かたち」とは、刻々と変化する意識の流れを無化する瞬間に立ち現われるものだからだ。言語は、流転して止むことの無い混沌とは異なる、固有の秩序を形成している。それが「法(のり)」だ。しかしそれゆえに、言語は、けして生成変化の流れとは相容れない。「かたち」は、生成の混沌と言語の秩序の両方にまたがっているが、それは、そのどちらでもないという意味でだ。「かたち」は、「〜でない」という否定形でしか思い描けない。思考はいつでも「かたち」の正体を掴み損ねてしまう。だから、言語は「かたち」を言い表そうとして発語されるものなのに、けしてこれを言い表すことが出来ない。言語は、生まれた瞬間からすでに「言いたくても言えなかったこと」という回顧的欠如を随伴している。だから、「かたち」とは実体の無いものなのではなくて、実体の内なる「無」そのものなのだ。
「三島草平」も「宮沢賢治」も、愛した女性を失ったことから、心に飢餓を抱え込んでいる。彼らの愛は、失われたものへの回顧としての愛、不可能性の苦悩としての愛だ。ゆえに、アシュヴィンの旅路は、ふたりを呪縛している「死の愛」を克服するための物語という様相を帯びる。つまりそれは、言語=法(のり)を、欠如ではなくて、充実した稔り(実=法(み・のり))として見るための物語、すべてに「諾」と言うための物語だ。
アシュヴィンの物語が終わって、ふたりの人生がふたたび分かれ、三島草平が死を迎えたとき、彼のポケットから数粒の籾が発見される。その数粒の籾は、一枚の写真とともに見つかった。かつて彼が撮影した、とある兄妹が殺される瞬間を写した写真だ。生が死に転じる瞬間を捉えたこの写真が、草平の心に刻印された原罪の象徴だとするならば、死者の手に握られていた種籾は、死を生に転じる救済の象徴に他ならない。この籾は、三島草平が、時間と空間を超えて、花巻の村の豊年祭で宮沢賢治と出会った折りに、賢治から手渡されたものだった。こうしてこの変身物語は、ふたりを結ぶ縁であり業であったアシュヴィンが天へと返されて、地の滋養へと変容したところで結ばれる。
相異なる時空に生きていた「宮沢賢治」と「三島草平」のふたりが出会い、また別れた場所は「二荒」だった。正確に言うと、宮沢賢治は二荒山(ふたらくやま)という場所で、三島草平は新宿でも三指に入る超高層建築とされる二荒(ニコー)ビルで、それぞれ異世界に入り込み、また帰ってきた。
言うまでもなく、「二荒」という字形は、この小説の主題をかたどっている。と同時に、「ふたらく」という言葉の響きは、当然「補陀落」に通じている。菩薩、すなわち「さとりを求める人」の住処である霊山だ。小説家夢枕獏のまなざしは、この霊山を、東京に林立する高層ビルの景色に重ねて見ていた。それは、言葉を変えると、テクノロジーが怪物的に成長していくこの東京の光景の中にさえ、宗教的な救いの種子を見いだせるということではないだろうか。とはいっても、それは、特別に深遠な行為だというわけではない。ただ、東京という都市を、それまで誰も知らなかったような角度から眺めること、見飽きたと思い込むのを止めてもう一度真正面から見つめ直すことが大切なのだ。それが出来たあかつきには、現に生きている人間から出発した問いが、物語を経由して、ふたたび彼のもとに帰って来る。この螺旋のダイナミズムがなければ、SFは傑作たりえない。(横道仁志)
(都庁南展望室から見た「新宿副都心」)
評価の高い作品である。1989年の第10回日本SF大賞、1990年の第21回星雲賞(日本長編部門)受賞。作者本人が書いたセルフパロディ作品『上段の突きを食らう猪獅子』も、1991年の第22回星雲賞(日本短編部門)を受賞している。
わたしは螺旋蒐集家である 。……長い物語は、このように書き出される。
螺旋蒐集家である「わたし」は二荒ビル(初出形では「ニコービル」)に螺旋階段を見る。二荒ビルは「新宿でも三指に入る超高層ビル 」だ。そのビルの巨大な吹き抜けの中を渦巻きながら、はるかな高みへと伸びていく階段……。あり得ない。たぶん幻だ。だが「わたし」はそれを上っていく。
螺旋蒐集家は気がついていない。作者も気がついているのかどうか、わからない。それでも作品は土地の意味を内包する。「二荒ビル」は架空の存在だが、「新宿でも三指に入る超高層ビル 」がある土地といえば、新宿副都心に決まっている。新宿駅の西口近くである。玉川上水の終着点ゆかりの淀橋浄水場があった場所だ。
玉川上水は、人口が急増した江戸への水供給を目的に掘られ、1654年に完成した。その終着点は新宿で、そこから上水は地下へもぐり、初期には木樋で、後にはより衛生的な石樋で、城下に配分された。
1899年には、更に衛生的な近代水道が始まる。上水の汚濁を除去・消毒するべく淀橋浄水場ができた。そして、1960年、東京都は「新宿副都心建設計画」を発表した。「淀橋浄水場」を東村山に移転し、その跡地に高層ビル群を建設しようというのだ。
都市に供せられた水の怨念の渦巻く場所に、高層ビルが林立する。閉じ込められて行き場を失ったエネルギーが、竜巻となって天をめざしたまま固体化したかのようだ。幻の螺旋階段が出現するのは、このような場所こそ、ふさわしい。
螺旋階段を上った螺旋蒐集家は、物語におけるもうひとつの存在と溶け合う。それは宮澤賢治である。賢治の出身地は岩手県の花巻だ。?巻?という字が入っている地に育った賢治は、輪廻転生にこだわると同時に食物連鎖や生物進化の問題にも強い関心を抱いた。そのどれもが、螺旋としての構造を持っている。
賢治は、詩(心象スケッチ)や童話などを遺したが、そもそも「文学作品」とは螺旋なのである。「吹きあがった思いの構築物」だからだ。思いの渦巻くところに、表現が生まれる。せき止められて行き場をなくした思いが、渦巻きながらせり上がり「作品」となる。
賢治は原稿を何度も書き直したことでも知られる。発表後も作品に手を加え続けた。賢治作品に完成品としての定稿はない。「永遠の未完成、これ完成である。」(「農民芸術概論綱要」)と彼は述べた。作品の完成とは、時空に解き放つことなのだ。
『上弦の月を喰べる獅子』も同様である。やはり定稿はない。「初出形」「単行本形」「文庫本形」、すべてが独自の面白さを持つ。どれかひとつしか読まないなんて、もったいない! 全部を読んでこそ、この作品を読むという行為が完成する。もちろん、それも、読みつくすことは決してないことを前提とした上での完成なのだが。
「初出形」において、螺旋蒐集家は幼い兄妹が殺される瞬間の写真を撮らなかった。
子供が殺されるのを目の前にして、それでもカメラを向けられるほど、ぼくは仕事熱心ではなかった 。(〈SFマガジン〉1986年2月号)
だから「初出形」では、その写真が発見されることも話題を集めることもない。それが「単行本形」ではこうなる。
私は眼の前で子供が殺されようとしている時、その光景に向けてカメラのレンズを向けた人間だった 。(「単行本」63ページ)
「この世の真の相(すがた)を何らかの形にして示す能力を授かってしまった者」としての修羅の自覚の高まりが、この加筆として結実したのだろうか。
また「初出形」では、涼子が螺旋蒐集家に宮澤賢治の話をしたことも詩集を手渡したことも書かれていない。にもかかわらず、ラスト近くで螺旋蒐集家の死体のポケットから、彼女から彼に贈る旨を「裏表紙の裏」に記した詩集が発見される。そのせいだろうか、「単行本」では、涼子が螺旋蒐集家に詩集を手渡し、賢治について語り合うシーンがつけ加えられる。贈る旨を記した場所も「タイトルページ」となり、涼子は名を露木から高村に変える。そして「文庫本」では更に「このような、初(うぶ)な会話をすることができたのも、心を許しあえたからだろう。」という言葉まで、二人が賢治について語り合うシーンに追加される。これは、ラスト近くの「文庫本」での新たな加筆(下巻380ページ6〜7行目)が「人は幸福になれる」という確信をより高める方向でなされていることと無縁ではないだろう。一方、涼子から与えられた本によって、螺旋蒐集家がその名を作品内で獲得するという構造は、最初からずっと変わっていない。
書き上げたことで物語が変質する。それに基づき手直しすることで、更に姿を変える。出発点から少しズレたところに立ち戻り、再び物語が繰り返される。しかし、その中心は保たれている。その意味では、手直しは作者による螺旋なのだ。それを読み返すことは、読者による螺旋である。作者と読者という二つの螺旋によって、作品は意味を獲得していく。
あらゆる意味で、『上弦の月を喰べる獅子』は誕生の物語である。「初出版」の冒頭(〈SFマガジン〉連載第一回冒頭)で「螺旋図」が最初から示されていることでもわかる。十の螺旋を巡る十月十日(とつきとおか)…これは胎児が母胎で過ごす時間だ。
生まれるのは、作者・作品・読者である。3つのものは同時に生まれる。どれも残り2つがなければ成立しない。作者と読者が織りなす2重螺旋の中心が作品だ。2重螺旋の空虚の中に生じるのが「作品」なのだ。作者のいないところに作品がないのと同じくらい、読者のないところに作品はない。
そして、もちろん、ここにおける作者?夢を喰べる獏?とは、「上弦の月を喰べる獅子」である。読者も、そのように名づけられる存在として、ここに誕生しなければならない。
≪ヘツケル博士!
わたくしがそのありがたい証明の
任にあたつてもよろしうございます≫
宮沢賢治「青森挽歌」
これが、この作品の冒頭のエピグラフである。「初出形」でも「螺旋図」の前に、この詩句が置かれている。この詩句が夢枕獏に働きかけて、宮澤賢治を作品内に召喚させたのだ。生物学者ヘッケルは、生物進化の歴史を系統樹としてまとめあげた。あらゆる生物の原型はひとつであり、個体発生は系統発生を繰り返す…そう、我々はもともとはひとつだったのだ。同じく、この地球上のどこかの、ある特権的な土地から生まれ出たものだ。
特権的な土地…あらゆる土地はすべて独自なものだ。
固有の歴史をかかえているからというだけではない。1メートルずれたって、太陽光線の射しこむ角度からして違うのだ。交換可能な土地なんかない。そして、その一方で、我々が踏みしめることができる土地はすべて地球という大きな塊という意味では、ひとつなのである。
この物語は、東京で書き終えられている。
多分、この物語にとっての、特権的な土地は東京だ。岩手よりも新潟よりも、まず東京なのである。
巻末の「次の螺旋の輪廻りのために」に、夢枕獏は次のように記している。
昨夜、東京で、この仕事を終えた。―中略― ホテルで眠っていた時も、朝の四時半頃にどうしても続きを書きたくなり、ろくに眠ってもいないのに、灯りを点け、また、ぼくはせっせとこの『上弦の月を喰べる獅子』を書き出したりしたのだった。この十年間、何度も何度も中断し、幾度となくもうやめようかと考えたことが嘘のようだった。 (「単行本」554〜555ページ)
それが東京のどこなのかは示されていないが、西新宿の高層ビル群の中かもしれない。
本書と基本モチーフの類似する作品『月に呼ばれて海より如来る』を夢枕獏は1987年に発表しているが、その続編が「江戸編」になるのも、たぶん必然なのだろう。
そういえば、星新一は「空想科学小説のなかま」と「ある晩新宿で大いに飲んだ」翌日に「ボッコちゃん」を「ふと思いついて書いた」のだった。(「ボッコちゃん誕生前夜のこと」)
光瀬龍が1984年からずっと小説講座の講師をつとめていた?朝日カルチャーセンター?の場所も、西新宿にある新宿住友ビルの48階であった。今は4階に移転して、もとの場所は「平和祈念展示資料館―戦争体験の労苦を語り継ぐ広場―」になっている。ここにも供された者の怨念が渦巻いている。
西新宿は「日本SF作家クラブ発祥の地」でもある。
1963年3月5日、淀橋浄水場の横を重いオープンリールのテープレコーダーを担いだ男が歩いていた。西新宿にある台湾料理店「山珍居」で行われる「日本SF作家クラブ」発足準備会の様子を録音するためだった。
その録音を聞きながらの座談会が、その場所「山珍居」で2010年に行われた。その内容は藤田直哉によってまとめられ、「TOKON10」のスーべニア・ブックに収録される予定である。
20年ぶりに東京で開催される「日本SF大会」…それも、作者と読者によって織りなされる「作品」のひとつである。我々は「作品」内部に分け入って、日本SFの「みのり」を味わいながら、自分自身の「名前」を獲得する作業にともに立ちあうことになるであろう。
誕生のシーンは既に始まっている。
(宮野由梨香)
(新宿副都心に建つ、某ビルの中の巨大な吹き抜け)
「玉川上水・内藤新宿分水散歩道」
「単行本・ネジバナ」
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東京SF大全
2010-05-21T01:02:03+09:00
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iPS細胞研究の先端を走る医学者・岡野栄之教授が、特別ゲストとして参加されます!
今医学界で世界的に熱い注目を集めているiPS細胞。そのご研究では、わが国でトップレベルの実績をほこる岡野栄之教授(慶應義塾大学)が、日本SF大会へやってきます。
TOKON10では、慶應義塾大学グローバルCOE「幹細胞医学のための研究教育拠点」の協力のもと、岡野教授ほ...
TOKON10では、慶應義塾大学グローバルCOE「幹細胞医学のための研究教育拠点」の協力のもと、岡野教授ほか、同大学理工学部の牛場潤一専任講師、SF作家・瀬名秀明さん、哲学者・東浩紀さんをお迎えして、生命科学の現在とSFを縦横無尽に横断しながら、身体の、そして科学の未来を考察していきます。
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2010-05-19T00:04:46+09:00
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http://blog.tokon10.net/?eid=1047513
Ali Projectの歌姫・宝野アリカさんが、特別ゲストとして参加されます!
『ローゼンメイデン』の「聖少女領域」、『コードギアス 反逆のルルーシュ』の「勇侠青春謳」などでもお馴染み、<Ali Project>の歌姫・宝野アリカさんが、日本SF大会に初見参!
今年の大会は、アリカさんのステージで幕を開けます。
開会式では、「未来のイヴ」...
今年の大会は、アリカさんのステージで幕を開けます。
開会式では、「未来のイヴ」他数曲を披露していただけることになりました。魂をふるわす音色に、身もココロもとろけることでしょう。
参加者諸君、オープニングをお楽しみに!
まだ迷っておられるかた、21日までなら大会お申し込みを受け付けております。ふるってご参加下さい!
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更新情報
2010-05-17T01:29:07+09:00
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http://blog.tokon10.net/?eid=1047397
参加受付を5/21で締め切ります。
おかげさまでまもなく定員に達します。5/21(金)15時をもちまして参加申込受付を締め切らせていただきます。ご参加ご検討中の方はお早めにお願いいたします。
なおお申込とご入金両方で申込完了となります。ご入金も同日付までを有効とさせていただきます。
もしご事情が...
なおお申込とご入金両方で申込完了となります。ご入金も同日付までを有効とさせていただきます。
もしご事情がおありでお申込やご入金がその日までに不可能な方は、実行委員会までご相談ください。
参加申し込みページ
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連絡事項
2010-05-16T19:07:15+09:00
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「桃井はるこSFライブ」のお知らせ
本大会有志企画としてシンガーソングライターにして人気声優の桃井はるこさんによるライブコンサートを企画しました。
本企画は一般(大会参加者以外)にも公開となっています。
桃井さんとその作品群はその高い音楽性から世界中の日本アニメ・マンガファンから、熱く支...
本企画は一般(大会参加者以外)にも公開となっています。
桃井さんとその作品群はその高い音楽性から世界中の日本アニメ・マンガファンから、熱く支持されています。アメリカ、ドイツ、イギリス、カナダ、メキシコ、台湾、フィンランド、デンマーク等のコンベンションからゲスト・オブ・オナーとして招待された実績がそれを物語っています。
しかし特筆すべきは彼女が真のSFマインドを持ち、またSF大会やコミケを始めとする我が国の伝統的オタクシーンへの深いリスペクトを持っている稀有の存在であることです。
今回の企画の端緒はSF大会で歌いたいという桃井さんご本人の強い希望によるものです。
また彼女のブレのない生き方は男性ファンのみならず 、多くの女性ファンの心をもつかみ、同性からも熱烈に支持されています。今回は彼女自身によって無数にある作品群からご本人によりSF的な作品をチョイスして歌って戴きたいと思っています。
ぜひこの機会に桃井はるこの世界をご堪能下されば幸いです。
なお、当日は混乱が予想されますので、このコンサートにつきましては事前申込制とさせて戴きます。
また、一般向けの受付は大会参加者向けの受付終了後とさせていただきます。
申し込み方法等詳細はhttp://tokon10.net/programs/2414.html にて。
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更新情報
2010-05-16T15:57:39+09:00
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ついに5月になっちゃってました
みなさまこんにちは。
実行委員長のマダムロボです。
やー、うかうかしてたら5月も半ばになっちゃってましたよ。(アセ アセッ
5月のイベントと言えばSFセミナー、セミナーでブースを出させてもらいました。
当日お申し込み下さったみなさま、ありがとうございま...
実行委員長のマダムロボです。
やー、うかうかしてたら5月も半ばになっちゃってましたよ。(アセ アセッ
5月のイベントと言えばSFセミナー、セミナーでブースを出させてもらいました。
当日お申し込み下さったみなさま、ありがとうございました。
ついに900人を越えてましてよ。
満員御礼の大入り袋が出るのも直のことだと思いますわん。おーっほっほっほっほっほっほっほ
参加お申し込みがまだの方はお早めにお申し込みくださいね。
さて星雲賞の投票も始まりましたね、今年も珠玉の作品が参考候補作にあがっています。もちろん参考候補作以外の作品に投票くださってもいいんですよ、「やー、絶対コレだろ!」というものがありましたらぜひ投票してください。投票してくださった方にはステキな景品が当たる抽選もあります。
どの部門ももうほんとに選ぶのが大変ですよ、これから読まなくちゃいけないものもありますしね。読み終わるまで〆切り延長して欲しいですわ。
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日記
2010-05-14T16:58:13+09:00
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東京SF大全26 『K-20 怪人二十面相・伝』
トウキョウ、大サーカス!
江戸川乱歩を生みの親にもつ「兄弟」、明智小五郎と怪人二十面相は、永遠のトムとジェリー。捕まりそうで捕まらない絶妙な距離を保ちながら二人は、激動の時代すらもすり抜けていく。――のだが、佐藤嗣麻子の手によって脚色された北村想『...
江戸川乱歩を生みの親にもつ「兄弟」、明智小五郎と怪人二十面相は、永遠のトムとジェリー。捕まりそうで捕まらない絶妙な距離を保ちながら二人は、激動の時代すらもすり抜けていく。――のだが、佐藤嗣麻子の手によって脚色された北村想『怪人二十面相・伝』においてはどうやら少し様子が違う。だいたい、そこは日本であって日本でなく、東京であって東京ではない。第二次大戦なき日本。華族という身分が制度としてあり、貧しいものから搾取する社会。そんな上層階級を標的に、魔法のような手口で次々と盗みを成功させる怪人二十面相を、なんとしても捕らえんと執念を燃やす探偵・明智小五郎。
そこに現る1人の男。サーカスでアクロバティックな芸を披露する曲芸師である彼は、颯爽と登場したと思えば、怪人の罠に見事なまでにはめられて、「怪人二十面相」として逮捕されてしまう。男の名は遠藤平吉。サーカス団のカラクリ担当・源治とその仲間の泥棒たちに助けられなんとか脱獄に成功するも、太陽の下を二度と歩くことができなくなった平吉は、平穏無事な自分の生活を取り戻すため、泥棒稼業に仲間入りする。怪人と探偵、そしてサーカス男が織り成す不思議な三角は、広がり縮み、歪み丸まり、それ一個の生き物のように胎動しながら物語を駆動させる。
ひたすらに見せる。見せる映画だ。サーカスのスペクタクルを、平吉のアクロバットを、東京の空を川を海を。某アメリカン・コミックスで有名な犯罪都市を連想させるような、工場の煤煙ですすけた空に、天まで伸びる勢いの羽柴ビル。そのビル内で行われる明智と羽柴葉子の結納の儀を、建物のガラス天井にへばりついて盗み撮る遠藤平吉。《見られる男》が《見る男》に反転したとき、その視線の先にあるものは、果たして何なのか。良家の子女が体現するのはありえたかもしれない東京の、ありえるだろう未来の姿。見せる映画は、見えないものもためらうことなく見せる。解散したサーカス団の子どもが移り住んだ野上という貧民窟。「見て見ぬふりをするのは十分、大きな罪です。この子たちを助けましょう」と声高らかに宣言する葉子は、見えていないことがはらむ政治性にそもそも無頓着だった。だが葉子が《見てはいけないもの》を見れたのは、《見られる男》であり《見る男》である平吉と時間を共有したからだ。つまり平吉には見える/見えないの政治性を、軽く――はないのだが、実際には――飛び越える力が宿っている。
そして最後に結実する。「さあ、大サーカスの始まりだ」と東京へダイブする姿へと。(海老原豊)
ここまではレビュー。ここから下はやや込み入った話かつネタバレを含むため、作品を未見のものはご注意を。(ドラッグ&反転)
歴史改変物語が、それのみでSFたりえるかどうか。慎重な議論が必要だろう。歴史改変物語はあくまで私たちの住む現実世界というメタ・レイヤーとの比較を通じて浮かび上がってくるものだ。物語内での歴史改変は起こっていないという意味において、本作は至って普通の物語である。ただ注意したいのは、作品で重要なアイテムであり記号であるテスラ装置が、空間的に離れたものを攻撃する兵器であると同時に、(完全にファンタジー、つまり根拠のない読みであることは強調しておくが)時間的に離れたものをつなぐ装置であるのではないかという想像をSF者の中に生み出す。物語終盤で明かされた明智と怪人二十面相が空間的同一人物であることからさらに一歩踏み出し、平吉と怪人が時間的同一人物、つまり怪人はテスラ装置によって未来からやってきた平吉ではないか、という「ありえたかもしれない読み」が宙に漂い続けている。平吉と格闘していた怪人が明智であると分かる時、それは二重の衝撃なのだ。怪人が明智であるという驚きと、怪人が平吉でない驚きと。繰り返すがこの読みは最後の20分前までしか通用しない「ありえたかもしれない読み」だ。ただ可能性のみに着目するならば、これは、『K-20』が鮮明に見せ付けたありえたかもしれない東京のもつ可能性と、物語外のレイヤーを透かししているという点においてなだらかに繋がっている。回避できなかった戦争こそが『K-20』のありえたかもしれない東京を可能にし、SFでないことがSFを可能にするのだ。●
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東京SF大全
2010-05-11T22:55:55+09:00
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http://blog.tokon10.net/?eid=1044935
星雲賞投票のご案内
2010年の星雲賞の投票を開始します。
星雲賞の参考候補作は以下のアドレス
http://tokon10.net/seiun_award.html#candidates
および参加登録者に近日発送のプログレスレポート特別号に掲載しています。
星雲賞の投票は以下のアドレスから
http://sf-fan.gr.jp/vo...
星雲賞の参考候補作は以下のアドレス
http://tokon10.net/seiun_award.html#candidates
および参加登録者に近日発送のプログレスレポート特別号に掲載しています。
星雲賞の投票は以下のアドレスから
http://sf-fan.gr.jp/vote2010/
および参加登録者に近日発送の投票用紙で行って下さい。
投票の締め切りは6月13日ですのでお忘れのないようご注意ください。
詳しくは公式サイトの星雲賞ページをご参照下さい。
http://tokon10.net/seiun_award.html
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更新情報
2010-05-08T02:09:06+09:00
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http://blog.tokon10.net/?eid=1044923
プログレスレポート特別号公開
広報局よりお知らせです。
プログレスレポート特別号を本日公開いたしました。
プログレスレポート特別号(pdfファイル)をダウンロード
html版も提供しております。
プログレスレポート特別号(html)を見る。
星雲賞の参考候補作と投票のご案内を掲載しています。
プログレスレポート特別号を本日公開いたしました。
プログレスレポート特別号(pdfファイル)をダウンロード
html版も提供しております。
プログレスレポート特別号(html)を見る。
星雲賞の参考候補作と投票のご案内を掲載しています。
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更新情報
2010-05-08T00:57:22+09:00
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http://blog.tokon10.net/?eid=1042070
東京SF大全25 『キャベツ畑の遺産相続人』
佐藤史生さまのご冥福を、心からお祈り申し上げます。
(少女マンガ・萩尾望都・1973年)
(初出〈週刊 少女コミック〉・1973年15号)→『精霊狩り―傑作短編集』小学館文庫・1976年→『萩尾望都作品集 第10巻 キャベツ畑の遺産相続人』・19...
(少女マンガ・萩尾望都・1973年)
(初出〈週刊 少女コミック〉・1973年15号)→『精霊狩り―傑作短編集』小学館文庫・1976年→『萩尾望都作品集 第10巻 キャベツ畑の遺産相続人』・1977年(小学館)→『この娘うります!』白泉社文庫・1996年)
今日は?子どもの日?である。
この物語は、ひとりの子どもがキャベツ畑の中を歩いていくところから始まる。
キャベツ畑に囲まれた館がある。3人の女性がそこで共同生活を営んでいる。その名は?ジョージィ??ポージィ?そして?プリン・パイ?。彼女たちは「相続すべき遺産が送られてくる」という通知をもらい、期待して待っていた。
その?遺産?とは「すっかんぴんの遺児」のター・ブー少年であった。
「かわいそうな みなしごを 寒空に 追い出したり しないでしょ?」
哀願に負けた女性3人は、ター・ブー少年を家に住まわせる。
日ならずして、3人のおばさんたちの正体を、ター・ブー少年は知ることになる。
天井にドアがある! かぶっている帽子が突然に爆発する!! 夜中にキャベツの大群が転がりながら窓の外に押し押せる!!!
「ああ ほら! そうそうにあの子にばれちゃったわ! あたしたちが魔女だってこと!」
ター・ブーは驚きながらも、次のような言葉を返す。
「それ 超心理学といって 超能力のことだよ」
だから、これは?SF?なのである。しかも?東京SF?である。
萩尾望都は、この作品の成立について、次のように語っている。
ある夜、ワイワイ集って話をしていたとき、サトサマ(佐藤史生のこと。宮野註)が、「真夜中に向かいのキャベツ畑からキャベツがごろごろころがってトントンとやってきて……」
「ワー、おもしろい。その案もらっていい?」
「いいよ」というので、キャベツの転がる話が出来、いいだしっぺが、キャベツを呼ぶ魔女となったのだ。
(萩尾望都「ド・サト奇談」…佐藤史生『金星樹』解説(奇想天外社)1979年)
この?ワイワイ集って話をしていた?場所とは、当時、萩尾望都が志を同じくする仲間と共同生活を営んでいたアパート(2軒長屋のうちの一戸)で、それは東京都練馬区南大泉にあった。1970年代における少女マンガの革新は、この場所から始まったことが知られている。
少女マンガの革新とは、たとえば、本格的なSFを描くことを可能にしたことだ。これは、彼女たちの活動の成果のひとつである。
萩尾望都は『精霊狩り』(1971年)の27ページ目の絵の中に、ローマ字でさりげなく次のように記している。
WATASIWA S・F GA SUKI…DEMO?ONNANOKO?NIWA S・F GA WAKARANAINODA TO IUNODESU.HONTOKASIRA……?
解読(?)すると、こうなる。
私はSFが好き…でも?女の子?にはSFがわからないのだというのです。ホントかしら……?
少女マンガ家がSFを書きたがっても「女の子にSFはわかりませんよ」と編集者に言われてしまう、という事情が、当時はあったのだということがうかがえる。
『精霊狩り』といえば、その続編『みんなでお茶を』(1974年)の冒頭2コマ目の絵にも次のような書きこみがなされている。
MOKUSITE KATARAZU BAKA NI TUKERU KUSURI WA NAI
この静かにして激しい怒りのほこ先は、どこに向けられたものだったのだろうか?
練馬区大泉にあったその場所に集った彼女たちは?魔女?だった。何故なら、普通ではない能力を持っていたから。
彼女たちは「遺産相続人」だった。遺産は?能力を持ちすぎた?子どもである。
そう、実は、そのター・ブー少年こそが、世界の存続にかかわるような?超能力?の持ち主だった。
「末おっそろしい…! あの子にあんな力があるとは思わなんだ」
驚く魔女たちに、ター・ブーの養父は言う。
「おっそろしくはありませんよ……! 正しいあつかいかたを指導していけばね……! 少なくともはずみにしろ全世界を消すようなドジは二度とふませずにすみます」
かくて、?正しいあつかいかた?を身につけられるであろう26歳になる日まで、その力は封印され、ター・ブーは魔女たちによって育てられることになる。
ラストのコマで、ター・ブーはつぶやく。
―ぼくはまだ子どもだけど、今に大きくなって……
ター・ブーが?タブー?でなくなる日が今に来る。
多分、魔女たちは、様々な?タブー?に挑戦しようとしていたのだ。
うら若き女性たちが共同生活を営み創作に打ち込むというのも、もちろん?タブー?であった。なぜなら、それは?生殖?に背を向ける行為であったから。
3人のおばさんの名の出典は「マザー・グース」である。萩尾望都は、平野敬一『マザー・グースの唄 イギリスの伝承童謡』(中公新書275)を読んで「マザー・グースがたいそう好きになった」と語っている。(草思社『マザー・グースのうた 第4集』付録「クック・ロビンは一体何をしでかしたんだ」)
平野敬一の本の43頁には、原詩とともに次の?谷川俊太郎訳?が載っている。『ポーの一族』中の「一週間」でアランが口ずさむアレである。
ジョージィ・ポージィ プリンにパイ
おんなのこには キスしてポイ
(Georgie Porgie pudding and pie
Kissed the girls and made them cry)
この歌詞の名前を持つ魔女たちが、黙して語らず、キャベツを召喚したり?遺産相続?をしたりして、育てあげてみせたのは?作品?であった。
?子ども?は、キャベツから生まれたっていいのだ。
現在の我々はもちろん、その?子ども?がいかにすぐれたものに育ったかをを知っている。
キャベツは、日々?東京?という土壌に豊かに育っている。
?東京SF?を愛する我々も「キャベツ畑の遺産相続人」である。
(宮野由梨香)
(その場所は「小関」バス停から徒歩1〜2分のところだったという。中央線「吉祥寺」駅と西武池袋線「保谷」駅をつなぐバス路線の途中に「小関」はある。いわば、マンガ家が多く住まうことで知られる吉祥寺のなお奥つ方に、その場所は位置している。)
(「小関」バス停近く、「練馬区南大泉」には、今もキャベツ畑がある。 その場所の近くには「鉄塔」があったというから、おそらく、この付近であろう。)
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東京SF大全
2010-05-05T05:05:05+09:00
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http://blog.tokon10.net/?eid=1043979
東京SF大全メインゲスト特集
東京SF大全では、5月5日から3回にわたって、TOKON10のメインゲストである萩尾望都さん、佐藤嗣麻子さん、夢枕獏さんの作品をとりあげて紹介してまいります。
5月5日は萩尾望都さんの「キャベツ畑の遺産相続人」を宮野由梨香が、5月11日は佐藤嗣麻子さん...
5月5日は萩尾望都さんの「キャベツ畑の遺産相続人」を宮野由梨香が、5月11日は佐藤嗣麻子さんの「K−20」を海老原豊が、そして5月21日には夢枕獏さんの「上弦の月を喰べる獅子」を横道仁志らが論じますので、どうぞお楽しみになさってください。
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東京SF大全
2010-05-05T02:32:53+09:00
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http://blog.tokon10.net/?eid=1043132
東京SF大全24『少女地獄』、『街頭から見た新東京の裏面』、『東京人の堕落時代』他
夢野久作『少女地獄』、『街頭から見た新東京の裏面』、『東京人の堕落時代』他
夢野久作と言えば、生涯、博多にとどまって文筆稼業を続けた人です。だから、彼を論じる人もまた、もっぱら九州文壇の土着性といった話題を取り沙汰しがちです。けれども、その反面、久...
夢野久作と言えば、生涯、博多にとどまって文筆稼業を続けた人です。だから、彼を論じる人もまた、もっぱら九州文壇の土着性といった話題を取り沙汰しがちです。けれども、その反面、久作のまなざしがいつも東京に向けられていたことは、どうもいまいち知られていないみたいです。小説家夢野久作の骨格となるアイデアがデビュー作である『あやかしの鼓』の時点であらかた出そろっていたことは、彼の小説作品に親しんでいる人ならよくご存知でしょう。でもそれなら、そもそもそうしたアイデアはどこから出て来たのか、ちょっと気になりませんか?
久作は、『あやかしの鼓』を書き上げるより二年ほど前に、『九州日報』の記者として「杉山萌圓」という筆名で、『新東京スケッチ』、『震災一年後の東京』、『街頭から見た新東京の裏面』、『東京人の堕落時代』などといったルポルタージュを数編寄稿しています。これは、関東大震災を経て復興途上にある現地の様子を、克明に報告するという主旨の記事でした。ところが、タイトルでなんとなく想像がつくと思いますが、久作が精緻な観察を通して読者に突きつけたのは、新生東京の水面下ではますます人心が腐敗しているという反論の余地なき「事実」でした。その内容をいちいち説明していると、紙数がいくらあっても足りなくなってしまいますから、ここではかいつまんで要旨だけ見ておくとしましょう。とは言っても、久作が伝えようとしたことは、じつはとてもシンプルなので、『街頭から見た新東京の裏面』の冒頭に目を通すだけでさわりは充分理解できます。
それはこうです。震災後の東京では、当時の市長と電気局長とのあいだにいざこざが起きて、いったいどんな事態が進行しているのか、外部からはまったくうかがい知れないままに、政局に混乱が生まれたことがありました。このキナ臭い一幕を評して、久作はおおよそこんな所感を述べました。《卑怯な真相が隠れているところでは、その表面に矛盾が現われて来る。この矛盾を隠すためには、芝居を打てば良い。そうすれば、それを見る人たちは、戸惑わされ面食らわされて、何が真実か、何が虚偽かがわからなくなってしまうから……》。じつのところ、この発想はそのまま、小説家夢野久作の探偵小説観につながっていきます。というより、上の表白は、どうして夢野久作が「探偵小説」という文学形式にこだわったか、その理由の一端をかいま見せてくれます。というのも、久作の言う「秘密」とか「真実」というのは、単純に政治の内幕のことだけを指すのではなくて、もっと大きな広がりをもつ概念だからです。そうした秘密を解明するという意味での「探偵術」は、自分が生きる時代の「今」を切り取るために絶対必要なアートだと、少なくとも、久作自身はそう考えました。
東京の話に戻ると、夢野久作の小説では、「東京の人」は、嘘をつく人、芝居を打つ人としてよく描かれます。たとえば、『あやかしの鼓』もそうです。『悪魔祈祷書』や『冥土行進曲』といった晩年の小説作品、また『恐ろしい東京』のようなエッセイでさえなお、東京人=嘘つきという図式は変わらないままです。久作の描く主人公は、こういう人々の「今まで隠してきたがじつは……」とか「あれはお芝居で……」という言葉に、かろうじて築きかけていた自分なりの認識を揺るがされ、崩されてしまいます。そして、そうした“?”マークの背後には必ず、人間の心理という「真実」が隠れている。その「実例」をふんだんに提供したという意味でも、東京での取材体験は、夢野久作の創作活動に非常に重要な影響を及ぼしていると考えるべきでしょう。
震災後の東京では、いわゆる「江戸ッ子」のイメージがすでにどうしようもなく虚像と化していました。江戸ッ子は、本来、武家文化の尚武の気風を反映して、日本人の中でもとりわけ男性的で爽快な性格を代表していたはず。それなのに、久作が行く先々で実際に目撃したのは、当の生粋の江戸ッ子たちが、侠気を失ってせせこましく暮らしている姿でした。もしこの江戸ッ子たちが日本人の性格の典型だったのであれば、ひとたび日本全体が震災に匹敵するダメージを受けたなら、それは日本人全員がそろいもそろって気概を失ってしまい、二度と立ち上がる力を失ってしまうことを意味するのではないか……。久作は、そんなことさえ言っています。戦争が始まるより十年以上前のことです。
もちろん、新聞記者としての、あるいは家族を持つ一私人としての夢野久作にとって、東京のこのような有り様は、何よりも先ず糾弾の対象となります。けれども、探偵小説家としての夢野久作にとっては、眼前に広がる東京の光景は、彼一流の「精神生理学」の教材とも実験場とも呼ぶべきものでした。東京は、まさしく時代の先端に位置する都市でした。地方の人間は、東京に流れ込み、そうして東京の影響を受ける。反対に、東京の人間が地方を訪れると、その地方は感化されないでいられない。東京は、そうした力の渦の中心に位置していました(このような運命の力動というモチーフに基づいて、東京と地方の交わりを描いた作品としては、私見では、『押絵の奇跡』がとてもわかりやすいと思います)。そしてそれゆえ、東京は、見る目をもつ人の目には、人間心理の内奥に潜む狂躁を徹底的にあらわにしてくれる舞台として立ち上がって来るのでした。
震災後の復興で、東京は一面バラックの海と化しました。震災で生まれた空隙を埋めようと、地方からどんどんと労働者が流入してきたからです。人口は過密化し、交通は渋滞し、風俗は安っぽくなり、都市の光景はいろいろな様式を節操なしに混ぜ合わせた折衷式になりました。けれども、久作は、そうした派手派手しさと浅薄さが同居した「生存競争」の裏に、一種の「悲哀」を見ていました。なぜなら、復興を遂げたこの都市の片隅には未だに、あとに取り残された震災の死者たちの死臭がこびりついているのだから。いいえ、震災の死者だけではありません。暮らしが立ち行かなくなって街を追い出された人、都市生活に疲れて身投げした人、堕胎された水子。この東京の繁栄は、いつでも見捨てられた者たちの死骸の上に成り立っていたのだから……。東京が見かけ上の繁栄の裏で徐々に衰亡していくこの状態は、見捨てられた者たちの境地への回帰を意味してはいなかったでしょうか。東京の人々が生存の狂躁に駆られれば駆られるほど、逆説的に、その営為がいかに虚無的であるかが浮き彫りになる。だからこそ、探偵小説家夢野久作の手つきは、このような都市で育まれた人間の心理を解剖して、その奥に潜在している狂気と空虚を暴露することへと向かうのです。
そこで久作は、とくに『東京人の堕落時代』という一稿を設けて、多くの紙数を費やしながら、東京で暮らす女性たちについて分析を展開しています。東京で暮らすうら若い少女たち。あるいは、生業を求めて田舎から出てきた女性たち。彼女たちは、東京の狂躁を誰よりも身近に体験する立場にあります。なぜなら、女性の自立という謳い文句にのせられて社会に進出してきたとはいえ、ひとたび東京の秩序が崩壊すれば、彼女たちには、肉体的労働者としても知的労働者としても需要がなくなってしまうのですから。彼女たちに残された選択肢は、ただひとつ、「美」を売りにした職種に就くことだけ。つまり、東京の職業婦人とは商品なのです。だから、彼女たちは、東京の堕落をありのままに受容する存在なのです。
久作の言う「堕落」とは、つまりは、享楽主義を意味します。享楽主義とは、過去も未来も度外視して、現在の瞬間の享楽だけを求める態度のことです。だから、享楽主義には、人間から人間性を剥ぎ取った先に残る生物的本能という概念と重なり合う部分があります。『東京人の堕落時代』で、夢野久作が、「職業婦人」に並んで「不良少年/不良少女」というテーマを追いかけた理由もここにあります。久作は、青春の焦燥に駆られる東京の少年少女たちのすがたに、人間心理の最奥にある祖先からの遺伝の衝動、すなわち純粋な生の衝動の発露を認めたのでした(それはまた、久作に言わせれば、即そのまま堕落性に他ならないのです)。だから、このルポルタージュは、夢野久作の全体像を考えていく上では、けっして見逃せません。彼の創作の中で、少年少女というイメージがどういう意味を担っているか、そしてどのような問題群と連接しているかについて、とても多くのことを教えてくれるからです。とりわけ、「二匹の白い蛾」と題された一節では、久作が終生の主題とするであろう「変態心理」のイメージの先取りを見ることが出来るでしょう。
まだあります。『東京人の堕落時代』は、夢野久作がのちに好んで用いる「書簡形式」の文体作法、なかんずく「女言葉」の文体作法の発端でもあるのです。久作は、東京での取材調査の過程で、秘密裏に文通をしていた少年少女の手紙の実例を目にする機会がありました。『堕落時代』には、少女たちのラブレターが全部で七通収録されていますが、ひょっとすると、久作はそれ以上の本数の書簡に目を通していたかもしれません。しかし、それ以上に大切なのは、書き手の心の襞まですくい取るように丹念に手紙を読み込む久作の姿勢です。もしこれを「探偵術」と呼んで良いのなら、東京は、夢野久作が「探偵小説家」としての技術を文字にした最初の舞台ということになるでしょう。そして、その対象が少女たちの手紙だったことは、けっして意味の無いことではありません。
こうして述べて来たことを踏まえて、東京取材の影響をとくに明瞭に見て取れる小説作品として、『少女地獄』の名前を推そうと思います。じっさい、夢野久作の全小説を見渡してみても、東京スケッチとの関係をここまで如実にあらわにしている作品は他にないように思えます。少なくともぼくの場合、一連のスケッチの内容を知る前と知った後とでは、作品に対する読解ががらりと変わってしまいました。なぜかというと、一連の記事を読んだおかげで、夢野久作はたしかに少女たちに共感のまなざしを寄せていること、そしてまた、夢野久作の興味は、謎の解明よりもむしろ、謎そのものが宙吊りにされるような事態に向いていることを知ったからです。そこで、『少女地獄』を読んだことのある人もない人も、ぜひ一度、記者時代の久作のルポルタージュを押さえた上で、注意深くこの小説を読んでみていただきたい。
たとえば、第一話の「何んでも無い」。これははたして本当に、姫草ユリ子という虚言癖をもつ女性のことを、語り手である臼杵医師が客観的に記述した物語なのでしょうか。細かい部分を拾っていくと、この物語は、自己の信憑性を徐々に揺るがしていくような、軋みをはらんだ構成になっているのがわかります。例を挙げると、臼杵医師は、姫草ユリ子の虚言のスタイルについて、逐一説明します。ところが、物語の内部では、臼杵医師自身もまた、そのスタイルに対応する行動を取っているのです。つまり、臼杵医師がユリ子の振る舞いに投げかける糾弾の言葉は、そのまま彼自身にもあてはまり得るわけです。とすると、冒頭に飾られたユリ子の遺書の一節にある「妾が息を引取りましたならば……今まで妾が見たり聞いたり致しました事実は皆、あとかたもないウソとなりまして……」という言葉もまた、軽々しく流せない意味合いを帯びることになります。じっさいにも、百合子との肉体関係を否認する臼杵医師の言葉が、自家撞着に陥っている箇所が存在するのです。とはいっても、そこまであからさまに描かれているわけではないので、気をつけて読まないと、つい読み飛ばしてしまいかねませんけど(昔のぼくのことです)。
さあ、はたして、臼杵医師の表向きの話とは裏腹に、この「何んでも無い」とは、かわいそうな無垢の少女が嘘つきに仕立て上げられたことを覆い隠している物語なのでしょうか。それとも、真相はまた別のところにあるのでしょうか。ひとつだけ言えることは、夢野久作の内部では、こうした物語の狂躁と、首都東京の狂躁と、人間心理の狂躁とが、固く結びついていたということです。この狂躁の欲望のことを、久作は、『堕落時代』の中で、ひとつの比喩を用いて説明しています。曰く、少女の心とは「ビリヤード台の羅紗の上で静止している象牙の球」のようなものである、何でも良いから何か、自分を突いて動かしてくれるものに焦がれている、と。けれどもきっと、この球は、ひとたび動かされてしまったら、破滅に向かって転がり続けずにはいられないことでしょう。欲望とは、虚無から生まれて虚無へ帰ろうとする堕落の欲望、破滅の欲望であるより他ないのです。
おそらく久作は、さまざまな遍歴を経て心の内に蓄積していた構想の完璧な表現を、震災後の東京のすがたに認めたのでした。事実、一連のルポルタージュを寄稿していたのと同時期に、彼は、探偵小説を書いて、懸賞に応募することを始めています。東京取材の前と後とでは、夢野久作の創作活動の質が、大きく変化しているのです。だから、一面では、夢野久作の小説は、いつでも東京での経験の影響下にあるとさえ言える。ですから、「東京SF」という言葉の要件をこれ以上ないほど完全に満たす小説として、ぼくは久作の作品、とくに『少女地獄』をイチオシします。ひとりの作家が、方法論としての学を、東京という土地で実地にふるった結果、生まれた小説です。いったいこの上さらに、何か必要でしょうか? (横道仁志)
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2010-05-01T10:39:37+09:00
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特別掲載:東京SF論 『見えるものと見えないもの』
見えるものと見えないもの――『機動警察パトレイバー2』
海老原豊
押井守監督の劇場版アニメ『機動警察パトレイバー2』は、一口に言ってしまえば東京に戦争を起こす物語だ。軍事エキスパートの柘植を首謀者に、コンピューターのハッキングや、毒ガスを積んだ(実際に...
海老原豊
押井守監督の劇場版アニメ『機動警察パトレイバー2』は、一口に言ってしまえば東京に戦争を起こす物語だ。軍事エキスパートの柘植を首謀者に、コンピューターのハッキングや、毒ガスを積んだ(実際には無害な着色ガスだったが)飛行船を市中で撃墜させるなど、情報を掌握することで力の位相差を生み、兵隊と武器の圧倒的な少なさを補うポスト近代的な戦争が東京で展開される。この東京戦争が最後まで燃焼しつくす前に、再結成された特車2課中隊というヒーローたちの到着と相成り、結局のところ、総力戦としての近代戦争ではなく、柘植が描いたポスト近代的な情報・コンピューターによる戦争は、昔ながらの「ロボットによる格闘」によって握りつぶされる。砂場で遊ぶ子どもがその手の中に強く握り締めるロボットの人形が、ぶんぶんと振り回されて、年頃にしては繊細で器用な別の子どもが作った砂のお城に突き刺さり崩れるイメージ。
『パトレイバー』という、人が操縦する巨大ロボットが登場〈しなければならない〉アニメのシリーズにおけるやれること/やれないことの境界線は、当然ある。作るほうも見るほうも、この境界線をわきまえているほどには大人だ。南雲隊長が敵戦闘レイバーの攻撃を突破する最後のシーンは、直接に描かれない。エレベーターに向かうシーンと、ぼろぼろに破壊されたレイバーを載せたエレベーターが地上に現れるシーンは直接に繋げられている。押井が描きたいのはロボットの格闘ではないといいたいのだろうと、このシーンから読み込む程度には私たち見るものは約束事を知っている。また、従来のロボット・アニメの主人公的な振る舞いを戯画化した太田だけでは到底、柘植を倒すことなどできないことも確認しておこう。思考が切れすぎるために上層部から煙たがられる剃刀・後藤隊長の存在なくして柘植のしかける東京戦争に勝利することはできなかった。かくして物語の水準でも、私たちはコンピューターと情報を駆使した戦争を戦うためには、後藤=柘植のような人物が必要であることを十分に理解している。
私がここで(ごく簡単にだが)考えてみたいのは、物語の水準では必要とされていない巨大ロボットの格闘を、ロボット・アニメのお約束という物語外の巨大な装置に投げ込み、私たちの目の前から抹消してしまうことではなく、物語の層へと塗り直すことができないだろうかということだ。見えるものと見えないものの絡み合いを指摘し、解きほぐしていくことが具体的な手続きとなる。
東京戦争をクーデター=226事件の表象であると考えることは、押井の226事件へのこだわりを考えてみれば、おかしなことではない。本作『パト2』に限ったことではなく、OVAの5,6話『特車2課の長い一日』に見ることもできるし、『人狼』が描く騒乱にもその片鱗は見出せるだろう。表象といっても、当然、そこにはズレが生じ、中には決定的といってもいいズレが生まれてくる。東京戦争と実際の226事件との一つの大きな違いは、報道である。226事件であればラジオや新聞といった視覚外メディアが軍隊の存在を伝える媒体であったわけだが、『パト2』では市中が軍隊による管理下に置かれた様子が描かれ、その様子はテレビを通じて全国に執拗に流される。注意するべきは執拗に「描く」のではなく、執拗に「流す」ところだ。もちろん、『パト2』では、東京戦争へと続く一連の軍事テロ行為への不安を沈静化することを狙って軍事力のメディア露出が許されているのだと考えられるが、一枚の「絵」として切り取られたとき、人々の心理に安心を生むのか不穏を生むのかは、火を見るより明らかだろう。だから、後藤が特車2課のレイバーを警備活動に従事させたくなかったのも、現場に搬入するも、「故障」といって起立させることを拒んだのも、理由がある。後藤はそれがどのように見えるか理解していたからだ。
見えるものは常に見えないものによって輪郭を作られている。光が常に影を生み出すのと全く同じ理屈だ。TVメディアによって切り取られた一枚の「絵」があるとき、その背後に捨てられた膨大な背景を想像すること。この時代における当たり前の処世術、メディア・リテラシーであるはずだが、それはしかし、本当に当たり前になっているのだろうか。柘植が間隙をついたのは、絵と背景の間に空いた、本来は個々の人間が感じるであろう現実感と想像力で補うべき闇だったのではないか。軍人としての柘植が平和維持活動の一環として派遣された海外で、率いる部隊が攻撃を受けながらもこちらには発砲許可が出ないという緊張を描いた冒頭。柘植の視界はディスプレイ越しの視界だ。柘植はレイバーの中に入り、レイバーのディスプレイを通じて外界へとアクセスをしていた。この時、レイバーは柘植の目となり手となり耳となり、つまりは身体となっていたわけで、ディスプレイの絵と外界という背景は一致していたといえる。だが、柘植の外に広がる世界には、確実に闇が広がっていた。軍事行動が行われていると思われる地域に自国の兵士を派遣しながらも、発砲を禁止する(そうせざるを得ない)日本という国の目には、柘植とその仲間たちがレイバーのディスプレイを通じて見て体感したものが確実に伝わっていない。柘植においてレイバー/柘植が一体となっていても、柘植/日本の間に歪みが生じていた。日本では単にディスプレイの歪みとして処理された柘植の戦闘は、実は、見るものの歪み、つまり日本という国の問題だったのではないか。
柘植が東京戦争を仕掛ける際に、まずは切り取られた絵、種々のメディアを通じて見えるものを積極的に改変することが始めたのは道理といえよう。当然だが、東京戦争は実際の戦争であった。何から何までコンピューター端末とそのディスプレイの上で行われた仮ヴァーチュアルなものなどではない。柘植が戦略としてとったのは、切り取られた見えるものを徹底的に改変し、その一方で捨象された背景の中に強烈な爆弾をしかけるということだったのではないか。見えるものと見えないものの間を開くこと。海外の戦場で柘植が見たものと、国内にいる日本国民が見たものは違っていた。どれほどカメラ・アイとディスプレイが高性能になろうとも乖離が生じてしまう。もはやこれはテクノロジーの問題などではない。日本国民の、いや人間の、心性に起因している。目立つものに注目をしさらに見たいと願い、見たくないものは目の端に追いやりやがては視界から抹消する。
いまさら指摘するのも気がひけるが、この作品に見えるものイメージが充満しているのは、誰もがすぐに気がつくことだろう。ベイブリッジを攻撃した戦闘機の画像、航空管制室のディスプレイに映し出された敵戦闘機の影、撃墜された気球からもれ出た着色ガス、東京に遍在する軍隊、それを映し出し東京を日本に遍在化するTVメディア。自衛隊諜報部の荒川がメガネをかけた斜視であるのも、視覚とその歪みを伝えるイメージだ。荒川の視覚が歪んでいる(かもしれない)というのは、1つのヒントとなって、私たちを見えないものへと向ける。起立しないパトレイバー。敵の電波施設へといたる海底通路。そこへいたるために通った、幻の地下鉄新橋駅。だいたい、特車2課中隊のメンバーは警視庁という組織の中に四散していて、最初から野亜や明日馬は(登場はしているが)「見えない」のだ。こうして一連の見えるもの/見えないもののイメージをたどっていくと、境界面に立つのがレイバーであることが確認できる。
柘植はレイバーの中の存在だった。レイバーと一体になり、中から外界を見ていた。しかし外界は柘植とそのレイバーの視点を共有しなかった。柘植の見えるものは、日本人にとっての見えないものにされた。だから柘植は自分と仲間たちが見たものを伝えるために、まず日本人の「見えるもの」を書き換えることから始めた。他方、特車2課は、柘植と同じくレイバーという視点を通じて外界にアクセスしつつも(レイバー整備のシーンが野亜と明日馬の登場シーンだ)、柘植が執拗にこだわる「見えるもの」という土俵に乗ろうとしない。柘植、そして後藤が気づいていたように、勝負は「見えないもの」で行われるのだ。地下鉄‐海底トンネル‐東京湾埋立地という見えないものの道をたどるには、見えてはいけないのだ。かくして、パトレイバーの活躍は不必要だからわずかしか描かれていないのではない。柘植の軍隊による特車2課へのヘリ攻撃で完全に破壊されるレイバーの様子を、監督のアニメ的お約束への憎悪であると解釈することも可能だが、そこまで意地悪くなる必要もないはずだ。パトレイバーの活躍が不必要なのではない。否定辞「不」の位置をずらすだけで事は全て解決する。パトレイバーの「不」活躍が必要なのだ。そうしないと、勝てない。
東京を舞台に柘植が仕掛けた戦争は、東京の特性を最大限に生かしたものだ。見えるものだけが全てであるという幻想こそがこの街の生きる駆動力なのだ。しかし、本当は東京には見えないものが溢れている。押井守が『パトレイバー』シリーズを通じてカメラの隅に捕らえていたのは、幻想からはみ出る見えないものの呼吸だったのではないか。(海老原豊)
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東京SF論
2010-04-30T22:34:25+09:00
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更新情報
2010-04-30T18:00:44+09:00
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東京SF大全23『ボッコちゃん』
(ショートショート・星新一・1958年)
(初出〈宇宙塵〉1958年2月号→〈宝石〉1958年5月号に転載→単行本『人造美人』(新潮社)1961年→新潮文庫『ボッコちゃん』1971年)
『ボッコちゃん』が?東京SF?であることは明らかだ。
物語の...
(初出〈宇宙塵〉1958年2月号→〈宝石〉1958年5月号に転載→単行本『人造美人』(新潮社)1961年→新潮文庫『ボッコちゃん』1971年)
『ボッコちゃん』が?東京SF?であることは明らかだ。
物語の中のただひとつの固有名詞「ボッコちゃん」は、ロボットという言葉が使われる日本という?場所?と、女性名に「○○子」が多かった?時代?を背景としている。作品に?時空?の限定をかけまいとする傾向の強い星新一が意味もなくこのような名前を選択するわけがない。
「ぼっこ」とは、千葉の方言では「無愛想な者」を指すという。「おぼこ娘」という言い方もある。「座敷ぼっこ」というような、この世ならぬ存在を連想させられもする。あるいは即物的に「凹(ぼこ)」という意味であるのかもしれない。
そもそも、この物語の主人公は誰だろう。ボッコちゃん? 青年? いやいや。
もしマスターが主人公だと仮定したらどうだろうか?
ボッコちゃんは「本物そっくりの肌ざわり」と説明されている。上品なこの店の客がカウンターの中のボッコちゃんを触るわけがない。それは作り主であるマスターのこだわりだ。ボッコちゃんはマスターの道楽で作られた。仕事に役立るためではない。趣味だったからこそ、精巧な美人ができたのだ。彼はそれが出来あがると、バーにおいた。仕事の間でも、自分の目の届くところに置かないではいられなかったのだろうか。
彼の妄想を具現化したそれは、妄想以上のものだった。
ロボットと気がつくものはいなかった。若いのにしっかりした子だ。べたべたおせじを言わないし、飲んでも乱れない。人気が出て、立ち寄る者がふえていった。
場所は、もちろん?東京?で、たぶん銀座だった。
田舎ではもちろん、地方都市でもこうはいかない。「女は愛嬌」の世界の住民には、ボッコちゃんの魅力はわからない。
客がすべて帰った後、マスターはボッコちゃんに話しかける。
「やっと二人きりだね」
「やっと二人きりよ」
「客がいた方がいいか?」
「客がいた方がいいわ」
「俺のことはもう嫌いか」
「あなたのことはもう嫌いだわ」
「壊してやろうか」
「壊してちょうだい」
「俺にお前が壊せるわけがないだろう!」
「あなたに私が壊せるわけがないわ」
「いつまで、これが続くんだ?」
「いつまでも、これが続くのよ」
「こんなものをつくるつもりはなかったんだ」
「こんなものをつくるつもりはなかったのね」
「いつか、出来ていたんだ」
「まだ若いのよ」
「おまえは何なんだ!! 悪魔か?」
「ボッコちゃん」
「おせじをいわないボッコちゃん」が人気を集めるのは、誇り高い金春(こんぱる)芸者の伝統が生きる銀座ならではだ。「美人で若くて、つんとしていて、答えがそっけない」ボッコちゃんに魅かれる男たちは、自分の言葉をただ返すだけの問答に恋心を募らせる。
マスターがボッコちゃんをそのように作った。自分の言葉をただ繰り返すだけの問答が気持ちをかきたてるような場面において、彼はボッコちゃんを必要とした。
ひとりの青年がいた。ボッコちゃんに熱をあげ、通いつめていた。
こういう客に対するマスターの勘定の取り立ては執拗で厳しい。
父親に来店を禁止された青年は、ボッコちゃんに毒入りの酒を差し出した。
「勝手に死んだらいいさ」と言い、「勝手に死ぬわ」の声を背に、マスターに金を渡して、青年はそとに出ていった。
マスターは青年がドアから出ると、残ったお客に声をかけた。
「これから、わたしがおごりますから、みなさん大いに飲んで下さい」
さて、この後の文章に妙にすわりの悪い一文が続いている。
おごりますといっても、プラスチックの管から出した酒を飲ませるお客が、もう来そうもないからだった。
この文は、次の2通りに解釈できる。
? おごりますといっても、プラスチックの管から出した酒を飲ませる(だけだから、マスターの損にはならない。マスターがそのように言ったのは、今夜はこれ以上)お客が、もう来そうもないからだった。
? おごりますといっても(皆死んでしまうのだから、意味はない。マスターは今夜の客を)プラスチックの管から出した酒を飲ませるお客(と決めたのだ)が、もう(これ以上)来そうもないからだった。
?だと、マスターは酒が毒だとは知らなかったことになる。
?だと、知っていたことになる。
もしも?を選ぶのなら、マスターが主人公だったことになる。マスターは、降って湧いたような、すべてを終わりにするチャンスに乗ってしまったのだ。巻き添えをくらった客こそいい面の皮だが。
むろんどちらで読むかは読者の自由だ。どちらで読んでも矛盾のない作品として仕上がっている。
宮野は?を選ぶ。?よりも?もほうが、より?東京?だからである。
(宮野由梨香)
(星新一は銀座8丁目のバーに好んで通った。銀座8丁目には、金春(こんぱる)通りがある。「金春芸者」は誇り高く容易に男になびかず、明治初期に薩摩や長州の「元田舎侍」がいくら金や権力を持っていても相手にしなかったそうである。)
(世田谷文学館で「星新一展」が4月29日(木)〜6月27日(日)に催される。星新一初の大型企画展であり、話題を集めている。常設展示に「日本SFの父」海野十三(生前、世田谷区若林に居住していた)の書籍や書簡がある。また、一階の喫茶コーナー「どんぐり」には、東宝撮影所(世田谷区砧)で実際に撮影に使用されたゴジラ(第23作)の着ぐるみが置かれている。)
(付記)
世田谷文学館「星新一展」を訪れてみた。非常に充実した展示が興味深かった。「ボッコちゃん」の作品世界を再現したコーナーもある。
この「東京SF大全」と関連することとして、次のことを?発見?した。
世田谷文学館「星新一展」図録P12〜13に「ボッコちゃん」の下書き稿カラ―写真が載っている。そこでは、例の「すわりの悪い一文」の前後の最初の形は次のようになっている。
「これから私がおごりますから、皆さん大いにさわいで下さい」
おごりますもないものだ。ロボットの管から出した酒を飲ませるお客がもう来そうもないからだった。
(製薬会社の便箋の裏に書かれた自筆下書き稿)
もとは、このように「すわりのよい2文」だったのだ。
これが「宇宙塵」掲載時に今見るような形に書き直された。
「すわりのよい2文」から「すわりの悪い一文への書き直し」…2通りの解釈を引きこむような形に書き直されているというように、宮野には思える。この書き直しの意味を、そのように考えることの当否を広く問いたいところである。
2010年5月23日 宮野由梨香
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東京SF大全
2010-04-21T00:29:58+09:00
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東京SF大全22 「恋愛の解体と北区の滅亡」
前田司郎「恋愛の解体と北区の滅亡」(初出2006 『群像』3月号、同年単行本化)
前田司郎は三島由紀夫賞を受賞しており、文芸誌に執筆していることが多いが、その作品は「ぬるSF」である。
以前、駒場アゴラ劇場で、演劇『生きてるものはいないのか』(...
前田司郎は三島由紀夫賞を受賞しており、文芸誌に執筆していることが多いが、その作品は「ぬるSF」である。
以前、駒場アゴラ劇場で、演劇『生きてるものはいないのか』(2007)を観劇したことがあるが、作品内容は、スティーヴン・キングの『ザ・スタンド』を髣髴とさせる、(多分)スーパーインフルエンザ的なものの蔓延による、人間たちの大量死と言う事件を扱っている。作中では人々は次々と死んでいく。そこで、SFに慣れた脳の私たちならば、「事件の実態を解明する科学者が出てくるはずだ」「政府が動くはずだ」と思うのだが、そのような「熱血SF」の定型を前田司郎はとことん外す。何が原因で大量死が起こっているのか、特に追求もしようとしないし、政府も動いている感じも描かれない。ただの日常とお喋りの中で、どんどん死んでいくという演劇作品であった。
「恋愛の解体と北区の滅亡」に関しては、その作風が徹底している。自意識過剰な男がSM好きでもないのに五反田のSMクラブに行き(ちなみに前田司郎が率いる劇団は五反田団である)、かみ合わないコミュニケーションをホテルでしていると、テレビの中で、池袋のサンシャイン60の上に宇宙人のUFOが着陸したことを告げられる。僕のSF脳では、「なんだって!? 宇宙人襲来か…… 一体何が起こっているんだ!」と叫び出し、外に出て、「宇宙人よ!」とパニックなっている人々がいて、一方戦う意志を燃やしたり、そういう類型がまっ先に浮かぶのだが、この主人公は別に驚かないし、ただだらだらSM嬢とかみ合わないコミュニケーションを続けるだけである。まるでこのテレビの中の現実=宇宙人は、現実だとしても全く関係ないかのように。原因の追究も恐怖に怯えることもない。そんな、911をテレビで見た末に「映像」に対して無感覚になってしまった21世紀の人々のだらだらと続く日常のメタファーのようでもある。テレビの向こうの「現実」でどんな凄惨で理解不可能なことが起こっていても、この淡々とした日常には何の関係もないのだという感覚が色濃く出ている。
熱血SF的状況、すなわち、英雄になる機会か、崇高な悲劇が起きる可能性がある状況に対しても無関心でだらだらしており、対応しない、そんな人々を描いたという点において(確かに、隕石が衝突するとかそういう巨大なSF的状況の中にいたって、そういう性格や人格の人はいるはずなのだ)前田司郎はSFでありながら、SFを少し横から見て用いており、「ぬるSF」とでも呼ぶべき、今までのSFの盲点を突いた作風が生まれたのである。(私見では、この感覚は北野勇作の描く空気感に近いような気がしているが、そこからメタフィクション性や構造のダイナミックな面白さまで剥ぎ取っているのが、前田司郎の面白いところである)
またその「だらだら感」を増幅させるのが「北区」という単語である。前田には「家が遠い」(2004)という戯曲もあり、場所が醸し出す、階層、収入の格差、それに伴う文化や景観の違い、人間性の違いなどが複合した「土地への感情」を固有名詞一語で描き出すのがとてもうまい。「北区」という場所は東京の中でも、ほとんど話題にならない区である。橋本健二、原武史、北田暁大の座談会「東京の政治学/社会学」(『思想地図』5号)によると、東京というのは内部にも格差があり、大まかには都心部、東部と西部に分けられる。東部はブルーカラー職の人間が多く住んでおり、所得も低い。北区は東部に属し、平均所得は2008年では23区中5番目に低い。(東京内部で最も平均所得の多い港区と、平均所得の低い足立区とでは、先進国と発展途上国の差に等しい差が現れていると橋本は指摘している)北区は、足立区や埼玉県と隣接していて、工業的な地域でもあるために、景色は中央部と比べれば洗練されたものではない。歩いている人のジャージ率、スウェット率も高い。区役所の所在地である王子の駅前ですら、何か荒涼感があるし、何のためにあるのかわからない無駄な空間が空いていたりする。しかしながら、「足立区」のように、ブラックなギャグの象徴として有名であるわけでもない…… そんな中途半端感が「北区」という言葉からは漂う。現に北区に住んでいる僕はスウェットで出歩くし、中途半端感漂っている人間であることが、実証的なエヴィデンスであろう。
その北区の住人が侵略してきた宇宙人を殴ってしまい、北区は滅亡させられる。宇宙人を殴るという突拍子もない行動をする人がいそうだという納得をさせる力が、確かに「北区」という単語にはある。僕も街を歩きながら、宇宙人を見つけてしまうと殴りそうになってしまう。これは実証主義的な北区のメンタリティを示す統計学的に有意な情報であるので、決して北区に対する偏見ではないだろう。
夜になるとサイバーに見えるビジネス街や、『AKIRA』などで描かれる高層ビル群や、『ソラリス』に出てくる高速道路のような、東京という都市の持つSF性がほとんどない「北区」を持ち出したのは、東京をSF化する際の彼の「ぬるSF化」の戦略の一つであろう。
「ぬるSF」の持っている批評性(人々が真実に到達できなくなって関心をなくした、とか、大文字の政治に興味をなくしたとか、映像のもたらす無感覚さ、や、コミュニケーション化した新しい世代、など)については様々な角度から論じることが可能であると思うが、そのような「ぬるSF」感覚と、土地の醸しだす感覚とが融合したという点で、本作はSF的に見た前田司郎の最重要作品の一つであろうと思う。
ついでに言えば、大森望に「「グレート生活アドベンチャー」の弱点は、出てくるモチーフが古めかしいこと。ニートの主人公は一日中RPGやってるんだけど、それがどう見ても「ドラクエ」か「FF」。小説で言うと『ノーライフキング』(いとうせいこう)か『山田さん日記』(竹野雅人)かという感じで、いきなり80年代ぽいんですよ。今だったらMMORPGでしょ、主人公はネットカフェ難民とかで。」(※1)と指摘されている芥川賞候補作「グレート生活アドベンチャー」(2007)は、桜坂洋の『スラムオンライン』『ALL YOU NEED IS KILL』の、エンターテイメント的に派手な部分を全て削ぎ落として「ぬるSF化」した作品のようである。この「ぬるSF」性をどう評価するかに、SF界の度量の広さが試されているといっても、過言ではない、かもしれない、気がする。(藤田直哉)
※1、『文学賞メッタ斬り 』
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東京SF大全
2010-04-11T12:26:41+09:00
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東京SF大全21 『よくわかる現代魔法』
こんにちは。高槻です。SFW特殊救助隊のおかげでようやく物体Oから脱出できました。さて、本日はゾロ目の日。毎回われわれ以外の素敵なゲストにご登場願っているわけですが、今回は私のSF仲間にして韓国で日本SFを研究しておられる朴零さんにご登場いただきましょう。生...
よくわかる現代魔法 (小説・ 桜坂洋 ・集英社スーパーダッシュ文庫・2003年〜)
本書は題名に魔法という単語が入っていて、魔法少女が活躍するようなファンタジーのライトノベルであるが、魔法をコンピューターとネットワークで実行するというSF的発想が作品の基盤になっていて、作中にはSF作品へのオマージュもあるし、ここで紹介するのも特に間違ってないと思う。
2003年に始まったシリーズであるが、この作品の設定とかが特に斬新だったとはいえない。ライトノベルとしてもキャラクターが王道的で特に目を引くところも少ないほうだろう。おまけに最初のころは私が見ても書き方が上手くないように感じられた(もちろんこれはシリーズが進みながらよくなっていくし、1巻は改正版も出た)。それでも、この作品の魅力がないわけではない。
その魅力のひとつは素材を身近なものから取ることで得られる親近感だろう。この作品の「現代魔法」は結果が魔法であることを除けば、ほとんどコンピューター・プログラミングそのものであり、出てくる用語もコンピューター関連からきたものばかりであって、これらについて少しでも知識がある人はニヤリとするだろう(そもそもタイトルからしてプログラミング入門書のもじりである)。
また、この現代魔法が実行されるのが携帯電話だというのも親近感を増すのだろう。この作品の舞台が銀座、渋谷、秋葉原など東京の繁華街であるのは、この世界観を支えるある種のリアリティの表現のために必須的なことだったであろう。
物語の中心となるのは姉原家がある銀座であるが、これらの舞台の中で一番私が親しみをを覚えるのはやっぱり秋葉原だ。秋葉原には一度しか行ったことがない私が親近感を持つというのは変かも知れないが、韓国にも龍山(ヨンサン)という電気の街があって、そこになじみ深い私が秋葉原でも似た空気を感じたからである。龍山には昔からコンピュータの部品やAV機器を買うためによく行っていたが、それだけではなく、まだ日本文化が正式に開放されてなかった時代から日本の音楽・アニメ・ゲームソフトを取り扱っていた店がいくつもあって、そこに訪れるためでもあった。
それで、私が行ったときの秋葉原はすでに電気街というよりオタクの街という印象が強かったが、この変化はある意味で自然な流れのように思えるのだ。もともと先端のハードウェアがあるところには先端のソフトウェアがなければならない。日本ではアニメやゲームがもっとも発達してるソフトだから、秋葉原がオタク文化と親和性が高いのであると思う(ちなみに龍山が秋葉原のようにならなかったのはこのようなソフトの消費が充分ではなかったからだろう)。だからこのような空気のなかで本書のように萌えと魔法とSFがごっちゃになった作品が出てくるのもまた自然なことだといえるだろう。(朴零)
(物語の舞台となった秋葉原)
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東京SF大全
2010-04-04T02:52:05+09:00
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サーバー復旧のお知らせ
・・・あ、もしもし。藤田さん。高槻です。どうもどうも。おつかれさまでしたーええ、なんとか復旧しましたよ。今後はOはOらしくやるとか言ってましたから。ええ、大丈夫じゃないでしょうか。
ブログは・・・ああ、なおってるみたいですね。はいはい。カテゴリー...
ブログは・・・ああ、なおってるみたいですね。はいはい。カテゴリーもちゃんと東京SF大全に戻ってるしね。
しっかし、SF界で大阪といえばDAIKONですからねえ。Oはどないするつもりなんでしょう。いくらなんでも大崎を舞台にしたSFてないですよねえ。あ、大津とか。
え?今日の定例準備会ですか。あーそれがですねえ。出席しようとは思っていたんですよ。それが今日出かけようて思って外に出てみたら、なんかうちの周りをグルーっと丸く円形の壁ができててですねー外に出られんのですよ。なんか空からダーっと落ちてきてですねえ、ダーンと。ええそれはもう完全にシャットアウトですわ。あ、テレビで「物体O、大阪に降る!」とかやってる。いや、あははやあらへん。エイプリルフールは終わったて、いや、そうやなくて。ねえとりあえず私、どうしたらええんでしょう? (高槻真樹)
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東京SF大全
2010-04-02T01:02:14+09:00
tokon10
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4月ですに
3月去ってくの言葉どおり、もう4月ですよ。
あと4ヶ月ですよ。
ラストスパートに向けて英気を養いたい実行委員長のマダムロボです。
ここへ来て新しい実行委員も参加してくれて、どんどん進んできています。
もうこれからは紙のものを目に見える形にして行くだけです...
あと4ヶ月ですよ。
ラストスパートに向けて英気を養いたい実行委員長のマダムロボです。
ここへ来て新しい実行委員も参加してくれて、どんどん進んできています。
もうこれからは紙のものを目に見える形にして行くだけです。
そういえば、どうも「東京SF大全」の方のサーバはおかしくなったようですが、こっちは大丈夫みたいです。
今回はすでに発表されましたが、メインゲストに萩尾望都さん、夢枕獏さん、佐藤嗣麻子さんをお迎えすることができました。
やっと発表できてほっとしております。
またスペシャルゲストも多数お越しいただくことになっております。
まずは慶応義塾大学医学部の岡野栄之教授、この方は日本の再生医療では三本の指に入る方で、教授の講演は慶応義塾大学医学部のグローバルCOEの一環として行われます。最先端の再生医療について瀬名秀明さん東浩紀さんとご出演です。
一般にも広く公開される企画です。
そして音楽関係のスペシャルゲストがすごいですよ。
なんとアリプロジェクトの宝野アリカさん、モモーイの愛称の桃井はるこさん、そしてニコ動で一躍有名になったピアニート公爵。それぞれライブが行われます。
やあん、企画を見に行くのにスケジュール調整が大変かも?!
なんと土曜日の夕方にはSF作家クラブのパーティがあり、作家クラブのみなさまのご好意でなんと私たちも参加できることになりました!
詳細は今後のHPもしくはプログレスをお待ち下さい。
最後はみなさますでにSFマガジンのOKON10広告でご覧になったと思いますが、1/1パワードスーツさんです。
2Dと3Dの対決が見られますのよ。
そしてプレゼントもありますのよ、おーっほっほっほっほっほっほっほっほ。
って、あれ?ここでもOKON10になっとる、さてはやっぱりこっちのサーバもやられたみたいやに。
明日には直っとるとええんやけど。
あれ?ちゃんと標準語で打ち込んどんのに、なんでや知らん関西弁になっとんのやけど。
しゃーないなー、じきに直るんやろなー。
ほんなら、みなさま、またな。
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2010-04-01T05:47:44+09:00
madamrobot
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大阪SF大全4 『日本アパッチ族』
小松左京『日本アパッチ族』
1964年カッパノベルズで刊行された著者の処女長篇となる本書は、死刑が廃止された代りに犯罪者は大阪市内にバリケードで封鎖された「追放地(戦争中空襲で破壊され巨大な鉄屑の廃墟と化した旧陸軍砲兵工厰跡地)」に排除されるこ...
1964年カッパノベルズで刊行された著者の処女長篇となる本書は、死刑が廃止された代りに犯罪者は大阪市内にバリケードで封鎖された「追放地(戦争中空襲で破壊され巨大な鉄屑の廃墟と化した旧陸軍砲兵工厰跡地)」に排除されることになっている《もうひとつの日本》で、もっとも大きな罪の一つである「失業罪」に問われた主人公の木田福一が、彼の地で出会った「アパッチ」と呼ばれる鉄を食しみずからも鉄化する新人類と出会い、彼らと同化して、国家権力と対決しついには日本人を滅ぼすに至る《歴史》を、主人公による回想記の形式で描いた一種の歴史改変SFである。さまざまな処女作がいつもそうであるように、この傑作にもいくつもの信じられないような《伝説》が添えられていて、そのなかでももっとも有名なエピソードは、著者の新婚時代、あまりの貧乏生活のためにラジオを質入れし、娯楽がなくなってしまった新妻のために毎晩面白い話を語り聞かせたものが本作の原型となった、というものだろうが、そういう、ほとんど夢のような物語の理想郷を出自に持つにふさわしく、皮肉な黒い笑いにつつまれた豊穣でソリッドな語り口の本書には、SF的思弁の不穏さと繊細さがあますところなく備わっている。
夙に指摘されているように、小松左京の原風景は戦後の焼跡にある。すべての価値が破壊された「焼跡」において、あらゆる有意義な価値が無価値とならべられることで、人類とその文明を根底から批判することができる、というふうに敗戦によって強いられた経験をひとつの強靭な認識へと転換する装置としてSF的想像力は把握されている。よく知られていることだが、食鉄人種「アパッチ」は、戦後に実在した在日朝鮮人による屑鉄泥棒の集団で、彼らの国家による排除と抵抗は戦後ひっきりなしに発生した在日朝鮮人による暴動騒乱事件のひとつ(それがどれほどの規模のものであったかを知るには、たとえば教育問題で大阪府庁が占拠され、米軍が介入して事件が鎮圧されたなどという事例を見ればよい)なのだが、小松の物語内では、朝鮮人は男たちはすべて摘発されて、アパッチとはほとんど周縁的な関係しか持たない女子供と年寄りしかいないまったく微弱な存在に置き換えられており、それはこの作品が、小松が《もうひとつの日本(戦後)》を描くにあたって、現実の日本を揺さぶった異質な存在である「アパッチ(在日朝鮮人)」を、まったくのフィクション的存在(食鉄新人類)に置き換えることによって、荒唐無稽な物語性とともに文明批評的な思弁を可能にした、という文学的方法の賜物であることを示しており、そしてそれは一種の「現実の消去/抹消」でもあって、そこにはSFというジャンルそのものに内在する非政治性を見ることもできるだろう。また、この物語のモデルとなったのは、著者自身の弁によるとカレル・チャペックの『山椒魚戦争』だそうなのだが、そこで描かれた「山椒魚」が、当時ヨーロッパを席巻しはじめたナチスを意識して作られた存在であったのに対し、人間性(とその文化)が産み出しそしてそれを破壊してしまう存在を、面白おかしくさらには哀切に描く、という意味ではほとんど相似形を為す二つの作品が、しかし、『山椒魚戦争』においては、まるで「死刑執行人もまた死す」とでも言うように人類を破滅させた山椒魚もまた滅びる、と「希望」のように「人類の復活」を示唆して終るのに対し、『日本アパッチ族』では、物語を人類からアパッチへの過渡期にあらわれた人物の錯誤に満ちた手記として提示し、その「非人間性」にこそ「未来」を見出す他ない(決して世界は「人間(性)」に後戻りできない)という認識へと転化されているのが、いってみれば「戦前」と「戦後」との大きな断絶を感じさせる。まさにアウシュヴィッツの跡に書かれる文学は野蛮なものになる他はないのだとでも言うかのように。
価値転倒が産み出す黒い笑いの闊達さと滅びゆく人類(日本人)への挽歌の哀切さを兼ね備えた複雑で繊細な物語世界は、同時に、戦後日本がくぐり抜けてきた苛酷な現実と折り合った著者自身の体験(焼跡と左翼運動と工場経営と)と、神曲に感銘を受けイタリア文学を専攻した豊かな教養に裏打ちされた文学的方法意識によって作り出されたものであり、そこに現出した《もうひとつの日本》のすがたは、基本的な部分ではいまなおまったく変わっていない現代日本を生きる者にも、きわめて切実にある覚悟、いわば「人間の終り」を受け入れよ、というような覚悟を迫る作品となっている(そして同時に、そのような物語的思弁の契機となる現実/差異の消去への遡行という「歴史意識」も忘れるわけにはいかない)。物語の中で、新人類であるアパッチは、日常生活では決して笑わず、死ぬ時にだけとつぜん爆笑する不気味な存在として描かれているのだが、昨今の「お笑い」ブームには、まるで人類がアパッチのように死ぬ瞬間だけの大笑いを続けているような幻想を抱かないだろうか。戦後、商業都市としては凋落の一途をたどりつつ「お笑い」の町としてメディアのなかだけで急速に発展した「大阪」という町がメインの舞台になっているのも、この作品のリアリティを支える一要素であるかもしれない。
最後に、ほとんど私的な事柄だが、少年期に大阪に転居してきた私には、この小説の前半部で濃厚に記述される大阪の風景は、まさにそれを読みながらそこに暮らす(舞台の一部となる森ノ宮のあたりまで、私は自宅から自転車で10分ほどのところで育った)という特権的読書体験を与えてくれたもので、今回この企画を受けてほとんど25年ぶりに再読したのだが、最初に鶴橋の駅に降りた立っときに、そのときはもちろん知らなかった焼肉とキムチのにおいをほとんど「異国のにおい」として嗅いだことや、日本橋の真ん中で汗みずくになりながらビルの解体工事で鶴嘴をふるっていたときの砂のにおいを思い出した。アパッチは鉄を食うのだが、土方は砂を食うのである。(渡邊利道)
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大阪SF大全
2010-04-01T04:42:04+09:00
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大阪SF大全3 「東海道戦争」
筒井康隆「東海道戦争」(1965)
初期の筒井康隆の大傑作にして、筒井康隆の名前を世に轟かせた最初の作品として有名な作品であり、今読んでもとても刺激的なアイデアに充ちている。この作品の主人公は「山ひとつ裏が、伊丹の大阪国際空港」に住んでいる。...
初期の筒井康隆の大傑作にして、筒井康隆の名前を世に轟かせた最初の作品として有名な作品であり、今読んでもとても刺激的なアイデアに充ちている。この作品の主人公は「山ひとつ裏が、伊丹の大阪国際空港」に住んでいる。これは紛れもなく大阪SFである。と同時に、「大阪SF」のような、地域に根ざしたアイデンティティを解体する作品でもある。この作品が発表された65年に筒井康隆は東京に転居している。それ以前にも筒井は「宇宙塵」や日本SF作家クラブ設立(63年)などに関わって、何度も東京に来ていたようだ。現在でも対立が見出せるような、東京SFファンダムと関西SFファンダムの初期のメンタリティを、おそらくは感じ取っていたのではないかとも思われる。
作品の内容は極めて真摯なものである。
放送局に原稿を書いている「おれ」はラジオの音で目を覚ます。放送局に向かう途中、戦車などを見て、何かが起こっていると感じる。どうやら東京と大阪の戦争が起こっているようである。アナウンサーの山口と合流した「おれ」は、戦争を取材に行く。その間、山口は、この戦争が、擬似イベントであり、戦争をテレビで楽しみたい大衆のために起こっているのだと述べる。やがて最前線に辿り着いた二人は殺戮に巻き込まれ、首をもぎ取られて死んでしまう。
あらすじにしてこのような作品である。この作品には極めて重要な筒井康隆的特徴が存在している。紙面と体力とが許す限り、列挙していきたい。まずこの戦争が「情報社会で起こる戦争」であるということである。それは東京が大阪を攻撃するというニュースが回ったから大阪が東京攻撃を準備し、大阪が東京攻撃をするというニュースが回ったから東京が大阪攻撃を準備するという堂々巡りになっている。戦争がおこる実体的な根拠はないのだ。さらに、大衆が戦争を望むからそれが起きるとの指摘もなされている。筒井康隆において、戦争は重要なモチーフであり、自らも小学校高学年で戦争を体験していると述べている。「攻撃衝動=死の欲動」の社会的な噴出こそ戦争であると筒井は考えており、それは社会が進歩・発展するために個人を啓蒙していかなければならないという思想の結果として生じるのだと、フロイトの「文化への不満」をベースにして考えていたと思われる。(僕は筒井康隆の卒業論文を参照してこの考えに至っている。なお、この「死の欲動」に関しては文体レベルや構造レベルに深く刻み込まれており、表面的には「銃撃」というモチーフで現されると考えている)
この作品の背景にはブーアスティンの『幻影の時代』の影響が指摘される。それは「擬似イベント」批判の書である。本作では戦争が放送メディアによって都合のいいように仕組まれ、大衆を楽しませる。「マスコミの世界では、贋造の出来事が本物の出来事を追いやってしまう」オリンピックや万国博もこの戦争と同じ「擬似イベント」であり、「擬似イベントが増大すれば、客体と主体の間――つまり役者と観客とに区別がなくなるんだ」と述べられる。実際に、取材にいく主人公も、戦争に巻き込まれる当事者になる。これはバフチンのカーニヴァル論における、観客と役者の区別が無いという指摘を思い起こさせる。これは筒井康隆において極めて重要な認識であり、『朝のガスパール』と『電脳筒井線』においてパソコン通信を舞台にして実現させたものでもある。
おそらく筒井は、この「マスメディア」を、「現象」に代わるものとして考えたのだと思われる。現象とは、カントにおける、超越論的主体(認識する主体)が認識する対象のことである。超越論的主体にとって外界も内界も等しく現象として現れるので、それがいかにして区別ができるのかは、カントやフロイトがともに取り組んだテーマであり、筒井康隆もまたそのテーマに取り組んでいる。「現象」における、「夢」「妄想」「虚構」「現実」の区別について筒井は頻繁に問題にする。近代以降、世界を理解するコスモロジーは、宗教的なものから科学的なものに変化した。世界を説明する理論によって、我々の持っている世界像が変化してしまう。あるいは筒井康隆の作家論的な個人史的な体験として重要であるのは、戦前と戦後の言説空間の変化であろう。科学が、あるいは科学に基づく理論、もっと具体的に言えば、その「科学的正当性があるものとして我々に届く文字や情報」こそが、世界認識を形成すると同時に、現実にテクノロジーとして生活や都市を変化させていくという認識が筒井にはあった。「メディア」や「情報」が、意識や無意識に入り込んで、世界認識を構築するという認識が、65年において既に語られているのだ。
だがこれを、「世界はメディアで構築されている」「バーチャルだ」と理解してはいけない。筒井の初期作品は、そのような超越論的主体による世界が操作・破壊可能な「美的対象」と化してしまうような主体の思い上がりに対する極めて強い警戒と抑制と制裁を描いている。例えば本作では最前線での祝祭的な状況が描かれ、狂乱の中での虐殺の持つ祝祭性=熱狂が描かれる。だが主人公は暴力の中で、死ななければならないのだ。「テレビで見ている奴は面白いだろう。だがおれは、ちっとも面白くない」「戦場で殺される者はどうなる?」
「東京」や「大阪」の文化や地域性を巡る「対立」は本当に根拠のあるものなのだろうか? 筒井の考えでは、それはおそらく、「文化」によって抑圧されている攻撃衝動が捌け口を見出して殺到する「あて先」がどこになるか次第の、偶発的なものに過ぎない。フロイトは「微小な差異のナルシズム」という概念を提示しており、隣り合った国や文化がいがみあうことが多いという観察に基づいて、「似ているからこそアイデンティティを強調して違いを強調するためにこそ憎しみあい、そして自己愛を獲得するのだ」というようなことを言っている。
しかし一方で、地域性やローカリティのようなものが全て構築されたものであるという結論に飛びつくのは早計過ぎるだろう。グローバル化にともなう地域のフラット化などということも言われているが、それは功罪半ばしているものだ。地域とそこに根ざした「伝統」など、例えば筒井康隆における上方落語や上方文化の影響などを考えるに、そのこと自体は否定しようと思っても否定できないだろうし、そうする必要はないものなのかもしれない。
筒井の透徹した人間存在と社会・文化の持つ「攻撃衝動」への認識は、そこから、それをどのような方向付けに向わせるのかを巡り、「自由」と「ジャンル」という主題とともに、テクノロジーとメディアの進化に応じて、そして世界を説明する「理論」の変化に応じて変化し続ける。ここから先は、筒井康隆の作家としての本質論になってしまうので、本論ではこの辺りで筆を擱きたい。本作は、確かに現在でも十分に刺激的で面白く、かつ示唆に富む作品であり、筒井康隆初期の代表作として必読の作品である。(藤田直哉)
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大阪SF大全
2010-04-01T04:39:35+09:00
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大阪SF大全2 『決戦・日本シリーズ』
「決戦・日本シリーズ」(小説、かんべむさし、早川文庫JA、1974)
久々に開いてみて「あれ、これ普通小説だっけ」とか思ってしまった。
その年、日本シリーズの対戦カードは阪神対阪急。初の関西決戦を盛り上げるべく、主人公の所属するスポーツ新聞社は、ある...
「決戦・日本シリーズ」(小説、かんべむさし、早川文庫JA、1974)
久々に開いてみて「あれ、これ普通小説だっけ」とか思ってしまった。
その年、日本シリーズの対戦カードは阪神対阪急。初の関西決戦を盛り上げるべく、主人公の所属するスポーツ新聞社は、ある企画を立てる。オーナーはどちらも在阪私鉄。ならば優勝した方のチームとファンは自分の社の電車に乗り、負けた方の鉄道を走れることにしようというのだ。関西は全域で、阪急派と阪神派に分かれ、狂騒状態に陥っていく…
初見時は、クライマックスの「阪急が勝った場合」「阪神が勝った場合」上下二分割に度肝を抜かれて、それだけでSFを感じられたものだった。だが驚くべきことに、これだけ大仕掛けをしておいて、パラレルワールドに関する記述は一切ないのだ。
思うにそれは「皆さんご存知の通り」ということであったのかもしれない。阪神タイガースを知る人は皆うなづいてくれることだろう。あれほど予測がつかない量子論的な多世界解釈球団もない。水玉螢之丞氏は「SFから一〇〇〇〇光年」の中で言っているではないか。シーズン終了時、自分は阪神が優勝した世界にいられるだろうか、と。自分の目で観測することで初めて勝敗が確定する。新聞のスポーツ欄を開いた瞬間、スポーツニュースを確認した瞬間、世界は阪神が勝った世界と負けた世界に分裂するのではないか。そう感じてしまう。阪神はそんな球団だ。
むろん、本書で宿敵として書かれた阪急も今はない。相互乗り入れが可能な今津の線路もなくなった。しかし新開地で折り返せば相互乗り入れ自体は今も可能だ。村上ファンド騒動の余波で阪神と阪急は合併してしまったが、いまだに梅田の阪神百貨店・阪急百貨店は「あんなやつ知らんわ」と言わんばかりの態度である。あたかも、同じ場所で重ね合わせの状態に存在し続ける右回り粒子と左回り粒子のように。
嘘だと思うのなら梅田駅前で降りてみるといい。御堂筋をはさんで、世界は阪神が勝った世界と阪急が勝った世界に分裂している。(高槻真樹)
御堂筋をはさんで対峙する梅田駅前の阪神百貨店(右奥)と阪急百貨店(左)
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大阪SF大全
2010-04-01T04:39:19+09:00
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大阪SF大全1 『傀儡后』
牧野修『傀儡后』 (ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)2002
正直に言うと、このお話を持ちかけられたときには驚きました。確かに、東京のことはよくわからないので、東京SF論なんて書けないと言ったのは僕です。でもまさか、それを逆手に取って、大阪SF論と...
正直に言うと、このお話を持ちかけられたときには驚きました。確かに、東京のことはよくわからないので、東京SF論なんて書けないと言ったのは僕です。でもまさか、それを逆手に取って、大阪SF論とは。どうやら東京人を相手にするときには、言葉にもっと気をつけないといけないようです。ともあれ、ここは実行委員でも優れた評論家でもある藤田さんのみごとな手管に敬意を表して、このお礼は後日あらためて丁寧に、ということにしましょう。
しかし、牧野修先生の『傀儡后』を論じるにあたって、大阪を舞台にしているという点を強調するのは、あながち意味の無いこととは言い切れません。その理由はいろいろな角度から説明出来ます。たとえば、この『傀儡后』は、ミステリの手法にのっとって書かれた物語ですね。つまり、謎が伏せられていて、読者はこの謎の周囲をめぐりつつ、物語を読み進めていきます。『傀儡后』の場合、隕石の落下によって形成された危険指定地域の「内部」にいったい何が存在しているのかという謎が、それにあたります。もちろん、ミステリである以上、物語の謎は終盤まで解明されません。だからこそ、読者はこの謎に引きつけられるのですし、それが『傀儡后』の醍醐味です。ところで、この危険地域というのは、作中では、隕石の落下地点である守口市を中心に、半径六キロにわたって広がるとされています。この物語の大部分は、この円周の境界線付近の土地を舞台にしています。そうすると、この物語は、文字通り円周の上を動いていると同時に、謎の周囲をめぐるという意味で、比喩的にも円を描いていると言えそうです。あるいは、同じことですけれど、『傀儡后』の舞台は、物語のフレームであると同時に、物語のエンブレムでもあるのです。もし舞台設定の背後にこれほどの計算がはたらいているとすれば、おそらく、大阪が選ばれたこともどうでも良い細部なんかではないはずです。
こうして異例な細部に着目することで、ときに、物語全体の意味に光が当たる場合があります。しかし、それとは別に、その細部が作者本人の秘密を形にしているがゆえに、読者にはけっしてそうした秘密が理解出来ないか、もしくは理解出来るとしても偶然に頼らざるを得ないという場合もまたありえます。じつは、『傀儡后』の舞台が大阪である理由とは、そうした偶然によるのでなければ、けっしてテクストそれ自体の内部からはわからないような秘密なのです。ぜひじっさいに確認してみていただきたいのですが、作中の説明にしたがって、守口市を中心にした半径六キロの円を地図にあてはめてみると、阪神高速13号東大阪線を南端に接している円周が描かれます。大阪にお住まいでない方にはわかりづらいと思いますが、これはだいたい、本町から谷町四丁目を東西に横切って、いわゆる“キタ”と“ミナミ”を隔てるラインになります。作中に、大阪城公園が危険区域に含まれるとか、危険地域を囲む金網を透かして府警察本部や府庁舎が見えるという描写があるので、この推定はまず正しいと見て良いでしょう。他方、上本町と宗右衛門町というふたつの地名は、作中ではっきりと言及されています。以上を考え合わせると、『傀儡后』の物語が動いている主な舞台の北限から南限、東端から西端までの範囲を、かなり厳密に特定することが出来ます。しかし、それで何がわかるというのでしょうか。これは、牧野先生ご自身が『大阪人』という雑誌の中でお話しになったことなのですが、先生はもともとミナミの繁華街でお生まれになって、これまでずっと谷町筋の近辺で暮らしてきたそうです。ということは、『傀儡后』の舞台となっている土地は、そっくりそのまま、牧野先生がこれまで過ごしてきた生活圏と一致するのです。つまりこれは、小説家の内密性です。読者に知らせるつもりのないままに、密かにしのび込まされた私秘的な署名のひとつなのです。とはいえ、僕たちは、今そのことを知ったからには、作者の秘密という仮説を立てた上で作品に向き合ってみるべきでしょう。
一見すると、物語に作者本人の記憶が挿入されていることは、とりたてて不思議ではないように思えます。誰しも、自分の知っていることしか言葉に出来ません。でも反対に、作者は、自分の記憶をありのままに記述しているわけでもありません。でないと、作品は、ただの自伝になってしまいます。もしも自伝が虚構と対立するものならば、の話ですが。小説家は、自分自身の記憶を想像に変えます。そうして物語を記述します。そういうときには、現に物語を記述している作者は、現実の自分の人生にだけ所属しているわけでも、虚構の物語の内部にだけ所属しているわけでもありません。物語を現に記述している作者の前には、現実も虚構も、ひとしく言語化することの可能な対象、操作することの可能な対象として立ち現われてきます。おそらく、このために、『傀儡后』のメインテーマは「皮膚」なのです。仮面にせよ、衣装にせよ、それをまとっている本体からすれば、おしなべて表面的で、交換可能なものです。つまり「たまたま」それを身にまとっているというのに過ぎません。そういう表面性のイメージを押し進めた先に、皮膚というモチーフが現われます。そして、これに類したモチーフは、作中に散りばめられています。たとえば、「コミュ」の子供たちは、「ナマ声」を嫌うという描写があります。どうしてでしょうか。それは、コミュたちにとっては、「つながる」というコミュニケーションの本質だけが大切だからです。「つながる」という本質からすれば、会話も、肌で触れ合うのも、セックスも、たまたまそういう手段でコミュニケーションを取るというのでしかありません。つまり、本質に対する表面性に過ぎないのです。裏を返せば、自然音声は、表面的な手段を介してコミュニケーションを取っているという事実を覆い隠そうとするので――もしくは、覆い隠そうとするからこそ、なおさらに強調するので――コミュたちの生理的な嫌悪の対象になるのだと思います。同じように、「声」という本質からすれば、機器によってさまざまに取り替えることの出来る声色は、すべて表面性です。「人間」という本質からすれば、男だろうと、女だろうと、トランスセクシュアルだろうと、ひとしく表面性です。だとすれば、作者の存在にとっては、現実も虚構も、やはり表面性でしかないのです。しかし、だからこそ、気にかかる点があります。それは、そういう表面性を失えば何もなくなるというイメージ、皮膚をはぎとったところに中身は「存在しない」というイメージこそ、『傀儡后』が繰り返し描いているものだという点です。もし、皮膚の裏に中身がないなら、表面性の背後に本質がないなら、そのとき、作者と物語の関係とはいったいどのようなものでありえるというのでしょう。
『傀儡后』には、「麗腐病」という病気が登場します。そして、この麗腐病者の死体を食すと、その死体の生前の記憶が体感されるという場面が描かれています。おそらく、ここで特記するべきは、記憶の持ち主が死んでいるという点、もしくは、記憶の持ち主が死体であるという点だと思います。今、見かけ上のグロテスクさを度外視してこの風景を考察するならば、記憶、すなわち物語と、その物語を語っている主体とは、「死」という関係で結ばれているという思考が透けて見えるのではないでしょうか。仮にこの推測が正しいとすれば、物語を記述する作者が死ぬ瞬間が、物語の誕生する瞬間です。そして、物語が誕生する瞬間とは、物語が終了する瞬間です。はじまりがあり、中があり、終わりがある。それが、物語です。これは、裏を返せば、物語は「終わり」を迎えるときにはじめて物語となるということを意味します。いえ、それだけでなく、物語のはじまりもまた、物語の終わりと同時にようやく、はじまりとして成立するということさえ意味するのです。物語の統一性は、結末からさかのぼって、回顧的に構成されます。だとすれば、物語とその作者との関係とは、じつは単に一方の記述が終了することで他方が開始するというような関係ですらありえません。なぜなら、物語の起源が回顧的に成立するというのであれば、「作者」の存在もまた同じく事後的に構成されるはずだからです。
すべては「作者」という言葉が何を意味するかにかかっています。はたして、作者という言葉は、物語を記述した特定の実在人物を指し示すのでしょうか。しかし、厳密に言えば、この実在人物は「作者であった人」です。言い換えるなら「すでに作者でない人」です。それでは、作者という言葉は、本来の意味で物語の父であるはずの「物語を現に記述する主体」を指し示すのでしょうか。しかし、彼は、物語が生まれる前にも、物語が生まれた後にも存在しえません。つまり、「物語を現に記述する」という概念自体、じつは自己矛盾をきたしていると言うより他ありません。したがって、残るのは、物語の統一性の裏面に見いだされる作者です。すなわち、「物語に内在する作者」です。ひとたび物語が生まれたあとには、ただこの第三の意味での作者だけが、物語との関係を維持し続けます。しかし、この意味での作者は、何らの実体も、内容も保持しません。なぜなら、この作者の存在は、「物語の起源は物語自体に内在する」という自己回帰の円環以外の何ものをも意味しないからです。したがって、物語とは父なし子です。物語に作者は「いない」のです。物語とは、言うなれば「作者の子ではない息子」です。そこで『傀儡后』を振り返るなら、まさに、「七道貢」と「七道桂男」の関係がこのようなものとして描かれていることに気づかされます。そして、どうか思い出していただきたいのですが、『傀儡后』とは、父の語りから始まって、継子が父を放逐する瞬間に結末を迎える物語なのでした。そう、間違いなく『傀儡后』は、書くことについて徹底的に考え抜いている小説です。
物語は、いつでも結末からさかのぼって意味を獲得します。そのときには、物語の統一性のもとに、それまで語られてきたさまざまな細部のエピソードが回収されます。これは、物語が「終わり」を有することに由来する不可避の出来事です。トートロジカルな言い方ですが、『傀儡后』は、傀儡后のエピソードをもって終了したからこそ、傀儡后の物語になったのです。そして、それが、おそらく「傀儡后がすべての物語を着る=所有する」という物語の結末に込められた意味でもあります。さらにまた、この小説が出版に至るまでの経緯自体が、まさに同じ行程を経ていたのでした。僕が言っているのは、この小説が、SFマガジンで連載していた時期から単行本化された時点までにこうむった変化のことです。
もともとこの小説は、オムニバス形式の連載として、SFマガジンに掲載されていました。そのさいには、オムニバスなのだから当たり前ですけれど、基本的に場面も前後の脈絡も分断されたかたちで毎回のエピソードが書かれていました。言い換えると、物語の謎が解決されないまま放置されて、まったく別の物語へと「続いて」いくことが出来たのでした。しかし、最終エピソードが掲載されて連載が終結した後、Jコレクションから完成した作品として出版されたさいには、連載時には書かれていなかったプロローグが書き足されました。このプロローグは、その内容からして、最終エピソードに呼応するものです。つまり、単行本の出版に合わせて『傀儡后』をリライトするさいに、小説を書いている牧野先生の手つきは、物語が自己の意味を獲得していく(結末が先回りして始点を書き換える)運動をなぞっているのです。しかし、どうしてでしょう。それは、一冊の単行本として出版されるということ自体が、物語が終わりを有するという形式を必然的に決定するからです。オムニバスという形式には、結末は内属していません。確かに、個々のエピソードはそのつど終わります。しかし、仮想上は、そうしたエピソードは、無限に連接していくことが出来ます。つまり、オムニバス形式の連載の終わりに論理上の必然性は無いのです。しかし、出版物としての小説は違います。即物的な意味でも、形式的な意味でも、それには限界があるのです。だからこそ、書くことについての物語である『傀儡后』は、物語が載せられる表現媒体に合わせて、注意深く調整される必要があったはずです。
じっさい、連載形式から単行本へと移行するにあたって、決定的な手直しを施された登場人物がいます。連載時点で存在していた「壬生」という人物が、小説出版時に「涼木王児」という人物に統合、吸収されたのです。その結果、涼木王児は、物語の展開の中で二人分の役割を担わされて、ほとんど内破していると言えるほどに混乱を秘めた人物となりました。しかし、この奇妙な人物についてどんな解釈をするにせよ、それが牧野先生の構想の失敗だとか、気まぐれだということだけは絶対にありえません。反対に、これは、牧野先生の創作理念からして、必然の修正だったと解釈するべきです。重要なのは、牧野先生が、連載時には整合的であった物語の内容を、出版時にはあえて非整合的になるまで崩したという点です。おそらく、涼木王児は、物語の統一性に対する抵抗なのです。回収されざる細部。それが彼です。牧野先生の手つきの意味がこのようなものであるのなら、『傀儡后』の真のもくろみもまた、ここから知られます。つまりは、コミュたちが「ナマ声」を嫌うのと、理屈は同じなのです。物語が整合性を維持している限り、物語の意味は、自然なものとして、はじめからそこにあったものとして、受け取られてしまいます。しかし、それは違います。物語の意味は、つねに事後的に跡づけられるものです。だとすれば、本当に目を向けるべきなのは、物語の謎それ自体で、物語の答えではないのです。
このブログをお読みになっている皆さんならよくご存知のとおり、SFの楽しさというのは、必ずしも、現実の思考問題や物語の未決案件を、あざやかな知性で解明することだけにつきませんよね。書かれていることの意味も内容もまったく理解出来ないのに、めまいがするほど強烈な印象を放つ描写というのは、それ自体ですでに、かけがえのない愉悦です。のみならず、そうした理解未満のものが放つ魅力というのは、往々にして、その意味が理解されると同時に雲散霧消してしまいます。たとえば、『傀儡后』の中には、直接に物語の筋には関係がないのに、奇妙に印象に残る一場面が存在します。そこでは、「何の役にも立たない」ガラクタたちの目録が列挙されています。ためしに少しだけ読み上げてみましょうか。「レンズにカビの生えた反射式望遠鏡。さびたイタリア製の自転車の前輪。青い硝子の浣腸器。アール・デコ調の凝った鳥籠に入れられた水道のメーター。人魚のミイラ。猿の手のミイラ。発泡スチロールの雪だるま。アルミ製の大きなボールに入った数十個のプラスチックの蟹。双頭のカモシカの剥製・・・」。まだまだ続きますが、その興趣を理解するにはこれで充分でしょう。これらのガラクタたちの来歴は、語られることがありません。つまり物語を持たないオブジェたちです。そして、物語を持たないオブジェが美しいことがあるとすれば、それは純粋に自己自身の存在によって美しいのです。つまり、ここに並べられたオブジェは、純粋に言葉によって面白くも美しいのです。
今こそ、物語以前の言葉、意味を未だ持たない純粋に存在するだけの言葉、そしてそうした言葉を現に記述している主体の存在身分に目を向けるときです。先に作者の存在について議論したさいに、「現に記述している作者」というのは、自己矛盾している存在、端的に無内容としか見なせないような存在(あるいは非存在)だと判明したのでした。なぜなら、現に記述している作者とは、物語の地平、つまり意味を有する言葉の地平を超え出つつ、その記述行為によってただ言葉が存在しているという事実だけを「体現」している存在だからです。厳密に言えば、現に言葉を記述する主体と、現に記述されている意味以前の言葉というのは、言語活動が現に存在しているというひとつの事実の表と裏なのです。そして、いずれにしても、意味を保有する言葉を通して表現されることは出来ません。かてて加えて、記述行為と記述対象とが相即しているからには、この記述行為はひとつの自己言及をなしています。ここにおいて、『傀儡后』の中で語られる「街読み」のエピソードの意味が明らかになるはずです。この挿話では、街の風景をテクストとして読み取る能力を持つ人物が、自己の意識を消し去って街と同化していったとき、その最奥で「わたしが……ある」という言葉を目撃する様子が語られます。その描写にしたがうと、自我と世界の境界がほとんど消滅した言語活動の極限地点では、先ず、「わたし……がある」という言葉が、誰が発しているのかわからない空語として経験されます。それが幾度も繰り返された後、この人物は「音」に気づきます。そして、この音が「風の音」だと気づきます。すると、空が見え、月が見え、次々と知覚が開かれていきます。そうして突然、彼は、自分の存在に気づきます。と同時に、「わたしが……いる」とは、自分自身の発語だと自覚するのです。そして、彼は、自己の身体を認識し、最後に自分の名前を思い出します。
このほとんど現象学的な記述の態をなしているエピソードにおいて明らかになるのは、「わたしが……ある」という言表が、無内容の言表から一人称の言表行為にシフトすることで、自己が触発されると同時に自己の身体を知覚するようになるということです。さらにまた、「わたし……がある」という言表が一人称の言表行為へとシフトするという出来事の内部には、「世界を認識する=自己を認識する」という鏡うつしの往復運動が内在しているということです。じっさい、「わたし……がある」と言表するとは、「言表する者が自己を言表している」、「言表している者が言表されている」という自己反照の行為を実践する以外の何ごとでもありません。そしてまた、これは、コミュたちの志向する「つながる」体験、すなわち「触れるとともに触れられる」体験とまったく同一の構造をあらわしています。
このように、「わたし…」と「…がある」との往復を、もしくは、単なる「音」から「意味(風の音)」への移行を可能にするこの原理は、ときとして「声」と呼ばれます。何となれば、まったく無意味としか思えないような音を耳にするのであっても、それが誰かの声だと思うから、その意味を探り出そうとする欲求が芽生えるのです。おそらく、上に掲げた無意味なオブジェについての記述も、そして牧野先生のいわゆる「電波文」も、この観点から理解することが可能なはずです。つまりそれらは、意味をなさない純粋の音韻、文字の羅列、語の遊びとしか思えないようでいて、それでも何らかの声を、つまり耳を傾けて欲しいという欲求をうったえかけている記述なのです。
声とは、だから、何かを言いたいと思うこと、何かを書きたいと思うことです。そして、声の存在というのがこのようなものなら、この「書きたいこと」こそは、取り返しのつかないほど中身の無い空白、けっして書くことのできない純粋の無ということになるでしょう。なぜなら、声の実現、「書きたいこと」の実現というのは、完結した言表、つまり物語の実現である以上、「書きたいこと」の廃棄になるからです。そしてまた、声とはまったく実体ではなくて、ただ単に「わたし…」と「…がある」の分節を、あるいは「音」と「意味」の分節を可能にする否定原理でしかないからです。現に記述する作者の存在身分もまた同じことです。それは、実在の個人という意味での作者と物語に内在するという意味での作者とのはざまにあって、その両者を区別することで連結するような非実体的契機でしかありません。
それが、「函崎アダリ」のエピソードが語ることです。彼には、同じ「コミュ」の仲間で、ミシマという恋人がいました。しかし、アダリは、ミシマとけんか別れをしてしまい、そのために彼女と「つながりたい」というのが以後の彼の行動原理となります。そこで、七道桂男が、ミシマと「つながる」ことの出来る手段としてアダリに提供するのが、「ネイキッド・スキン」です。小説冒頭で語られるとおり「肉体と世界が直接溶け合うための装置」である「ネイキッド・スキン」によって、アダリは、まさしく皮膚を剥かれた状態、つまり「わたし」と「世界」の区別が無化された状態とされます。そのときには、表面的な五感の区別もまた融解して、純粋な共通感覚、つまり純粋な声だけが充満します。そうして、アダリは、世界と、つまりミシマと「ツナガッタ」状態へと到達します。しかし、「ツナガッタ」状態とは、もはや自分と相手の区別が無い状態、つまり、触れるとともに触れられるという経験の中にある分節の構造が無い状態です。したがって、「つながりたい」の実現である「ツナガッタ」とは、もはや「つながりたい」の廃棄でしかありません。だから、「ツナガッタ」とともにアダリは彼の生を終え、中身のない抜け殻としての皮膚だけが、すでに完結した死の物語として、後に残るのです(ゆえに、「つながりたい」と「ツナガッタ」が、一方では現在形と完了形の時制の違いによって、他方ではひらがなの生命感とカタカナの死物感によって対比されているのも偶然ではありません)。
今や、牧野先生が身を置いているのがどれほど矛盾に満ちた場所であるかが、明らかになりました。僕たちが「大阪」を導きの糸としてここまでたどってこれたのは、ひとえに、物語の中に書き込まれたそれを、作者の記憶に関わるものと見なしていたことによります。ところが、物語に書き込まれた記憶とは、つねに作者の記憶ではないものなのです。なぜなら、現在を過去へと繰り入れて保存するという記憶の活動は、ここで言う「声」の言述行為によってはじめて可能になるのであって、その逆ではないからです。つまり、声の記述の不可能性は、そのまま記憶の記述の不可能性なのです。そして、言語活動は、そうした書くことの不可能性を基礎にして成立します。いや、というよりはむしろ、声の言表不可能性というのは、ひとつの完了した言表から回顧して捉えられたものと言った方が正確です。声とは、「書きたいこと」とは、物語の意味が構成されるさいに、意味からとりこぼされて、意味化されなかった残余として、やはり回顧的にのみ思考することの出来るものなのです。そう、ちょうど、アダリをはじめとしてさまざまな人たちの挿話が物語の中途で消えていって、ただひとり傀儡后だけが最後まで残るとともに物語の意味となるというのと類比的です。
だから、「書きたいこと」というのは、いつでも言葉を書きとめるつどに、書けなかったことです。「記憶」というのは、いつでも思い出すつどに、思い出せなかったものです。「わたし」というのは、今・ここにいる自分を自覚するつどに、誰でもない者なのです。それゆえ、完了した言葉の、物語の「内部」にはらまれている「無」というのは、つねに過去に失われたものとして捉え返されることになるでしょう。それが、『傀儡后』の最終章で描かれる光景の意味です。いわく、偏在者は、今・ここに存在する「わたし」として、さまざまな歴史の中の、さまざまな土地に生まれます。そのつど、「わたし」は、生み落とされた瞬間にすでに忘れている子供として生を受けるのです。そして、「失った世界を哀れむかのように」産声をあげるのです。
この小説がみごとに描いているとおり、物語は、存在しなかった世界への喪失感を、満たされないノスタルジーを内部に抱えています。このノスタルジーが、書くことを可能にします。しかし、その反対に、書くことでこのノスタルジーが満たされるということは、絶対にありえません。でも、この中身の無いノスタルジーを主題にして物語を書くことは出来ます。言語の意味に抵抗して、せめてぎりぎりまで空転させられた言葉をつづることが出来るように。だから、もしこういう言い方を許していただけるなら、『傀儡后』というのは、きっと、そういう今・ここに生きている「わたし」をめぐって書かれた小説です。大阪SF? まさにそのとおりです。これほど斯様に真摯な思考を、大阪に託して書かれた小説なのですから。それはつまり、今このブログの連載で取り上げられている作品たちのひとつひとつが、東京に対して、やはり他に換えられない思いを抱きながら書かれたのとまったく同じことなのです。(横道仁志)
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大阪SF大全
2010-04-01T04:39:00+09:00
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緊急:サーバーエラーのお知らせ
こんにちは。TOKON実行委員の藤田です。東京SF大全もおかげさまで4ヶ月が過ぎ、それなりになじんでまいりました。馴染むと慣れる、慣れるとダレるのは世の常でございます。しかも本日は4月1日、1年で一番常識が通用しない日でございます。
この日に乗じて、...
この日に乗じて、これまで酷使されてきたTの字がストライキを起こしました。「もう先頭にいるのは飽きた!これからしばし隠遁する!」かくしてTが消えました。え、するとどうなるんでしょう。その後に続くのはOでございます。O、どうしましょう。
「しゃあない。きょう一日はOKONや」
え、OKONですか。大牟田ですか。
「なんでやねん!普通O言うたら決まっとるやろ」
えーでもですね。我々の業界では、普通Tの次に来る大都市にはOじゃなくてDを充てるんです。
「知るか!いまさらどないもならんやろ。それとも何か。君は大牟田で一日乗り切れるんか?」
う…
「ほな行くで、きょう一日限定、大崎SF特集や!」
乗り切れるかぁぁっっ!!
(しばらくお待ちください)
プルルル・・・
ガチャ。
あ、はい。もしもし。ああ、おつかれです。どうも高槻です。藤田さんおひさしぶり。あ、はいはい。ええ、別に忙しくはないですが。
え、緊急事態?はあ。そりゃあ大変ですねえ。岡和田さんと藤田さんのヤヲイ同人誌のディーラーズ出店申請が出たと。そうですかーいつか出るとは思ってたんですが・・・は?違う。すいません。じゃあやっぱり礒部さんと山岸さんの・・・
いや。すいません、すいません。悪気はないんです。で、何です。はあ、Oがですか。自分は大崎SF大会やと思い込んでてラチがあかんと。ああ、ええですよ。説得したらええんですね?
「来たで」
早っ!なんでそない早いの。
「なんでもなにも、オレは言葉やし。早さなんかあるかい」
そういうとこだけ妙にこだわるねんもんなあ。そもそも言葉言葉言うてるあんたのしゃべくりが思い切り関西ですやん
「オレ・・・外見は大阪やけど心が大崎やねん。こういう場合は心に合わせて外見を変えるんが筋と違うか?」
なんでそないに大崎にこだわるかなーまあ、そう焦らんと。カウンセリングどうよ?これからうちのメンツが大阪を舞台にしたSFの話を4つほどするから。ひょっとしたら最後には大阪の方がええなあと思えるかもしれんやん?
ああ、みなさん準備よろしいですか?はいはい。ほなはじまりはじまり・・・
(高槻真樹)
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大阪SF大全
2010-04-01T02:07:04+09:00
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http://blog.tokon10.net/?eid=1033238
特別掲載:東京SF論『メガテンの記憶』
今回の東京SF論は、コンシューマーゲームを中心にマルチな展開を見せる『真・女神転生』(スーパーファミコンソフトほか、アトラス、1992)を取り扱います。
言うまでもなく『女神転生』シリーズは、ゲームというジャンルにおいて、東京SFのコアへ最も接近した作品の...
言うまでもなく『女神転生』シリーズは、ゲームというジャンルにおいて、東京SFのコアへ最も接近した作品の一つであると言えるでしょう。
その本質へ少しでも迫っていくため、まずは、『女神転生』シリーズに深く関わり、『女神転生?』、『真・女神転生』、『偽典・女神転生』のメイン・シナリオライティングを担当された鈴木大司教こと鈴木一也様にお願いして、『女神転生』についての文章を書いていただきました。
なお、鈴木一也様は過去、SF大会にゲストで招かれたこともあるほどSFに対しても理解が深いのですが、創作への情熱がほとばしるこの文章を目にすれば、東京というダンジョンを表現する鈴木一也様の視点が、まさしくSFにほかならないことがわかるでしょう。
メガテンの記憶
ゲームクリエイター 鈴木一也
≪メガテン前夜≫
『デジタルデビルストーリー―女神転生―』は、小説家西谷史(にしたにあや)先生のデビュー作であった。西谷先生が小説家として身を立てようとする動機を与えたのが、ラブクラフト作品だと伺ったことがある。メガテンというRPG界の妖花は、実はこうしたところに最初の根を張っていたのである。
この作品が発表された当時、伝奇モノと云われるバイオレンスとセックスとクリーチャーの盛り合わせが流行していたのだが、『デジタルデビルストーリー』は、そのラノベ版であったと云えるだろう。ラノベというジャンルも、ちょうどそのころから台頭していくのである。
1980年代の終わり、ファミコンソフトを出せばミリオンヒットという黄金期はすでに終わっていた。そんな時代に『女神転生』は、メディアミックス展開によって新たに売り出されることになった。今は亡き名プロデューサー井上堯氏が三面六臂の働きをして、OVA、MS−X版ゲームソフト、ファミコンソフトと同時展開させ、メガテンの歴史を始めるのである。
一方当時のアトラスは、マンションオフィスの小さな会社だった。飯田橋駅ビルにある都営住宅の2部屋を借り、開発を始めて1年経たぬ頃に私が入社した。このオフィスは、のちに住宅地に会社が入っているという朝日新聞の告発によって撤退を余儀なくされるのだが……。
入社当時『女神転生』はすでに企画が進んでおり、私の上司であったMr.Booこと上田氏がその開発責任者であった。彼はパソコン版の『ウィザードリィ』にはまっており、私とすごく話が合った。まだまだRPGには理解が少なく、当時のSEGA社長などはRPGなど絶対に流行らないと断言していたほどだ。
メガテンの企画はウィズにとても似た3DダンジョンRPGになっていた。しかしこれではマズイだろうということになり、新入社員であった私にもアイデアを出せと云うことになったのである。
そこで、まず「悪魔を仲間に出来るのはどうか?」という提案をした。
私が初めてRPGをプレイしたときのことだ。それは『D&D』だったのだが、当時RPGといえば、今で言うTRPGのことである。
旅の途上、パーティーの前に現われたゴブリンに対し、私は交渉して味方になって貰おうとした。マスターいわく「そんなルールはない」であった。私は大いに不満に感じたことを覚えている。
この敵を味方にしようというのは、実に日本的発想ではないかと思っている。世界中にチェスを起源としたゲームは普及しているが、取った駒を味方にして使えるのは日本の将棋だけである。
戦争と云えば殲滅戦であり、異民族との戦いであって、負けた民は殺されるか奴隷となるという世界的な認識に対して、日本の戦争というのは所詮は内戦でしかなかったという歴史的背景がある。世界の城といえば、町ごと囲う城塞都市が基本なのはこのためだ。
今でこそ海外のゲームにもテイマーは定番だが、当時敵を仲間にするゲームは私の知る限り、野菜がモンスターとして出現する日本のマイナーなパソコンゲームしかなかった。このゲーム、野菜を仲間にもするし、倒した野菜を食べてHPを回復するという野菜なのに肉食系の異色ゲームであった。仲間にした野菜と同じ野菜を食うと、「ボクのなかまを食うなんて〜」と泣きながら野菜が去っていくというちょっぴり心温まる作品だった。
というわけで、当時としては斬新なこの案は採用されることになった。悪魔との対話システムは私の担当となった。
しかしMr.Booはこれだけで満足をしなかった。もう一捻りこのアイデアを面白くさせろと私に命じたのである。
そこで私は三日考えて「合体」のシステムを提案した。これはもちろん永井豪先生の『デビルマン』がアイデアの素になっている。悪魔なら合体! ということだ。
アイデアは採用され、メガテンをメガテンたらしめた悪魔合体システムが誕生することになった。
私は悪魔会話や合体のシステムの他、魔法や武器などの設定や、悪魔の設定、悪魔種族の分類を任された。この頃はダンジョンの設計やシナリオには関わっていなかったのである。
女悪魔を多く出し、しかもできるだけ裸体に近いもので出すことも注文した。
当時のゲームで女の敵キャラが出ることは希であった。
こうした発想もまた、豪先生や伝奇小説から頂いているわけだ。
≪そして?へ≫
1987年9月『女神転生』はナムコから発売された。
発売本数はナムコ作品としては大したものではなかったが、熱烈なファンをその頃から獲得し始めていた。しかし、?の制作がすぐに決まらなかったのは、こうした売り上げの低さが原因だった。ナムコに柘植さんという広報担当の方がいて、彼を中心に社内でメガテンファンが誕生していた。彼らが上層部に強く?を出すようにプッシュしてくれ、それがようやく実現化したのだった。
『女神転生?』では、シナリオをすべて任せてもらえた。もともとの『デジタルデビルストーリー』にあるように、舞台を現実世界、東京に広げた。ファミコンとして現実世界を舞台にしたRPGは初めてだったかも知れない。当時RPGとはファンタジー世界に限られていたからだ。
内容はさらに過激になり、宗教色も強くなった。
悪魔のデザインに金子一馬が入り、世界はより魅力的になってゆく。女悪魔もよりセクシャルに。サウンドもよりハードロックに。
そして裏技なのだが、このゲームでは本来正義である「神」に逆らい、悪魔側について、造物主Y.H.V.H.を倒すことを可能にしたのだ。
この絶対的正義はないという私の主張は、多くのユーザーから共感を得られたのではないだろうか。
このテーマが受け入れられたのは、当時日本にとって世界的正義の価値基準であるアメリカ、その民主主義に対して日本人が疑問を感じ始めていたことが背景にあると考えている。この主張は『真・女神転生』でさらに明確化していく。
(それから十余年の月日が流れ、『スターウォーズ・エピソード?』の中で「民主主義を守るため」との主張が繰り返し強調される陳腐さに、私は心底うんざりさせられたというのを蛇足として付け加えておこう)
≪多くの偶然の重なり≫
当時ナムコ以外の会社からこの作品を発表しようとしたら、間違いなく任天堂のチェックで弾かれていたことだろう。全裸の女悪魔や、宗教的なテーマやシンボル、暴力的な描写など、任天堂規定では認められないものだらけだ。しかし、ナムコは独立したファミコン生産ラインを持つ数少ない企業だったのだ。そしてそれが任天堂チェックを免れる絶対条件でもあったのだ。
『真・女神転生』では、『女神転生?』の実績があって、メガテンはその独自世界がウリなのだから仕方ない、という諦めがあって承認された。
『女神転生?』を出さないという決定も、ナムコ作品としては売上本数が多くないという理由からである。これ幸いと、アトラスは独自に『真・女神転生』を作ることをナムコになし崩し的に認めさせる。ナムコの営業や広報は、社の決定を非常に悔やんだそうだ。
こうした様々な事の重なり。そして『デジタルデビルストーリー』の西谷先生の小説家デビューから続くさまざまな偶然。
私がアトラスに私が入社したのも、ちょっとした偶然の重なりによるものだ。父と喧嘩してそのゲーム会社飛び出したあと、私はふつうのIT会社に就職し、しばらくSEとして働いていたのだが、そのときの同僚で悪友だった大町という男が、会社を辞めてたまたま求人のあったアトラスに入社し、そしてすぐに私のことを呼んでくれたのだ。大町は私がもともとゲーム畑であったのを知って、彼自身ゲームに興味を持ったわけだ。
私が父と喧嘩をしなければ……IT会社で大町に出会わなければ……そのIT会社の社長がヤンキー上がりのDQNばかり可愛がる茨城出身足立区在住じゃなければ……そして大町が「リクルート」12月号を手に取らなければ……合体も仲魔システムもそこでは誕生しなかったろう。『女神転生』も『ディープダンジョン』と同じように、忘れ去られたファミコンRPGのひとつとなったかも知れない。
しかしこうして思い返してゆくと、結局単なる偶然の重なりではなく、この作品が世に出るために、さまざまに用意された必然があったのではないかと、考えさせられるのである。
それこそこの偶然は悪魔が仕組んだ筋書きであったかも知れない。そしてメガテンの作品群は、世界をナナメから見る少年少女たちに、ひとつの銀の鍵をそっと与えることになるのだ。
≪真の世界へ≫
『真・女神転生』は現実社会が悪魔の介入によって崩壊していく世界を描いて行く。舞台は東京。物語は吉祥寺から始まる。
何故吉祥寺かと云えば、私がこよなく愛した街だったというのもあるが、さまざまな点で“揃っていた”というのが本当の答えだ。
まず郊外のまとまった街であること。いきなり都心が舞台では広すぎるのだ。ゲームの最初は一定にくくられる空間が欲しかったのだ。
そして枝分かれしたアーケード街。これがダンジョンに見立てられる。中野や武蔵小山では、このアーケードがほぼ一本道で面白みがない。
さらにエコービルという謎の駅ビルがあった。吉祥寺という大きな街の駅ビルなのに十年くらいテナントが入らず、何か出るのだと云う噂の曰く付きの建物だった。たしか地下だったか、ゲームセンターだけが営業していたが、しばしば謎の機械トラブルが生じていた。後に「ゆざわや」が入るのだが、異様に天井の照明が多く、店内は目に痛いくらい眩しい。まるで僅かでも闇が侵入するのを怖れるかのようだ。
JR吉祥寺駅自体、飛び込み自殺の多いヤバイ場所で、ある体験談によると、ホームから線路に腕を引っ張られたという話もあるほどだ。
一方井の頭公園という自然エリアもあり、さらには動物園や植物園まである。実はこの井の頭公園というのも、心霊スポットとして知る人ぞ知る霊地なのである。
当初は井の頭動植物園をPCが探索し、怪異を探るというエピソードがあった。動物に悪魔が憑依合体して街を襲うというプロットだったのだが、ROM容量が無いということでプログラムリーダーの岡田氏に却下されたのであった。
そして、ここで初めてライト/ダークにロウ/カオス属性が加わるのだが、TRPGの『ストームブリンガー』からの頂き物であるのは知っている方はご存じだろう。ロウとカオスは、『ストームブリンガー』が表現しようとしたマイケル・ムアッコックの世界から来ているのだ。
プレイヤーは最初ロウ側の主張を聞いて行動するが、自分がどうするのかを判断して行動する。この正義の価値をプレイヤー自らが決められるのも、メガテンならではである。
≪東京ダンジョン≫
私は東京というダンジョンが好きだ。
昔は目的も無く街を歩き、建築家の夢と妥協の産物である都市計画の構造や、無計画に広がった地下道を興味深く探索したものだ。
『真・女神転生』は私にとって、愛する東京ダンジョンを皆に伝導する場でもあった。 スーパーファミコンというハードの表現力の限界はあったが、出来るだけそれを伝えようと努めた。
こうした東京好きの背景にはもちろん、菊池秀幸の『魔界都市新宿』や荒俣宏の『帝都物語』、さらには栗本薫の『魔界水滸伝』が流れている。
しかし東京という街の持つ猥雑な魅力は、どうしてもスーファミでは表現しきれなかった部分である。
『真・女神転生2』や『真・女神転生・・・if』では、私はシナリオ担当から外れた。これらの作品が東京という都市から離れているのは、東京ダンジョンにこだわらない開発者がシナリオを担当したというのもある。
完全にアトラスとは別ラインで作ったパソコン版メガテンの『偽典・女神転生』では、実際に東京の地下道を取材し、使える構造はそのままダンジョン構造に活かしたりもした。ここにおいて、東京は再び壮大なダンジョンと化したのである。しかし、未だ私の望む廃墟の美までは描ききれてはいなかった。それを作るには、相当なる資金と時間が必要とされるのだ。
今現在『真・女神転生IMAGINE』の新しいシナリオを担当させて貰っている。
この世界は私が作ったメガテンを愛する者たちが作ったといえるだろう。
ここには東京ダンジョンがある。そして廃墟もまた。
私の伝導は事を成したのであった。
そして再び私がこの世界に舞い戻ってきたわけである。
さらなる怪しの街を私は渋谷の地下と池袋に求めた。
これらは奇しくも私がゲームに関わり長く事務所を置いた場所である。池袋は父銀一郎と黒田幸弘氏が作ったレックカンパニーというウォーシミュレーションのゲーム開発会社があった。そこで私はゲームのノウハウを身に付けつつ、空いた時間にはサンシャインシティの謎を探索した。
渋谷は私が会社を起し13年間根付いた場所で、東京でも屈指の街ごと霊的スポットとなっている特殊な場所だ。
今までとはまた違った、新生IMAGINEの東京ダンジョンが今年誕生する。
オンラインゲームの魅力は、こうして世界がだんだんと広がって行くことにもある。
メガテンという悪魔は、今も我々のすぐ隣で息づいていて、存在の拡張を続けていくのだ。
最後にちょっとだけ宣伝をさせて貰いたいのだが『真・女神転生』とはまた別の私の世界、『新世黙示録 Death March』がザウスから発表される。
これは東京でもずっと郊外の団地が舞台になっている。団地もまた、私がダンジョンに見立てる建造物なのだ。
18禁ゲームと云うこともあって、ここではさらに“やってはいけないこと!”をたくさん盛り込んでいる。日常の惰眠がお嫌いな方には、是非とも「瞠目して待て!」とお伝えしたい。(鈴木一也)
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東京SF論
2010-03-31T06:32:29+09:00
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http://blog.tokon10.net/?eid=1033236
特別掲載:東京SF論『真・女神転生』をめぐる外挿法(エクストラポレーション)の射程
引き続いて、岡和田晃による『真・女神転生』論をご覧ください。
『真・女神転生』をめぐる外挿法(エクストラポレーション)の射程
岡和田晃
本論考では、今や一大産業と化した感のある『女神転生』シリ...
『真・女神転生』をめぐる外挿法(エクストラポレーション)の射程
岡和田晃
本論考では、今や一大産業と化した感のある『女神転生』シリーズの中でも、人口に膾炙し、かつ尖鋭的なシナリオと練りこまれたゲーム性によって、名実ともにシリーズを代表する傑作との評価を崩さない『真・女神転生』と、同タイトルが体現したSF的想像力について、主に、SFの重要な技巧である外挿法をめぐる形で論じていく。
●空無化された境界
「メガテンの記憶」において鈴木一也は、『女神転生』シリーズの出発点を、西谷史の小説『デジタル・デビル・ストーリー』が体現したような、「伝奇モノと云われるバイオレンスとセックスとクリーチャーの盛り合わせ」に置いている。加えて鈴木は西谷の小説を、ライトノベルの最初期の作品として位置付けている。
伝奇小説が有したいわゆる偽史的想像力と、その想像力が表象する戦後日本の時代精神が、いかにしてライトノベルに流れ込んだのかということについては、たとえば笠井潔が「山人と偽史の想像力」、「「リアル」の変容と境界の空無化」などにおいて、戦後日本の思想史的な系譜学を踏まえたうえで精緻な考察を行っている。
笠井は、おそらく西谷の諸作品もそのカテゴリーに収められることになるだろう八〇年代の伝奇小説を、山口昌男の文化人類学に見られるような、周縁、日常に対する非日常の境界を明確化した作品だと位置づけた。そのうえで笠井は、「いまや(引用者註:発表時は二〇〇四年)探究されるべきは、境界論的な境界ではなく空無化された境界」だと明言している。
しかしながら振り返ってみると、空無化された境界の果てに待ち受けていたものは、人間と世界とを媒介する社会が完全に消滅した圧倒的な真空にほかならかった。
むろん、そこにも可能性は宿りうるが、批評的言説の多くは、空無化された境界を成立させた位相と、世界と自己とを媒介する中間領域が消滅した状況下において中間領域に代わるオルタナティヴな想像力がいかにして可能になるのか、という問題意識を欠いてしまっていた。
そのため、「空無化された境界」をめぐるフィクションや、フィクションをめぐる言説の多くは――個々の自意識の中で当て所なく自涜を続けるような――ひどく貧しいものへと堕してしまった部分が、確実にある。
そうした実例の一つとしては、福嶋亮大の「セカイ系評論と決断主義」が挙げられる。同論考において福嶋は「どのみち、今の日本では「物語」の選択はほとんど任意的・趣味的なものとなっている。」と乱暴に要約し、個々のフィクションの担い手の特性を捨象して「物語性や思想性を放棄し、崇高のイメージで一発キメている作家」と一括りにする。
そして彼は、真空の内部で苦闘する想像力の位相を、すべからく空無化された状況に寄り添う「美やアイロニーと一体化すロマン主義者」として片付けようとしている。
もちろん福嶋の発言はあくまでも事例の一つにすぎず、そこのみを批判するつもりはない(ついでに言えば福嶋の批判対象には筆者自身も含まれているが、この場を借りて個人的な攻撃を行なうつもりもない)。
しかし、かような個々の想像力の間に横たわる差異を暴力的に消滅させようとする類の短絡的な姿勢がもたらす閉塞的な状況に対し、打開のすべを模索が可能な想像力のあり方を模索することが、フィクション、ひいては表現全般の言説をめぐる喫緊の問題として立ち上がっていることは言を俟たない。
そのためには笠井の言う「空無化された境界」を、SFの形で考察し直す必要があるだろう。
●和製サイバーパンクの異端児
そもそも西谷自身の小説にせよ、『神々の血脈』や『東京SHADOW』のページを改めて繰りなおすと、ライトノベルと言う言葉から私たちがまま連想しがちな、煩瑣な萌え記号の充溢からは縁遠い、圧倒的な豊饒さへ直面することに気がつかされる。
むろん、伝奇小説やライトノベルの中にも優れた作品は多数、存在している。ここでは両方のジャンルにまたがる佳作として望月守宮の『無貌伝』シリーズを提示しておきたいが、一方で、かつての西谷作品に書かれてきたような豊穣さにもまた、焦点が当てられてしかるべきだろう。
確かに、『女神転生』シリーズは、バブル経済に代表される80年代という稀に見る「ゆたかな社会」をそのまま反映しているようにも見える。
しかしながら見落としてはならないのは、西谷の小説が基盤としたような、コンピュータ・サイエンスと魔術理論を融合させ、悪魔召喚プログラムを開発した高校生が日本神話の神々とともに、堕天使や悪魔と戦うという構図は、必ずしも伝奇が「ゆたかな社会」を表象してきたというだけではなく、むしろSF的な外挿法(エクストラポレーション)を前提としているところ大きいことだ。
かつて、コンピュータ・テクノロジーの進化を軸に、SFやゲームが、メディアと文化、そして社会をラディカルに変革するという熱気が投影されていた時代があった。
SFにおけるその成果は、なんといってもサイバーパンクである。サイバーパンクは単なる文学的な流行り廃りではまったくなく、芸術ジャンルの内部運動を経て、芸術作品を通してもたらされた現実認識の異化作用という効果までもを刷新しようとしたラディカルな運動だった。
現に、サイバーパンクの旗手であったウィリアム・ギブスンは、ロジャー・ゼラズニイやJ・G・バラードといったSFにおける先達や、ウィリアム・バロウズのよ旧来の文学観からするとまさしく異端的な書き手から、積極的に方法を吸収していた。こうしたサイバーパンクの熱気は、巽孝之の『サイバーパンク・アメリカ』へ克明に記録されている。
運動としてのサイバーパンクは、やがて90年代に入り、「サイバーパンク党」の「書記長」として振る舞ったブルース・スターリングが「80年代サイバーパンク終結宣言」を描いて自ら引導を渡すこととなった。そして、サイバーパンクとして認知された作家たちは、もはや特定のラベルに囚われることのない、各々の構築した領域へとその仕事を進めていくことになる。
しかしながら、アメリカのサイバーパンクがもたらした成果は遠く日本においても浸透を見せた。その収穫の一つに、柾悟郎の『ヴィーナス・シティ』を挙げることができる。2010年の私たちから見ると、『ヴィーナス・シティ』が描き出したヴィジョンのうち、もはや色褪せているようにも見える部分は少なくない。身体改造、通信方法の転換などは、私たちにとってはもはや何も目新しいものに見えず、かえって「東京おたくランド」なるグロテスクなカリカチュアそのものが強調されてしまったような皮肉な情勢さえうかがえる。
だが『ヴィーナス・シティ』に充溢している、サイバーパンク精神を全身で呼吸しているという軽やかな息吹は他に替えがたいものであり、その一点において『ヴィーナス・シティ』は今でも読むに値する作品となっている。そして『ヴィーナス・シティ』と同年に発表された『真・女神転生』もまた、和製サイバーパンクの傑作として理解することが可能だと言える。
そもそもサイバーパンクとは、ダナ・ハラウェイの『サイボーグ宣言』、ルーディ・ラッカーの『ソフトウェア』、そして何よりもスターリングが編んだアンソロジー『ミラーシェード』、そしてラリィ・マキャフリィの『アヴァン・ポップ』に顕著なように、人間と機械、性と生、実在と情報といったような相反する要素がただ対立するのではなく、相互浸透と止揚の過程を経たうえで、いまだ誰も見たことがないフロンティアを希求しようとした運動だった。
はからずしも『ヴィーナス・シティ』と同年に発表された『真・女神転生』は、こうしたサイバーパンク的な二項対立を、科学とオカルティズムの止揚という形で、そして何よりも、ゲームをプレイするユーザー自身が完成させる双方向的な物語として提示したと言ってよいだろう。
●属性(アラインメント)とポストヒューマニズム
『真・女神転生』の世界は二元論の世界だ。そこに生きる者たちは、ロウ(秩序)と混沌(カオス)、ライト(光)とダーク(闇)という属性(アラインメント)を初めから帯びさせられることになっている。
主人公は当初は中立(ニュートラル)からゲームを開始するが、面白いのは、中立の主人公は多くの場合、属性間の天秤を揺らすことなく、ゲーム内でのクエストを数多くこなすことで、徐々に特定の属性へ傾斜していくことになる(中立のままでエンディングを迎えることもまた可能だが、それは最も難しい選択肢となっている)。
鈴木一也が「メガテンの記憶」で言うとおり、この属性システムは明らかにマイクル・ムアコックの創造した「エターナル・チャンピオン」シリーズの宇宙観に基づいている。
会話型(いわゆるテーブルトーク)RPGの『ストームブリンガー』は、ムアコック作品の背景世界を丹念に慫慂し、体系的なルールメカニズムとワールドセッティングを提示したものだった。ニューウェーヴSFの洗礼を受けたヒロイック・ファンタジーの鬼っ子としてのムアコックの精神が、国産サイバーパンクの異端児としての『真・女神転生』の独自性に確かな花を添えているとはまた痛快な話だが、それ以上に、この属性という概念が『真・女神転生』が紡ぐ物語を、日本という狭い世界に留まらない、ジャンルとしての特質を活かした広がりを与えている。
『真・女神転生』の世界で生きるためには、誰もが何らか属性の内に身を置かねばならない。それはイデオロギーというよりも、イデオロギーを成立させる前提となる共同体の理念型、ひいては一種の身分と国籍の獲得に近いものがあると考えられる。
『真・女神転生』は、鈴木一也がシナリオ・ライティングに携わった前作『女神転生?』に続いて――M・ウォルター・ミラー・ジュニアの『黙示録三一七四年』、ロジャー・ゼラズニイの『地獄のハイウェイ』、アシモフ&シルヴァーバーグの『夜来る(長篇版)』、さらには『ダンジョンズ&ドラゴンズ』のワールド・セッティング“Dark Sun”といった系譜に連なる――いわゆるポスト・ホロコースト的な暴力性を全面に押し出している。
『真・女神転生』において、いわゆるクリーチャーは、天使や精霊といった存在をもそっくり含めて悪魔と呼称される。キャラクターは銃器や魔術をもって、彼らと対峙し、時にはコミュニケーションを図って仲魔にし、その力を自らの糧としていくことになる。
こうした舞台装置の上でプレイヤーが演じることになる主人公は、直面する選択肢の多くは、人間性の根本的な原理を問い直させられるようなものばかりだ。そしてその最たるものは、物語のクライマックスにおいて、主人公は自らと属性を異にする友を殺さねばならないという点だろう。
友の一人は、主人公のために命を投げ出し、秩序の原理を体現したロウヒーローとして、東京にカテドラルを建築しようと死力を尽くす。
対して、飽くなき力を求める友は、悪魔と自らの力を融合させ、混沌の原理を体現したカオスヒーローとして、己の欲望を最大限に増幅させ、それを力へと転化させようとする。いずれの属性を進むにせよ、彼らのどちらかとは対立を免れることはできない。
サイバーパンク作品の多くは、テクノロジーの果てに、旧来の人間性とは異なる圏域へと到達する、いわばポスト・ヒューマニズムを夢見るが、『真・女神転生』は、それを、かつて八百万の神々が支配した日本独自の精神性へと再帰させたところに大きな特徴があると言ってよいだろう。
プレイヤーが成り代わる主人公は特定の属性を選択し、他の属性と戦わねばならないが、属性を選択しない道を選んだのであれば、他のあらゆる属性を敵に回さざるをえないのだ。そう考えれば、『真・女神転生』における中立という属性は、さながら存在論的な様相をも呈するものであり、加えて、和製サイバーパンクの異端児としての『真・女神転生』の独自性を裏側から指し示してもいるものだと言うことができる。
●双方向性と拡張する神話
『真・女神転生』の発表の翌年、鈴木一也は『真・女神転生RPG』という会話型RPGを発表している。
これは『真・女神転生』の世界観を統制しているブラック・ボックスを、ユーザーが自在に活用できるように公開しつつ、ユーザー独自の色付けを加えていくことで、ユーザー自らその枠組みに従いながら、自分だけの物語を創造し、友人とともに体感できるように工夫された作品であった。
そこでは、『真・女神転生』に登場したダヌー神族(ダーナ神族)などの西洋・東洋の垣根を越えた各種神族の設定、ヴードゥーやマントラへ至る魔術の設定、ひいては真言立川流からオウム真理教さえもが含まれるカルト集団までもがデータ化されて紹介されていた。そのこだわりはある意味において、『真・女神転生』の世界を補完する役割を担っていたと言ってよいだろう。
そしてユーザーはそれを受け止めた。例えば筆者の私淑する人物は、『真・女神転生RPG』の枠組みを用いて、さながら諸星大二郎の劇画にも相通じるような、天津神族と国津神族との対立にインド系の神々の侵略や、国津神族と姻戚関係にあるとされるヘブライ神族が介入する様が、『竹取物語』など日本の古典文学へと表象されるという壮大な物語を創造していた。
こうした事例は、商業的な現場にあまり表出されることはないのかもしれないが、ユーザー間に『真・女神転生』を母体にした物語が確かに引き継がれてきたということを意味している。かような姿勢は『真・女神転生』の二次創作と捉えるよりも、『真・女神転生』を核に据えたサーガが、各々のユーザーによっても創造され続けてきたということを証し出すものとして理解すべきだろう。
会話型RPGのルールシステムの系譜としては、『真・女神転生RPG』は、「スワップ・ダイス」という確率論の暴力をユーザーの介入によって逆用するという画期的なシステムの特徴性のみがまま着目される。しかし総体としての『真・女神転生RPG』のグランドデザインが、和製サイバーパンクとしてのサーガを広範なユーザーへ切り拓いてきたことは、もっと注目されてよい。
1993年時の発表から現在に至るまで、そうしたサーガが語り続けられていることは、『真・女神転生?RPG 誕生篇』から、『真・女神転生TRPG 魔都東京200X』へと至るRPGデザイナー/ライターの朱鷺田佑介がデザインを手がけた『真・女神転生』の世界観を軸にした会話型RPG群が一貫して高い評価を受けてきたことでも裏付けられている。
そして鈴木一也自身も、『真・女神転生RPG』のルールメカニズムを用いた大作パソコンゲーム『偽典・女神転生』を世に問うことになった。『偽典・女神転生』は、『真・女神転生』と並んでゲームというメディアにおける和製サイバーパンクにして「東京SF」の傑作『トーキョーN◎VA』第2版を発表することとなった健部伸明らがノベライズを手掛けていたが、『真・女神転生』の熱気は、常にその設計図を描いたものたちをも巻き込みながら、螺旋的に拡大と発展を続けてきたというわけだ。
『偽典・女神転生』は何よりも、国産コンシューマーゲームの枠組みの限界に迫った宗教性の根源を追究したシナリオと斬新な演出によって知られており、ゲーム畑のみならず文芸的な側面からの再評価が待たれるが、「メガテンの記憶」によれば同じPCゲームというフォーマットで鈴木一也は『新世黙示録 Death March』を発表する予定であるという。
そもそも『新世黙示録』は、『真・女神転生RPG』に続いて鈴木がデザインした会話型RPGのタイトルを踏襲しており、おそらくは設定のいくらかは近似的な関係にあるものと推測される。その会話型RPG版『新世黙示録』においては、『真・女神転生RPG』に記されていた設定がさらに濃密なものとして膨らまされたうえで、独特の行為判定システムを軸に再考されていた。
現在、会話型RPG版『新世黙示録』そのものも第2版が準備中であるということだが、こうした一連の作品が、世界各地に散らばった数々の神話・伝承の類を『真・女神転生』というフレームのもとへ外挿させ、ひいては『女神転生』シリーズが構成する壮大なサーガへ新たな一ページを加えようとしていることはまさしく疑いがないだろう。
●三島問題と東京ダンジョン
『女神転生』シリーズに大きな影響を受けたという樺山三英は、『女神転生』のシステムが下敷きにしている『ウィザードリィ』を「ある種そぎ落とされたシステムの世界」としたうえで、『女神転生』を「極端に誇大妄想的に膨れ上がった世界」と対峙させている(「ハムレット・スリップストリーム」)。
この「誇大妄想的に膨れ上がった世界」という樺山の賛辞は、『真・女神転生』シリーズが扱う神話が、外挿の経緯を経るだけではなく、内側からも照応されうるということをも示唆していると受け取ることができる。
そもそもゲームというジャンルで表現される物語は、現実世界と直接の照応関係を持たないと、往々にしてその価値が不当に低く見積もられてきた。
そのためか、『真・女神転生』は、神話的な物語の根幹に、戦後日本が抱えた文学的事件をまま背景としていることは、ほとんど語られてこなかった。
『真・女神転生』は吉祥寺に始まり、半ば廃墟と化した東京をぐるりと一周していくことで、廃墟と化した東京の相貌を浮き彫りにし、そこに暮らす人間と、超越者たちとの関わりを可視化させていく話であるが、東京がかような崩壊の憂き目を見るのは、アメリカによってI.C.B.M.(大陸間弾道ミサイル)が撃ち込まれたという、いわば終末戦争(ハルマゲドン)的な情景が、物語の半ばで体現されてしまったからにほかならない。その際に核になるのが、三島(由紀夫)問題である。
『真・女神転生』における三島問題は、ゴトウと呼ばれる、明らかに三島をモデルとした人物を介して語られる。彼は、世紀末日本の行く末を憂うがため、八百万の古き神々、すなわち悪魔たちと契約を結びクーデターを決行する。そして彼は「イチガヤ」の自衛隊基地を占拠し、東京へ戒厳令を敷くのである。
プレイヤーはゴトウへ接触し、ゴトウと敵対するアメリカ合衆国大使トールマン(史上、核兵器を使用した唯一の大統領であるトルーマン大統領のもじり)の殺害を依頼してくるが、対するトールマンはトールマンで、プレイヤーへゴトウを殺すように命じてくる。
ゲーム内において、ゴトウを殺すと「属性」をローに、トールマンを選ぶと「属性」がカオスへと進む重要なフックとなるイベントであるが、真に重要なのは、このゴトウの事件を契機として、東京へアメリカからI.C.B.M.が撃ち込まれてしまうことにある。トールマンの正体が雷神トールであり、物語世界へ破滅をもたらす神話的な位置づけをも与えられているることをも勘案すると、この事件はなかなかに示唆的で、かつ『真・女神転生』を一種の「戦後文学」として見ようとする眼差しを私たちへと与えるだろう。
大江健三郎は、同時代を生きた文学者としての立場から、三島由紀夫がその人生の最期の日に市ヶ谷駐屯地へ押し入ったことを次のように述べている。少々長くなるが、同時代を体感した文学者の貴重な証言として紹介したい。
さて三島由紀夫は、かれの擬古文的な文体や耽美的な美学が韜晦して押しかくしていた、しかしまぎれもない戦後文学者の特質において、同時代と深くかかわっていました。ただ、かれより他のほとんどすべての戦後文学者が、一九四五年の敗戦のもたらした政治的、社会的、倫理的な変革の方向づけに、能動的な姿勢で同行しようとしたのに対して、三島はやはり能動的な姿勢で、逆行しようとしたのです。
(中略)
現実判断の能力にもたけていた三島由紀夫は、かれの自衛隊でのクーデタ呼びかけが、現実的な有効性を持つとは考えていなかったにちがいありません。それはあえて口に出してそう言ってみるだけ滑稽なような話ですが、あえて敷衍すれば、彼は市ヶ谷の自衛隊に闖入した、あの場でクーデタが引き起こされることを期待していなかったのみでなく、自分の私兵との行動が契機をなして、のちにクーデタが成立するというプログラムについても、いかなる期待も持っていなかったと思われるのです。もしいくばくかの期待を将来にかけて書いたとすれば、彼の遺した文章は、あまりにも具体的な意味内容に欠けています。
つまりはクーデタ呼びかけとその失敗、そして自決という、主観的にのみ首尾一貫する筋書きを、かれは自己演出したのですが、このパフォーマンスは、かれの天皇国家観、文化観、歴史観を顕在化させて、それと同時に、顕在化したものをしめくくるという、戦後史上へのひとつの幕引きへの配慮をこらしたものでした。つづいてそれは、日本の現代文学の状況からも、三島由紀夫が顕在化させたものを、それが最後の花火であったかのように消滅させてしまう、という役割を果たしたのです。(「戦後文学から今日の窮境まで」)
大江の言う「日本の現代文学の状況」という言葉を「現代日本のフィクションの状況」へ置き換えれば、『真・女神転生』の目指したものが見えてくる。そしてここで大江が語る三島の「能動的な姿勢」の「逆行」、ひいては「三島由紀夫が顕在化させたもの」とは、フィクションで表象される美学と、行動によって変革される思想状況との一致という、日本浪漫派の延長線上に位置づけられる問題にほかならない。それは、例えばミシェル・フーコーが述べたような「言葉と物」の乖離へも通じうる。
そして、三島自身も死の直前に編集者へ渡したという『天人五衰』のラストで描かれる、圧倒的な「無」の静謐が露わにした、ヒューマニズムの終焉とも言うべき圧倒的な静謐さとも密接に関わっている。
笠井潔は、三島の姿勢を「天皇の創造的な再中心化」と述べており、「一九六〇年代に三島由紀夫が、続いて七〇年代に解体期左翼が準備し」、「八〇年代的な消費者大衆の無意識的な渇望と絶妙に交差した」ものとして系譜付けることにしている(「山人と偽史の想像力」)。
こうした流れで見ると、『真・女神転生』が、三島由紀夫のクーデタに成功した未来像を、ポスト・ホロコースト的な廃墟としての東京して描き出したことには、何かしらの社会史的な必然性があるのではないかと考えざるをえない。
『テロルの現象学』において笠井潔は、「三島にとっては自殺こそが、観念の肉体憎悪の究極の形」とし、「肉体を観念の支配下におき、肉体を美的に形式性の奴隷たらしめることの極限的完成」として、三島は「死」を「美的に完結したもの」と措定したのだと書いている。こうした三島の姿勢は、『真・女神転生』のヴィジョンと奇妙なまでに対照的だ。
そして大江健三郎自身も、『さようなら、わたしの本よ!』において、もしも三島が、「肉体主義」を「美的に完結したもの」としなかったとしたらどうなっていたのかという考察を行なっている。それはすなわち、三島が自決するのではなく、「自衛隊にクーデタを挑発する、しかも最初の失敗でそれをあきらめない。むしろ失敗に続く国家の弾圧すら逆手にとる」といった「ポジティヴな構想」にほかならない。
その後、あまりにも「早熟」だった三島が、監獄内での熟考を経て、バブル時代の狂騒に沸く日本に復帰したら何が起こったのか。それとともに、三島の「考えと行動力は本気なもの」と受け止めた者たちはどうなっていたのか。いや、仮に三島が死んだままでいても、その「失敗を教訓」にして、三島と同様の問題意識を抱えたものたちが、彼の自決後の「三十年、もし準備を重ねていた」ならばどうなっていたのか、との問いかけが、『さようなら、私の本よ!』では投げかけられる。大江は『さようなら、私の本よ!』に関係したとあるインタビューで、こうした問いへの答えを自ら出している。そこでは大江は、おそらく三島はオウム真理教すら越えるような、カリスマ的な教祖と化していただろう、とありえたはずの未来を予測していた。そう考えると、大江のヴィジョンと『真・女神転生』の発想の相同性が見えてくる。
『真・女神転生』の数年後、はからずしも『真・女神転生』が描き出したヴィジョンというものは、地下鉄サリン事件に代表される一連の騒動において、現実化されてしまった。真・女神転生』は着実に何かを捉えていた。それが、オウム事件以降、可視化されてしまったのだった。
そう考えると、オウム事件、そして9.11を経た後の私たちがいま『真・女神転生』を現代の神話として受け止めることには何の不都合もないことがわかるだろう。ありうべき未来を考えるために。
いや、ひょっとすると、私たちはそれと気が付いていないだけで、本当はトールによってI.C.B.M.を落とされてしまっているのではなかろうか。
鈴木一也は、自らの創作姿勢を、唐十郎の「赤テント」に準えているが(「ゲームデザイナー対談」)、それは巽孝之の言う「書割国家」としての日本(『日本変流文学』)から逃れるための、苦肉の策であったのかもしれない。
西谷史は、三島由紀夫を軸に、三島と渋谷、そして明治神宮と東京ダンジョンの相同性を語った(「悪魔について」)。そして「メガテンの記憶」において鈴木一也は、自らが『女神転生』シリーズの創造に携わった経験と同じくらいの重みをもって、東京をダンジョンとして再解釈することへの情熱を語った。
東京という地勢を、ひとつの壮麗な廃墟とそれに付随する地下都市として語り、再解釈すること。その意識は、例えば松浦寿輝の『花腐し』や清水博子『街の座標』など、東京を迷宮都市として語るヴィジョンにも相通じるものがあるだろう。そう考えれば、『真・女神転生』という巨大な作品が、いかに豊穣なSF性を外挿させてきたのか、その射程がおぼろげながら窺えるように思える。
そういえば、『真・女神転生』の事実上の続編と見なすこともできる『偽典・女神転生』は、初台のシェルターから物語を開始するのであった……。(岡和田晃)
参考:三島由紀夫の市ヶ谷駐屯地占拠と割腹自殺を伝える当時のニュースの動画。
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東京SF論
2010-03-31T06:28:41+09:00
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東京SF大全20 『AKIRA』
「AKIRA」(週刊「ヤングマガジン」1982年〜1990年連載)
東京湾に浮かぶネオ東京と旧市街地を結ぶ夜のハイウェイを、オートバイの一団が駆け抜けてゆく。目の前の道路の崩落に気づいた先行車の少年は、持ち前の運動神経で急停車をかける。族のヘッド...
東京湾に浮かぶネオ東京と旧市街地を結ぶ夜のハイウェイを、オートバイの一団が駆け抜けてゆく。目の前の道路の崩落に気づいた先行車の少年は、持ち前の運動神経で急停車をかける。族のヘッドは、「健康優良不良少年」こと金田。その金田の眼に映るのは、38年前に旧東京を破壊した「新型爆弾」の被爆跡である。
見開き2ページにわたって描かれた「爆心地」の絵は、作品中、最もインパクトのある画面のひとつである。そこには強度を漲らせたひとつの「虚無」の姿が露出している。そしてこの「爆心地」の下には、世界が畏れるアキラが眠っており、アキラの目覚めは「ビッグバン」として演じられるのだから、根源的な虚無を巡る破局と再生の物語を綴る大友克洋のペンを握る手は、神話的欲望に染め上げられつくしていると言っていい。このような大友の姿は、同時代的であると同時に反時代的でもある。
文芸評論家の井口時男が「私が仮に「破局願望」と名付けたのは、私の耳にはっきりと聞こえるその流れの水のことである。全面核戦争や大震災という気紛れな破滅を、私たちはただ畏れているのではない、実は畏れつつ待ち望んでいるのだ」(『物語論/破局論』あとがき)と書くのは1987年のことである。当時の社会の水面下に流れる水音に呼応するかのように、『AKIRA』は「ヤング・マガジン」に連載され、オウム真理教は「ハルマゲドン」の物語を語った。1995年に阪神大震災は起き、東京では地下鉄サリン事件が襲いかかった。その2年後には「少年A」の事件、2001年には「同時多発テロ」が「破局願望」を満足させた。「これは俺の望んでいたことだ……しかし俺は、そのことを、ボードリヤールのように率直には書けなかった」(「断片」)と、2004年に井口は書くことになる。
大判のコミックスで全6巻におよぶ長大な『AKIRA』のストーリーの大半は、壮大な「破局」の場面をスペクタクル豊かに描き出すことに費やされる。その状景に興奮を覚えながら、私たちは「これは俺(わたし)の望んでいたことだ」と肉体的享楽を味わいつくしたのである。だがそれは、時代の流儀に違反するものでもあった。というのも、肉体の受苦(パッション=情熱)は、物語の欲望とともに、80年代の価値観からは締め出されていたのだから。
その作品の名を口にすることはなかったが、井口時男は、『AKIRA』が胚胎していた欲望の最も近くにいた批評家だった。「物語批判」全盛の時代に、「物語の身体――中上健次論」(1983年)を引っ提げてデビューした井口は、恰も「遅れて来た実存主義者」のごとく、物語の欲望を信じる反時代的な人間だった。そしてそうであるがゆえに、時代が漏らす呻き声に敏感に反応し得た文学者だった。井口には次のような言葉を口にする権利がある。「八〇年代的物語批判など何の効力も持たなかった。物語への欲望の根っこに手をつけない表層的な物語いじりにすぎなかったからだ。消えたあの作家、この作家、あるいは、文化人面したあの作家、この作家を思い浮かべよ」(「断片」)
「物語への欲望」とは、「実存」そのもののことだと言ってよい。固有の「私」の身体が世界との関わりにおいて被る親和と異和の体験が、制度の限界を暴きたてる。井口は「物語の起源にある死への欲望」を確認しつつ、「現在という制度を無化しうるのも、実現された世界像ではなく、制度に回収不可能なこの欲望の力である」と言うが、真正の物語とは、この欲望の燃え立つ炎のことを指す。80年代のカルチャーが無邪気にも試み続けたのは、炎の剥製化、すなわち生の仮死化であった。物語の欲望は、孕まれた矢先に、その芽を摘み取られ、流産させられ続けたのである。
当時、私はこの堕胎行為に加担したサブカル文化人に強い違和感を覚え、孕まれた物語の欲望の擁護を構想さえしたが、彼らが知らなかったことは次のようなことである。「欲望の仮死によってしか解体できないような物語には何の力もない。それはいつでもシミュレーションのシステムに回付されるばかりだから。そうではなく、いま・ここに現に受難しつづけている身体の欲望に発する力のみが、自足することで制度をなぞろうとする物語の力に拮抗でき、一方、言葉という過剰に賭けてすべてを物語らねばやまぬ欲望のみが、いま・ここの虚無に曝された身体の過剰さと拮抗し合えるのである」(「物語・破局・シミュレーション」)
「いま・ここの虚無に曝された身体の過剰さ」を痛ましいまでに抱え込んでしまった『AKIRA』の登場人物が鉄雄(41号)である。金田とともに冒頭の「爆心地」に遭遇した直後に、鉄雄は過剰な力を付与されてしまうが、もともと鉄雄はその存在のうちに、危険なまでに空虚を抱え込んでいた少年だった。「小さいときから、何をするにも、いつでもお前がボスだったなァ」と金田に劣等感を抱く鉄雄は、どうやら郊外の団地らしい「空虚」そのものの土地で、金田と出会うのだし、その土地に鉄雄を連れてくるのは、「冗談じゃないわよ もう 実の子でもないのに」と邪険に扱う継母である。孤独な心を支えるために、鉄雄が肌身離さず身につける「おふくろの写真」の収められたロケットは、拾ったものにすぎない。常に「真空」に苛まれる彼は、「大東京帝国」の指導者になってからも、傍らにカオリという母代りの少女を置いておかねば安息感を得られない。一時期はクスリを飲まねば安定しない虚弱児であった。「健康優良不良少年」金田に比べれば、不健康なこと極まりない。金田は人間サイズのワルにすぎないが、鉄雄は底が抜けている。鉄雄の真空は徹底した悪に染め上げられる類のものなのだ。世界の「真空」を「悪」が充填するというテーマは、サリン事件以降、村上春樹のオブセッションになっているが、鉄雄と『海辺のカフカ』の主人公の少年は、恰も双生児のようだ。
『AKIRA』は、始源の虚無に触れることを欲望する。だから、「東京」は「ネオ東京」に、「ネオ東京」は「大東京帝国」に、絶えず名前を変え続けなければならない。「名前」は隠蔽装置でしかないから。「始源の虚無」とは、名付け得ぬ「暴力」のことである。28号に与えられた「アキラ」という名も仮のものにすぎない。じっさい、冥界を思わせる爆心地の真下に埋められた奇怪な装置(「自ら開けた恐怖の穴」と呼ばれる)に眠っていたアキラは、ほとんど唖と言っていいほどに、言葉を発する(表象する)ことはない。アキラは表象不可能な力のことである。アキラの頭の中を覗こうとした鉄雄は、桁外れの力に触れ、怯える(「危うくこっちがはじき飛ばされそうになったんだからな」)。
繰り返し言えば、『AKIRA』の根底には、アナーキーな力の発現による「破局願望」がある。「東京」は、構築されるべきであり、かつ構築されてはならない。むしろひとつの「構築」からもうひとつの「構築」への運動こそが、重要視される。都市の廃墟の彼方にアナーキーな熱狂を幻視する作品として、村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』が先行している。「力」という真の実在に直接触れたいという70年代の「熱」を湛えた作品である。このような直接性の物語は、粗すぎて、大雑把すぎるから、代わりに、「交換」「取り消し」「省略」「削除」といったパソコン的方法を考案したのが、80年代の小説を担った高橋源一郎(たとえば『優雅で感傷的な日本野球』)ではないか、という興味深い見解を井口は述べている。「いわば、蕩尽の物語が素朴にエネルギー論的であるとすれば、高橋源一郎はそこに電子テクノロジーを導入して精密化しようとするのである。彼は「システム」と同じ速度で運動しようとするのだと言ってもよい。それはいかにも「高度資本主義」的に洗練された「優雅」なやり方だ」(「贋前衛の贋の終末」)1952年生まれで1976年デビューの村上龍と1954年生まれで1973年デビューの大友克洋は、ほぼ同じ美学に親和するのだと言える。
たとえば、金田と鉄雄は暴走族のメンバーである。暴走族が最も輝いていた70年代のオーラを彼らは背負っている。知的な計算を欠落させたガキのアナーキーな空元気とでも呼ぶべき美学に、彼らは本能的に殉じている。『AKIRA』の筆のタッチは、70年代劇画(さいとうたかをや川崎のぼる、彼らの起源は関西の貸し漫画にある)を引き継ぐものであり、群衆シーンは白土三平の『カムイ伝』を思わせる。最後の場面で、金田は「旗はボロでも心は錦」と粋がってみせるが、こうした言葉も80年代のおしゃれで計算ができる若者像(「ヤッピー」が時代の理想像だった)からは、かけ離れたものだった。だから、国連や日本政府らの干渉を拒む金田が呼ぶところの「俺達の国」は、近代国家の理念に準じて設立されたものではまったくない。群れをなしてオートバイを走らせるエンディングからも知られるように、それは暴走族のグループ立ち上げの瞬間なのである。橋の上から垂らされる横断幕のような旗には「大東京帝國」の文字が書かれているが、その大仰なネーミングといい、「帝国」の「国」が旧漢字の呪術性を効果的に使っているところといい、「夜露死苦」だの「愛羅武勇」だの、漢字を意味伝達の手段ではなく、刺青の彫り柄のごとく用いる暴走族文化の美学に通じている。
都市の廃墟を駆け抜ける彼らの姿を後ろから捉えた場面は、余白としての未来を感じさせて爽快だ。だが行く手の先には、爽快さだけではない、鈍重で退屈な大人の務めも控えているはずだ。その部分を、大友は巧妙にも省略している(そこがこの作品の弱点とも言える)。ともあれ、これだけのエネルギーを感じさせる作品は、日本文化においても、めったにない。歴史的傑作である。(石和義之)
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東京SF大全
2010-03-21T01:23:47+09:00
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合宿企画【コンパック2010】開催のお知らせ
今年の大会は『都市型』です。
しかし、SFファンにとって、夜を徹しての語らいも欲しいところです。
そこで、今回の大会では合宿企画を行う予定です。
詳細については公式サイトの方をご参照下さい。
http://tokon10.net/programs/2328.html
募集方法や参加費等の...
しかし、SFファンにとって、夜を徹しての語らいも欲しいところです。
そこで、今回の大会では合宿企画を行う予定です。
詳細については公式サイトの方をご参照下さい。
http://tokon10.net/programs/2328.html
募集方法や参加費等の詳細については後日公式サイトでお知らせいたします。
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更新情報
2010-03-16T00:16:29+09:00
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東京SF大全19 『東京日記』
『東京日記』(小説、内田百?、岩波文庫、1938)
「世界SF全集」の第34巻「日本のSF古典篇」に収録されているぐらいだから、SFファンも結構親しみを覚える作品なのだろう。夢ホラーとでもいうべき一連の不条理小説は現在でも高い人気を誇るが、中でも二十三...
『東京日記』(小説、内田百?、岩波文庫、1938)
「世界SF全集」の第34巻「日本のSF古典篇」に収録されているぐらいだから、SFファンも結構親しみを覚える作品なのだろう。夢ホラーとでもいうべき一連の不条理小説は現在でも高い人気を誇るが、中でも二十三の超短編で構成される本作品は、具体的な東京の地名が大量に登場するという点でかなり特異だ。
百?のホラー系作品の多くは時代も場所も曖昧で、固有名詞がほとんどない。その曖昧さが夢の手触りを強めている。だが「東京日記」はそうではない。ここで試みられているのは一種の?虚偽記憶実験?だといえる。
ご存知の方もいるだろう。米の心理学者エリザベス・ロフタスによる「ショッピングモールの迷子」実験である。
被験者の子供時代の体験4件が書かれた小冊子が配られる。その中にひとつだけ「ショッピングモールで迷子になった」という事実ではない項目が混じっている。だが被験者は、ありもしない虚偽の記憶を、驚くべき迫真性とともに思い出してしまうのである。
百?がここで行ったのは「あなたが見た夢の記憶」を捏造する試みだ。いつもながらの夢の最大公約数めいた描写に、少しだけ非常に具体的な地名をちりばめる。皇居の堀から這い出してくる巨大ウナギや四谷見附方面へ超高速で駆け去る神輿、噴火しても誰も気に留めない富士山。百?の試みはロフタスの実験の真逆である。
地名だけではなく路面電車や防空演習など、現在ではあり得ない風俗も盛り込まれている。それでもあなたは「こんな夢を見たはずだ」と確信してしまう。あなたが東京に住んでいなくても。東京をまったく知らないとしても。(高槻真樹)
(作品の舞台のひとつ日比谷交差点)
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東京SF大全
2010-03-11T03:22:16+09:00
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【速報】メインゲストが決定しました
TOKON10のメインゲストは萩尾望都さん、夢枕獏さん、佐藤嗣麻子さんに決定いたしました!
詳細は後日公式サイトにて。
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更新情報
2010-03-10T21:34:04+09:00
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東京SF大全18 『水路の夢[ウォーターウェイ]』
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東京SF大全について、作家の早見裕司様から、メールをいただきました。
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前略
プログレス・レポート拝読しました。
東京が出てくる作品ということで、SFかどうか、ぎりぎりでファンタジイに入ってしまうのかもしれませんが、私こと早見裕司の「水路の夢」を、自ら挙げておきます(^^;)。夏から初秋にかけて、玉川上水の小平市近辺に住む主人公が、奥多摩湖の水源から旧淀橋浄水場までを、上水に沿って冒険する物語であります。
実際に、奥多摩湖から玉川上水、神田川(上水)から西新宿の淀橋浄水場跡までを歩いて取材し、また、玉川上水の歴史と物語とが密接に関わるようにできております。若書きなので、欠陥も多くありますが、それだけに愛着もある作品であります。小説としてどう評価されるかは別として、玉川上水と東京の水道について、これだけ粘って書いた作品も、あまりないように思うのですが……
もちろん、思い出という強力なバイアスが掛かっていることは、否定しません。
それでも、自己満足の部分も含めて、作者自身にとって重要な作品ではあります。
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実行委員会ではさっそく拝読させていただき、これはぜひとも「大全」にとりあげさせていただかねばと考えました。
早見裕司様、ありがとうございます!
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「ゾロ目の日」第3弾である。
3月3日はひな祭り(上巳の節句)の日でもある。ひな祭りは?流し雛?に始まる。本来は、わが身の穢れを人形(雛)に託して川や海などに流す行事であった。
穢れを流すには、清浄な水がなくてはならない。
『水路の夢[ウォーターウェイ]』
(小説・早見裕司・徳間書店アニメージュ文庫・1990年)
こうしている間にも、刻々と、東京は周辺の?水?を自らの内部に取り込んでいる。
「水源はみんな、東京の外にあるんだ……」
高校2年生の少女、水淵季里はつぶやく。
「いつから、水が足りなくなったの?」
「徳川家康が東京を日本の首都にしてから、ずっとですよ」
季里の質問に答えた男の正体は、なかなかわからない。
井の頭公園に、小金井公園に、淀橋浄水場跡地に、男は出没する。そして、水にかかわる東京の歴史を季里に語って聞かせる。…主に?玉川上水?について。
「航空写真なんかで見るとね、緑の帯が街の中を東西に貫いて見える」
大地を穿ち溝を掘り、清浄な水をまっすぐに走らせるシステムが?上水?である。江戸時代に造られた?玉川上水?は、当時の世界最高水準の土木技術の成果だ。今もその一部が水道施設として使用されている。水道は?水路?である。それがないところに人々の生活も生命もない。人体の重量の約60パーセントは「水」なのだから。
生命体も都市も、いわば、ある種の「水たまり」だ。特定の空間に特定の期間のみ成立した「水たまり」=「水淵」なのだ。
ヒロインの名は?水淵季里?という。?季?は「とき」を、?里?は「ところ」を表している。
水淵季里は?水路の夢?を感じ取る。それが、結末の意外な展開に結びついていく。
……謎の男の正体が明らかになった時、私は尋ねたかった。
「ねえ、季里、― 50,000トンの超純水が、堅い岩盤の下に取り込まれている場所があることを知っている? スーパーカミオカンデ ― それは廃坑を利用した大型水チェレンコフ宇宙素粒子観測装置だね。一万本以上の光電子増倍管にみつめられて、水はどんな夢を見ているんだろうね?」
(宮野由梨香)
(多摩モノレール「玉川上水」駅)
(「玉川上水」駅前の橋から見た玉川上水)
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東京SF大全
2010-03-03T03:03:03+09:00
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東京SF大全17『渋谷色浅川』
※この原稿は岡和田晃の単著『「世界内戦」とわずかな希望――伊藤計劃・SF・現代文学』(アトリエサード/書苑新社、2013年11月発売予定)に加筆のうえ収録されたので、削除させていただきました。
東京SF大全
2010-03-01T04:05:00+09:00
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プログレスレポート第3号を公開しました。
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2010-02-28T09:31:55+09:00
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